多分人間だ
目を覚ましたのはベッドの上だが自分の部屋ではない。
ベッドの形状から見て、そこが病室であると把握するのは容易なことだった。
傍らには比奈がいて、安堵の表情を浮かべている。
「やっと目を覚ましましたね、心配させないでください」
「比奈か。ここは病院、だよな?」
「そうです、病院ですよ……って、あれ? どうしてヒナの名前を知ってるんですか?」
知ってるもなにも、化け物に操られているとき自ら名乗っていたはずだが……
「まさかなにも憶えていないのか?」
おそるおそる尋ねると、比奈はほっぺを膨らませてむすっとした表情で淡々と答えた。
「もちろん全部憶えてますよ。目が覚めたらあなたの家にいて、それで化け物に襲われて、と思ったら化け物が退治されて、突然あなたが倒れて、救急車を呼んで……それからも大変だったんですよ?」
どうやら操られていたときの記憶は全くないようだ。
比奈は目に涙を浮かべながら続ける。
「お医者さんが言ってましたよ。あとちょっとでも治療が間に合わなかったら手遅れだったかもしれないって……それに見たこともない毒で、解毒するのにかなり苦労したそうですよ?」
化け物が盛った未知の毒、医者はよく解毒できたものだ。
それにしても、少しでも治療が遅れていたら手遅れだったということは、比奈が救急車を呼んでくれなかったら今頃死んでいたのかもしれない。そう考えるとぞっとした。
比奈はというと、とうとうこらえきれなかったのか、つぶらな瞳から大粒の涙をポロポロと溢しだす。
相当精神にきていたのかもしれない。
無理もないだろう。おぞましい化け物の姿を目撃し、そのうえ目の前で人が死にかけたのだから。
比奈を少しでも早く安心させてやろうと、なるべく優しい口調で言葉をかける。
「心配かけたな……でも、もう大丈夫だからそんなに泣くなよ」
言ったあと、比奈はスカートのポケットから目薬を取り出し、手慣れた動きで両目に雫を垂らす。
そして俺のほうを平気そうな顔で見ながら、
「あ、これただのドライアイです」
「紛らわしいわ!」
思わずここが病院であることを忘れて声を張ってツッコミを入れた。
比奈は潤った目をパチパチさせると、それまでの流れをぶった切るように追求を始める。
「ところで、なにが起きたのか説明してくださいよ。あの化け物はなんなんですか? どうしてヒナは月読センパイの家にいたんですか? センパイはなにか知ってるんですよね?」
まるでマシンガンのように疑問を次々とぶつけられたが、それにどう返すべきなのかしばらく回答に悩む。
ひとまず比奈が化け物に操られていたことを伝えた。しかし、体の中に寄生していたとはもちろん言えず、いわゆる洗脳のようなものだと嘘をつく。本当のことを話せば大抵の人間は気分が悪くなるどころでは済まないだろう。
そして俺を襲うために比奈を利用して近づいたこと、化け物が毒を盛ったことを伝えた。
俺の話を全て聞き終えた比奈は、
「なるほど、あまり信じたくない話ですね。でも、もし本当にいま話したとおりのことが起きたのだとしても、どうしてヒナを操る必要があったのかが気になります……だって洗脳できるならヒナを操らずに直接センパイを操ったほうが手っ取り早いです……」
悩ましげに考え込む。
見た目は子供だが痛いところを突いてくるではないか。
彼女を傷つけないように一箇所だけうまく誤魔化したつもりだったが、このままではボロが出てしまう。
いくつか言い訳を考えるが……
『化け物は真っ向から俺に挑んでも勝てないと踏んでいた』
『女の子しか洗脳できない、または俺を洗脳できない理由があった』
など、見苦しい言い訳のような根拠しか思い浮かばなかった。実際言い訳だが。
しかし、こちらの焦りなど意味なかったようだ。
比奈は立ち上がると、
「でも、今日はもう遅いので一応納得したことにして帰ります。また今度じっくり続きを聞かせてもらいますよ? 二年一組の月読センパイ!」
可愛らしくウインクをしてから、そのまま病室を出ていく。
が、慌ててそれを呼び止めた。
「待ってくれ」
すると閉じたばかりの扉がもう一度開き、比奈が顔を覗かせてきたので、そのまま言葉を続ける。
「お前……俺が目を覚ますまで、ずっと付き添っててくれたのか?」
それに比奈は即答する。
「違います。さっきまでお医者さんから事情聴取を受けてたんですよ。それでお医者さんからそろそろ月読センパイが目を覚ますから見にいってください、って言われてしばらく待ってたんです」
「事情聴取……か。化け物に襲われたってなったら、それも仕方ないか。お前も大変だったな」
「それはお互い様ですよ。それじゃあ、また明日学校で会いましょう」
彼女は笑顔で言い残し、忙しなく帰っていった。もう夜遅いが比奈は大丈夫なのだろうかと少し不安になりつつも、次の瞬間には静まり返った病室で別の不安に駆られていた。
「あいつなんでクラスまで把握しているんだ……まさか俺のクラスまで乗り込んできたりしないよな」
一人げんなりと呟くが、それはいらない心配だ。
実を言うと俺の体は麻痺している。
体を起こすことはできるが手足に至っては感覚がほとんどなかった。これでは学校どころではない。ひょっとすると一生体の自由が利かないかもしれない。
俺はため息をつく。もはや人生の全てが終わってしまったと決めつけたみたいな深く長いため息を。
と、そのときだ。
病室内に明らかに怪しい男が堂々と入ってくる。
全身黒スーツに身を包んだサングラスをかけた細身の男で、髪はオールバック。年齢は二十代後半といったところだろうか。
その男が告げる。
「もう目を覚ましたんですね、これは興味深い……おっと、そんなに心配しなくてもあなたの体は明日にはちゃんと動きますよ」
怪しい。見るからに怪しい男だ。喋り方まですごく胡散臭い。
「あんた……」
誰だ。と言おうとするが、全て言いきる前にその男が答えを返す。
「私は
どこをどう見たら医者に見えるのかはさておいて、医者が患者を助けるのは当然のこと。なんて言うのが医者だと思っていた俺にとって、こんな恩着せがましい医者は斬新だった。
「えーっと……とりあえず、ありがとうございました」
この胡散臭い男に礼を言うのは少し抵抗があったが、一応礼を告げた。
だが、朝倉と名乗った医師は眉をひそめた。
「命を救ったのに随分と軽いノリですね。なんですかその顔は? 私が医者だってこと信じていないでしょう?」
事実、信じきってはいない。
こんな医者はおそらくこの世界を隅から隅まで探してもいないと思われる。しかし、胸にはきちんと名札がついており、この病院の医者であることに偽りはないように見える。
それにこの人がいなかったら俺はとっくに死んでいたかもしれない。
謝罪の念も込めて改めて礼を告げた。心からの礼を。
「いえ、信じています信じています……命を救ってくれて、本当にありがとうございました」
「どういたしまして……まあ、実は治療なんてしてませんがね」
軽い口調でそう言ってニヤリと笑う。
治療をしていない、確かにそう聞こえた。もしかしたら聞き間違いだろうか。
だが、朝倉は軽いノリのまま続ける。
「いやー驚きましたね。まさか毒が勝手に解毒されるなんて驚きです。でも、本当に驚いたのはそこじゃないんです……どうやらあなた、ピノテレスを素手で倒したそうですね?」
ピノテレス……それはおそらく俺を襲ってきた化け物のことだと思われるが、朝倉がその名前を知っているのはおかしい。
不信感をいだきながら、
「なんで……」
なんでその名前を知っているのか。と言おうとするが、もたもや最後まで言いきる前にそれを遮って朝倉が答える。
「なんでピノテレスのことを知っているのか? そんな顔をしていますね。実は私、医者よりも悪魔祓いのほうが専門なんです」
「悪魔祓い?」
「下級悪魔とはいえ、寄生型の悪魔を素手で倒すなんてとても人間とは思えませんね。あなた、一体なんなんです?」
朝倉は先ほどまでとは違う殺気のようなものを放ちながら、サングラス越しに俺を睨みつけてくる。
むしろこっちのほうこそ朝倉の言っていることに対して聞きたいことだらけだったが、俺は朝倉に気圧されて思っていることを正直に答えた。
「人間だ……多分」
自分自身でも正直わからなくなっていた。
あの化け物──ピノテレスと対峙したとき、体が黒く変色したり、皮膚が硬化したりと、到底人間とは思えない現象が起きていたからだ。もしかしたら本当に人間でなくなっているかもしれない。
こちらがそんな不安をいだいていると、朝倉はいつの間にか持っていた手術などで使われるメスを突然喉元に突きつけてきた。
「あなたがもし変な真似をしたら、容赦なく私が殺します」
本気だ。本気で俺を殺すつもりだ、この男は。
朝倉から尋常じゃない殺気を感じ、冷や汗を滝のように流す。
「い、いや、俺人間です。別に化け物に体乗っ取られたりなんてしていません」
震えながら言うと、朝倉はニッコリと笑う。
「知ってますよ。あなたはどこからどう見ても、なんの取り柄もないただの人間です」
地味に失礼なことを言われた気がするが、朝倉がメスを胸ポケットにしまったのを見て緊張が一気にほぐれた。
そして朝倉はさっきまでの胡散臭い口調に戻る。
「まあいいでしょう。今日はゆっくり寝てください……続きはまた次の機会に聞かせていただきます」
それを言い残し、朝倉は病室を後にした。
見た目は全然医者に見えない奴だったが、中身も到底医者とは思えない。
思わず『お前絶対医者じゃないだろ』と口に出しそうになったが、それは心の中にしまっておいた。
沈黙する病室。
「確か明日には体が動く、って言ってたな……なら寝るか」
とりあえず寝よう。
今日起きたことを振り返りながら瞼をゆっくりと閉じる。疲れていたからか、数分後には深く沈み込むように眠りについていた。
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