第15話 不履行/Default
「あなたは……誰ですか?」
まるで氷のように透明な声色で、白竜は問うた。
「私だ……私だよ、アイ!」
私は馬鹿だ。大馬鹿だ。
感情は奔流となり、息に混じって周囲の雪をあっという間に溶かしていく。
とてもじゃないが、制御なんてしていられなかった。
「わたしは……そんな名前じゃありません。あなたなんて……知らない」
白竜は、ゆるゆると首を振る。だが、それは――
「嘘だ」
私は断言した。
「君は私を知ってる。だから、逃げなかった。そうだろう?」
どうして。
どうして私は、会っても気づかないかも知れないなんて、思ったんだろう。
どうしてアイシャのことを、もしかしたらアイかも知れないなんて思ったんだろう。
アイと目の前の白竜の姿は、何もかも違う。
彼女は黒い髪をしていた。白竜は白だ。
彼女は黒い瞳を持っていた。白竜は赤だ。
彼女は人の身体を持っていた。白竜は言うまでもない。
だが、それが何だ?
私の、全身全霊が。
目の前にいるのが、かつて愛した彼女であると叫んでいる。
何の迷いもなく、そうであるとわかってしまっている。
私が、彼女を……アイを見間違うことなんて、あるはずがなかったんだ。
例えどんな姿になってしまっていたとしても。
「わかり、ません……」
白竜は翼を広げると、私に背を向け飛び上がった。
「殿下。すみませんが、ここで待っていてくれませんか。あの白竜が、私の探し人だった。説得は必ず成功させてきます」
「はい。よろしくお願いします」
アイシャは若干戸惑いつつも、強い意志を込めた瞳で私に頷く。
「ニーナ、悪いけど殿下をお願い」
「……う、ん」
ニーナはアイを知っている分アイシャよりも混乱が大きいのか、いつになく歯切れの悪い様子で応えた。
二人に背中から降りてもらって、私は急いでアイを追う。
気配でおおよその方向はわかるが、真っ白な雪の上で白い竜を見つけるのは難しい。いや、さっき出てきたときの様子を見るに、擬態の魔法も使えるのかもしれない。
「アイ……いや、この地の白竜よ。お願いだ、話だけでもさせてくれ!」
冷たい風を浴びながら飛んでいると、少しだけ冷静さが戻ってきた。
よく考えてみれば見知らぬ竜が見知らぬ名前で呼んで迫ってきたら、普通に怖い。
ましてや私は火竜、白竜の天敵のようなものなのだ。
「君を害するつもりはない。ただ……話が、したいだけなんだ!」
そう言って、私は地面に降り立ち翼をたたむ。そして逸る気持ちをなんとか抑え、ゆっくりと深呼吸した。
もう、雪は溶けはしなかった。
それに安心してくれたのかどうかは定かではない。
だが白竜は、雪の影に隠れるようにしながらゆっくりと顔を出してくれた。
「私のことは先生、と呼んでくれ」
「せん、せい……?」
最初に投げかけられた質問に、私は遅まきながら答える。
アイはやはり、私のことを覚えてはいないようだった。
「私は……マシロの国の使いとして来た。わかるかな? 人間たちの国だ」
「わかり、ます……あの、大きな、石の家の……人たち、ですね」
ひとまず、彼女がアイであることは横において、私は当初の目的から果たすことにした。
「君とはあの国を守る代わりに、五百年後に姫を差し出せという契約をしていると聞いている」
「姫を……? いいえ。わたしはただ……たまに、人をよこしてくれればいいと言っただけです」
「どうして?」
「一人は……さびしいから」
零すように、アイは呟いた。竜は、孤独を厭わない。多くの人に囲まれていたいと思うのは、人間の習性だからだ。だから竜は子を作る時以外同族とすら一緒にいようとは思わないし、寂しいと思うこともない。
私のように、元人間の竜でもない限りは。
「守るというのは?」
「わかりません……人を食べないで、とは、言われましたが」
アイはふるふると首を振った。
数百年伝えられる間に、伝承の内容が変わってしまったのかもしれない。
まあ彼女がここで縄張りを張っていれば、他の竜は入ってこられない。それで人を襲わないなら、守っていると言えなくもない。
「今まで誰か、ここを訪れたことは?」
「来てくれたのは、約束してからあなた達が初めてです」
キョトンとして、アイは答える。嘘をついているようには思えなかった。
とすると……嘘をついているのは歴代の王族の方か。
たまに、の解釈をどんどん引き伸ばしていった結果が、五百年なのだと考えれば納得も行く。
今代の王族は特別律儀だったか、それとも流石に五百年以上引き伸ばすことは出来ないと思ったのか。
「もし君が寂しいのが嫌いだと言うなら……私の村に来ないか?」
「あなたの……村?」
アイは不思議そうに、瞳をパチパチと瞬かせた。
まあ竜の村なんて言われても、ピンとは来ないだろう。
「私の村では、人と竜が一緒に住んでいるんだ。君もきっと、楽しく暮らせると思う」
一緒に暮らすとなったら、ギルタとの縄張り問題があるか。私は竜気を封じてしまえば大丈夫だけど、二人はそうもいかない。まあ最悪、竜絶布をたくさん作って、ギルタにはそれで縫った服でも着てもらえば大丈夫だろう。
ヒイロ村のそばには白竜向きの雪山だってあるし、物件としては悪くないはずだ。
「……ごめんなさい」
アイはずっと悩んだ末に、そう答えた。
「わたしには、やらないといけないことがあるんです。だから……行けません」
その瞳は私を見つめ……けれど、その先。どこか遠くを見据えていた。
「やらないといけないことって?」
私の問いに、アイはただ、ゆっくりと首を振る。
聞くな、という意味だろうか。
「……わかった」
私は鱗を一枚剥がし、それをパキリと半分に割って彼女の前に置く。
「……これは?」
「この私の鱗があれば、いつでも話が出来る。その、やらないといけないことがもし解決したら……連絡してくれ」
半分に割ったのは、私自身から通信魔法を使うと全ての鱗に繋がってしまうという欠点を克服する為の処置だ。元々一枚であった鱗の半分を所持していれば、それを通じて目当ての鱗とだけ繋げることが出来る。
アイに簡単に鱗の使い方を教え、私は翼を翻した。この深い雪の中であまり長いことニーナたちを待たせるわけにもいかない。
「また、来るよ」
そう言い残し、私は雪山をあとにした。
* * *
今まで、王族は誰ひとりとして犠牲を払うつもりもなく、被害がないのを良いことに竜との約束を反故にしてきた。それを聞いてアイシャは随分と憤慨していたが、ひとまず国に害を及ぼすことはないと聞いて安心もしていたようだった。
今後は対話のため、アイのもとを訪れるようにしてくれるという。
私の言葉をそんな簡単に信じて良いのかと聞けば、
「嘘というのは、弱者が使うものです。あなたが使う必要はないでしょう。……それに。火竜閣下におかれましては、嘘が随分お苦手なようですから」
と笑って言われてしまった。
マシロの国の王政がどうなっているのかはわからないけれど、彼女が継ぐならいい王になりそうだ。
「ニーナ」
一旦宿に戻った私たちは、ゆっくりと湯に浸かって冷えた身体を温めたあと、今後のことを相談することにした。
「アイの記憶を取り戻す方法を用意してるって言っただろ? あれはどうやってやるんだ?」
「ああ、あれね……」
アイの、やらないといけないことというのが何なのかはわからない。
けれど記憶さえ戻ればその内容を話してくれるかもしれないし、協力できるかもしれない。どうにもならなかったとしても……記憶が戻れば、一緒に来てくれる可能性はある。
「あれは……その。使えない、かも」
「どういうこと?」
私の問いに、ニーナは気まずげに視線をそらし、口ごもった。
「その……当てが外れたっていうか。有効では、ないかも」
「お母さん……?」
クリュセが怪訝そうな声をあげる。
彼女に指摘されるまでもなく、わかった。
ニーナは、嘘をついている。
「クリュセ。悪いんだけど、少し席を外してもらえるか?」
「……はーい」
娘の前では言いにくいこともあるだろう。ましてやクリュセは嘘や誤魔化しをすべて見抜いてしまう。様子のおかしいニーナを前にそう頼むと、クリュセは素直に頷き部屋を出ていってくれた。
「ニーナ。どうしたんだ?」
私はベッドに腰掛ける彼女の隣に座って、顔を覗き込むようにして問いかける。
「あの、さ……」
彼女は、上ずった不自然に明るい声で、言った。
「もう……諦めない?」
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