3.そして逆転

廊下でこれほど言い争っているのに、事務所から誰も出てこない。

まるで異世界との境目が出来たかのように室内から物音一つ聞こえない。

当事者でない者は、皆、関わりになりたくない。

だから息を潜めて聞き耳を立てているのだ。

「なに言ってんだ。川本さんの仕分け担当区のパレットの裏に落ちてたんだぞっ」

洋介もいい加減うんざりした様子で、ため息をついた後にそう言った。

「とっくに課長から聞いてるわよ!」腕を組んだまま全く動じない悦子。

「あの時だって、三崎さんの手が遅かったからウチら他人の倍以上動かなきゃなんなかったんだっ」

そんなことはない。悦子達は、いつものように適当に手を休めては無駄口を叩いていた。

いちいち反論するつもりはない。

逆に言い負かされるのがオチだし。

なにより、これ以上、自分のために洋介を困らせたくない。

自分が攻撃されているという緊張感。そして空腹も手伝ってか、せっかく治りかけていた耳鳴りが里栄の頭蓋骨の内側から揺さぶり始めた。

兎に角この場を終わらせたい。

そう。何を言っても聞かないならば。こうするしかない。


里栄は、両膝をついてカタツムリの殻のようにカラダを丸めた。


「ごめんなさい!」埃の臭いのするリノリウムの床に額をついてそう叫ぶ。

「ちょ、ちょっと、三崎さん!」不意をつかれたように洋介が驚きの声を上げる。

「なんで三崎さんが土下座するんだよっ」

悦子が、ふん、と鼻で笑った。年期の入った女のするように、悦子は全く動じなかった。

「いつもそういう態度で周囲の気を引きつけてるつもりだろうけどさ、魂胆は分かってるんだ」

和子が続く。「そうそう。そうやって若い子の同情をもらうんだろうね」

ハッとして里栄は顔を上げた。

「ち、違う、違います!」

「は? 何が違うって?」

ただ・・・・・・この場を終わらせたいだけなのに。

洋介に迷惑を掛けたくないだけなのに。

悦子はそんな里栄の思いなど無視するかのようにこう言った。


「昔、黒木君がアンタのことであたしらに何と言ったか知ってる?」


「え?」ぎょっと反応した洋介の声がした。

悦子は嫌悪感を露わにして捲し立てる。

「アンタが冷蔵庫を使えないのは、あたしらのせいだってさ! あたしらがお金を出し合ってお取り寄せしたスイーツを、アンタが欲しくなってたまらなくて思わず食べちゃうから冷蔵庫を開けられなくなっちゃったんだってさ! ははっ、アンタは安いパンしか買えない貧しい独女だから、もうアンタの前で贅沢品を見せつける真似はやめろってさあ!」

話す途中から発狂じみていた。語尾は金切り声になっていた。

「おい、俺はそこまで言って――――――」

狼狽える洋介の言葉をかき消すように、悦子達はゲラゲラと笑っていた。とくに悦子はヒステリックに笑っていた。

里栄は愕然とした。

全身が麻痺して、床についた両膝がさらに落ちていく感覚になる。

「そうよね、あの時のシュークリームだって」

付け加えるように和子が顔を前にだす。

「食べたのは三崎さんだって、黒木君、その年の忘年会であなたそう断言したわよね?」

忘年会どころか、会社のイベントに呼ばれもしない里栄には初耳だった。別に孤独を好むわけではない。悦子達の企みでわざとその日を里栄の一人勤務にさせていたのだった。

言葉を選んでいるのか少し間を置いて洋介は言った。

「あの時は酔ってたんだ。よく覚えていない」

身を熱くして里栄を庇ったことが嘘のように、洋介の態度はすでに冷めているかのよう。力なくそう言ったのだった。

間髪入れずに悦子が口を開く。

「もおう。なんでよお? そもそも三崎さんを庇う意味がわかんない。黒木君、アナタには前に総務にいた真梨江ちゃんがいるでしょう?」

磯田真梨江。里栄と同じ年でいまはこの会社を辞めてエステの店を開いたと聞く。

里栄の頬が強ばる。

洋介と真梨江が付き合っていたなんて知らなかった。

職場内で仲良く話す場は何度か目撃したことはあるが。

どこまで私は馬鹿なんだろう。彼に会えば胸を高鳴らせ、初めて会話が成立した時は躍り上がるほど嬉しかった。

それに。洋介に対するほんの小さな希望も彼女の胸の内に生まれ始めていた。

配達先での会社などでは、カリスマと呼ばれるほどに女性達に受けが良いと評判で。ファンクラブと名のついた団体が職場に押し寄せるほどに。

里栄は、自分に限って彼に特別扱いされる訳はないと分かってはいたけれど。

僅かな期待が、里栄を居ることすら辛いはずの職場に押しとどめていたのだった。

だが。

そんな希望も波を被った砂のお城のように一気に崩れ去る。

耳鳴りとともにぐるぐるぐるぐると気持ちが黒く変色して渦巻いていくかのよう。

そして。

あることを思い出してしまい、涙が込み上げてくるのを必死に耐えた。

真梨江とは同い年ということもあってか、話が合い、決して悪い仲ではなかった。

お金持ちの家柄に育った彼女。自分の店を開くという夢がかなうことでこの会社を辞める直前、真梨江は満面の笑顔で、里栄に甘い匂いの放つ白い箱を手渡した。

『このシュークリーム一度ここで食べたことあってさ、それが凄く美味しいの。でさ、後で調べたら超有名なパティシエが作ってたんだって。里栄ちゃんも食べてみて』


まさか。


洋介は、自分の彼女がこっそりあの冷蔵庫を開けてシュークリームを食べたことをひた隠すために。


私を犯人に仕立て上げたの?


気づけば、耳鳴りがさらに酷くなっていた。

里栄の不遇な予感を悦子は声にした。

「そうそう。あれは真梨江ちゃんが食べちゃったんだったわねえ」

すると悦子の取り巻き連中が、真梨江ちゃんも美味しいものをよく知ってるから、とか口々に真梨江のことを褒めた。

悔しい。

食べてもいない私は悦子にあんなに責められたのに。

昼の1時を告げるチャイムが鳴った。

「三崎さん、もういいから」洋介が里栄を立ち上がらせようとして彼女の二の腕を掴んだ。彼の手のひらが直に里栄の肌に触れる。

気持ち悪い。

裏の顔を持ったオトコ。

表の顔ではなぜか優しく装って。


「ねえ三崎さんっ」その顔を近づけたオトコ。


何を食べたのか知らないが、ソースとマヨネーズとチーズが入り混じった臭いがそのオトコの息にのって里栄の鼻を掠める。


ぐわんぐわんと耳鳴りが。


気持ち悪い。


気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!

気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!


気持ち悪い!


あああ。もういやだ。


「え! おい! ぐわっ!」

いきなり立ち上がった里栄の脳天に、屈んでいた洋介の鼻先が当たった。

里栄に痛みはなかった。なにも感じない。

両手で顔面を押さえている洋介。いてえ、いてえ、と廊下に転げ回る。


オラア! 糞ババアども!


オトコの転がる姿に目もくれず里栄は悦子達に叫んだ。すると、事務所の中からガタガタと物音が。他の社員達が聞き慣れない怒声を耳にして素早く反応したのだろう。


里栄の突然の変貌に、ぽかん、と呆気にとられた目の前のオンナ達。


テメエらの食後のデザートかあ! ウメエな! オイ!


触れることさえ躊躇われたはずの黄色くくすんだ冷蔵庫から、里栄はイチゴのショートケーキを取り出して貪るように素手で食べ散らかしたのだった。


「み、三崎さん、アンタ、なにやって・・・・・・」悦子が右手を突き出して怖々と声を発した。だが、足が固まったしまったかのように1歩も前に進めない。


菱形のケーキ。3人分を一気に平らげた。


そして。


可哀想だから、オマエに残してやんよ!


最後のケーキを右手に持って悦子に突進する。

目の前の敵。里栄にはそれ以外他に存在し得なかった。


オマエなんか消え失せろ!


「ぎゃあああ!」恐怖にかられた悦子。大きく目を見開いて。

悦子の瞳の中に里栄の顔が映る。

眉間に1本シワをさらに深くさせて。

食い物で汚した頬が裂けるほどに、口を酷く開けた怪物。


オマエが喰え!


里栄は悦子の顔面に向けてケーキを振り落とし、掌ごと鼻っぱしにヒット。


「ぐえっ」こねられた餅のように悦子の全身は床に叩きつけられた。


里栄は敵を見下ろし拳を握る。


指と指の間で、悦子のどす黒い血がクリームと混ざりあって仄かなピンク色に変わっていた。


ハアハアハア...

ハアハアハア...


アハアハハハハ

ハハハハハハハハ!


里栄は、心の底から思い切り笑った。


ケーキを食べて一気に腹が満たされて。


心の中の濁りが一掃されて。





耳鳴りは治まった。





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