竜歴652年
第16話 進歩/Progress
さわさわと、風に木の葉の揺れる音。
遠くから聞こえてくるのは、ゴトゴトという石臼の回る音。
微かに香るのは、香ばしい焼きたてのパンの匂い。
集中を、深めていく。
空をパタパタと飛ぶ鳥の羽音。
活気を帯びた人々の遠い話し声。
大地を踏みしめる蟻の脚には音はならず、ただただ細かな振動だけが伝わってくる。
空気中を漂う細かな埃の一つ一つ、足の下の土を構成する砂の一粒一粒さえも私の感覚は鋭敏に捉え、把握する。
そこに、出し抜けに異物が飛び出した。小さな炎の塊は何もない空間に突如として発生すると、刹那の間にその熱量を膨大に倍加させて、私に向かって放たれる。
「消えろ」
けれどそれは私に当たる寸前で、私の呪文に従って消滅した。
「あーっもう! 今度こそいけると思ったのに!」
ティアが虚空から姿を現し、悔しげに歯噛みする。
今彼女は、隠形からの奇襲攻撃を練習しているところだった。
小さな身体はただでさえ見つかりにくく、隠れやすい。
その上魔法で姿を隠されると、竜の感覚でさえ見つけ出すことはできなかった。
「いや、今回は炎を出す寸前までどこにいるのか全くわからなかったよ。それにしたって、来ると分かって集中してたからだし。実際の戦いだったらどうしようもないと思う」
「先生はぼーっとしてるから、そのくらいで丁度いいの」
フォローすると、手厳しい言葉が返ってきた。
それは同時に、彼女の生真面目さの証拠でもある。
「見てなさいよ……」
すぅ、とティアの姿が掻き消える。単に見えなくなったというだけではない。
その翼の微かな羽ばたきも、ほんのりとした甘い匂いも、彼女の存在を示す何もかもが消えた。最初の頃は単に姿を見にくくするだけだった魔法を、無詠唱でここまで練り上げた彼女の努力は並大抵のものではない。
……が。
「ティアちゃん、みっけ!」
さっと小さな影が走っていったかと思えば、虚空を両手で掴み上げる。
「だから毎回毎回、強く掴み過ぎだって言ってんでしょ!」
途端にティアは姿を現して、自分の身体を掴む小さな女の子……ユタカと水色の娘、ユウカに向かって怒鳴った。
「何でユウカにはティアの場所がわかるのかなあ」
「なんでおにいちゃんはわからないの?」
邪気のない瞳で逆に問いかけられて、私は返答に詰まる。
私が特別に鈍いというわけではない。
少なくともこの件に関しては、リンやルフル、ユタカや水色、ニーナも同じだ。
姿を消したティアを見つけ出せるのは、ユウカただ一人だった。
彼女に生まれつき何か才能があるのか、それともハーフエルフという種族が関係しているのか。理由は全くわからないが、ユウカ以外にもそうやって隠形を看破できる人間がいないとも限らない。
そんなわけで、今日もティアは魔法の腕を磨いているのだった。
「ああっ、こんなところにいたぁー!」
そこへ息を切らしながら、水色が走り寄ってくる。
「もおー! 勝手にいなくなるのやめてって、いつも言ってるじゃないですかぁ!」
「ユウカ、また勝手に抜け出してきたのかい」
苦笑しながらユウカの頭を撫でると、彼女は首を傾げて表情に疑問符を浮かべた。
「一瞬! ほんの、一瞬なんですよ、目を離したの! 本当に、水林檎の花が咲いてて、ああそろそろ季節だなって思って見て、視線戻したら、もうどこにもいなかったんです!」
「よしよし、大丈夫、わかってるよ」
ユウカは、他人の隙を突くのが恐ろしく上手い。
弱冠五歳ながら、一瞬気をそらしたその刹那に相手の死角に回り込む剣部の技を完全にものにし、無意識に振るう術を体得していた。
不幸なのはそれが発揮される相手が、主に水色ということだろうか。
単に遊びにいってしまうだけならともかく、危険な森なんかにも平気で入っていってしまうから気が抜けない。私はなんとなく、そのうちフラっと鎧熊でも狩ってきてしまいそうだなと思っている。
ユタカはあまり才能に恵まれた方ではなかったが、ユウカは間違いなく麒麟児だ。
「まあセンセたちと一緒にいたんなら安心だからいいんですけどぉ……どうせこの子は言っても聞かないし!」
ニーナの予言通り子育ての洗礼を受けて、かつての美少女は随分タフになったように思う。性格はともかく、前はもっと儚げな印象があったのだけど、今の水色には随分と母としての貫禄が備わったように見えた。
まあ、はたから見ててもユウカは育てるのが大変な子だ。素直ないい子ではあるんだけど、活発すぎるし、度胸がありすぎてこっちの肝が冷えるようなことを平気でする。四六時中付き合ってればタフにもなるだろう。
「あ、ルフルちゃんだ」
親の気持ちをわかっているのかいないのか。ユウカはマイペースにルフルの足音を聞きつけて、くるりと後ろを振り向く。
「リンちゃんもいる。おーい!」
巨人の女の子に並んで空をたゆたう人魚の少女を認めて、ユウカはぶんぶんと両手を振った。
ううーん。五感が竜よりも優れている、ってわけじゃあないんだよなあ。
ルフルとリンの存在には、私はユウカよりも先に気づいていた。何せ身体が大きいだけあって、ルフルの足音は目立つ。
宙を泳ぐように尾をくねらせて飛ぶリンは羽音もないから気づきにくいけれど、全くの無音というわけでもない。竜の姿であれば十分に捉えられるものだった。
「せんせぇ、やっと森を開通したよー!」
「おお、とうとうか!」
顔を泥で真っ黒に汚し、巨大なスコップとツルハシを振り上げるルフルに私は歓声をあげた。彼女もすっかり土木少女だなあ。
ドラゴンブレスでの水路開通を諦めた彼女は、結局地道に地面を掘り返し、レンガを敷き詰め、自力で道を作ることにした。
エルフの魔法は枝葉を自在に操ることは簡単に出来ても、大地にしっかりと張った根っこを動かすのはかなり難しいらしい。昔長老は何気なくやっていた気がするけれど、ニーナにもまだ無理なのだと悔しげに言っていた。
だからルフルの作業は殆ど人力だ。毎日毎日コツコツと、木を切り倒し、根を掘り道を広げていく地味な作業。それを、不平不満や愚痴を口にすることもなく、この大きくても幼い女の子がやってのけたのだ。
「森に道が出来れば、
「でも、私だけじゃなくって、村の皆やリンちゃん、ルカちゃんたちも手伝ってくれたのよ」
私が手放しで褒めると、ルフルは恥ずかしそうにはにかみながらそう答えた。
「あたしがせんせーみたいに、竜に変身できたらもっと早く終わってたんだけどね」
言いつつ、リンは腰に下げた水袋の蓋を開く。
「今はこれが精一杯」
袋の中から滴り落ちた水は地面に触れることなく、空中で蠢きながら広がり、形を変えていく。
鋭い爪を備えた前脚。どっしりとした太い後ろ足。長い角と牙を生やした顔に、長い首。コウモリのような一対の翼に、細かな鱗の一枚一枚までをも再現する。
それは見事な、水の竜だった。無色透明であることを除けば、本物と見まごうほどの精密さと再現性。芸術品のような出来の良さだ。
「いや、十分じゃないか?」
「全然だよ。力はせんせーよりかなり弱いし、空も飛べないし、火だって吹けないし。そもそも、あたしは自分が竜になりたいんであって、竜を作りたいわけじゃないの」
不満げに頬を膨らませ、リンは珍しく愚痴のようなものを口にした。
子育てに忙しいユタカと水色はともかくとして、ティアとルフルは自らの研究テーマにおいて一定の成果を出している。しかしリンの研究は開始から十年経っても、未だ目処さえついていない状況だった。
まあそもそも竜になる、という目標が高すぎる気はする。出来ている例がいるんだから、原理的には出来ないわけじゃないんだろうけど……
「うーん……じゃあ、参考までに竜に変身する方法を聞きに行ってみようか」
出来ている例。その言葉にふとあることを思いついて、私は言った。
「聞きに? 誰に?」
「先駆者にさ」
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