ミツグオトジョ。

吉川ヒロ

エナメル製の...(暴力描写有り)

1.開始は、好転

まただ。


ぐわんぐわん、と耳鳴りがする。

数日間それが続いて、仕分けの作業に支障を来すようになった。

手を休めて右の手のひらで右の耳を押さえていると、

「ちょっと、三崎さん! なにさぼってるの!」バイトリーダーである川本悦子の叱責が飛んだ。

三崎里栄みさきりえは慌てて、すみません、と小首を上下に動かす。

彼女はさらに慌てて、包装紙にくるまれた12缶入りのビールの詰め合わせを両手に挟んだ。


お中元の時期はたまらなく忙しく、暑い。

額から顎にかけて流れる汗。たまに口に入ってきてはしょっぱい思いをする。

そのひとしずくが、宛名の書かれたラベルに落ちた。


都会から離れた場所にある、大手運送会社の下請け会社。20人ほどの社員やアルバイトの中に女性ドライバーが約半数いる。

早朝に、4トントラックで運ばれてきた荷物をドライバー自ら仕分けする。

その後、各々の担当エリア分を黒ナンバーの軽ワゴンに積んで配達作業が始まる。

里栄は配達にはまわらない。ペーパードライバーである。

仕分けと、データ入力などのデスクワークが彼女の仕事。


午後零時。昼休み。

耳鳴りがいっこうに治まらない。

里栄は肩を小さくして、事務室の隣の休憩室で昼食をとっていた。

2台の木目の入った長机に10脚ほどの椅子が、6畳部屋に詰め込まれた空間。

網戸の前に置かれた扇風機がぬるい空気をかき回している。

里栄はペットボトルの緑茶片手に、どこぞのメーカーとも知れないカレーパンをかじっていた。

1個65円。激安スーパーで買いだめした菓子パンが、彼女の昼の食料になっている。

使い回しのペットボトルに注いだ緑茶は、一晩自宅の冷蔵庫に入れてもほとんど意味がなかった。

職場に設置された冷蔵庫は、社員か川本リーダーしか使ってはいけないという暗黙のルールがある。

休憩室の壁に背をつけてお地蔵さんのように佇む、その小型冷蔵庫。

元は白色だったようだが、長年置かれたエナメルの箱はタバコのヤニのせいで黄色くくすんでいる。

疎ましくそれを見やりながら、里栄はお茶でカレーパンを流し込んだ。

ぬるん、と液体が固形物とともに喉を通過する。


3年前の夏。里栄がこの職場にアルバイトとして雇われ始めた頃。

出勤してすぐに、持参したお茶を冷蔵庫に保管した。

すでに清涼飲料水などの缶やペットボトルや、おやつに食べるであろうシュークリームなどで冷えた空間は埋め尽くされていた。


酷暑。だが事務所内のエアコンはあまり効かない。


冷たいお茶を飲みたい。ただそれだけの思いで、里栄はドア側にある棚の片隅に350mlのペットボトルを置いた。

すると昼の休憩時に事件は起こった。


「ない! ないじゃない!」

里栄がパンの入ったトートバッグ片手に休憩室に入ると、川本悦子が冷蔵庫を開けてそう叫んでいた。

まるで、冷蔵庫に怒鳴り込んでそのまま入っていくかの勢いで、悦子は丸いカラダをさらに丸めて首を突っ込んでいた。

「ど、どうしたのですか?」おどおどしながら里栄が聞く。

「ないのよ! 人数分!」

「え? なにが?」

「シュークリームよ! 高杉さんと野々村さんと進藤さんと私の分!」

シュークリーム? いくつあっただだろう? 里栄にはその存在を認識していたが、誰のモノでどのくらいだとかは知らなかった。

悦子の口から名の上がった人たちは、社内の彼女の取り巻きだった。

「誰かが食べちまったんだ! そうに決まってる!」

里栄はその時初めて知った。悦子が自身に不都合な事があるとヒステリックになることが。

「あれはテレビで紹介された超有名なシュークリームなのよ!」

叫びまくって、悦子は里栄に立ちはだかった。

「三崎さん、アナタじゃないわよね?」悦子は、肉のぼってりついた腰に両手を当てて上目遣いに里栄を見やる。

「そ、そんなことするはずが・・・・・・」

「シュークリームを入れた後に、誰が冷蔵庫を開けた?」

 あ。でも私じゃない!

「後で開けた人間が怪しいんだ!」

「わ、私は開けてません!」得体の知れない怒りの塊が恐くなって思わず嘘をついてしまった。

お茶の存在。私の冷えたお茶が飲めなくなってしまった。

周囲を見回した。

二人の男性社員がいた。

彼等は悦子の怒声に一瞬かたまったようだった。

だが、彼等はまるで何事もないような素振りで弁当箱を突っつきながらテレビを見ていた。

ベテランアルバイトの悦子は、どの社員からも一目置かれている。

年齢は未だ知らず。見た目は、50代半ばだろうか。この職場のどんなことも全て知り尽くしていた。

中途採用で入った、悦子より経歴の浅い管理者にしてさえも彼女に頭が上がらない。

救われたのは、悦子が冷蔵庫にぎっしり詰め込まれた缶やペットボトルを誰のモノか気にも留めていない事だった。

紫に染められた悦子のソフトパーマに視線がいく。

泣く子も黙る角の生えた怪物を思わせた。

恐い。早くこの場から立ち去りたい。

「ねえ」

「あっ! は、はいっ!」里栄は悦子の声にしどろもどろになり、

「冷蔵庫を触ったのも、ホントに三崎さんじゃないんだね?」と低い声で問われた。

はい・・・・・・。

振り絞るような声で里栄はそう応えたのだった。


その日以来、里栄は冷蔵庫を開けるどころか触ることすら恐怖を覚えるようになった。

入れてあったお茶は、いつしか総務課の衛生委員に処分されていた。

それならと、冷蔵庫に入れておけないなら、クーラーバッグにしようと思い立った。

だが、ホームセンターまで足を運ぶも結局それを買うことはなかった。

買いもの途中で、里栄は、悦子達への遠回しの非難だと勘ぐられるかも知れないという畏怖の念を抱いてしまったからだった。

我慢するしかなかった。

仕事の面でも、それは同じ。

月末締めの嫌な仕事を、悦子達に押しつけられて。

彼女達の経理上のミスもなすりつけられて。

ただただ、我慢するしかなかったのだった。


そんな里栄が居心地の悪い職場に通い続けている理由。

「おつかれー」

若い男の声。胸が高鳴る。

彼は、コンビニ弁当を入れた袋をしゃんと鳴らして里栄の向かいに座った。

黒木洋介。25歳。180cmの細身だが、引き締まったカラダつき。

細々と食している里栄の視線を覆う。彼女は慌てて目をそらした。

里栄は気になる異性に目を合わすのが苦手。激しく内気な性格であることは中学生の頃から自覚していた。

「お疲れ様です」彼より2つ年上の里栄は、正社員である彼に低頭平身した。

繁忙期で忙しい時期。配達の皆はなかなか決まった時間に昼食が取れない。

だが、要領のいい洋介はいつどんな時でもしっかり休憩を取っている。

休憩室は、里栄と洋介の二人きりの空間となっていた。

「今日も暑いね」

洋介の口から一言。だが彼の清々しい容貌からは、酷暑で汗だくなんて様子は見受けられない。

静かな一室。里栄は、片隅にある消されたテレビの黒い画面に目をやる。


なにか話さないと。


「そうですね、外まわりは大変でしょう?」

しまった。この問いは昨日同じ時間帯にしたんだった。

気まずい。

「三崎さんこそ、エアコンの効かない事務室で大変じゃない?」

洋介はそう言った後、あっと声を上げた。

「俺、昨日も同じこと言ったっけ? ははっ」

爽やかすぎる。多分、口角を上げている。

胸の高鳴りが激しさを増す。顔を上げて彼の笑顔を見ることが出来ない。

隣の事務室で、電話の鳴る音がする。外からは、従業員が帰ってきたのだろう、軽自動車のバック音も耳に入る。

「どなたか、お戻りになりましたね」何を喋るか考えるすべもなく、里栄は単にそう口にした。

パンを食べえ終えて、空になった袋を膝の上でくちゃくちゃと丸める。

「下平さんかなあ、今日は案外荷物が少なかったっていってたから」

「そうですか・・・・・・」

耳鳴りが勢いを増す。思わず顔を顰めた。

同時に洋介の咀嚼音が耳をくすぐる。

アイドル級の美貌を持った、洋介。彼の口の中。舌でゆっくりと弁当の中身を味わって。

その後、喉仏を通過するのだ。

真っ昼間なのに、悶々とした気持ちになっていく。

「あ、あの私、これで失礼します」里栄は、逃げたくなるような思いで腰を浮かした。

「えっ? まだ15分しかたってないじゃん」洋介の素っ頓狂な声だった。

意外な彼の反応に、里栄はしどろもどろになった。

「えっ、あ、あの、私、川本さん達と交替で休憩とってますから」

「あ、そっか。でも12時半まであと15分あるよね」

「・・・・・・」

事務所には常に電話番がいないといけない。悦子とその取り巻き達は、里栄と交替で後で休憩を取ることになっている。

1時間の休憩。悦子達が取っている間は、里栄が一人で電話応対をしなければならない。

それでもよかった。

悦子達と昼ご飯を一緒にしても苦痛なだけだから。

しかし、別の意味でも苦痛な状況は変わらない。

他の従業員が休憩室に居て、その人が洋介の相手をしていてくれればいいのに。

「大丈夫? なんだか顔色よくないよ?」

黙ったままの里栄に洋介はなおも畳みかける。

視線をチラと上にやる。


わ。みつめられてる!


彼の瞳が青ければ、まるで西洋人そのものだ。

透き通るような白い肌。髪は、天然にしか思えない、赤みがかった奇跡のゆるゆるのふわふわパーマ。

洋介のせいで、どぎまぎさせられているのを悟られたくない。

もうダメ。なにか言わなきゃ!

「み、耳が・・・・・・」

「えっ? 耳がどうかしたの?」

「耳鳴りが酷くて」

「そうなんだ、病院は行ったの?」

里栄は、ううん、と首を左右に振った。

「両方?」

「右だけ」

里栄が答えると、洋介は腕を組んで唸りだした。

彼は、すでに弁当を食べ終えている。

「それって、やっぱストレスからかな」

下を向いたまま、洋介はまるで独り言のように呟く。

その様子は空になった弁当の容器を見つめているようで。

彼の気むずかしい表情は、まるで弁当の味付けに不満だったように見えて里栄には可笑しかった。

胸の中で、ふふ、と微笑む。

そこで里栄は、自分に驚いた。

気づかぬうちに、洋介を見つめていた。

自然と口が開く。

「ストレス・・・・・・ですか?」

「そうだよ、最近、忙しいから。それに加えて、川本さん達にイジめられてない?」

「そ、そんなことないですよっ」事実を突かれて、声を荒げてしまった。

「皆、知ってるよ。川本さん筆頭に高杉さんや野々村さんや進藤さんのオバちゃん連中には、俺もほとほと参る時があるからさ」

「だけど、私は違います!」

もうこの話題は終わりにして欲しいと里栄は思った。

もし、不意に他人に聞かれて、それが巡り巡って悦子達の耳に入ったら・・・・・・考えるだけでも胃が痛みだす。

洋介は、彼女の言葉を聞いて聞かずか、もう一つのコンビニ袋からペットボトルを取り出していた。

炭酸飲料。取り出すなりキャップを回した。

「あの、私、もう行きます」

里栄が言った傍から、洋介は遠慮なしに喉を鳴らす。

パンの袋をギュッと握ってうつむき加減で席を立つ。

「はあ~うめえ」半分ほど飲んで洋介は、里栄を呼び止めた。

「え? なんですか?」里栄は彼の声に意識もなく反応した。

「一度医者に診て貰えばいいかも。それに、三崎さんの昼食っていつもパンばかりだし、栄養をキチンと取らないのも耳鳴りの原因かもしれないよ」

洋介が言い終えると同時に、別の従業員が弁当箱片手に入ってきた。

「あ、下平さん、お疲れッす」

洋介は、恰幅の良い中年男性に片手を上げて挨拶した。

「よ。黒木は相変わらず仕事が早いなあ」

「いやあ、まだまだ忙しいのはこれからっしょ?」

「そうだな。これからが稼ぎ時だからな」

始まる二人の会話を尻目に、里栄はホッと胸をなで下ろし休憩室を後にしたのだった。

事務所に続く廊下を歩いた。

ふわふわと浮いた気分になる。

リノリウムの床を踏む足がまるで弾むよう。

初めて洋介と二人きりで会話ができた!

ドキドキして胸が苦しくて逃げたかったけれど、私のカラダのことを考えてくれてなんだか嬉しかった!


(2. に続く)

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