イストリアの魔術師
ベッドマニア
慣れ親しんだ感触に違和感を覚え、眠りから覚める。
自分の部屋だ。そしてもう朝だ。
確か昨日は寝心地のいい病院のベッドで寝たはずだが……
ひょっとして夢なのでは? と、淡い希望をいだいて部屋を一瞥するが、
「くそ……現実だったか」
割れた床にボロボロに砕けた壁、そして卓袱台に残る褐色の血痕。昨日の出来事が夢でも妄想でもないことを証明していた。
ふと卓袱台に見覚えのない紙切れが置いてあることに気づき、それに手を伸ばす。
誰かの書き置きのようだが、結構長々と文字が綴られており、声に出しながらその文章をおもむろに読み上げる。
「えーっと、なになに……退院おめでとうございます。誠に勝手ながら手続きをこちらで済ませ、お体をご自宅まで運んでおきました。ついでに損壊した壁などの補修工事も私のほうで手配しております。なお、医療費や工事費は全額免除になりますが、あなたの今後の態度によっては全額負担に変更となる場合がございます。ご了承ください。また、今回の件については他言無用でお願いしますね。担当医の朝倉より」
これは紛れもない脅迫文だ。
あの胡散臭い医者の考えそうなことではあるが、この文章を警察に届け出た場合どうなるのか。立派な脅迫罪にあたる気がするが……
いや、考えるのも面倒なのでやめておこう。実際、医療費と工事費を免除してもらったのはとてもありがたい。
もうあの医者とも関わるつもりはないわけだし、昨日のことも、この脅迫文のことも忘れて、ひとまず学校に向かうとしよう。
平凡な学園生活に戻る。それはなんてことない簡単なこと。
そのはずだ。
だが、俺の頭は昨日の出来事でいっぱいだった。
特に自分の体が岩のように硬化した現象が一番気がかりで、通学中も、校門を通る際も、教室に入ったあとも、そればかりを考えていた。
≪境界≫が起きてから、世界各地では魔術師や超能力者といったものが現れるようになったらしいが、もしかすると自分もそのうちの一人になったのかもしれない。
だとすればその力を使いこなせるようになるべきだろう。
もはや授業中だろうが関係ない。化け物を倒したときに発動させた力をもう一度使ってみようと試みる。
右腕を頑丈に。ただそれだけを考えた。
すると、右腕が硬化した。
あのときと同じように黒く変色し、表面が少しポリゴンのように角ついている……意外にもあっさり発動できてしまったことに驚きを隠せない。
特に難しいことも考えず、ただ抽象的なイメージだけで容易く発動できる。これは超能力をある程度制御できていると言えるが、これでも完全とは言いきれない。
本当なら右腕の一部だけを硬化させるつもりが、右腕を丸々黒曜石のようなものに変化させてしまった。
もしこの変化した腕を他のクラスメイトに見られたら非常に不味い。というか、すでに見られたかもしれない。
すぐに元に戻さないと……と、そう思った矢先だった。
引き裂かれるような痛みに襲われる。
そして教室内の音を全てかき消すほどの絶叫とともに、椅子から転落してしまう。
右腕が死んだ。
床の上でのたうちながら、ただただ激痛に悶絶するしかない。
右腕はすでに黒色でもなければ、ポリゴンのように角張ってもいない。真っ赤だ。
硬化していたはずの部分は全て皮が剥げ、教室の床に血が滴り落ちるくらい血が流れ続ける。
隣から音羽が声をかけてくる。
「御言くんどうしたの、大丈夫?」
もちろん大丈夫じゃない。どう見たって大丈夫じゃない。
立ち上がれないほどの激痛が右腕全体を覆い、ただ苦痛に顔を歪ませることしかできない。
なぜ二日も連続でこんな思いをしないといけないのか……あまりの痛みに意識が飛びそうになっていた。いや、何度か意識が飛んだかもしれない。
運ばれた覚えもないのに、いつの間にか保健室のベッドの上で横になっていた。そして、どこかで聞いたことのある声がすぐそばから降ってくる。
「やれやれ、よっぽどあなたは医療用のベッドが好きとみえますね」
声のするほうへ目を向ける。やはりというべきか、そこにはサングラスをかけた黒スーツの男が突っ立っていた。俺はつい痛みを忘れて声を荒立てた。
「朝倉! なんであんたがここに」
「朝倉先生と呼んでほしいものです。ずっと思っていましたが年上に対する接し方が全然なっていませんね」
「いや、だからなんで保健室にあんたが……」
そこで忘れていた痛みに襲われ悶絶する。それを見て朝倉は肩をすくめる。
「どうやったら教室であんな大怪我を……教室でなにがあったんです?」
声のトーンがどこか楽しそうに聞こえるのはさておいて、教室でなにがあったのか、むしろ知りたいのは俺のほうだが、一応理解している範疇のことは全て朝倉に話すことに。
「昨日の化け物を倒したとき、腕が黒曜石みたいに変化したんだが、それを教室で再現しようとしたら……」
と、そこまで説明したところで朝倉がほくそ笑み、
「なるほど、やはりそうでしたか」
「なんだよやはりって……俺の腕に一体なにが起きたんだ?」
もう一度自分の右腕を見ると、信じられないことが起きていた。
なんと右腕はほとんど治っていた。
表面は少し荒れているものの、血で真っ赤だったはずが色白の肌へと戻っている。
信じられないことだが、全治何か月もかかるであろう怪我が、その日のうちに完治の一歩手前と言える状態だ。
思わず朝倉を──闇医者にしか見えないこの医者を問い詰めた。
「なんで、もうここまで治っているんだ。この腕、本当に俺の腕なのか? どんな荒療治をやったんだ?」
それに朝倉は落ち着いた口調で返す。
「そんな心配なさらずとも、私はなにもしていませんよ」
そう言われて、そうかなにもしていないのかと一安心…………できるわけもなく、
「じゃあ誰が俺の腕を治療したんだ?」
「あなたです」
朝倉は俺の腕を治療したのが俺自身だと即答した。
それが言葉通りの意味なら、自然治癒ということになるだろうか。
しかし、それは通常では考えられない。
朝倉が続ける。
「月読くんはおそらく悪魔の力を吸収しています。悪魔には肉体を硬化させたり、高速再生できる者がいるので、その力に起因しているのでしょう。もしかすると月読くんは他者の能力を複製する力を持っている可能性がありますね」
能力の複製。それならば説明がつく。
自分の体が黒いポリゴン状の物質に変化するようになったのは、昨日の化け物──ピノテレスという悪魔が体の中に入ってきたあとのことだ。
そういえばゲームのキャラクターにも敵を食べて能力をコピーする奴がいたような気がするが、それと似たようなものだろうか。
しかし、一つだけ不明な点があった。
「じゃあ、なんで俺の右腕はこんな悲惨なことになったんだ? 力が暴走したとか制御しきれなかったとかそんなのじゃないよな?」
「腕が損傷した理由ですが、下級悪魔は光に弱いので一定の光量を浴びると体の組織が破壊され、消滅します。きっとその性質までも再現した結果でしょう」
「光を浴びただけでこんなになるのか? でも昨日はならなかったぞ、俺もあの悪魔も」
「きっとあなたの部屋の照明は光が弱く、悪魔への影響はほとんどなかったのでしょう。まあ、できるだけ明るい場所での能力使用はさけたほうがいいですね。万が一にも直射日光を浴びていたら、あなたの右腕は跡形もなく消滅していたでしょう」
朝倉はニヤけ顔で楽しそうに言うと、そのまま保健室から出ていこうとする。
「待ってくれ!」
それを俺は呼び止めた。
まだ聞きたいことが山ほどあったからだ。
「いくつか聞いておきたいことがあるんだが、聞いていいか?」
朝倉は立ち止まり、少し間を置いてから答えてくれた。
「そうですね、あなたも色々あって混乱していることでしょう……大サービスです。知りたいことがあればなんでも言ってください。三つだけ質問を聞いてあげます」
「ランプの魔人かよ」
反射的に突っ込んでいた。だが、たった三つでも十分だった。それだけで知りたいことは全て聞き出すことができる。
意を決して一つ目の質問をした。
「なら聞くが……あんた、ただの医者じゃないだろ。昨日悪魔祓いが専門って言っていたけど、まずあんたの正体を教えてくれ」
「嫌です」
即答だった。気持ちのいいくらい即答だった。初めからその質問がくるとわかっていたかのように、その返答は早かった。
もちろんそんな回答に納得できるわけもない。
「さっきなんでも聞いていいって言っただろ!」
右腕に痛みが走るほど、声を張り上げる。
すると朝倉はニヤリと笑った。これまた待ってましたと言わんばかりの反応をしてきた。
そして彼の口から出た言葉は、
「ええ、私は質問を聞くだけで、その質問に対する答えを返すかどうかは私が決めます……さあ二つ目の質問をどうぞ」
それはまるで子供の屁理屈のようだった。
質問の内容によっては残されたあと二つの質問も無下にされる可能性が出てきた。
朝倉の言動に不安と苛立ちを覚えながらも、二つ目の質問を投げかける。
「あんたが悪魔って呼んでいるあの化け物はなんなんだ? あいつらが出現したせいで二十日町が封鎖されたんだよな?」
二十日町に悪魔が出現し、それによって封鎖されたのは間違いない。
問題はなぜ出現したのか、そして悪魔とはそもそもなにか、である。
悪魔祓いが専門だと言っていたので、朝倉の回答には期待が高まっていた。
「そうですね、悪魔とは一言で言えば人ならざる者です……まあ、私もよくわかっていません。どこで生じ、なにを目的としているのか、全くの謎ですね。そして二十日町が封鎖された理由も多分悪魔のせいでしょう」
聞くだけ無駄だった。
前半はシリアスな口調で答えていたが、後半は完全に剽軽な口調。
そしてなにより、聞かずともわかりきっているようなことしか答えていない。
しかも朝倉は、
「では、お話は以上ですね。お大事になさってください」
それを言い残して立ち去ろうとするが、俺は再びそれを引き止める。
「ちょっと待て、そんな説明で納得できるかよ! それにまだ三つ目の質問が……」
まだ三つ目の質問が残っている。そう言おうとするも、朝倉はこちらが最後まで言いきる前に言い返してくる。
「いいえ、もう質問は三つ聞きましたよ。私が何者であるか、悪魔とはなにか、そして二十日町が封鎖された理由……これで三つです」
「ち、違……あれはそういうつもりじゃ……」
しかし、朝倉はこちらの言い分など聞く気もなく、無視して保健室から出ていった。
ひとまず体が黒くなる現象のことだけは説明してもらえたが、やはりどうしても気になる疑問が残されていた。
なぜこの学校に朝倉がいたのか……全く謎のままである。
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