竜歴908年

第9話 愛しき赤子/Sweet Sweet Baby

「見て! ねえ、ちょっと! クリュセがハイハイしたわよ!」


 興奮した様子で、ニーナが私の腕をぐいと引く。


「ほんとだ! すごい、すごい!」

「あー、うー!」


 私が手をたたくと、クリュセはニパッと笑う。

 そしてそのままぺたぺたと地面を這って、私の腕の中へと飛び込んだ。


「あっ、ちょっとズルい! ほらクリュセ、私の方に来なさいよ」


 ニーナが私を真似るように手を鳴らす。


「うー!」


 するとクリュセはくるりと半回転して、一生懸命にニーナの方へと這いずり、ぎゅっとしがみついた。


「んー、いい子ね」


 ニーナはいつになく緩んだ表情で赤子を撫でる。

 その様子は、まるで本当のお母さんのようだった。


 あの日、森の中で見つけ出した赤ん坊の女の子を、私はクリュセと名付けた。

 クリュセというのはギリシャ神話に登場する女神の名前で、『黄金』という意味がある。

 その美しい金の髪からつけた名前だ。


「クリュセは本当に愛想が良いというか、愛嬌があるよなあ」


 ヒイロ村にも孤児院はある。けれど不思議と、私もニーナもそこにクリュセを預けようとは言い出さなかった。


「きっと私に似たのね」


 何を言っているんだろう、この子は。

 誇らしげに言うニーナに、私は思わず心中でツッコミをいれた。

 まず血の繋がりがないんだから似るわけがないし、仮に似たとしても、誰の愛想がいいというのだろうか。


 以前ならそんなことを思えば勘のいい彼女はすぐに気付くのに、ニーナはニコニコしながら嬉しそうにクリュセをあやすばかりだった。


 と、その時、四竜刻を知らせる鐘が鳴り響いた。

 午前八時。皆がだいたい仕事を始める時間だ。


「ほら、そろそろ診療所の準備しないと」

「……今日は休む……」


 ニーナに向かって手を差し出すと、彼女はぎゅっとクリュセを抱きしめながらそんなことを言い出した。


「そういうわけにもいかないでしょ。今日もヒイロ村の皆が君を待ってる。さあ、頑張って」


 本気で言ったわけでもないのだろう。ニーナはため息を付いて、渋々とクリュセを私に預けた。

 ここ最近、定番になりつつあるやり取りである。


 患者の診察で忙しいニーナと違って、私はだいぶ前から講義もしていない。

 自由気ままな研究職である。

 そんなわけで、日中のクリュセの面倒は主に私が見ていた。


「おはようございます、先生!」

「せんせー、おはよーございます」

「……おはよー……」


 研究室に顔を出すと、三者三様の反応が返ってくる。

 以前は昼過ぎにならないと顔を出さなかったイニスだが、何か思うところがあったのだろう。

 クリュセを育てることになった例の事件以降は、サボることもなくなった。まあ、やる気なさげで気だるそうなのは変わらないが。


 アラもますますやる気を出して、精霊と戦う方法を研究している。最近はユウカに剣技も熱心に習っているようだった。……まあ、ユウカ曰く「才能は全然ない」らしいが……


「クリュセちゃん、今日もかわゆいねー」


 そんな中、一人だけ変わらないように見えるのがメルだ。彼女はぽてぽてと私に近寄ってきて、クリュセをぎゅっと抱きしめる。まあ彼女も頑張ってはいるし、マイペースだからそう見えるだけだろうけど。


「きゃーう」


 クリュセはメルに抱っこされてきゃっきゃと笑い声をあげた。

 割といつでもごきげんなのが、うちの子の長所である。


「だー、うー」


 クリュセはぶんぶんと短い腕を振って、メルの胸を叩いた。

 ちなみにこの仕草はニーナには一度としてしたことがない。


「ごめんねー、メルはまだおっぱい出ないのよー」


 クリュセの頭を撫でながら、メルは謝る。クリュセはしばらくご機嫌でメルの胸をぺたぺたと触っていたが、段々と自分の望むものが出てこないことを悟ると、空模様が怪しくなってきた。


「ごめん、メル、もうちょっとあやしててくれる?」


 私は慌てて準備を始めるが、間に合わなかった。


「えうーーーーーーーーっ!」


 竜の咆哮にも匹敵するのではないかと思うほどの、盛大な泣き声が響き渡る。


「ああっ、待って、頼む、少し待ってくれ」


 えうえうと泣くクリュセに弱りきって言いながら、私は手早くミルクの準備をした。冷蔵庫からガラス瓶を取り出し、その中の六脚山羊の乳を陶製のカップに注ぐ。


起動Awake


 そして呪文を唱えると、冷たかったミルクが温まってぷくぷくと泡が浮き出した。それにふうふうと息を吹きかけて冷ますと、木匙で掬ってクリュセの口元に持っていく。


 これがまた、中々大変だった。何せ赤ん坊はまだ木匙から上手くミルクを飲むことが出来ない。それどころか、そこに食事があるということ自体理解できずに暴れるし、口だってきちんと開けてはくれない。


 哺乳瓶みたいなものがあればいいんだけど、残念ながらまだ作れていない。瓶部分はともかく、乳首部分にできるような素材が中々作れないのだ。


「えううううう! えうううう……えうううううううう! えううううううううっ!」

「ほら、クリュセ、ミルクだよ、口をあけて、クリュセ……」


 泣きわめくクリュセの口元に木匙を持っていくのだが、怖いのかそばに近づけると頑なに口を閉じてしまう。離せばまた泣くために口をあけるのだが、再び近づけると拒否するの繰り返しだ。隙を見計らって、何とか一度でも口に入れればミルクだと認識してくれるんだけど……


「貸してもらえますか?」


 私が攻めあぐねていると、アラが手を差し出す。彼は指先にミルクを数滴垂らすと、メルの抱くクリュセの口元をとんとんとつついた。クリュセの口が、アラの指先をぱくりと咥えてちゅうちゅうと吸う。


 クリュセは一瞬泣き止んだが、すぐにどれだけ吸ってもミルクがそれ以上出てこない事に気づいて抗議の声をあげようと口を開く。そこにすかさず、アラは木匙を突っ込んだ。一度そこにミルクがあるということを知ってしまえば、後のクリュセは従順だ。木匙で運べば、無限にミルクを飲んでくれる。


「アラくん、すごーい」


 クリュセを抱きかかえたまま、拍手の代わりにメルが後ろ足の蹄を鳴らした。


「ずいぶん手慣れてるねえ。もしかして隠し子でもいるわけ?」


 からかうように、イニス。


「馬鹿を言うな。弟妹たちの世話で慣れているだけだ」


 そういえばルカも子供の世話が上手だったなあ、と、私はアラの叔母を思い出す。


「……なんかさ」


 イニスはゆっくりとソファを動かし私に近づくと、小声で囁いた。


「お似合い、よね……あの二人」

「うん。私もそう思う」


 声を潜め、私もそれに頷く。


 メルは頭の高さが私と同じくらいで、半人半羊プロヴァト・ケンタウロスの中でも女性にしては長身である。けれどアラはそれよりも更に背が高く、釣り合いが取れている。


 精悍で自分にも他人にも厳しい半人半狼の青年と、ほんわかふんわりした優しい半人半羊の女の子。メルが抱くクリュセにアラが甲斐甲斐しくミルクを運ぶさまは、三人共違う種族なのに若夫婦とその子供のように見えた。


 狼と羊の間には子供なんてできるわけもないが、実は四足種同士は子を成すことができる。半人半狼と半人半羊のカップルは聞いたことがないけど、半人半虎と半人半牛の夫婦ならかつて会ったことがある。きっと彼らも大丈夫だろう。


「さーて、私は研究にでも勤しみますかね」

「な……! イニスが、やる気を出してるだと!?」


 ぐっと身体を伸ばしソファの上に座り直すイニスに、アラが驚いてミルクを取りこぼす。途端、クリュセがぎゃんぎゃんと泣き出した。


「ああっ! すまん!」

「わ。わ。泣き止んでー」


 慌てて、三人がかりでクリュセをあやす。ふと振り返ると、イニスはちゃっかり姿を消していた。



 * * *



「ただいま」

「ただいまー」

「たっだいまぁ」


 扉を開く音とともに、色とりどりの声が響いたのは、私がちょうど夕食の仕込みを終えた頃だった。


「おかえり。久しぶりだね、リン」


 ニーナと共に帰ってきたのは、ユウカとリンだ。ユウカはちょくちょくうちに来るけれど、リンは二年ぶりである。定期健康診断の結果は今の所極めて良好で、ニーナは毎年やっていたそれの頻度を二年ごとに変えた。


 そうしたら二年ごとにしか帰ってこなくなったものだから、これ以上期間をあけるのはやめてくれと頼んだところだったのだ。


「当然のようにただいまって言って入ってくることに対するツッコミはないんだね」

「うん。どっちかというと嬉しいところだよ、それは」


 笑いながら言うユウカにそう答える。未だにリンがここを帰る場所だと思ってくれている事に、私はいいようのない安堵と幸福を覚えていた。


「ただ、来るなら事前に連絡は欲しかったかな。夕食の仕込みの量を増やさないと……」

「ん。ごめん、次は気をつける」


 言葉少なに答えるニーナ。

 表情に変化はないが、素直に謝るってことは彼女なりに反省している証拠である。

 仕事で疲れたのだろう。ソファに腰を下ろす彼女に、私は冷やしておいた果実水を渡した。


「……ねえ、お兄ちゃん」


 ついでにユウカとリンの分もグラスに注ぐと、彼女たちは何か言いたげに私を見る。


「せんせーとニーナ先生って、本当に結婚してないんだよね?」

「してないけど?」


 そんなのもう何百年も前から知ってるだろうに、今更何を言ってるんだろうか。

 ……あ、リンはまだ百年経ってないか。


「だぁー!」


 その時、私達の声で目覚めたのか、奥の部屋で寝ていたはずのクリュセがぺたぺたとハイハイで入ってきた。


「え、子供までいるじゃない!」

「いや何言ってんのよ」


 クリュセを指差して、リンが叫ぶ。


「あんたも会ったことあるでしょ。クリュセよ」


 ニーナはクリュセを抱き上げて言った。


「……え? いや、ニーナ先生こそ何言ってるの……?」


 リンは怪訝そうに眉を寄せる。私とニーナは思わず目を合わせた。

 まさか、リン……また、記憶が――?


「あたしがクリュセに会ったのは二年前だよ。なんでまだ赤ちゃんなの」


 だがどうかしていたのは、どうやら私たちの方らしかった。

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