第7話 かつての憧憬/Admiration the Past
「おにいちゃん、あれなに!? あれなに!?」
「そういえば、ユウキは見るの初めてだっけ」
雄大に広がる美しい青を目にして、ユウキは興奮した様子で私の角をグイグイと引く。
「あれが、海だよ」
かつては良く海まで魚を取りに行ったものだけど、ここ数十年ではすっかり行かなくなっていた。膨れ上がった人口を支える量はとても取ることが出来ないからだ。海産資源は魅力的なのだけど、私以外にとって海はあまりに遠すぎた。
空を飛んで行けば一時間とかからないが、歩いて向かえば往復で何日もかかってしまうのだ。それに今の技術ではそんなに沢山取ることも出来ないから、狩りに対してあまりに効率が悪すぎる。
「いたいた」
まだ殆ど人の手が入っていないからだろうか。
この世界の海はとても澄み切っていて、岸近くでも底が透けて見えるほどに透明度が高い。そしてその海をまるで飛ぶように泳ぐ生き物を見て、私はばさりと翼をはためかせた。
「あっ、竜だ!」
「やあ、こんにちは」
ゴツゴツとした岩礁に降り立つと、小さな人魚が水面に顔を出して叫ぶ。
「こんにちは!」
竜の姿のままの私に物怖じすること無く、人魚は挨拶を返した。
人間で言うならまだ十かそこらの女の子だ。青く長い髪を波間に揺蕩わせながら、彼女は大きな瞳を輝かせて私を見つめていた。
「ウタイはいるかな。ヒイロの竜が来たって言ってくれればわかると思うんだけど」
「呼んでくるね!」
人魚の子は元気いっぱいにそう言って腰ヒレをはためかせると、海に飛び込む。
「呼んできた!」
かと思えば、あっという間に飛び出してきた。
「お久しぶりね、先生」
「久しぶり、ウタイ」
その後ろから現れたのは、美しい人魚だ。二十台後半くらいに見えるが、少なくとも五百歳は超えているはずだった。まるで翼のように大きな腰ヒレをはためかせると、彼女は岩礁の一つにその身を乗り上げる。
「遊びに来てくれた……というわけではなさそうね」
「すまないね。でも私が海に入れないのは君も知ってるだろう?」
少しだけ責めるような視線を送るウタイに、私は肩を竦めてみせた。私自身は海に入ったところでどうということもないのだけれど、そこに棲む魚たち……そして彼らが食べているプランクトンは別だ。
私のような熱の塊が海に入ればすぐさま水は煮え返って、彼らに少なくないダメージを与えてしまう。海に生きる人魚たちと触れ合うのは難しいものがあった。
「私たちの生徒になる子がいないかと思って、探しに来たんだ」
だがその逆は別だ。今ウタイがそうしているように、人魚たちは陸上でも行動することは出来る。彼らが水中でも呼吸できるのは、一種の魔法なのではないかと私は睨んでいた。もしくは、空中で呼吸できる方かも知れないけれど。
「生徒に? 先生の言っていた、マホウガッコウというものの事を言っているの?」
「うん。一緒に魔法を学べる人がいないかなと思って」
人魚たちは例えるならば海のエルフだ。海の中に天敵はおらず、その暮らしぶりには余裕がある。リュコスたちと違って生活のために学べないというようなことはないだろう。
「……無理よ、先生。そんな子はいないわ」
「そうなのかい? ウタイなら顔が広いから興味のありそうな人を知ってるかと思ったんだけど」
ウタイは顔を両手で覆うようにして、恐ろしげに首を振った。
「だって、あなたのガッコウというのは陸の上……あの森という場所にあるのでしょう?」
「ああ。森の中ってわけじゃないけど、近くではあるね」
「海も見えないそんな場所に行きたがる子なんて、いるはずが……」
「いきたい!」
ウタイの言葉を遮って手をあげたのは、先程彼女を連れてきてくれた幼い人魚の女の子だった。
「いきたいいきたいいきたい! あたしいってみたいよ、ウタイ!」
「……リン。あなたはちょっと黙っていて」
「ええー、なんで!?」
ブンブンと勢い良く手を振る少女に、ウタイは辟易してそう命じる。
「いきたいいきたいいきたい! だって陸ってすごく楽しそうなんだもの!」
「……この子はちょっと変わってるのよ」
私と目があって、ウタイは言い訳するようにそういった。
「ええと……リン?」
「うん!」
私が声をかけると、元気いっぱいに女の子……リンは頷く。
「君のヒレは何重になった?」
「ええとー」
リンは腰についたヒレを指差しながら、そこに刻まれた模様を数える。
五百歳を超えるウタイの姿が若々しいように、人魚たちの年齢というのは見た目だけではわかりにくい。しかしスカートのように伸びる彼女たちの腰ヒレは、まるで年輪のように年々厚みを増し大きくなっていく。それを数えれば正確な年齢がわかるのだ。
まるでウェディングドレスのスカートのように大きく美しいウタイの腰ヒレに比べて、リンのそれは小さく愛らしい。若いのは間違いない。
「はち!」
だけど伝えられたその数の小ささは想像以上だった。まるきり見た目通りの年齢だ。
「それじゃあ、難しいかなあ……」
流石に幼すぎる。
「ええー」
「ええー」
不満の声は目の前と頭の上の両方から上がった。
「なんでだめなの、おにいちゃん」
「八歳は小さすぎるよ」
「ぼくだって十歳だし、四年まえからがっこうに通ってるよ」
ユウキの放った正論に、私はうっと呻いた。
確かに私の魔法学校は、六歳から通うことにしている。小学校のイメージだ。中学生の年齢にもなればもう十分働けるから労働力を奪うわけには行かないし、それ以前だと流石に読み書きや魔法を教えるのには幼すぎるという判断だ。
それを考えれば確かにリンは十分な年齢に達しているようにも思える。
「だけど、リンはまだ地面を歩けないんじゃないか?」
人魚たちはその大きな腰ヒレで、オットセイやアシカのように地面を歩くことができる。だがそれは大人になった後の話だ。リンの小さな腰ヒレは、まだとても彼女の体重を支え動かせるようには見えなかった。
「そんなことないもん!」
リンはそう宣言して岩礁によじ登り、パタパタと腰ヒレを動かしてみせる。だがそれは力なく地面を打つばかりで、その小さな身体は全く動くことはなかった。
「ううー……」
悔しげにびたびたと尾びれで岩礁を叩くリン。
「おにいちゃんみたいに変身できたらいいのにね」
「へんしん?」
「ああ。こんな感じで」
ユウキを頭の上から下ろすと、人の姿に変わって見せる。するとリンは大きく目を見開いて、キラキラと瞳を輝かせた。
「すごいすごい! あたし、それやりたい!」
「難しいよ」
正直、こればかりは私以外にはできないのではないだろうか、と思っている。
自分が自分以外の存在になるなんて、そうそうイメージできるものではない。
その点私は、竜の姿と人の姿、どちらも自分自身だと認識できているのだ。
だがそれは前世を覚えているという特異な境遇によるものだ。
少なくとも同じことができる魔法使いは私の他にいなかった。
「ぜったいやりたい!」
だがリンは強い熱の篭もった様子で言うと、ざぶんと水に潜ってこちらへと泳ぎ、私の両手を掴んで訴えかけた。
「それ、とってもすてき! おねがい、あたしをつれていって!」
あるいはそれは、子供がおもちゃをねだるような一時的な熱狂に過ぎないのかも知れない。だけれどその瞳に浮かぶ強い憧れと喜びには、とても覚えがあった。見たことはないけれど、きっとこんな風に輝いていたんだろう。……かつての私も。
「そうしてあげたいのは山々だけど……」
とはいえ陸上を歩けないのでは、日々の生活もままならない。
「あっそうだ、アレを作ってあげればいいんじゃない?」
私が困っていると、不意にユウキがそう言い出した。
「アレって?」
「ルカたちに作ってあげた、ごろごろーってするやつ」
「ああ……なるほど」
彼女の言っているのは、たぶん荷車のことだろう。
「荷車じゃ駄目だけど、その手があったか」
問題は作れるかどうかだ。ともかく、やるだけやってみよう。
* * *
「すごいすごーい!」
ぐるぐると車輪を回転させて、リンははしゃいだ声をあげる。手製の簡素な車椅子だが、流石に子供の吸収力は早い。あっという間に操作方法をマスターしてしまった。
作れば、作れるものなんだな。車椅子。といっても構造としては、犬用の車輪がついた義足の方が近いものかもしれない。
「作りがだいぶ甘いから屋外を走るのは無理だろうけど、村の中や教室ならこれで十分だろう。リンが住めそうな池もあるから、問題はないと思うんだけど、どうかな?」
人魚たちが真水でも問題ないのは以前確認している。昔風呂として使っていた泉に住んでもらえば大丈夫だろう。
「……好きにして頂戴」
私の問いに、ウタイは呆れた様子でそう言った。
「やったー!」
「やったー!」
「何が楽しくて陸になんか上がりたがるんだか、私にはさっぱりわからないわ」
手を取り合って喜ぶリンとユウキを横目に、ウタイはぼやく。
「そうかな」
私は五百年前のことを思い出しながら、忍び笑いを漏らした。彼女と最初に出会ったときの事。初めて見る竜の姿に興奮して、大人たちの言いつけを破って会いに来てくれた小さな人魚の少女の姿を。
「……何よ」
「君の娘はしっかり面倒を見るから、安心しててくれよ」
「娘なんかじゃないわ」
麗しい人魚はその美貌をつまらなさそうに歪ませて、言った。
「曾孫よ」
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