第3話 熱/Enthusiasm
「本当に大丈夫なんですか?」
「うん。平気平気。子供じゃないんだから、身の回りのことくらい出来るって」
心配そうに眉を寄せるアイに、私はつとめて笑顔を浮かべ、手を触ってみせた。実際、身体も随分回復して歩くくらいなら出来るようになってきて、私は病院から家へ戻ることを許されていた。長時間出歩くのは無理でも、自分ひとりの面倒を見るくらいであればどうということはない。
後ろ髪を引かれるように何度も振り返るアイを見送って、私はひとまずベッドに横になる。アイが向かうのは、学校だ。竜として暮らしていた頃はともかく、人の姿をとって人の中で生きていくなら、彼女には学習が必要だった。
千年のギャップを埋めるための、人としての勉強だ。少なくとも義務教育の九年分くらいの知識はないと、今後苦労することだろう。そんなわけで、彼女には小学校に通ってもらっていた。
小学校と言ってもヒイロ村の小学校には異種族からの留学生や他の村の移民が多く通っているので、一人だけ大人の姿で浮いてしまうということもない。
ニーナとクリュセは病院に、ユウキは以前から続けている大工の仕事にでかけているから、久々のゆったりとした一人の時間だ。……そういえば、リンはどこに行ってるんだろう?
ふと疑問に思い、私は嫌な予感を抱いた。
彼女が特に行き先も告げずにフラフラとどこかへ行ってしまうのは、いつもの事といえばいつものことだ。けれど今の状況では、少々話が違うように思える。
私の知っている彼女は、こんなとき──
と、考えを巡らせていたとき、どこからかパタンと音がした。扉が開き、閉まるような音。それがリンの部屋から聞こえてきたと悟ったとき、私は思わずベッドの上から飛び上がっていた。
「リン……っ!」
彼女はいつだって風のように自由でとらえどころがなく、捕まえようとしてもするりとすり抜けて行ってしまうようなところがある。今回もそうなってしまうのではないか。
そんな焦燥とともに、扉を開け。
「えっ……?」
視界に飛び込んできた白い肌と戸惑いの声に、私はまたしてもノックを忘れたことを悟った。考えるより早く、身体に仕込んだ訓練が私に防御魔法を張らせる。弱った今の体調で彼女の水弾を喰らえば、致命傷になりかねない。
「もう……せんせーの、えっち」
だが、リンは頬を染めて腕で胸元を隠し、恥ずかしげにそういうだけで攻撃は仕掛けてこなかった。
「ご、ごめん!」
「すぐ着替えるからちょっと待ってて」
慌てて背を向ける私に、リンはそう言葉を投げかける。
「別に見たかったら、こっち向いててもいいけど」
「本当にごめん!」
そして悪戯っぽい声の追撃に、私は慌てて部屋から飛び出し扉を閉めた。
無駄に性能の良い耳のせいで、扉を隔ててもリンが着替える衣擦れの音が聞こえてくる。意識すまいとすればするほど、それは耳について離れなかった。
「もういいよー」
無限にも思える時間の後そう声をかけられて、私は恐る恐る扉を開く。そこにはバッチリと旅装を整えたリンがいて、私は先程の非礼を詫びるのも忘れて目を見開いた。
「で、何のご用事?」
いつもと同じ態度で首を傾げるリン。
「──行かないでくれ」
私は思わず彼女の肩を掴んで、そう言っていた。
「えっ、別にいいけど。大丈夫? どこか痛いの?」
リンは目を丸くして、心配そうに私を見つめた。
「いや、そういうわけじゃ……」
「いいから、ほら、とりあえず横になって」
リンの指先から溢れ出した水が瞬く間に私の身体を担ぎ上げ、そのままリンのベッドに横たわらせる。
「全くもう、せんせーはすぐ無理するんだから」
珍しく不機嫌そうな様子で、リンはベッドから離れようとする。
「待ってくれ、リン」
「大丈夫。ニーナ先生から処方されたお薬とお水持ってくるだけだから。すぐ戻ってくるから、ね?」
幼い子供に言い含めるような口調で言って、リンはぽんぽんと私の頭を撫で、台所へと向かっていった。私はなんとなく気圧されるような感じで口を挟むことが出来ずに、その後姿を見送った。
「はい、おくすり」
リンが持ってきたのは、ニーナが念の為にと処方してくれた痛み止めだ。
「いや、別にどこも痛くは……」
「はいはい、あーんしてくださーい」
リンは私の話を聞かず、強引に口をこじ開けると、そこに粉薬と水を順に流し込んだ。
「はい、おやすみ」
私がごくりとそれを飲み下すと、リンはポンポンと私の胸を軽く叩く。
「いや、話を聞いてくれよ……」
「大丈夫だよ」
リンは私の手を握ると、優しい声で囁く。
「ちゃんと、ここにいるから」
そういう問題じゃないんだけどな。そう思いつつも、思考に靄がかかる。ニーナの痛み止めには、睡眠作用もあるからだ。それにしたって効きが早すぎる。リンがなにか魔法でもかけたのかも知れない。
今、眠ってしまう、わけ……に、は……
その思考ごと、私の意識は暗転した。
* * *
「リンっ!」
「うん、おはよ、せんせー」
がばりと飛び起きると、ベッドに頬杖をついたまま、リンがにっこり笑って手を振った。
「……良かった」
彼女がまだすぐそばにいてくれたことに、ほっと胸を撫で下ろす。
「ちゃんとここにいるって言ったでしょ? それに……」
リンは繋いだままの左手を掲げて見せて、
「離してくれないんだもん。離れようったって離れられないよ」
少し困ったような笑顔で、そういった。
「ご、ごめん……ただまた旅支度をしてたから……リンがいなくなっちゃうんじゃないかと思って」
「この服装なら、単にお仕事だよ。配達のお仕事。しばらく休んでたからね」
「ご――」
「もうごめんは無し」
謝ろうとする私の唇を、リンの人差し指がすっと押さえる。彼女が休んでたのは私の看病をするためだろう。それを更に私の都合で遅れさせてしまったと思うと、リンにも彼女の客にも申し訳無さが募った。
「別にもともと到着時間はあたしの気まぐれだから、気にしない。急ぎの仕事も入ってないし、今更一日、二日遅れたってどうってことないよ」
私のそんな心情を察して、リンはそういった。彼女はマイペースで自由奔放に見えるけれど、その実、誰よりも周囲のことを気遣っている。
そんな彼女だからこそ、心配だった。
「リン。一つ、教えてほしいことがあるんだ」
私は繋いだままの彼女の左手をぎゅっと握りしめ、問うた。
「君は今、何を代償にしてるんだ?」
彼女がどうやって失っていた記憶を取り戻したのかは、未だによくわからない。何度聞いても教えてくれなかった。けれどまあ、それはいい。
問題は、今まで代償にしていた魔法まで取り戻したことだ。泳ぐのと料理はまだ出来ないらしいけど、そんな程度で老いを誤魔化し竜に変化できるとは思えない。
「別に、なんにも」
「そんなわけがないだろ」
かつて彼女は、過去と未来とを全て天秤に乗せてそれを手に入れたのだ。
それ以上のものを手にした今の彼女が何も犠牲にしていないだなんて、信じられなかった。全てを犠牲にして……そしてまた、いなくなろうとしているのではないか。
そんな考えがどうしても拭えなかった。
「そんな力、何の代償もなしに手に入れられるわけがない」
「何の代償もなしにそんな力を手に入れたせんせーに言われたくないんだけど」
ややムスッとして答えるリンに、私はうっと呻いた。確かにそれはその通りだ。
「あたしはね」
リンは両手で私の手を包み込むと、両の瞳で私の目を覗き込み、言った。
「初めて脚を生やしたときから七百年、変身魔法をずっと磨いて、鍛えて、極めて……やっと、竜になれた。やっと、せんせーに追いついたんだよ」
……ああ、そうか。
私はなんて、残酷な事を言ったんだろう。なんて、傲慢な事を言ったんだろう。
彼女はとっくの昔に対価を支払い……そして、それを、払いきったのだ。
どれだけの困難が。どれだけの研鑽が。どれだけの熱意が、そこにあったのだろうか。
「だからもうあたしは、諦めたりしない。目を逸らしもしない。逃げも隠れもしない」
まるで宣戦布告のようにそう言って。
私の腕がぐっと引かれ、彼女の顔が近づく。
チ、と伝えられた熱は、まるで燃えるような熱さだった。
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