竜歴646年

第12話 禍福の具現化/Currency

 それはある日、休日の昼下がりのことだった。


「おおおおお……」


 私は、感激に打ち震えていた。

 眩いばかりの白い生地にはボコボコとした気泡の跡が残り、両手で千切ればふわふわとした感触が伝わってくる。口で噛みしめればもっちりとした食感に僅かな酸味、そして噛めば噛むほど伝わってくるほのかな甘味。


 私のよく知る、醗酵パンの姿がそこにあった。


 パンを醗酵させるための酵母を、一体どこからどうやって手に入れれば良いのか。

 小麦の生育に成功して以来数十年私の頭を悩ませ続けた問題は、ある日唐突に解決した。

 うっかり食べずに置いておき、腐ってしまったパン粥を焼いたところ、大きく膨れて柔らかいパンが出来上がったのだ。ニーナの不精も時には役に立つ。


 腐敗と醗酵に、本質的な差異はないのだという言葉を私は思い出した。

 人間の役に立つものを醗酵、害になるものを腐敗と呼んでいるにすぎない。

 私が求め続けていたパン酵母は、空気中に幾らでも存在していたのだ。


 『宝はいつも足元に転がっている』とはヒイロ村の人々がよく使う言い回しだが、まさに真理である。


「……そこまで感動するほどの味?」


 隣でもぐもぐとパンを齧りつつ、ニーナが冷めた視線で私を見やる。

 ふっ……だがそんな顔をしていられるのも今のうちだ。


 見せてやろう。パンが作れたという事実の、その意味を!


 私はあらかじめ乾燥させておいたパンを削り落とし、別の皿に最近家畜化に成功したばかりのニ羽鶏ニワトリの卵を落とす。

 そして秘蔵のベヘモス肉に塩と小麦粉をまぶし、卵をくぐらせ、パン粉をつけて揚げれば……! 恐らくこの世界初の、カツレツの出来上がりだ!


「さあ、食べてみてくれ!」

「何でそんなに必死なのよ……」


 呆れつつ、ナイフで切り分けたそれを一切れフォークで刺して、ニーナは口に運ぶ。


 サクリ。


 フライの良さは、まず何と言ってもその触感だ。

 これほどサクサクした小気味良い歯触りの食べ物は、自然界には存在しない。

 そしてそれを噛み切ると染み出してくる、衣に封じられた濃厚な肉の脂の旨み! それが若干多めに振った塩と絡んで口内を蹂躙するそのさまは、まさに味覚の圧倒的暴力。

 ソースがないのが少し残念ではあるけれど、そんなもの必要ないほどの破滅的な美味しさがあった。


 ニーナは無言でそれを咀嚼し、すぐさま二切れ目へと手を伸ばす。

 三切れ目、四切れ目と彼女の手と口は止まらず、結局一枚あっという間にぺろりと平らげた後、彼女は言った。


「……まあまあね」


 まだ敗北を認めないというのか。良いだろう、ならば私にも考えがある。

 私は一切の情け容赦なく、まだ手を付けていない私の分のベヘモスカツを――パンに、挟んだ。


 脂。肉。炭水化物。それのみで構成されたカツレツバーガーが、不味いわけがない。

 がぶりと頬張ればふわふわした食感の中にサクっとした歯ごたえが広がり、混ざりあったパン生地と肉の旨みが互いに互いを何倍も引き立て合う。


「あっ、あ、ああーっ!? あんた、何やってんのよ、ちょっと!?」


 直感でその美味しさを悟ったのだろう。自分の皿から消えたカツレツと私を交互に見やって、ニーナが叫ぶ。


「そこまで感動するほどの味じゃないんだろう?」

「ちょっと、あんた、こら、ずるいわよ! 一人だけそんな食べ方……! 私にも食べさせなさいよ! せめて一口!」


 私は高く腕を掲げ、手を伸ばすニーナからカツバーガーを遠ざける。しかし彼女は諦めることなく、私に飛びついてきて……


「あの……お久しぶり、です」


 懐かしい顔が私たちを見下ろしたのは、ニーナが私を押し倒して戦利品のカツバーガーに舌鼓を打っている時のことで。


「相変わらず、仲が良いんですね」


 そう言って、ルカはどこか困ったような、しかし穏やかな笑みを浮かべた。



 * * *



「いや、恥ずかしいところを見せたね、申し訳ない」


 物置で埃を被っていた四足種用の椅子を引きずり出しながら、私はルカに謝罪する。

 治安の良いヒイロ村では扉に鍵をかける習慣なんてないが、夏で暑いとニーナが言うから扉まで開け放っていたのはちょっと失敗だったかも知れない。


「いえ、とんでもないです。私こそ、連絡もなく急に来ちゃって……あ、すみません」


 私が引いた椅子に、ルカはその四肢を横たえさせた。


「最近は村の中でも大分他種族を見かけるようになってきたけど、やっぱり四足種ケンタウロスは体格が違って中々難しいみたいでね。あんまりいないから、椅子も昔君に作ったこれきりだ……起動Awake


 私はヒヒイロカネのヤカンを手のひらに載せ、汲み置きの水を注ぐとその表面に彫られた文字をなぞって起動する。するとヤカンはあっという間に発熱し、ポコポコと湯が沸き立ち始めた。


停止Asleep。ニーナ、お願い」

「はいはい」


 お湯が沸騰したところで魔法の効果を切ってしまえば、魔法によって高熱を発したヤカンそのものはすぐに冷める。火を使わない分、とても安全な湯沸かし器だ。ニーナにそれを渡すと、彼女は茶葉を入れて蒸し始めた。私はどうもその辺の調節が苦手で、何度やっても渋くなってしまう。


「……ん、出来たわよ」

「ありがとう。起動Awake


 ニーナから手渡されたそれを別のポットに入れて、そこに彫られた魔法を起動する。途端に金属製の表面には白く霜が降りて、湯気を立てていたお茶は瞬く間に冷えた。


「さあどうぞ。喉乾いたろ?」


 それをガラスのコップに入れて差し出すと、ルカは目をまんまるにしながらそれを受け取った。


「先生から教わったことを皆に広めて、私たちも大分文明的な暮らしを出来るようになって……大分追いついたつもりだったんですが、まだまだですね」


 こくこくと喉を鳴らしながら冷えたお茶を飲み込んで、しみじみとルカは呟く。


「いや。話はよく聞いてるよ。ルカは随分頑張ってると思う」


 それまで家族単位でバラバラに生活していた半人半狼たちをまとめ上げ、狩猟による不安定な生活に遊牧を導入し、定着させた。彼女の活躍は、その妹弟や姪甥たちから度々耳にしていた。


「君が学校を卒業していって……そうか。もう、百年以上になるのか」


 長命種であるリュコスケンタウロスにとっても短い時間ではないだろう。あどけなかった少女は随分と大人びて、綺麗になった。

 けれど人間にとって百年は、生まれてから死ぬまでよりも更に長い時間だ。


「これは魔動機と言ってね。リンが作ったんだ」

「リンちゃんが?」


 先程お湯を温めたり冷やしたりするのに使ったヤカンとポットを手にして言うと、ルカはそれをしげしげと眺める。


 文字を彫り込んだ木の輪を臼に取り付けるより、臼自体に文字を彫り込んでしまった方が手っ取り早い。


 そんなリンの発案で作った自動で回る石臼は、予想以上の効果を上げた。

 今まで手作業で一つ一つ何時間もかけていた脱穀や製粉作業を、一瞬の起動作業さえ済ませてしまえば後は放置しておくだけでいい。


 そして何より……私が付与魔法と名付けたそれは、精霊が関わってくる魔法と比べて圧倒的に安定していた。


 水を操ったり、炎を出したり、風を吹かせたり。そう言った自然のエネルギーに干渉する精霊魔法は、とにかく相性や適性で得意不得意が激しい。


 私は未だに水一滴出せず、氷を作るなんて夢のまた夢だ。おそらく一生出来ないだろう。


 そんな私でも、ポット自体の温度を下げることはできた。精霊魔法と付与魔法では、どうやら原理そのものが違うらしい。


 文字による付与魔法と魔法陣を組み合わせた魔法で動く機械……魔動機は、この数年で爆発的に普及して、様々な物が考案、制作されていた。このヤカンとポットもその一種だ。


「じゃあ、これもその、魔動機というものなんですね」


 私の説明を受けて、ルカは懐から小さな金属片を取り出し、机の上に置く。


「なにそれ?」


 初めて見るその道具に、ニーナは首を傾げた。

 多分それをどのように使うのか、想像もつかないのだろう。

 私も目にするのは初めてだ。――だが。


「私たちの村で最近飼料として麦を作り始めたんですけど、思った以上に取れちゃって……半人半狼は麦は食べませんから、余った分をお肉と交換してもらおうと思って持ってきたら、これを貰ったんです」


 だが、それをどう使うのかは、はっきりとわかった。


「モン、というのだそうです」

「ふぅん……? 初めて見るけど、どういう効果があるのかしら」

「多分、魔動機じゃないよ」


 その小さな金属片を摘み上げ、ためつすがめつするニーナに私は言った。

 それには文字が彫ってはあるが、付与魔法ではなく、ただの印だろう。


「それはきっと、お金……貨幣と呼ばれるものだ」

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