第三章:文字の時代
竜歴637年
第1話 科学との決別/Separation with Science
カン、カン、カン、と小気味の良い木槌の音が鳴り響く。
「んー……ちょっと大きいか」
私は目を眇めて木材から飛び出た継手を眺めると、ヤスリで削ってほんの僅か薄くした。それは木材の端同士を凸凹に加工し、互いにガッチリと組み合うように繋げる『ほぞつぎ』と呼ばれる手法だった。
用途上、できれば金属の釘は使いたくないからな。
「出来たの?」
「うん。これで一応完成……っと」
私は円形に組んだ木材の中央に心棒を差し入れて、後ろから声をかけてきたニーナに頷く。
「結構時間かかったわね」
既に中天を過ぎ、下っていくばかりの太陽を見上げて生あくびを漏らすニーナ。
「だったら別に見てなくったっていいのに」
私がそう言い返すと、彼女はそれを黙殺した。
多分見てないと危なっかしいとでも思ってるんだろう。
指を間違って二回も木槌で叩いてしまった身としては、何も反論できないところだけど。
「で、これを……」
私は竜の姿に戻って木材を持ち上げ、心棒を小屋の壁にあけた小さな穴に外から差し入れる。それは、要するに水車だった。
我らがヒイロ村に農耕文化が根付いて百余年。収穫も随分安定したのはいいのだけれど、小麦をそのまま食べるのは中々難しい。粉にしてパンや麺に加工するのが基本だが、この製粉作業というのが中々大変だった。
石臼をゴリゴリと回して粉にしていくのだが、一時間回し続けてせいぜい一キロ程度しか粉に出来ない。毎年何千何万キロと取れる小麦に対して、とてもではないが手が足りてないのが現状だった。
そこで、水車だ。水の流れで車を回し、歯車を使って回転方向を変え、石臼を回す。こういう、自然界の動きを別の動きに変えるものを総じて原動機という。私の記憶が間違ってないなら、水車こそは世界最古の原動機だ。
これなら、臼に小麦を入れておくだけで勝手に小麦粉が出来ていくという寸法で、人手が大幅に削減できる。
まずは水車小屋に水車だけを取り付けると、サイズはピッタリ。水の流れを受けて水車がくるくると回りだし……
そして、ピタリと止まった。
「あれ?」
「駄目じゃないの」
「おかしいな……」
ニーナの冷たい視線に耐えつつ水車を確認するが、水の流れはキチンと水車の羽根に当たっている。どこかが引っかかってしまったのかと手で押してみれば、水車は簡単にクルクルと回った。
しかし、手を離せば途端に止まる。何やら、動きが妙だ。
「小さい模型で試した時はちゃんと動いたんだけどなあ」
「重すぎるんじゃないの?」
疑わしげな目を私に向けつつ、ニーナがつんと水車をつつく。すると突然、水車は猛スピードで回転しだした。
「な、何……!?」
びくりと驚き、ニーナは後退る。途端、水面がぶくぶくと泡立った。
「たっだいまー!」
ざばりと水路の中から現れたのは、魚のような下半身を持つ人魚の少女だ。
水を弾いて艶めく青い髪に、すらりと伸びた腕、ドレスのように広がる腰ヒレ。好奇心に溢れた大きな緑の瞳は、しかし記憶にある幼さの代わりにどこか大人びた色を讃えていた。
「リン! 久しぶりだね!」
かつての教え子であり、教師も勤めていた人魚の少女、リン。
彼女が村を旅立っていったのはもう三十年も前のことだろうか。
何せ本来海に棲む種族でありながら、陸上にまでやってきたほど冒険心に溢れた彼女のことだ。この小さな村では我慢できなくなるのはごく自然な話だった。
「うん、久しぶりー!」
リンは私とニーナに両腕を回すと、そのままぐいと引っ張る。
「え、ちょっ……!」
抵抗する間もなく、水しぶきが三つ、上がった。
「……まったくもう、相変わらずね」
服をギュッと絞って不満げな声を漏らしつつも、嬉しいのだろう。ニーナの表情は穏やかだった。
「あははは、ごめんごめん、つい!」
外見は大人びてきたけれど、リンの中身は相変わらずだ。
私たち長命種が人の中で生きていると過ぎ去っていくものばかりで、五十年経っても変わらない彼女の姿はとても嬉しいものだった。
「にしても、水車はリンが悪戯してたのか。道理でおかしいと思ったよ」
「水車?」
私の言葉に、リンはこてんと首を傾げた。
「ほら、さっき私が取り付けてた、木の輪っかだよ。あれを止めてたのはリンなんだろ?」
「ううん、あたし何にもしてないよ」
キョトンとして、リンは答える。彼女は悪戯好きではあるけれど、嘘をついたりとぼけたりするような子ではない。多分、本当のことなんだろう。
「じゃあ、どうして……?」
私は取り付けたままの水車を見やる。それは未だに、たまに回ったり、止まったりと不思議な動きを繰り返していた。となると、やっぱり私の素人細工に何か間違いがあるってことなんだろうか。
「せんせー、あれは何をするものなの?」
「ああ、あれは、水に押してもらって回るもの……にするつもりだったんだけど」
そういえば、眼の前にいるのは水の専門家じゃないか、と気づく。
「リン、何が悪いのかわかったりしない?」
「えー、わかんない」
しかし彼女はあっさりと首を横に振った。やっぱり駄目か。
こういう仕組み的なものはリンよりシグの方が得意だったしなあ。
「なんで水に浸したら輪っかが回るの?」
と思ったら、根本的なことからわかっていなかった。
「水が水路を流れてるだろ? そうすると、ここの水車の羽に水が当たって、水車を回すんだ」
「なんで?」
懐かしいな。リンの「なんで?」だ。
彼女は常識的にこうだとか、普通に考えればそうなるはずといった固定観念にとらわれない。学校に通っていた頃は、毎日のように聞いていた気がする。
「こんなの、水は避けていくんじゃないの?」
「いや、水に意思があるわけじゃないんだから……」
反射的に否定しかけ、私はふと口をつぐむ。
「あるよ?」
まさか、と思う私に、リンはあっさりとそう言い放った。
「意思って、こうしたい、って思うってことでしょ? あるよ。水にも、石にも、風にも。あたしたちとおんなじように」
確信に満ちた少女の言葉。
それはただの原始的な信仰とは思えない、理知的な響きを含んでいて、私は強い衝撃を受けた。
もし、彼女の言うことが真実だとするのならば。
この世界では――科学が、根本から成り立たない。
私はその一生をオカルトの研究に捧げてきた人間だ。
だから科学技術にはさほど明るくない。
しかし技術そのものには疎くても、科学というものが何であるかについてはよく知っていた。
何故なら、何が神秘であり、未知であり、オカルトであることを知るには、同時に何が科学であり、道理であり、既知であるかを知っていなければならないからだ。
そして科学にとって最も重要なのが、再現性である。
全く同じ環境を整えて同じことをすれば、同じことが再現できる。これが再現性だ。
工学にせよ化学にせよ、全ては再現性を礎としている。
だから例えば、誰かに「好き」と言われてどう思うか……と言うような話は、科学では解決できない問題である。全く同じ状況を整えたって、どう思うかはその人の心の中の問題だからだ。
大勢サンプルを集めて統計的に「どう思うか」を導き出すことはできるが、それが限界。逆に言えば、科学では人の心は推し量れないということでもある。
だから、リンが言ったことが真実であるとするなら、これはとんでもないことだった。
水や風や土、生き物ではないすべての存在にも意思があって、それぞれの意思で自由に動いているとするのなら、この世界には再現性なんてものは存在しないということになる。
全く同じ環境を整えてやっても、水車が回るかどうかはその時の水の気分次第。人が見ている間はまだ驚かせようと水車を回すことはあっても、見ていないところであんなものをわざわざ動かしたりなんかしないというのだ。
にわかには信じがたい話だった。もしそれが本当なら、科学どころか世界そのものが成り立たないように思えてしまう。
「見てて」
ところが、リンが一旦水路の水を堰き止めて、空になった溝に桶で水を汲んで流すと、それだけで水車は順調に回り始めた。考えてみれば、小さな模型でテストした時も条件は同じ。私が水を流して確かめたんだった。
「どうして、こんな風になるんだ……?」
水量も水の勢いも、当然人力の方が乏しい。科学的に考えるのであれば、川の水を引いている方がよく回るはずなのだ。しかし現実には、真逆の現象が起こっている。
「だってせんせーは、水車を回そうと思って水を流してるでしょ?」
「そりゃあまあ、そうだけど」
頭を抱える私から桶を受け取り、リンが川から水を汲んで溝に流し込む。
「水車は避けてねー」
彼女がそう告げた途端に、水車はピタリと止まった。
「いや、だってそれは、魔法だろ?」
「うん、そうだよ?」
リンは水を操る魔法に長けた人魚だ。大した詠唱なんかなくったって、水を操ることくらい……と考えかけて、私はある可能性に思い至った。
「待って。もしかして、そういうことか?」
かつて私は、魔法の呪文をこう定義付けた。
意図を持った言葉で、意味を介し、意思を持って行使するものであると。
それそのものは、きっと間違っていない。
だけれどそれは、私が思っていた以上の意味を持っていたのではないか。
私は、水車を動かすという意思と意図を持って桶で水を流した。
だから水車が回ったのだとするのなら……つまりリンは、それもまた魔法だと言っているのだ。
そして、それが意味することはそれだけじゃない。
桶を腕で持ち上げるのも。
土を踏んで歩くのも。
ものを食べ、呼吸をし、生きていくことさえ。
何気なく行っている動作の一つ一つ、その全てが――いや。
この世界そのものが、魔法なのだ、と。
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