第2話 西洋木蔦

 目の前に出されたものを見て言葉を失う。ベッド用の小さなテーブルの上に並べられたのは白い湯気を立てた色とりどりの器に盛られた何かだ。黄色みがかったクリーム色の液体にオレンジと緑の食品が入っている。もう一つの器にはふやけた白い粒が水——お湯がたっぷりと入っている食べ物が入っている。中央には細く刻まれた黒みがかった緑色の物体と少しくすんだ赤色の丸い、皺だらけのものがのっている。

 驚きのあまり言葉を失いかけた。目の前に並べられたものからは食欲をそそる香りが漂ってくる。それが鼻腔をくすぐり、理性を崩していく。それが何かわからない。けれども、口にしたいと彼は思った。

 ごくりと固唾を飲み込み、目の前の物を指差した。

「こ、これは……?」

彼の視線の先には、これらを運んできた人間の少女がいる。最も少女の髪は人間の髪の色ではない。染髪材もないこの世界にいながら、彼女の髪はまるで空のようだ。その青い髪を引き立てるように大きな黄金の瞳がきらきらと輝き、青年をまっすぐに見つめる。

 髪と瞳の色こそ不自然だが、彼女は人間だ。白い肌に浮かぶピンクの頬と柔らかそうな肉付きは少女が健康体そのものであることを示した。一方で少女よりも年上である青年の体つきはそれなりに鍛えられ筋肉がついているもののどこかやせ細った印象を与える。二人の体つきの違いはテーブルの上に並べられたものが物語っている。

「おかゆとシチューだよ、ジェイク」

 少女——アイビーは微笑みながら青年・ジェイクへと答える。

「おかゆ……? シチュー?」

初めて聞く単語に目を瞬かせながらジェイクは自分の前に並べられたものを見つめる。目の前の何かからは香ばしい香りが広がり、鼻腔を通じて食欲をそそる。本能がそれを食べ物だと認識していることが嫌でもわかった。だからこそ、彼女がウソをついていないことはわかる。だが、見たこともない食べ物であるために戸惑いを隠せない。本当に食べ物なのかという疑念といますぐ食べたいという食欲が彼の中で揺れ動く。

「普段、何食べているの?」

 ジェイクの困惑に気付いたのか、アイビーが近づいて尋ねてきた。最も気を使って尋ねてきたのではないということが好奇心に輝く黄金の目からわかる。同時に自分と彼女が住んでいる世界が違うことを思い知らされた。

「……地中奥深く埋まった根とか、虫……。あとは……魔獣の肉、だな」

戸惑いつつもジェイクは正直に答えることにした。返答を聞いたアイビーが一瞬だけ目を見開いたが、次の瞬間には苦虫を噛み潰したような表情を見せる。何かを言いたげに一度だけ口を開閉したが、すぐに閉じた。

「……そっか、そうよね……」

 小さく彼女はそれだけを呟くと、引きさがり部屋か出ていく。何か気に障ることでも言ったのだろうかとジェイクは思わず心配になった。

 自分にとっては——いや、自分達にとっては普通の食事だ。食べ物はほとんどない。食べられるものはわずかに残った植物の根と倒した魔獣の肉、それから意外としぶとい虫ぐらいだ。それ以外に食べられそうなものはない。海や川には魚がいるらしい。だが、水は毒と変わらず、そこに住まう魚が食べられるとは限らない。魚の中には、老人たちが見たこともない奇形の魚もいると言い、食べることを禁じていた。

 土が死んでいるために植物を育てることもままならない。むしろ、今日まで人間が滅んでいないことが奇跡なのだ。 

 だからこそ、彼女が出した食べ物の方が珍しかった。だが、彼女からしてみれば逆なのかもしれない。

 そんな風にいろいろと考えていると、アイビーは戻ってきた。両手には本を二、三冊と、紅い球体のようなものを持っている。

「これ、かじってみて」

 言いながら赤い球体を手渡す。それが何かわからないために戸惑いながらも受け取る。触ってみるとがっちりとしており硬く、さらにはひんやりとして冷たいことがわかった。きれいな球体ではなく、底とてっぺんの中央が少しだけ凹んでいる。さらにてっぺんにはこげ茶の根がついている。上の方に比べると下の方は一回り小さく、色も下の方が黄色い。すべすべとザラザラが入り混じったような触り心地。そこから甘酸っぱい香りがかすかにこぼれる。それが食欲を誘った。この薫りならば食べても大丈夫かもしれないと思う。だが、食べるにはやはり抵抗がある。本当にこれは食べてもいいのだろうか? 不安げにアイビーを見ると、彼女は肩をすくめた。

「やっぱり、リンゴも知らないんだ」

「リンゴ? 食べ物か?」

手にした赤い球体——リンゴを指しながら尋ねる。すると彼女は頷き、楽しそうに話し出した。。

「うん、そう。この世界が退廃する前は普通に存在した果実だよ。知ってる? ある神話では黄金のリンゴを持つ者はこの世で一番美しい美女だと言われ、三人の女神が争った。神様のいいつけを破って人間が食べてしまった禁断の果実だなんて言われていたんだよ。まぁ、みんな覚えていないだろうけどね。文明も何もかも途絶えてしまったんだから。知っていてもそれを伝えるような状態じゃないしね」

 がっくりと彼女は肩を落とす。どうやら博識でもあるようだ。興味深かったが、それ以上に今は目の前の食べ物が優先だ。彼女はどうやって食材を入手したのだろうか?

「……なぜ、それがここに? どうやって手に入れた?」

「栽培したから。他にもあるよ。にんじん、ブロッコリー、鶏肉、お米に、海苔、あとうめぼしとミルク」

 言いながら彼女は持ってきた本を開いた。見たこともない絵が並んでいる。絵の傍には文字が書かれており、絵の説明がされていた。幸いにも文字が読めるために説明は理解できたが、知識がないためかすべてを理解することはできない。

「これ、植物の図鑑ね。で、こっちがレシピ」

言いながら彼女は持っていた本をジェイクのテーブルの端の方に置くやもう一冊の本を開く。

「食べ物の作り方の本だよ。こうやって食べ物を切ったり、炒めたりして調理してね、作ったものがそれ。世界が退廃する前——退廃してからも食べ物がある限りは作られていた昔の料理だよ」

 本にはいくつもの絵が載っている。その中のいくつかが目の前にあるものと全く同じものであった。彼女が言うように彼女が作った昔の食事だということがわかる。だが、それ以上に彼の興味は目の前の食べ物よりも本へと注がれる。

「こんな文献が残っているのか……」

 説明をしていた彼女は彼の呟きに耳にして気付く。もう彼には自分の声が届いていない。彼の青い瞳は本へと向けられ、意識もそちらへと集中している。同じタイプ故にわかる。一度興味を持つと周りの世界が見えなくなってしまう。

 決して悪いことではないが、今はまだ集中すべきではない。健康的であればいくらでも集中させてもいいのだが、重傷である今はさせてはならない。放っておけば三日ぐらい平気で徹夜してしまうタイプだ。今、彼がすべきことは体を治すことである。

「……」

 彼女は口元に笑みを浮かべ、そっと本に手を伸ばした。

「貸してあげるから、先にごはん食べなよ」

「あ、あぁ」

 目の前で彼女が本を閉じた。そこで彼の意識は現実へと戻る。名残惜しそうに本を見つめる彼の前で彼女は本を脇へと退けると、目の前の料理を指差す。改めて目の前に並べられた料理を見た。

 あざやかな色であるために逆に抵抗があった。普段食べているのは黒っぽい——虫を焼いたもの——ものであるため、あざやかなものは珍しい。だが、スプーンを手に取り、白い方の料理を救う。ただのお湯かと思ったが、違うようだ。少し粘り気がある感じがした。こんな食べ物は初めてであったために抵抗があるが、覚悟を決めて一口口に入れる。

「……変わった、食感……だな」

「おかゆはそんなものだよ」

食べるというよりも飲み込むようなものだった。かすかに塩辛いが、逆にそれが食欲を掻き立てる。ねばっているようで、さほどねばっていない。

「弱った胃には味が強いものとか、重いものはきついからね。おかゆは弱った胃とかに優しいんだよ。特に小さい頃から満足に食事していない体ならなおさらね。あ、塩ないんだっけ? 少し入れたから辛いかも。あとそっちのシチューも軽めに作ったから、味は薄いよ」

 もう一つの黄色みがかかった白い食べ物に視線を向けながら彼女は説明をした。せっかく彼女が丁寧に説明しているのだが、彼女の言っている内容の大半がわからない。それでも、安全でおいしい食べ物であることだけはちゃんと伝わる。

「そうか。おかゆとシチューか。昔はこんな料理もあったんだな」

「もっと体調がよくなったら別のも作るよ」

「あぁ」

 頷きながら彼はシチューの方にもスプーンを伸ばす。やはり多少の抵抗があったが、口に入れてしまえばそんなもの塵ほどにも残らない。口いっぱいに広がる豊潤な味にただ驚くばかりだ。それを表す言葉さえもわからない。ただ子どものように頬張ってしまう。この世界にはこんな食べ物が存在したのかと感動さえした。食べるのに夢中になってしまう。

 そんな彼を引き戻すかのように隣でクスっと笑う声が聞こえて来た。彼女がいることを忘れていた。急に恥ずかしさを覚え、気まずく彼女の方を見る。彼女はただ優しく微笑んでいた。まるで子どもを見守る母親のように……。

「いくらお腹が空いているからってがっついたらダメだよ。胃が弱っているんだから、ゆっくり食べてね」

 言っている内容も母親のようだ。急に懐かしさを覚える。自分の母親は物心ついた頃ぐらいに病で亡くなった。父も魔獣との戦いで命を落とし、科学者であった祖父に育てられた。だからこそ、家族が恋しく、共に育ったベティや自分の相手をしてくれたテリーたちが自分にとっての家族だと思っていた。しかし、心のどこかでは暖かい家庭と飢えや渇きに苦しむことのない日常を望んでいたのだと気付いてしまう。

 永遠にかなわないと思っていた夢のような出来事が目の前にある。自分をはじめとした大勢の人が望んだ平和を目の前にして、彼は目頭が熱くなるのを感じた。

「おいしい?」

 優しい彼女の問いかけに喉の奥が詰まるような感覚を覚える。震えた声で応じるだけで彼は精一杯だった……。

「あ、あぁ……」


 人類の大半が滅び、食事どころか飲み水一つ満足に確保できない世界の中で、彼が出会ったのは、一人の少女・アイビー。

 彼女は消えかけた命の灯をこの世に留めるだけでなく、さまざまなものを彼へと提供した。

 透明な不純物一つない綺麗な水。見たこともない食事。それはかつて世界が豊かであった頃に実存した料理であり、今日では存在しない動植物が存在していることを示していた。その上、彼女は貴重である薬を何の惜しみもなく、彼の治療のために使用した。

 水も食糧も薬もかけがえのないものだ。何もないこの世界では、それを誰かのために使おうとは思わない。だが、彼女は彼のために躊躇なく使用した。自分を心配し、優しく接してくれる彼女に厳しい現実に失われた人間味と温かさを感じる。

 まるで天国のようなその場所に思わず彼——ジェイクは入り浸りそうになった。このまま傷が治らなければ、いつまでもここにいることができるだろう。思わず傷が治らないことを願ってしまう。だが、辛うじて残った理性がここに留まることを拒む。

 自分さえ良ければ他人はどうでもいいのかと自問自答する。現状に満足し歩みを止めるのならば、それは食糧を独占するこの世界の支配者・アドルフと何一つ変わらないだろう。そんな奴を打ち倒すべく人々が奮闘しているのだと自身に言い聞かせ、誘惑に抗う。動けるようになり次第、彼は立ち去ろうと決意していた。

 だが、歩けるぐらいに回復するや彼は逆にここから離れがたいと思うようになる。アイビーは次々と新しい料理を運び、うさぎや猫などのかつて存在した生物などを見せてくれた。時には自分の作り出した機械や技術、知識を提供する。彼女の持つ知識や技術は、とても魅力的であった。

 そして、いつしかジェイクにとってアイビーはかけがえのない存在となっていた。

 高度な文明が人々の生活を支えていた世界では、知識や技術はこの上なく重要な役割を果たし、それを持つ者たちが重宝されていた。しかしながら、世界の退廃と共にその知識も技術も役に立たなくなった。知識や技術を持っていてもそれを成すための材料も施設もない。個人でできることなどほとんどなかったのだ。それでも、退廃直後はまだ役に立っていた、そうだ……。

 徐々に文明も後退し、人々は文字さえも満足に扱えなくなっていった。大人たちは読み書きを教えるよりも子どもたちのために今日の食糧を確保するだけで精一杯だったのだ。だからこそ、ジェイクの祖父のような知識や技術を持つ科学者を軽んじた。侮蔑した。

 その孫であるジェイクも生活、生きるために役に立たない科学に力を注ぐために侮蔑されることがあった。無論、理解者もいたが、彼らには自分ほどの知識や技術がないために本当の意味での理解者にはなりえなかった。

 だからこそ、自分以上に知識や技術を持つアイビーは彼にとってかけがえのない存在へとなった。誰にも理解されない知識や発想を共有してくれる唯一の存在。彼女がいること、そして——彼女の持つ大量の知識が彼をここに留まらせる。

 歩けるぐらいまでに回復したジェイクだったが、魔獣が徘徊する中を単独で行動するのは危険だとアイビーが判断し、完治するまでここに留まるように言い聞かせた。その間、退屈だろうと彼女は自分の持つたくさんの本と資料がある書庫へと案内してくれた。

 書庫は奥が見えないほど本棚が並んでいる。全ての本棚にぎっしりと詰め込まれた本の山。そこに入りきらないのか、足元にも本の山が積み重なる。まるで夢のようだ。そこに誘い込まれるように彼は入り込み、本を手にする。時間さえも忘れてしまうほど、夢に入り浸った……。


 そうして、彼は幾日を過ごす……。


 動けるようになった彼は時間を見つけては歴史に関する文献や図鑑を読む。それらを読むことで途絶えはじめていた歴史が見えて来た。昔の——世界が退廃する前の人々の生活、文化、さまざまなものを知る事ができた。

 ここにはたくさんの文献と本がある。手が届かない程の高い本棚が部屋いっぱいにぎっしりと並んでいる。梯子がいくつも用意されており、上の本も取れるようになっていた。背の高い本棚に囲まれているために威圧感があるが、様々な知識を得られるために彼には天国のような場所であった。全ての本を読むには一生かかりそうだが、さまざまな本があるため決して飽きることはないだろう。本の種類は生活に必要な知識が載ったものや興味深いものから何に使うかわからない本までと幅広い。中には泥などで汚れているものもあったが、読む分には支障がない。

『爺ちゃんがいろんな言葉教えてくれたから大体が読めるな』

 生活するだけで必死な中、人々は文字を忘れていった。そんな中で祖父は彼に必要な技術と文字を教えた。周りは役に立たないと言ったが、祖父が作り出した浄水器や道具に感謝しているために表だって苦情を言う事はなかった。

 だが、影では散々言われてきたのだ。「役に立たないガラクタばかりを作っている」、「頭がおかしい」、「浄水器も偶然だ」——。その言葉が祖父を傷つけていた。それでも、祖父はみんなのために発明をやめることはなかった。最期まで自分の発明が人を救うと信じて——……。

 祖父は魔獣と戦うための武器を完成させる間際に息を引き取ってしまった。それでも、祖父の持っていた知識と技術は彼に受け継がれる。彼は祖父から継承された知識と技術で魔獣と戦うための武器を作り上げた。

 皮肉にも世界を変えるためには、周りが役に立たないと言った文字や知識ほど必要であった。世界を再生するために必要な知識。それを得るためには文字が必要である。今、それが証明された気がした。

「しかし……すごい量だな」

 改めて辺りを見回した。自分が住んでいる建物——タイガービルは、かつてはデパートと言われるいろんな店が入った建物だったらしい。だが、その面影はなく、天井は穴だらけで、何らかの衝撃で壊れかねないほどボロボロだ。それでも十分な大きさと頑丈さを今も持っているために人々はそこで生活している。

 そのタイガービルよりもこの部屋は大きく広い。それだけでも驚きなのに、部屋の壁にも天井にもヒビ一つ入っていない。さらには、かつて存在した電灯というものが至るところに配置され、部屋の中をほのかに照らしている。そんな部屋を見回しているとふと気付いた。

『そういえば、ここには窓らしいものがないな……』

 この部屋には窓が一つもない。いや、よくよく思い返してみれば、自分が行き来しているところは全て鉄の壁と天井で囲まれ、窓が一つもないのだ。なぜ——という疑問は聞こえてきた声にかき消される。

「ジェイク」

 少女の声が響く。振り向くと青い髪の少女が駆け寄って来た。

「アイビー」

彼女の名を彼——ジェイクは口にする。すると彼女は子どものように頬を膨らませながら詰め寄り、ズイっと人差し指を突きつけるように彼に向けた。

「まーた本の虫になってる」

「あ、あぁ、すまない。面白くてついな」

 動けるようになってからというもの、ジェイクは暇を見つけてはすぐにこの書庫に来て本を読み漁っていた。

「読んでもいいけどまだ本調子じゃないんだから無理しないでよ」

「悪い……」

 動けるようにはなったとはいえ、まだ傷は完全に治ったわけではない。下手すれば再び傷口が開き悪化してしまうかもしれない。それなのにベッドから抜け出したくさんの本がある書庫に来るジェイク。それだけならば彼女もここまで目くじらを立てないのだろう。だが、ジェイクは一度本を読み始めると食事も何もかも忘れて一日中、書庫に入り浸ってしまう。つい最近それで体調を少しだけ崩してしまったのだ。

 今日も長い時間入り浸っているのに気付いたアイビーが慌てて様子を見に来た。

「まったくもー」

彼女にはつくづく頭が上がらないと思いつつも、子どものような態度をとる彼女にジェイクは苦笑する。

「すまない——?」

 ふいに彼女の黄金の瞳が自分ではなく、自分の手に向いていることに気付いた。自分が持っているのは、先ほどまで読んでいた「初心者向け植物栽培」という表題の本だ。

「……植物、育てたいの?」

「ん? あぁ」



 この本に何かあるのだろうかと疑問に思っていると、アイビーが唐突に尋ねてきた。ジェイクは彼女に本を見せながら応える。

「あんなうまい料理ができるなら、食べ物の作り方や植物の育て方を知りたいと思ってな。まぁ、土自体が死んでいるから難しいかもしれないが——」

諦めたようにジェイクが溜息混じりに呟く。

 実際、この世界の土は死んでいるも同然なのだ。養分がないために虫も微生物もかなり少ない。本を見て知ったのだが、昔は農作業において土を数年間寝かせることで土の回復を待っていたらしい。だが、今はそれもできない。それというのも世界中に降り注ぐ雨が土を殺しているからだ。とてもではないが、土が生き返ることはないだろう。

 土をどうにかしない限り栽培などできはしないだろうと彼が諦めていると、目の前でアイビーが眉をひそめた。少しだけ何かを考えているような素振りを見せたが、何を思ったのか、彼女は問いかける。

「パパにばれたら大変だけど、見てみる?」

「え?」

 唐突な問いにジェイクは不意を打たれた。しかし、すぐに彼女が何を聞いているのか理解する。恐らく彼女が見せたいのは、植物の栽培方法だろう。是非とも見てみたい——と強く思った。だからこそ、彼女の言葉を聞き逃したことに気付かない。目の前に不可能と思われた技術が存在することに心を奪われていた。

「見たい」

「じゃあ、こっち」

 ぱぁっと子どものように顔を輝かせるやアイビーはジェイクの手を取り、駈け出した。はずみで持っていた本を落としてしまうが、気にしてはいられなかった。

 連れて行かれるままにそのまま走る。アイビーは意外と加減して走っているのか病み上がりでもきつくはない。走りながらも辺りの様子を窺う余裕さえもある。

 似たような場所ばかりで道に迷ってしまうため、あまり一人では出歩かない方がいいとアイビーに忠告された。助けてもらった恩もあり、人さまの家であることもあったため、書庫と借りている客室以外はほとんど往来していない。この建物がどうなってるのか知らない。今はアイビーがいるのでこの建物について知る絶好のチャンスだ。走りながら周りの様子を窺う。

 辺りを見ると全てが鉄の壁と天井で囲まれており、窓は一つとしてない。どこをどう通っているのかわからないほど同じ造りがいつまでも続いている。アイビーの言う通り慣れない者では道に迷うことだろう。目印になりそうなものも何もない。殺風景だ。

 窓はないのに、冷たい空気が流れるように漂っている。肌で感じる空気の流れは一定だ。だが、時折ゴオオという機械音と共に風の流れる音が耳に届く。その時だけは生ぬるい風が吹くのだ。窓がないため、機械で空気の入り替えを行っているのかもしれない。

 鉄の壁、鉄の地面、鉄の天井に囲まれているために光が差し込む隙間はない。しかし、天井には一定間隔をあけて電灯がついている。天井の光以外にも足元には小さな電灯があり、道しるべとなっている。

 そんな光景がいつまでも続く。時折ある曲がり角や分かれ道を見てもどこまで進んでいるのかがわからなくなる。まるで灰色の迷路のようだ。

 アイビーに導かれるままにジェイクは進む。どこがどこだかわからないままに進んだ道の先は、行き止まりであった。壁しかない。しかしながら、アイビーは止まることなく先へと進む。

「おい! ぶつか——!」

ぶつかると思った。だが、ジェイクの不安とは裏腹に壁は独りでに左右へと分かれて開き、二人を招き入れる。招かれた先は白い光で照らされた箱のような狭い場所であった。

「え……?」

 戸惑っている間にも背後で先ほど開いた壁が閉まる。閉じ込められたと慌てて振り向くジェイクを尻目にアイビーは何かをいじる。カチという小さな音がしたかと思うや、ガコッという音と共に全体が揺れる。

「な、何が……?」

「エレベーター。一つ上の階に行っているの。まぁ、そこも地下なんだけどね」

「地下?」

 困惑するジェイクにアイビーはゆっくりと丁寧に説明する。

「窓がどこにもなかったでしょ? この建物は地中にあるの」

「地中に!? どうやって地中にこれほど広い建物なんか!? いや……昔の建物なのか……。だが、地盤が歪んでいたりして使うには危険ではないのか? それとも、使えるように改造したのか? ひょっとしてまだ地下には使える建物があるのか……?」

 現在も残っている建物のほとんどがいつ崩壊してもおかしくない状況にある。当然、建物の下にある地下など使えるような代物ではない。ましてやこの建物のように広大な地下となれば使えるような場所はないはずだ。

 だが、それはあくまで自分が知らないだけ、あるいは使える地下を探し出せるような技術を持っていないだけなのかもしれないとジェイクは思考を巡らす。使える土地があるだけで人の生活は激変するのだ。そんな彼の思考を読み取るようにアイビーは整った眉をひそめながら言った。

「うーん。昔は地下を移動する乗り物を使っていたから、広大な地下はあちこちにあったみたいだよ。地下鉄や電車を使っていたらしいからね。だから、地下はいろんな場所とつながった洞窟みたいになっているらしいよ。けど、地震とかでほとんど埋まっているとかな。まぁ、残っているのもあるけど、掘り出したり、開通したりするには手間暇がかかるから誰も着工してないしね。まぁ、昔の道具が眠っていたりするから掘り出し物はあるかな」

「地下鉄?」

 次から次へと出てくる聞いたことのない単語にジェイクは戸惑いながらも好奇心を抑えきれない。もっと様々なことを尋ねたいと思ったが、地面がガコンッと大きく揺れて止まった。

「な、なんだ……?」

「着いたよ」

 今度はアイビーの目の前にある壁が左右に分かれて開く。先ほど開いた壁とは反対側の壁だ。どういう仕掛けになっているのかとジェイクが疑問を抱くのを他所にアイビーは何一つ気に留めることなく、開いた壁から外へと出ていく。

 アイビーに続き開いた壁を抜けると、その先には部屋とは思えぬ程広大で見渡す限りの緑が広がっていた。天を仰ぐと天井は高い。あまりの高さに本当に天井があるのだろうかと疑ってしまう。そして、何台もの機械らしいものが飛び回っている姿が視界に入る。天井の中央にはほのかに輝く球体があった。

「中央にあるのは人工太陽」

 驚愕の出来事ばかりが目の前に広がり、何が何か理解できずにジェイクは立ち尽くす。そんな彼の横でアイビーは天井にある輝く球体を指差しながら言った。

「ここは地下だから人工太陽がどうしても必要なの。飛び回っているロボットは肥料と水、あとは薬を撒いているのよ。薬は人体に影響を与えないけど、害虫を駆除してくれるものを使っているわ。天井や空中にあるのは、植物を育てるための道具や機械ね」

 アイビーの指が天井から地面へと動いた。

「それで、足元に広がっているのが栽培している植物」

 自分たちが立つ地面よりも一段下がった広場はその大部分緑一色で埋め尽くされている。だが、よく見れば緑を成すものは一定の間隔ごとに形が違うことがわかった。事前に書庫で調べてなければ、その緑のものが葉っぱだということを理解できなかっただろう。そう、植物の葉っぱで溢れているのだ。その緑と肩を並べるように赤や白、黄色などの明るい色もある。

「葉っぱと花しかないけど、時期が来たら実も実るわ。葉っぱの状態で使うものもあるけど——……」

 アイビーがあちらこちらを指差しながら説明する。いろいろと彼女は話してくれた。その内容がとても興味深く何よりも今の世界を変えることができるかもしれない情報ばかりだ。少しでも多くの知識を得ることができれば、皆の助けになるかもしれない。

 アイビーの話をまとめるとここは地下で空気も日光も水も全て人の手で管理しているらしい。最も管理しているのはデータだけであり、計算等をしたデータをロボットに入力するだけらしい。実際に植物の手入れを行っているのはロボットだそうだ。

 また、土をどうやって入手したのかと尋ねたところ、地中深くに埋まっている薬剤等の影響を受けていない岩石に微生物などを与え、微生物が活発に動く環境を作ることで土に変えていると言われた。わかるようでわからず思わずジェイクは間抜けな声を出す。

「……はい?」

「簡単に言うと、微生物が岩石を土に変えているの。本来ならばかなり長い歳月がかかるし、もっと複雑の工程があるんだけど、それを急速に早め、簡略化して無理やり土を作っているのよ。だから、根本的な解決策ではないわ。急いで土がほしい時は地中の奥深く、それこそ人の手では掘り起こせないほど深いところまで機械で潜って土をとってきているわ。まぁ、汚染されていないとは限らないけど」

 しばらく頭の中を整理する。結論、どっちの方法も現実的に不可能だ。

「……土が死んでいても植物は育てられるのか?」

「土が死んでいるって意味がね、どういう意味かによるわ。本来土は死ぬようなものじゃなく、土の中にいる微生物が弱ったりすることなのよ。だから、土が死ぬなんてことはまずない。けど、酸性雨や汚染された水、空気のせいで土自体が汚染されている可能性がある。それを死んだ土と言っているのなら、その土で植物を育てることはおすすめしないわよ」

「……土の状態によると……。なら、土の状態をどうやって確認できる?」

 顎に手を当てながらジェイクはいろいろな方法を模索しつつ、アイビーに尋ねる。

「まぁ、土の一部を取って薬品などで確かめるわね」

「その薬品というのは——俺たちでも入手できるか?」

「結論から言うと不可能」

 予想通りの答えにジェイクは肩を落とす。その薬品を分けてもらったところで土の汚染をどうにかできるわけでもない。土を作りだすことも、地中奥深い土を入手することもできない。

 とてもではないが、今の自分には難しい話だ。それでもやるしかない。彼女に協力してもらえば可能だ。だからこそ、気分を変えるためにも尋ねる。

「何の植物を育てているんだ?」

「ここは主に食べ物。稲とりんごとジャガイモと人参、あとたまねぎかな? 他の部屋でも育てているよ。あ、別の部屋には牧場もあるんだよ。牛と豚とあと鶏も育てているんだ」

「にわとり? あぁ、図鑑に載っていた鳥のことか」

 最初は聞きなれない単語に眉を顰めたが、それが図鑑に載っている動物だと知り、すぐに理解した。ほとんどの生物が死に絶えた中でどうやってそれらの動物を手に入れたのか、育てたのかとても気になる。

「そーそー。あとで捌くからやってみる?」

「……まぁ、やってみよう」

 笑顔で言うアイビー。鶏などを捌いたことはないが、魔獣などを捌いたことがあるので多少は経験がある。少なくとも笑顔で言うことではないだろうと若干引きながらもジェイクは頷いた。生き物を捌くのは生きるために必要なことだと割り切り、気持ちを切り替える。

 ジェイクは足元一面に広がる植物に近付いた。初めて見る青々しい植物に心が惹かれる。無意識に手を伸ばし触れてみた。ざらざらしたもの、すべすべしたもの、形が違うだけでなく手触りも違った。そして、それぞれが違う薫りを放っていることに気付く。なぜだか気持ちが落ち着く。

 草の香りよりも素晴らしいが、それ以上に土の香りに心が躍った。外の世界にある土は死に絶え、香り一つしない。するのは死体が放つ腐臭だけだ。それに比べてここは豊潤な土の香りが充満している。体験してみて初めてわかったことがある。わずかに残された小説——そこに描かれる自然描写、独特な表現の意味がやっとわかったような気がする。昔はこんな光景が本当に存在したのだと改めて実感した。同時に人はこれほどまでに偉大で大切なものを自らの手で失ってしまったのだろうかと痛感する。

 ここにいるのは楽しい。子どものように無邪気にそう思った。目の前に広がる緑の葉を見つめ、手に取りながらその感触を何度も楽しむ。すべすべした葉は厚く、ざらざらしたものは産毛のようなものが生えており、棘のように鋭いものもあり……種類が様々だ。

「ん? 虫……」

 根本を見てみるとしっかりと地面に根付いていることと共にたくさんの虫がいることがわかる。土が死んだために虫もほとんどいない世界でこれほどの虫を見るのは初めてだ。蟻が行進し、いも虫やダンゴムシも移動している。花が咲いているところには黄色、白と色鮮やかな虫も飛び回っていた。図鑑で見た蝶という美しい虫だ。図鑑に書いてある通り、種類や個体によって模様がわずかに違う。

「あ、蜂もいるから気を付けてね」

「あぁ」

 図鑑で見た虫。蜂についても少しだけだが知った。花の蜜を集めるそうだ。その蜜は人でも食べられるという。

「あとで蜂蜜も食べてみる?」

「蜂蜜……」

「蜂が集めた蜜をちょっとだけ加工したもの。甘くておいしいよ」

 本で見た限りなかなか大変そうだと思った蜂蜜の作り方。だが、ここではそれもしているようだ。ここまでできるとなると相当な技術と知識を彼女は持っていることになる。是非とも弟子にしてもらいたいぐらいだ。

「そこまでしているのか。すごいな。滅びる前の世界がそのまま残っているみたいだ。しかし、どうやって作り出したんだ?」

興味深く彼女の方を見ると彼女は少しだけ首を傾げる。少しだけ困っているようだ。口元に指を当てる。

「んー。私はあまり詳しくないの。知識はあるけど。パパがほとんど一人で作ったから、私は研究に関わっていないんだよね、というか生まれていなかったし」

『パパ?』

 彼女の言葉でジェイクは一つの解を導き出す。世界が、文明が滅んだ今、ここまで高度な科学技術と豊かな食糧を持つのはたった一人しかいない。それは誰もが知っている。この世界で最も残虐な悪人——アドルフ・ヒュドル——ただ一人だ。


そして、一つの疑問が浮かんだ。


『この子はアドルフの娘……なのか?』


 状況的な証拠からそうとしか考えられない。だが、徹底的な証拠がない。アドルフに娘がいるという話など聞いたこともないのだ。もし、娘がいるのならば、ホープがなんらかの情報を持っているはずだ。ならば、彼女は一体何者なのか? 彼女が言うパパとは誰なのか……探りを入れてみる必要があった。

 彼女の様子を窺う。何の疑問も持たず、警戒する様子も見せずただ無邪気に笑う少女。仮にアドルフの娘だとしても彼女自身は何も携わっていないのかもしれない。本人の意志を含めた上で確認する必要があった。だが、もし、彼女が敵であったら——彼女が探っていることに気付いたら、どうなるかわかったものではない。気づかれないように慎重に尋ねる。

 ふいに彼女が前に言っていた言葉を思い出した。それをネタに探りを入れることにした。

「そういえば……父親に見つかったらまずいと言っていたな」

「あ、うん。いろいろとあってね」

 突然の話題にアイビーの体が少しだけビクッと動いた。驚いただけなのか、動揺したのか、彼女の表情、しぐさの変化を見逃さないように見る。だが、勘付かれないように自然な態度でだ。

「喧嘩、でもしたのか……?」

 何気ない日常的な会話を装う。世界が退廃した今も喧嘩ぐらいある。親と喧嘩する子どもも当然ながらいた。だからこそ、不自然ではなかった。

 彼の問いにアイビーは大きく目を見開いた。かすかに唇が動いたが、すぐに閉ざされてしまう。何かを言おうと口を開きかけるも、すぐに悲しそうにうつむいた。彼女が何を言おうとしているのか、ジェイクにはわからない。

 問いかけることもできず、ジェイクはただ彼女を見つめることしかできない。

「もう……壊れちゃったの……」

「こわ、れた……?」

しばらくの沈黙のうち、零すように彼女が呟いた。零れ出た言葉にジェイクは彼女を見つめる。彼女は何かを堪えるように辛そうな表情で続けた。

「生きているけど、心が壊れちゃったの。私のことはわかるけど、他の人間は人間にさえ見えない。辛いことがいっぱいあったせいで誰も信じられなくなっちゃった、可哀そうな人……」

 普通に怪しめば導き出す疑いだが、考えすぎだったようだ。彼女の言葉から導き出せるのは、犠牲者——という言葉だけである。アイビーの父親は恐らくアドルフに加担していた科学者なのだろう。

 噂ではアドルフは仲間である者たちでさえ殺し、時には実験材にしたと言われている。目の前にいる彼女もまたアドルフの実験により外見を変えられたと思われる。青い髪も金の目もそう考えれば納得がいく。いや、むしろ、彼女がアドルフの娘で、父親に実験によって姿を変えられたのだとしたら、それはアドルフの異常さを示すだけだ。どちらにしても彼女は被害者だ。

 恐らくここは楽園ではない。自分が最後にいた場所、助けられたことから彼女は楽園の者ではないだろう。父と共に楽園から逃げ出し、その外見と父親の状態から誰にも知られずにこっそりと暮らしているだけなのだ。きっとそうだと強く思った。いや、そう思いたい。そうでなければあまりにも彼女が可哀そう過ぎる。

 ぐっと拳を握りしめる。

「なぁ、アイビー」

「何?」

 ジェイクはまっすぐにアイビーを見据える。彼女もまたまっすぐに黄金の瞳を持って見つめ返す。子どものような無邪気な目だ。

「一緒に来ないか?」

「……え?」

 突然の言葉に彼女は黄金の目を大きく見開き、その場に立ち尽くす。彼女の零した言葉の余韻を最後に静寂が辺りを包み込んだ。カタカタと動く機械音だけが響く。そんな中でジェイクは続ける。

「お前が持つ知識と技術ならばきっと皆の役に立つ。だから、俺たちホープと共に戦わないか?」

 少しだけ彼女の表情に変化が見られた。怒りのような、悲しみのような曖昧な表情。そんな表情のまま彼女は呟くように尋ねる。

「ホープ、なの、あなた……?」

隠す必要はないだろう。むしろ、信頼を得るために本当のことを話す必要があった。

「あぁ。お前の外見でもその技術があればきっと、皆認めてくれる。アドルフの実験によってそうなったのならなおさらな。だから、共に戦おう」

 手を指し伸ばす。きっと彼女ならこの手をとってくれる——そう信じた。その未来を示すかのように彼女は黄金の目で彼の顔と手を交互に見つめる。だが——

「無理だよ」

悲しげに微笑んだ。なぜ、そんなにも悲しそうに笑うのかわからないまま、ジェイクは彼女の言葉に耳を傾ける。

「あなたは何もわかっていない。だから、ごめんね」

 詳しい事情も何も説明せずに彼女はくるりと背を向けた。その小さな背中が語る絶望が嫌というほどわかる。だが、内容までは察することができない。理由がある。その理由を知りたいが、今の自分は聞く術を持ち合わせていない。

「そう、か……。無理強いはしない。けど、できればお前の持つ知識と技術を教えてくれないか? それがあれば皆を助けられる」

 今までの文献を読み漁ったのは知的探求心だけではない。生活を、世界を変えるための知識が少しでも多くほしかったからだ。彼女はすでに知識と技術を持っている。できれば彼女自身に協力してもらいたいのだが、それが叶わないとわかった今、取るべき手段は一つしかない。彼女の持つ知識と技術を何が何でも手に入れたかった。

 彼女の反応を確かめた。自分にとってよい方向へと進むかとジェイクは甘い期待を抱く。だが、振り向いた彼女の表情を見た瞬間、それは粉々に打ち砕かれた。

 怒りにも似た、悲しみにも似た、まるで子どもを叱る母親のような険しい表情でアイビーはジェイクを見据える。感情を抑えた抑揚のない声で彼女は言った。

「その知識で水を浄水し、食糧を手に入れたいの?」

「あぁ、そうだが……?」

 誰だって当然だろうと思いながら、彼女の問いに戸惑いつつ応じる。彼女ならばこの世界の状況をわかっているはずだ。それなのに、なぜそんなことを聞くのか疑問を抱きながらも彼は見る。黄金の目には怒りのような感情が見え隠れするが、決して露わにすることはない。感情を隠している。

「だったら、渡せないわ」

「!? なぜだ!?」

 想定していなかった返答だ。赤の他人である自分にこれほどまで多くのものを見せて教えたというのに、食糧も貴重な薬でさえも与えたというのに、彼女はその知識を与えることを拒んだ。

「独り占めするつもりか?」

 奥歯を噛み締めながらもジェイクは問いかける。最悪、常に携帯しているホルダーのリボルバーで脅迫しようとも考えた。手はすでにリボルバーへとかけられている。それに気づいたのか、彼女の黄金の目がそちらへと向いた。だが、すぐに視線はジェイクへと向けられる。まるでおもちゃでも見たかのような態度だ。

 アイビーは短い溜息をつき、抑揚のない声音で語り出す。

「今、生きている人間が暮らしている地区は二十弱。大体少なくとも最低五十人ぐらい、多いところでは百人以上は暮らしている。そして、その地区全てはホープという組織を介してつながり、楽園を目指し、アドルフを殺そうとしている。けど、アドルフを倒すことが目的なのではなく、彼が独り占めする綺麗な水と食料が目的。今はそれぞれに、かつお互いに一定のルールを定めているからまとまっている。けど、昔はそうではなかったはずよ。数少ない水と食料を求めて楽園よりも身近な仲間たちを手にかけていた。違う?」

 アイビーの問いにジェイクは何も言い返せなくなる。

 彼女の言う通り、過去——自分が生まれるより前は水と食料を求めて人と人が争い合った。それがまとまったのは、生きるために協力しなければならないという現実と向き合ったからだ。そして、向き合うきっかけとなったのは、皮肉にも食糧を独占したアドルフであり、彼の作り出した水と食料だ。一人ではいくら足掻いても手に入れることができない。だが、協力すれば手に入れることができるかもしれない。そのため、人々は協力し合うようになった。そして、自然と地区ごとにまとまり、必然のように秩序が生まれたのだ

「だが、それは生きるために仕方なかったことだろう? 水と食料さえあればそんなことにはならない」

 争いの原因も元はと言えば食糧の不足だ。その原因を解消すればいいだけの話だ。食糧不足を解消する手段が目の前にある。彼女が持っている。それなのに彼女は渡すことを拒んだ。

「本当にわからないの?」

 鋭い眼光でジェイクを睨み付けつつ、苛立った声で彼女は言う。無邪気な彼女にしては珍しい負の感情だ。

「楽園を倒すために様々な地区がそれぞれに手を取り合っている。けど、そんな中でたった一つの地区が綺麗な水と食料を手にしたら? それも自由に作り出せるとしたら? 持たない地区の者たちはどうすると思う?」

「……当然求めるだろう」

言われなくとも彼女が危惧していることはわかる。求めて寄ってくる。ひどい時は争いになる恐れがある。だが、だからといって手段があるのにそれをしないのもまた間違っている。

「だが、分け与えれば問題ないはずだ」

 楽園のように独り占めにさえしなければ問題ないはずだ。大丈夫だと自らに言い聞かせるようにジェイクは答えた。だが、彼女は整った眉をさらに歪ませた。

「それは全員が満足するほどの食糧を与えられることと全員が賛成することが前提の話でしょ?」

 ピクリと眉が動く。ジェイクはその程度のこと言われるまでもないと目でアイビーを言い返した。だが、彼女は見下すように視線を向け、問いには答えない。

「何が言いたい?」

自分で考えろと言っているようだ。

「まさか俺たちが独占するというのか!?」

その目が自分を疑っているのだとわかった瞬間、怒りのようなものを覚えた。

「アドルフやお前と一緒にするな! 俺は他の連中にも分け与える! これだけの技術があれば十分に皆に分け与えることができるはずだ!」

子どものようにジェイクは怒鳴る。だが、アイビーは動じない。ただ淡々と告げた。

「一万弱」

「……?」

 彼女の告げた数字の意味がわからない。だが、意味ありげな数字だ。怒りを抑え、彼女の言葉に耳を傾ける。

「現在、この地域一帯の生きている人間は一万弱。これは文明が発達する前の紀元前九五〇〇―五〇〇〇年ぐらいの人口よ。また、私も全てを把握しているわけではないから、実際はもっと多いのかもしれない。子どもなんて死ぬ数が多い割に生まれてくる人数も多いもの。変動が激しいわ。まぁ、それはいいか」

 彼女は一息ついて続ける。

「それで、人ひとり、成人の場合ね、人ひとりが一日に必要と食料はグラムで計算すると大体一.五キログラムから二キログラム。現在の技術的に保存方法と場所はあまり発達していない。時期によって作られる植物等は変化し採取できる量は大幅に変わる。干し肉などの保存食にしてもたせる方法もあるけど、基本的には冷凍することになる。けど、あなたたちにはその冷凍するための道具すらない。保存するための方法も知らない。知っていても塩がないでしょ? そして、植物にも家畜にも成長過程があるし、餌や肥料、水等も必要となる。増やすことを考えれば肉となる家畜の数も決まっている。何よりも家畜を育てるための餌を作る必要性も出てくる。だからこそ、それら費用として使う分を差し引いて計算すると、この場で取れる食糧は全て合わせて約五トン弱。まぁ、必要ないから生産率はもっと落としているわ」

「五トン弱……?」

 その言葉で察した。一人当たり一日に二キロの食糧と必要とする。そして、今現在わかっている限り、人口は一万弱。その全員に満足がいくだけの食糧を与えるとすれば、一万トンは必要となる。とてもではないが足りない。いや、生産率と万が一のことを考えて保存することも考えればもっと必要となる。家畜等を育てるにも食糧は必要だ。それだけではない。後先のことを考えれば誰だったその日一日の分だけではなく、数日分の蓄えをほしがるだろう。ほしがらなくとも配給等でもらったものを蓄え、それに気づいた者が奪おうとする。食糧の取り合いになるのは目に見えてわかる。

「ただの取り合いで終わればいい方よ」

 アイビーは腕を組み、悲しげな表情を見せる。くるりと背を向け、育っている植物に近づく。咲いていた花で羽を休める白い蝶を掴んだ。

「下手すれば楽園よりも確実に食糧を得られると他の地区から襲撃を受ける可能性があるわ。そうなればその技術を持つあなたはどうなることか……」

 追い打ちをかけるようにアイビーは告げながら、手にしていた白い蝶の羽を引きちぎる。儚い羽を失った蝶はただの芋虫のような姿になり果てた。そんな蝶を彼女は植物の葉に止まる他の虫の前に置く。それは鋭い鎌のような両手を持った緑の虫だ。緑の虫はすぐに蝶を捕え、食し始める。その光景はこれからの未来を暗示しているようだ。

「だが、ちゃんと理解してくれれば——!」

「理解?」

皮肉のような笑みを浮かべて彼女は嘲笑った。

「もし、本当に全ての人間が己の欲に勝ち、協力し合えるならば楽園は言葉通りの楽園になっていたはずよ。身内同士で殺し合い、人がいなくなるなんてなかったでしょうね」

 彼女はそれ以上は何も語らずに部屋から出て行ってしまう。そして、楽園での出来事を知った。一人残されたジェイクはただ唇を噛み締めて、その背中を見ることしかできなかった。

『そうか。楽園も食糧不足で内部争いが起きたのか……。だが、だからといって独り占めする理由にはならないはずだ』



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