第19話 誘導呪物/Arcane Connection
「アイ!」
悲鳴のように名前を呼んで、私はその氷を溶かそうと炎を吹く。
だが氷は竜の吐息を浴びても溶けるどころか、更に大きく広がり柱のような結晶になってアイを包み込んだ。
「ホウ、ホウ、ホウ」
ジャックフロストは笑うような鳴き声を上げ、ぴょんと飛ぶ。
その丸い体がふわりと浮いて、雪だるまは空中を滑るかのように逃げていった。
「あっ、待ちやがれ!」
その後を、ダルガが追う。ジャックフロストが飛んで逃げるのなら、一番空を上手く飛べる私が追いかけるべきだったのかもしれない。
しかし、そんな冷静な判断を下す余裕は、私にはなかった。
「アイ、アイ! くそっ……どうしたら!」
どんなに息を吹きかけても、氷の柱が溶けないのだ。
「先生、どいて!」
呪文を完成させたケンが、大きく膨れ上がった炎の塊をアイにぶつけた。
火傷したらどうするつもりだ、という言葉を、私は何とか飲み込む。
しかしそれは無意味な心配だった。
ケンの魔法でも、氷は溶けるどころか、表面に水滴一つ生まれなかったからだ。
「我が鱗より赤きもの……」
「落ち着きなさいよ」
こうなったら呪文を使うしか無い。そう考えて詠唱を始めた私の尻尾を、ニナがぐいと引っ張った。
「そりゃあ流石に溶けるだろうけど、アイが死んじゃうよ」
「だが、このままじゃ……!」
全身を氷に覆われて、呼吸なんて出来るわけがない。
確か窒息は、五分以内に酸素を供給しないと脳にダメージがいって後遺症が残るはずだ。モタモタしている暇は全く無い。
「多分、このままなら大丈夫。これ、木が枝葉を落としてるのと同じ状態よ」
だが焦る私とは対照的に、ニナは憎らしいくらいに冷静だった。
「……冬眠してるってことか?」
「そーそー、それ。トウミン。少なくとも、すぐ死ぬとかそういうことはないから」
ニナの言葉といつもの飄々とした態度に、私は何とか落ち着きを取り戻す。
「でも、何でそんなことがわかるんだい?」
「え? 見ればわかるでしょ?」
……どうやら、後でまたニナから詳しい話を聞く必要がありそうだ。
「とは言えこのまま春を待つってわけにも行かない。一体どうやったら、この氷が溶けると思う?」
「さっきの奴を倒せば、勝手に溶けるんじゃないかな」
恐らくそうだろう、という予感は私にもあった。
それくらいしか思いつかないと言った方が正しいが。
「倒すと言っても、跡形もなく消しても死なないんだ。どうしたら……」
「死ぬまで何度も燃やせばいいんじゃない?」
「……そんな単純な問題だろうか」
雪というのは要するに、凍った水だ。水は蒸発しても気体になるだけで、消えるわけではない。ジャックフロストが無限に再生するのもそのせいだろう。
砕いたって切り裂いたって無駄だし、炎も無効だとしたら、一体どうすればいいのか。
「くそっ、すまねえ兄貴! 見失っちまった!」
私が思い悩んでいると、息を切らしてダルガが戻ってきた。
「森の外に出て行ったことまでは、わかるんだが……」
この村は四方を森に囲まれている。
と言うよりも、森を切り開いて作ったという方が正しいだろうか。
その森の更に外側に広がるのが、広大な草原だ。
「……厄介だな」
森と草原なら、どう考えても森の方が隠れやすい。
しかしそんな常識は、私達の間では通用しなかった。
森の化身、木々の申し子、ニナがいるからだ。
木の上に登ろうが、茂みの中に隠れようが、土に潜ろうが、それが森の中であればニナの手の平の上に近しい。
だが広大な草原を探すとなると、彼女の力は当てにできない。
空から探すにしても、昼ならまだしも夜中の今となるとほとんど絶望的だ。
原始時代の夜は恐ろしく深く暗く、上空からでは何一つ見えない。
「朝を待つしかないわ。アイの事は私が見ているから、あんたは寝なさい」
「しかし……」
朝になって、まだジャックフロストが草原にいるとは限らない。
いや、既にもっと遠くまで行ってしまっていてもおかしくはないのだ。
こんな状況で大人しく寝られる気など、全くしなかった。
「森にいないのは確かなの。だったら、探せる可能性があるのはあんただけ。日が出たら叩き起こしてあげるから、さっさと寝て体力を温存してきなさい」
ニナが口にするのはぐうの音も出ない程の正論だ。
しかし、それに従おうと言う気持ちは全く起こらなかった。
氷の柱に囚われたアイの姿を、じっと見つめる。
両腕を左右に伸ばし、彼女はまるで磔刑に処されたキリストのように目を閉じている。あの時、彼女は私を庇ってこうなった。そんな彼女を置いてのうのうと眠ることなんて、とても出来そうにない。
とはいえ、ニナの言うことが正しいというのもまた、私はわかっていた。
手がかりなど何もない以上――
「……あるじゃないか」
不意に、私は気がついた。
「岩のように堅きもの、されど風のように澄みしもの。影のように冷たきもの、されど光のように眩きもの、汝、水の成れ果てよ。我が声に耳を傾け、その面に汝が主の姿を映し出せ……!」
それはアイを凍らせている氷の柱だ。
私の炎でも溶けない氷は、ただ水分を冷やしただけのものであるはずがなく、明らかに魔法で出来ている。つまり、ジャックフロストと強い結びつきを持っているということだ。ジャックフロストの一部と言い換えてもいい。
かつて私が自分の鱗を通じて声をダルガに送ったように、かつて一つだったものには魔法的な結び付きがある。丑の刻参りの藁人形に埋める髪の毛や爪だとか、好きな人が着ていた制服の第二ボタンだとかがそれだ。そういうものを、呪物と呼ぶ。
魔法というのは基本的に、目に見えない範囲にあるものにはかけることが出来ない。魔法には認識が必要で、見えないものは認識できないからだ。
しかし、呪物に関係しているものになら、目で見えていなくとも魔法で干渉できるのだ。ニナがこの広い森を全て監視できるのも、森の木々が彼女にとっての呪物だからだ。
「映った!」
魔法そのものを呪物として扱うのは初めてだったが、私は探知に成功した。氷柱の表面に映しだされたのは、山を登っていくジャックフロストの姿。草原を更に南に抜けた先の山であることまでが、私には手に取るように伝わってきた。
「ニナ、これを」
私は一枚鱗を外して、ニナに手渡す。
「やり方はわかるね? 奴の居場所を、私に伝えてくれ」
私が追いつくまで、ジャックフロストが大人しくしてくれているとは限らない。ここで奴の動向を追い続ける人が必要だ。ニナなら、私と同じことくらい簡単にできるだろう。
「……わかった」
頷く彼女を確認し、私は翼を大きく広げる。
「待って!」
それを、ケンが呼び止めた。
「先生、俺も連れてってくれ!」
ケンの言葉に、私は一瞬逡巡する。
彼が私に反目しているからではない。
確かに彼は強力な魔法使いだが、実戦経験は非常に乏しいからだ。
一方で、ダルガは肉体強化しか使えないものの、その力は甚大だ。
何より戦うという行為に慣れている。
私は竜といってもまだ精々三メートル程度の大きさでしかない。
乗せられるのはどちらか一人だ。
山の上なら私はそれほど周囲の被害を気にすることなく力を振るえるし、炎の威力だけを考えれば私のそれはケンよりずっと高い。連れて行くならダルガの方が良い気がする。
「ケン、悪いけど……」
「兄貴、坊主を連れて行ってやってくれ」
だが意外にも、ダルガ本人がケンに助け舟を出した。
「俺じゃあ精々足止めくらいしか出来ねえ。あの野郎にゃ、俺より坊主の方が役に立つだろうよ」
「オッサン……」
「そんなに歳離れてねえよ。お兄さんって呼べ」
二人は軽く拳を合わせ、ニっと笑い合う。
良好な関係を築けている二人の間が、少しだけ羨ましかった。
村人たちは私を尊敬してくれるし、親しんでくれてもいる。だがやはり、私は人ではなく、そこには一定の距離があった。
関係なく接してくれるのは、ニナくらいだ。
とは言えそんなことを言っている場合でもない。
「わかった。しっかり捕まれよ、ケン!」
「おう!」
ケンを背中に乗せて、私は夜の空に一気に飛び上がった。
「う、わ、あ……!」
背中の上で、ケンが悲鳴を上げる。
「すげえ……!」
どうやらそれは悲鳴というより、感嘆の声だったらしい。
そういえば、彼を乗せて飛ぶのはこれが初めてだ。
空を飛べる程の魔法使いもニナとアイだけだし、ここまで高い光景を見るのは初めてなのだろう。
「……これが、先生がいつも見ている景色なんだな……」
ケンはぽつりと、そんなことを言った。
「景色も何も、なんにも見えないけどね」
夜の空ははっきり言って真っ暗だ。
さっきまで見えていた月もすっかり雲の影に隠れてしまった為、本当に何も見えない。辛うじて、下の方にわだかまる黒い影が地表だろうということがわかるだけだった。
私は墜落しないように高度に気をつけながら、山の方向を目指す。
すると真っ暗な空に、ぼんやりと何かが浮かびでた。
こんな夜に、空の上に現れるものなどそうそうあるものではない。
見間違いかと何度か瞬きし、じっと闇に目を凝らす。
闇の中に現れたのは。
ダルガの、逞しい、尻だった。
「ぶっ」
あまりの事に、私は思わず炎を吹き出す。
『ん。その様子だと、上手くいったみたいね』
同時に、ニナの声が聞こえてきた。
「ニナ、なんだいこれは。一体どういうこと?」
目の前のダルガの尻は、空を飛ぶ私からつかず離れず居座り続ける。
ダルガに思うところは全く無いのだけれど、正直、非常に嫌な気分だった。
『いちいち口で説明するの面倒臭いでしょ。だから、私の見てるものを、あんたにも見せてる』
ダルガの尻が視界から消え、次に出てきたのはアイの胸元のドアップだった。
「見てるものを、って……どうやって?」
『さあ。やってみたら出来た』
この天才はこれだから!!
『で、これ。さっきの奴は……』
つい、と指が現れた。多分、ニナが見ている彼女自身の指なんだろう。
『山のこの辺にいる』
「……胸で例えるのはやめなさい」
ニナが指差したのは、アイの豊かな膨らみの頂点だった。
『わかりやすいじゃない』
確かにものすごくわかりやすいけれども。
というか、ニナ、アイの胸を凝視し過ぎではないだろうか。
私の目の前にある幻影が彼女の見ているものとするなら、殆ど胸しか見てないんだが……
「とにかく、ありがとう。向かうべき方向はわかった」
『今は動いてないみたいだから、そのまま進んで大丈夫よ。動いたらまた知らせる』
その言葉を最後に幻影はぷつりと切れた。
「先生、あれじゃないか?」
不意に、ケンが声を上げる。
「あれって?」
「ほら。あれだよ」
どうやらどこかを指差しているようなのだが、振り向いてその指を見るわけにもいかない。だが、山まではまだそれなりに距離がある。
ぼんやりと山の輪郭が見えるくらいで、この距離からジャックフロストを見つけられるとは思えなかった。
「どれのことを言ってるんだい?」
「だから、あれだって! 見えないの?」
以前行ったことがあるから、山までの距離感は正確に掴んでいる。
そこから大きく動いたならニナから連絡があるはずだ。
「ほら、あんなに近くにいるのに!」
「近くって、ケン。私は結構な速度で飛んでいるんだよ? 近くにいたというなら、とっくに追い越してしまっているはずだよ」
比較できるものが何も無い上に、背中には強い風が当たらないよう魔法で守ってもいる。そんな状態だからゆっくり飛んでいると錯覚したのだろうが、実際は時速五、六百キロは出ているはずだ。
「でも、ずっとあそこに……」
「今、目の前には山しか……」
私たちは同時に、口を噤んだ。
気付いてしまったからだ。
互いの認識の合っているところと間違っているところ。
そして、ニナの情報が誤っていた事に。
ジャックフロストは山の上にいるんじゃない。
二つ並んだ山の片方が、ジャックフロストだった。
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