小さな訪問者

 自分には家族がいない。

 記録によると以前は二十日町で両親と三人で暮らしていたそうだが、≪境界≫が起きたあと両親と思しき人物は目撃されておらず、行方不明のまま。

 引き取ってくれる親戚もいなかったので、現在は生活支援を受けながらのアパート暮らしをしている。

 本日、月見ヶ丘高校の入学式を終えた俺は、帰宅してから妙な孤独感に襲われていた。

 さっきまで自分と同じ年代の少年少女が教室や廊下でガヤガヤと騒いでいたのに、いまは空虚な部屋で一人ポツンと立ちすくんでいる。

 この部屋には必要最低限の家具しかなく、卓袱台とベッド、食器棚や冷蔵庫があるだけ。あとは小さなテレビと本棚もあるが、ほとんど活用していない。

 男子高校生の部屋にしてはちょっと寂しすぎるこの部屋がより一層孤独感を増幅させていた。

 こんなときは寝るのが一番だ。

 早いところ日付を変えてしまって学校に行く。そう考え夕食すら摂らずに、寝心地の悪すぎる硬いベッドに寝転がっては眠りについていた。

 どれくらい時間が経っただろうか。

『ピンポーン』

 ありきたりな安っぽいインターホンの音が鳴り、慌てて飛び起きた。

 時計を確認すると夜の九時。そんな時間に誰が来たのか見当もつかない。

 寝起きで気怠い体を持ち上げ、トボトボと玄関へ向かう。

「はいはーい、いまあけまーす」

 機嫌の悪さを発散するように挨拶を吐きながらドアをあける。

 瞬間、外にいた小学四年生くらいの女の子がぱっと明るい笑顔を見せてきた。

「こんばんは、月読御言さんでしょうか?」

 いかにも俺は月読御言だ。

 だがこいつは誰だ。

 茶髪にセミショート、ピンク色のブカブカのセーラー服を着た素直で明るそうな雰囲気の女の子。

 着用している制服に見覚えはないが、胸にはとても見覚えのある校章がついているので、この子も同じ月見ヶ丘高校の生徒ということになる。

 しかし、この身長体躯からはとても高校生には見えない。

 思わず不審者を見ているような訝しむ態度をとってしまう。

「そうですけど、君は?」

 それにセーラー服の少女が声を躍らせて答える。

「実は私、月読御言さんの妹で比奈っていいます」

 妹を名乗る少女はこちらを見上げてふんわりと笑う。

 言われてみると、この顔はどこかで見たことがある気がする。だが、自分に妹がいるという話は聞いたことがない。

 以前戸籍を調べてもらったときも月読比奈なんて人物はいなかった。

 俺は疑念をいだきながらも、愛嬌ある素振りを見せる比奈に笑顔で返す。笑顔というより苦笑いになっていたかもしれないが。

「俺に妹がいたなんて初耳なんだが……しかも、なんでまたこんな時間に」

「話すと長くなるのでとりあえず上がっていいですか? 今日はお兄さんのためにクッキーを焼いてきたんですよ」

 そう言って比奈という少女は手に持っていた紙袋を軽く持ち上げて見せてくる。

 さすがにそこまでされて追い返すわけにもいかず、

「ああ、そうだな。とりあえず上がってくれ」

 ぎこちない返事とともに、彼女を部屋に迎え入れた。

 俺と比奈は卓袱台にそれぞれ向かい合って座り、さっそく比奈が俺のために作ってきたというクッキーを勧めてくる。それもすごく不安そうな顔で。

「これ早速食べてみてください……一生懸命作ったんです」

 これで万が一にも不味かった場合、意地でも『おいしい』と言わないと比奈が泣き出してしまいそうな顔をしていた。

 たとえどれほど不味くても絶対に顔を歪めてはダメだ。自分にそう言い聞かせながら、比奈が作ってくれたクッキーを口に運ぶ。

 しかし、比奈の作ったクッキーはお世辞抜きで本当に美味しく出来上がっていた。

「おいしい! これ、すごくおいしいよ」

 帰ってきてからまだなにも食べていなかったこともあり、ひとくち、さらにひとくちと、次々にクッキーを口の中に運んでいく。

 その様子を見て比奈は大きく口をあけて喜んでくれた。

「よかった、お兄さんが喜んでくれて私嬉しいです」

 確かにクッキーは美味しい。

 美味しいのだが、それよりも比奈がなんでいまさら、しかもこんな時間に訪問してきたのかが気になって仕方がない。

「それより……比奈だっけ? お前は本当に俺の妹なのか? 前に戸籍を調べたときは、月読比奈なんて人物はいな……」

 だが、言葉はそこで途切れ、俺は吐血した。

 突然の事態にただ困惑するしかなく、そんな俺に比奈が心配そうに声をかける。

「大丈夫ですかぁ?」

 しかし、あとに続く言葉とともに比奈から優しさという優しさが消えていく。

「毒入りクッキーなんかを勢いよく食べちゃって……まぁ、安心してくれよ。殺すつもりはないからさぁ」

 あとになるに連れ、比奈の声音はお淑やかな少女から低い乱暴な声へと変化し、表情も人を見下すような下劣な目に変わっていた。

 その豹変ぶりに、ただ困惑するしかない。

 人懐っこそうな女の子の面影はもはや一片もなく、目の前にいるのは狂気そのもの。

 なおも血を吐き続けている俺を、比奈はまるで汚物でも見ているかのように見下ろし、苦笑しながら言う。

「いやぁ、ニンゲンに愛想あいそを振りまくのは息が詰まるねぇ。息苦しすぎて呼吸困難になって死ぬかと思ったよ」

 『ニンゲンに』の部分だけやけに忌々しそうに強調した口調だったが、まるで自身は人間ではないと言わんばかりだ。

 盛られた毒のせいで胃の辺りが握り潰されるように痛むが、どうにかそれをこらえながら声を絞り出す。

「お前、誰だ……妹って嘘だろ」

 すると奴は狂ったように笑う。

「ああ、そんなの嘘に決まってるだろ? ボクの宿主の名は桜野比奈さくらのひな、オマエと血の繋がりなんてないよ」

 次の瞬間、比奈の口から黒い塊がグニャグニャと形をくねらせながら吐き出され、それと同時に比奈の体から力が抜け、人形のように床に崩れた。

 口から吐き出された黒い塊はボキボキと鈍い音を鳴らしながら、徐々に黒い人型へと変貌していく。

 その姿はまさに化け物と呼ぶに相応しいもので、全身は木の枝のように細く、手足はグニャリと捻じれ、表面は黒く淀み、背中からは枝分かれした触手が無数に飛び出ていた。

 化け物は真っ赤な双眸を鋭く光らせ、甲高い声を発する。

「そしてもちろんこのボク、ピノテレスもオマエの妹なんかじゃあない。それにしても、ほんっと久しぶり。あのときは時間がなくてごめんねぇ」

 あのとき。

 化け物はいま確かにそう言った……

 確信した。目の前にいるのは≪境界≫の日に遭遇した黒い沼だ。以前と形は違うが、黒く淀んだ体や背中から生えた触手を見る限り、そうとしか思えない。

 なにより化け物自身が『久しぶり』と口にしているのだ。まず間違いないだろう。

 毒のせいで胃に激痛が走り、筋肉の伸縮が明らかにおかしかったが、それでも命の危機から逃れるために立ち上がり、できるだけ防御しやすい体勢をとる。

「お前がその子を操っていたのか? その子は無事なのか?」

「こんなときに他人の心配ですかぁ、妹想いの兄貴だねぇ」

 化け物は相変わらず見下したような態度で狂った笑い声を上げ、さらにこう続ける。

「心配しなくても無事だよ。オマエへの寄生が完了するまでは念のため生かしておかないといけないからね」

 その言葉から大体は理解した。

 まず、このピノテレスという化け物は生きた人間にしか寄生できない。そして、俺が奴の寄生を許してしまうということは比奈を殺してしまうことを意味する。

 そしておそらく毒を盛ったのは俺を殺すためではなく、弱らせるためだ。確実に肉体を奪えるように。

 まさしく奴の目論見どおり、俺の体はまともに動かない。

 この弱りきった姿を見てピノテレスは笑う。

「抵抗するだけ無駄だよ。オマエの体は必ず頂く……にしても、オマエの中は居心地よさそうだ」

 刹那、触手がこちらに向かって伸びる。絶対に躱さないといけないことは理解していた。が、毒で弱った体では躱すことなどできず、いとも容易く捕らわれてしまう。

 四肢をピクリとも動かせないほど触手が全身に巻きつき、その締めつけによる痛みで大きく口をあけて苦悶の声を漏らす。

 それを化け物が見逃してくれるわけもなく……

「今度こそ頂くよ、その体を」

 ほんの一瞬のあいだに口の中へと侵入された。

 口当たりはとても硬い。が、喉を通るときには水のようにサラサラになっている。味はしないので不味いわけではない。

 こんな状況にもかかわらず、そんな感想が頭の中を巡り、その間も化け物は食道を通って体内の奥のほうへ進んでいく。

 もう化け物に肉体を譲り渡すしかないのか……

 と諦めかけていたら、なぜか数秒も経たずしてピノテレスは再び喉を通り、俺の口から外に向かって流れ出た。はたから見ると黒いゲロを吐いているように見えたに違いない。

 腹の中の異物を全て吐き出すと、床に撒き散らされたピノテレスは再び人型に形を変え、鋭い顔貌でこちらを睨む。

「なんだコイツ、本当にニンゲンなのか?」

 化け物には言われたくないセリフだが、どうやらほかの人間となにかが異なるおかげで体を乗っ取られずに済んだようだ。

 ピノテレスは取り乱したように声を荒げ、

「仕方ない、一旦前のお家に帰るか」

 床に倒れ伏した比奈のほうを向く

 このままではまずい。また比奈の肉体が奪われることになってしまう。

 気を失ったままの比奈を覚醒させようと、必死に大声で叫ぶ。

「おい……」

 それと同時に吐血してしまうが、構わず続ける

「起きろ比奈!」

 だが、ただ声を張り上げただけでは比奈は起きてくれなかった。間もなくしてピノテレスの触手は比奈の体を締め上げ、比奈の体は床に足が着かないくらい持ち上がる。

 そこでようやく比奈が目を覚まし、自分の置かれている状況を知って恐怖に顔を引きつらせる。

 彼女は口元を触手で塞がれ、泣きながら息だけで悲鳴を上げていた。

 その光景を見た俺はある事実に気づく。

 数か月前に遭遇した黒い沼が襲っていた二人の少女。一人は本日再会を果たした清水音羽で、残るもう一人は比奈だったのだ。

 つまり、あのときから比奈は化け物に体を乗っ取られていたということになってしまう。そしてそうなってしまったのは俺の責任でもある。

 あの日……

 黒い沼に比奈が襲われていたとき、俺は恐怖で身動きが取れなかった。いや、身動きを取らなかった。心の中で比奈を見捨てていたのだ。

 だから今度こそ俺は比奈を助ける。

 あのとき見捨ててしまった罪滅ぼしのために、今回は比奈を救い出す。

 そう堅く決心し、激しい吐き気と腹痛に耐えながら飛びかかるように化け物の頭部に拳を放つ。驚くことに手足の動きは快調だった。さっきまではボロボロだった体が息を吹き返している。

 そしてピノテレスの側頭部に拳が決まった瞬間、奴の首がグニャリと不自然に折れ曲がり、同時に比奈を縛っていた触手がほどけた。ピノテレスはそのまま吹き飛ばされるように壁に叩きつけられ、壁には大きな亀裂が入る。

 明らかに人間の身体能力を越えた力に、殴られた本人より俺自身のほうが驚いていた。

 化け物は悔しそうに顔面を歪めて呻く。

「なんだオマエ? 動けないはずなのに、いっちょ前に殴りやがって」

 それからピノテレスは樹木がへし折れる音に似た異音を鳴らしながら丸く膨れ上がり、まるで岩肌のように体の表面がゴツゴツとしたものに変化した。先ほどとは姿が全く異なる。もはや目の前にあるのは触手が生えた大岩だ。

「もういいよオマエ、グチャグチャにしてやんよぉ」

 触手を地面に叩きつけて天井ギリギリまでジャンプし、こちらに向かって跳躍する。

 おそらく躱すことはできない。奴の体が肥大化しているせいで、いまからさけようとしても間違いなく間に合わないだろう。

 だから咄嗟に腕でガードする姿勢を取った。

 そんなことをしても意味がないことはわかっていたが、それでも自分には腕でガードする以外の行動はできないし、なにもしないよりはマシだ。

 とにかくガードすることに全神経を集中させる。

 すると化け物の体が変化したのと同じように、俺の全身も岩のように硬化した。それが自分でも感覚でわかるほど、体は頑丈になっていた。

 そのまま大岩となったピノテレスの下敷きになるも、俺は潰れてなどいない。

 衝撃や痛みは走ったものの、骨も内臓も多分無事だと思われる。

 ピノテレスはというと、もはや怯えた子犬のようになっていた。

「おいおい、オマエやっぱニンゲンじゃないだろ?」

 確かにこいつの言うとおり、俺の全身はとても人間とは思えない体になっている。全身が黒く変色し、ポリゴンのように角張った体。そしてなにより平常時以上の身体能力を発揮できる状態にある。

 俺はその力を存分に振るうように、のしかかったピノテレスを軽々と持ち上げてそのまま床に叩きつけた。

 フローリングは見るも無残に粉砕され、床には大きな亀裂が入り、ピノテレスはその亀裂に収まるようにめり込む。

「何者だオマエ……まさかエゲトの上級悪魔か?」

 言いながら床の亀裂から這い出て、一目散に逃げようとするピノテレス。

 このまま逃がせばなにをしでかすかわかったものではない。この化け物だけは決して野放しにしてはいけないと、残った全ての力を振り絞る。

 力いっぱい地面を蹴り……

 大量に吐血する。

 が、構うことなく渾身の拳をピノテレスの胸部にぶつける。

 次の瞬間、奴の体はガラスのように粉砕され、部屋一面にその破片が飛散。だが、それらの破片は数秒で霧散して消滅した。

 ボロボロになった部屋には俺と比奈の二人だけが残される。

 そして俺の体はいつの間にか元通りのプニプニとした色白の肌に戻っており、それを確認すると、

「悪いが俺は人間だ」

 すでに消滅してしまったが、人間を見下していたピノテレスに対してそう言いながら、俺の意識はそこで飛んだ。

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