失楽塔
オレンジシャーベット
第1話 塔
黒い大地が一面に広がる。黒い大地は地平線のように広がっているが、そこに草木の一本も生えていない。どんなに見渡しても黒ばかりだ。そんな中で唯一目につくのは、天に届く程高い塔のみ。あまりの高さに先端が雲の中に隠れてしまっている。そして、その礎となる地も地平線からは目につかない。何故なら、塔は深い深い底の見えぬ谷から天へと向かって伸びているからだ。
黒い大地に唯一そびえるこの塔は、約七十年前——人類の文明が最も高度に発達した時代、人類が今後起こりうる大災害に備えて建てたものだった。皮肉にも塔の完成と同時に世界は退廃した。塔は人類を救わなかった。
当時、世界を退廃させたのは異常気象。地震を始めとした災害。大地は裂け、人を、動物を飲み込んだ。荒れ狂う波と激しい豪雨は不浄なるものを洗い流すと同時にあらゆるものをかき消した。崩れた土砂が大地を埋め、地形さえも変わりゆく。
人が生み出した文明も、この地に住まう生物もあらゆるものが消滅した。大地は死に、草木は実らない。恵みの雨は人の生み出した文明で毒と化し、喉の渇きを癒そうと一口でも口に含んだ多くの者が死に絶えた。
塔の完成と同時に訪れた災厄に人々はまるでバベルの塔だと嘆き嘲笑う。あの塔を作らなければ世界は退廃しなかったのかと人々は絶望する。
しかし、皮肉なことにあの塔こそが残された人々の希望——楽園そのものであった。
大災害に備えて建てられた塔には自動発電用の機械が存在し、かつて人間が生活していた際に使用していた機械を稼働させることができる。また、塔は深い谷の中に建てられ、天を貫く程高い。だからこそ、雲に隠れた塔の中では毒と化す前の水を集め、きれいな水を得ることができる。
さらに塔の中には事前に用意した深い森と緑が茂り、作物が育つ空間が存在した。そして、そこにはわずかながらに生物が生き残っている。そう、塔の中には滅びる前の世界そのものが今もなおわずかながらに存在しているのだ。
本来ならば存在しない、かつての世界を人工物の建物に生み出したのは、一人の科学者。その名は——アドルフ・ヒュドル。
かつての世界を再現した彼が作ったものは数多い。いずれも人が生きるために必要なものばかりであった。その代表作を上げるとするならば、まず最初にあがるのは退廃した世界でも使える浄水器や空気清浄機だろう。あるいは、二度と芽生えることがない植物を育てるための機械、微生物に満ちた土を作り出すための装置などがある。そう……彼は生物が生きるために必要な——本来ならば人間の域を超えた神の領域をその手で生み出したのだ。退廃した世界において彼が生み出したものは、天才という言葉では収まらない。奇跡そのものであった。
だからこそ。彼の作り出した作品は全人類の希望となった。人々は恵みを求めて塔へと目指す。
だが——アドルフはそれを拒んだ。人に与えることなく独占したのだ。
それだけに飽き足らず彼は知恵を備えた自立型ロボットや魔獣と呼ばれる生物兵器を生み出し、自らの居城に足に踏み入れた人間たちを惨殺した。
多くの者が彼を説得しようと試みた。だが、願いは叶わず、誰一人として帰ってくる者はいなかった。
人々はやむを得ず、小さな集落を作りひっそりと生活を送る。食べれそうなものを探し、身近なものから日々の糧を得て暮らした。だが、死んだ大地に実りはなく、飲める水など存在しない。やっと思いで手にしたとしてもわずかな量のみ……。そのわずかな食糧を人々は求め、奪い合い殺し合った。それでも、満たされることはなく、人々は更なる狂気へと染まっていく。
大地に実りはなくとも、動物がいなくとも、すぐ傍には飢えた人間たちが、死んだ人間たちがいる——……。
生きるために奪い、殺し、殺されて……時に食べ、自らも食べられて…人々の心は凍りつく。
このままでは人類滅亡もあり得た中、一人の男が立ち上がる。
彼は、人々に声をかけた。
生きるために、愛する者たちのために、自分たちが殺し合っている場合ではないーと。倒すべきはアドルフただ一人。奴を倒すためには、皆が力を合わせるべきだーと。
最も彼の言葉は人々の耳には届かない。きれいごとだと皆が嘲笑った。アドルフに逆らえば死以外はない。誰もが知っている。
だが、彼は違った。彼は強かったのだ。単身でアドルフに立ち向かい、数々の魔獣を倒した。倒した魔獣の死骸を人々に見せ、自らの強さを示した。また、魔獣を倒し得た食糧を人々に分け与え、人の心を掴んだ。
彼の必死な声と実績は人々へと届き、多くの人々が彼の元へと集った。やがて集まった人々は”ホープ”と呼ばれる組織となる。
ホープは、アドルフの魔の手から人々を守り、得たわずかな食糧を分け与えることでさらに大きくなっていった。人々はホープに希望を見出す。
今までバラバラであった集落もホープの名の元に集い、集落同士の争いを禁止する条例を作り、略奪・殺戮・食人等を禁止とした。
ホープは、アドルフを討つために戦う。だが、どんなに足掻いても未だに楽園に足を踏み入れることさえ敵わない。それでも人々は諦めない、絶望的であった世界にやっと見えてきた平和への兆しが消えない限り……。
遠くを見やれば黒い水平線がどこまでも続く。仰ぎ見れば、灰色の空が広がり、果ては見えない。太陽の光さえも大地には降り注がない。何もない世界だ。いや、一つだけ存在する。黒い水平線の上にぽつんと立つ縦に長い建物が一つある。ここからは小さく見えるが、実際は底辺が見えず、頂上すらも見えないほど大きな塔だ。その塔は自分たちが生きるために目指す塔——楽園である。
そこに行けば誰もが幸福になれると人々は塔を見つめる。ただ一人、黒い大地を踏み締める青年も、どこか虚ろな青い瞳で塔をまっすぐに見据えていた。
年は二十代前半ぐらいだろう。傷みぼさぼさになった長い黒髪が乾いた風になびく。髪と共に身に纏うボロボロに傷んだ黒服も揺れた。その下には骨ばった体が見えた。いや、十分な食糧が得られずにやせ細った体が隠れている。
やせ細った手には錆びついたリボルバーが一丁。リボルバーと彼の手には青い液体が付着し、青い液体が一滴、ゆっくりと滴り落ちる。落ちる雫に導かれるように彼の足元を見れば青い液体の水溜りができていた。その水溜まりの中には一匹の獣が倒れている。
ほとんどの生物が死に絶えた中、存在しているその獣はただの動物ではない。四足で長い毛を持つが、哺乳類ではない獣だ。まるで恐竜を思わせる太い爪が四足それぞれにつき、開いた口からは太く鋭い牙が数本顔をのぞかせる。だが、その顔はワニに似ており、太く鋭い数本の牙にはそぐわない。決して普通の生物ではないそれは“魔獣”と呼ばれる生物であった。
魔獣は人の手によって生み出された生物兵器だ。人によっては合成獣、化け物とも呼んだりするが、一般的には魔獣と呼ばれる。魔獣は凶悪で人を襲う――いや、厳密には違う。魔獣を生み出した科学者・アドルフ・ヒュドルの命令に従い、人を襲うよう作られた。だからこそ、魔獣は人を見つけては襲い掛かり、命を奪う。そう……魔獣によって大勢の人々が命を失ったのだ。
人々はそんな魔獣を討伐するため、あるいは魔獣の生みの親であるアドルフを倒すために、“ホープ”という組織を結成した。その印である星とダイヤを組み合わせた紋章を青年は青い液体の付着した手袋の甲部分に刻んでいる。
青年は表情一つ変えることなく、足元に倒れた魔獣に視線を向けた。魔獣は凶悪で人を襲うが、草木も生えないこの世界においては貴重な食糧にもなる。
すでに息の根は止まっているが、魔獣の生命力はあなどれない。万が一に備え、確実にトドメを刺してから血抜きをしようと考えた。手に握るリボルバーの銃口を魔獣の頭へと向け、引き金を引く。乾いた空気の中で、空虚な発砲音が響いた。衝撃に魔獣の体が動いたが、傷口から青い血液が少しだけ出ただけだった。完全に死んでいる。
安全を確認して、リボルバーを腰から下げているボロボロにくたびれたホルダーへとしまう。一息ついて、魔獣の死骸へと手を伸ばそうとした。
「……?」
同時に耳に届いたかすかな足音。まるで伸ばした手を止めようとしたようだ。音に気付くや少しだけ地面が振動で揺れていることを感じる。大きい何かが迫っているようだ。先程の発砲音で近くに潜んでいた魔獣に気付かれたのかもしれない。
全神経を研ぎ澄ませ、ホルダーから再びリボルバーを抜く。何かが近づいているのだろうとそちらへと視線を向けつつ、手にしていたリボルバーを構える。
「!?」
だが、思わずリボルバーを落としそうになった。振り向いた先に、見渡す限り地平線のような黒い大地が広がる中にいたそれを見て思わず息を呑む。
彼の視線の先にいたのは——体長三メートルはあるだろうか、獅子と狼を沸騰させる生物。青い空を連想させるような長い体毛で全身を覆い、身の丈程ある長い尾がある。体つきは獅子と狼を合わせたような四足の獣であり、哺乳類にしては鋭い爪を持つ。顔は爬虫類と哺乳類を合わせたようなものだ。いや、お伽噺に出てくる龍を思わせる顔立ちである。威厳を放つ青き眉。その下には月のような黄金の目が爛々と輝く。恐ろしい生き物であったが、それ以上に美しい生き物だ。
一目で魔獣だとわかった。だが、他の——今まで戦ってきた魔獣と違うとすぐに本能的に察する。魔獣は全て種類も姿形も異なる。似ているような物はいるが全く同じという物はいない。だが、全て魔獣だ。そんな多種多様な魔獣がいるというのに、それはただの魔獣ではないと思った。何が違うのかわからない。だが、違うのだ。
青い魔獣はゆっくりと青年に近付く。青年は危うく落としそうになったリボルバーを構えなおすや青い魔獣に向けて発砲した。銃口から熱を帯びながら高速で飛び出したはずの弾丸を青い魔獣はスッと、まるで石でも避けるかのように体を少しひねって回避する。あまりにも優雅で、洗練された動き。魔獣の強さを見せつけられた。
『まずいっ!』
弾丸を回避されてから気付く。この魔獣を近づかせてはいけない。爪の届く範囲に入った瞬間に死ぬのは自分だと悟る。決して近づけさせまいと連続して引き金を引いた。五発の銃声が響く。だが、彼が撃った弾丸は全て回避された。青年と魔獣の距離が縮まる。一撃でも当て怯ませなければと青年は再び引き金を引く。だが、指をかけたはずの引き金は異常に軽かった。カチャカチャと空しい音が銃から響く。
『弾切れ!?』
慌てて腰のホルダーから弾丸を取り出す。突然現れた、初めて見る魔獣に動揺してしまい、弾数の確認を怠った。装填する間にも青い魔獣が襲い掛かってくるだろう。いや、隙を見せた瞬間には、その爪で切り裂かれる。
目を逸らさなかった。藁にも縋る想いで魔獣を睨み付ける。所詮、獣だ。目を逸らした方が負けになる。そう、信じてーー。
目をそらさずに魔獣を睨みながら銃の装填を急いだ。四メートル——……恐怖と焦りで手が震え、なかなか装填できない。三メートル——手の震えが止まる。二メートル——魔獣が飛びかかれば終わる距離だ。一メートル——魔獣の牙と自分の伸ばした手が届く距離となった。一瞬で勝負は決まるだろう。なんとか装填できた。だが、銃口を向けなければ意味がない。迂闊に動けば攻撃される。そう思いながらも視線をそらさずに睨み付ける。
そうこうしている間に魔獣との距離はゼロになる——。吐息を肌で感じるほどの距離だ。長い体毛の数本が風に揺られて肌に触れた。影が自分を覆い隠す。自分よりもはるかに大きな魔獣だ。一噛みで頭を——いや、上半身を持って行かれるだろう。離れようにも背を向けることはできない。
自らを見下ろす黄金の目。食い殺そうとしているのか、その目は爛々と輝いていた。目と目が合う。全身が震えた。すぐにでも銃口を向けなければならないのに体が動かない。覚悟を決めるしかなかった……。
魔獣の吐息が肌に当たる。黄金の目がじっと青年を凝視した。まるで食えるかどうか品定めしているようだ。バクバクとなる心臓を今すぐにでも握りつぶしてしまいたい。それほどまでの恐怖と絶望が彼の胸を占める。死でもいい、今すぐ解放されたいと願った。
「……?」
その願いが通じたのか、突如として青い獣はぷいと顔を背ける。まるでいらないと言ったようだ。思わず青年の全身から力が抜けた。決して長い時間ではなかったのだが、青年にとっては一瞬が一年にも引き延ばされたような感覚を錯覚する。未だにバクバクとなる心臓を落ち着かせようと深く呼吸した。まだ目の前には青い魔獣がいるが襲われる心配はすでにないと確信する。
そんな青年の前で青い魔獣は彼の足元へと顔を向けた。青年が倣うように視線を足元に移すと先ほど倒した魔獣の姿が映る。血の気の失せた皮膚。開いた瞳孔。死んでいることは明白だ。
死んだ魔獣に青い魔獣は鼻先で触れる。黄金の目から大粒の雫が溢れ、零れ落ちた。仲間の死を悼んでいる。命を尊んでいる。
青い魔獣はこと切れた魔獣を口と尾を使い、とても大切そうに背に乗せた。それから落ちないように長い尾で包み、ゆっくりと踵を返す。壊れ物でも扱うかのように丁寧に、それこそ他の生物が仲間を慈しむように、青い魔獣は抱えて歩き出した。
青年は死んだ仲間をどうするのだろうかとただ魔獣を見ることしかできなかった。青年の視線に気付いたのか、青い魔獣は彼に一度だけ視線を向ける。何かを訴えるような黄金の目。憐憫と慈悲に溢れたその眼差しはまるで人間のようだ。青い魔獣は低い声で唸ると前を向き、歩き出した。
その時になって青年は気付く。青い魔獣が触れた地面が凍結していた。よく見ると青い魔獣からは目に見えるほどの白い霧——いや、冷気が溢れ、辺りに氷や水の粒が落ちている。冷気は背に乗る魔獣を優しくゆっくりと包んでいった。徐々に魔獣が凍っていく。白い氷で全身が覆われ始め、氷の彫像に変化する。
その不可思議な現状を目の当たりにして青年は、アレは普通の魔獣ではない——そう強く確信した——。
「ニゲラ……?」
すっかり夜が更けた。かつて存在した電気も何もない中、頼りになるのは炎の灯火だけであった。その炎を囲むように数人の男たちが座っている。錆びついた凹凸の激しい金属のポットを傍に置き、湯を温める。
ここはかつてデパートという建物であった廃ビル。今となってはデパートというものがどういう建物だったのか知る者はほとんどいない。知っている者がいたとしても彼らの大部分が人伝で聞いた内容しか知らない。だからこそ、彼らはこの建物に厨房や水道などの生活に必要な設備がそろっている理由を知らない。だが、昔のように使えないとしても設備や道具が揃っているというだけで彼らにとっては助けとなる。ここに人々が集まったのは、生活に役立つ設備があったからだろう。
また廃ビルの中には一階から五階までが吹き抜けとなった大きな広場がある。危険な魔獣がうろつく中で大勢の人が集まる安全な場所を確保できるのはとてもありがたい。自然と吹き抜けとなった大広場には人々が集まり、そこは彼らにとって憩いの場となっている。
今現在も大広場にはここで生活している大勢の人々がくつろいでいた。人々は身を寄せ合い、それぞれにグループを作っては小さな焚火を囲んでいる。焚火の傍にはポットすらもないグループもある。物資が不足する今、残された道具自体も貴重だ。このポット自体も貴重品であった。
ポットから湧く湯気がゆっくりと上へと昇っていく。それを目で追うと見渡す限りの群青よりも深く青い色の空が広がる。数えきれないほどの大小の星が煌めき輝いていた。
文明の発達に反比例して輝きを失っていた星々が今は深い夜の灯火となる。月明かりはもっと重要であった。壊れた建物の中でも快適に過ごせるのは晴天の星々のお蔭だろう。星々の輝きは美しく、人の心を和ませる。視界の隅に入る壊れた建物の天井やその残骸が少々目につくが仕方なかった。こんなボロボロの天井でもないよりはマシだ。雨が防げればそれだけでありがたい。
この世界に降る雨は毒そのものだ。昔から危険とされた酸性雨を始め、毒の混じった黒い雨や鈍色に輝く泥のような水が降る。触れただけで灼けるような痛みさえ覚えるほど危険なものである。そんな雨が作る川や泉の水はとてもではないが飲めたものではない。毒の雨は地面にまでも染み込み、地中の動植物の命を奪った。そのため、地下水も飲むことができなかった。
だからこそ、飲み水を確保するために人々は様々な手段を用いて水を浄水する。濾過、煮沸……あらゆる手段を用いるも、完全には毒を取り除くことができない。
そのような努力の果てに飲食できるようにした水でさえも人の命を奪う。
水は泥や土、言葉に言い表せない得体のしれない苦みや渋みの混じった味がする。体が丈夫な者が飲む分には味さえ我慢すればよい。だが、どんなに丈夫な者であっても健康を損ねる危険性があり、弱っている時に口にすれば最悪死に至ることさえもある。丈夫な者でさえも命を落とす毒の水に子どもや老人は次から次へと命を落とす。また、妊婦がそれを飲めば異常をきたした子どもが生まれるか、流産してしまう。
それでも、それ以外に飲み水を確保する手段がない。それ以外の水がない。だからこそ、人は水を飲まずに死ぬか、水を飲んで苦しみながら生きるかを選ぶしかない。
それでも、彼等は生きるために水を飲むしかなかった。
今、目の前で沸騰するポットの中の水も決してきれいとは言えない。だが、喉の渇きに人は水を求める。生きるために自らの命を縮める毒を口にする。
ボロボロの布を何枚も重ね合わせたミトンのような鍋つかみで一人の男性がポットを取った。男性のぼさぼさに跳ねた金髪が月明かりを浴びて反射する。よく見れば髪は痛んでおり、彼の健康状態が悪いことを物語る。体つきはヒョロっと細い体格であるが、そこそこ引き締まっている。食糧難であることを踏まえれば、彼の体格は健康体そのものだ。過酷な状況の中で彼に悲壮感がないのは、体躯だけの問題ではないだろう。無表情で冷淡さを感じさせないきりっとした顔立ちに、何よりも強い輝きを宿した青き瞳。彼が放つ強い生きる意志が現状の悲壮感を振り払っていたのだ。
金髪の男性は無言で掴んだポットから傷んだ金属のコップに白湯を注ぐと、それを向かい側に座る男性へと渡す。向かい側に火を挟んで座るのは黒髪を一つに束ねた青年であった。こちらは金髪の男性とは対照的に身長は平均よりも少し高いぐらいだが、体格は割とがっちりとしていた。だが、金髪の男性に比べるまだあどけなさが残る青年であった。大きな手でコップを受け取るや青い瞳でコップの中に注がれた白湯を見つめる。金属の底が見えるが、すりガラスを通して覗いているようだ。それは決して水がきれいではないことを物語る。これ以外に飲み水はないために、青年はゆっくりと確かめるように一口、白湯を口に含んだ。口の中に広がる苦味のような、渋みのようなえぐさ。けれども、今までの経験上、別段危険性はない。
「ん。問題ないぞ」
「別に毒見する必要ないだろう、ジェイク」
黒髪の青年の言葉に金髪男性は苦笑した。まるで子どもの相手でもしている兄のような態度だ。さほど年も離れていない相手に子ども扱いされるのが気に食わないのか、黒髪の青年は少しだけ眉を吊り上げる。彼の表情がより子供っぽさを強調させるのだが、本人は気付いていない。金髪青年もあえて彼の表情に気付かないふりをしながらもう一つのコップに白湯を注ぐ。
「ここにいる連中——特に大人になった連中は水に耐性があるんだからな。ほら、ウォルターも」
そう言いながら金髪の男性は自分の右隣にいる黒髪をオールバックにした男性・ウォルターへとコップを渡す。金髪の男性の傍にいたウォルターは二人に比べてはるかに体躯がよく、年も離れている。彼は先ほどから手にナイフを握っていた。そのナイフを腰のホルダーにしまい込み、コップを受け取る。だが、一口飲むとすぐにコップを地面に置いて、ホルダーにしまい込んだナイフをまた手にした。常に武器に触れていないと落ち着かないらしい。それならば片手に持っていればいいのだが、ウォルターにはそれができない。彼には左腕はない。肘の少し上から指先が存在しないのだ。
「ここにいる間は大丈夫だろう。ナイフぐらいしまったらどうだ?」
金髪の男性がウォルターの方を見て声をかけた。それにウォルターはニヤリと唇の端を釣り上げる。ナイフをオモチャのように扱いながら言った。
「仕方ねぇだろう、テリー。魔獣に腕喰われちまったんだからなぁ。あん時もナイフがあったから助かったんだしよ」
本来ならば語るのも辛いだろうはずの死に接近した過去の話をウォルターは惜しげもなく笑い飛ばしながら話した。まるで自分は平気だと言っているかのようだ。それにテリーと呼ばれた金髪の男性は溜息をつく。それから、ジェイクの方を見て、口を開いた。
「それで、ニゲラだったか」
すっかりとそれてしまったが、テリーは話題を戻す。先ほどまでジェイクは今日の昼に起きた出来事を二人に話していた。その中でも特に気になったのが、自分が遭遇した青い魔獣のことだ。明らかに普通の魔獣とは違う青い魔獣に何か心当たりがないかと二人に尋ねたところ、テリーがその魔獣のこと”ニゲラ”ではないのかと推測した。
「あぁ。知っているのか、テリー」
ジェイクは興味津々にテリーの顔を見つめる。テリーはポットを火の傍に置き、少し考えてからウォルターの方を見た。視線に気付いたのか、ウォルターは一度だけ頷くと少しだけ身を乗り出す。思わずジェイクも身を乗り出した。顔を寄せ合うやウォルターが声を潜めて話し出す。それだけであまり公にしたくない内容だということをジェイクは察する。
「俺のところに集まった情報によると、他の魔獣とは明らかに違う青い魔獣——俺たちは“ニゲラ”って呼んでいる魔獣なんだが、多分、お前が昼にあったのはそいつだろう。お前の言った特徴と一致している」
一度言葉を止めるとウォルターは天井を仰ぎ見た。壊れて天井から覘く夜空は、星がただ輝いているだけだ。再び視線をジェイクへと向けると語り出す。
「魔獣たちのボスではないかと言われている。他の魔獣との一番の違いは、そいつがいると魔獣はそいつに従う。いや、そいつが現れた途端、魔獣どもが人間を襲わなくなるんだ。それで助かったって奴が何人かいる」
話と自分の体験が一致する。ジェイクはあの魔獣がニゲラであることを確信した。
「味方……とは思えないが、敵とも言い難い存在だ。だが、他の魔獣たちよりも強いのは確かだ。アドルフがそんなものを作り出したってことはあまり公にしたくねぇ。それに何よりも味方に動揺をまき散らすかもしれねぇから黙っていることがある」
「黙っていること……?」
先ほどよりも声を潜めて、ウォルターが言った。常に周りに目を配らせているが、先ほどよりもさらに周りに注意を払っている。事前の話自体もあまり公にすべきではないのだが、もっと重大なことがあるようだ。
「他の魔獣たちにない力を持っている可能性がある。それと——知能も人間に劣っていない。その証拠に奴は魔獣たちの死を悼む。ある奴にニゲラの調査を頼んだんだが、ニゲラは魔獣たちの遺体と人間の遺体を一か所に集め、そこで墓を作るんだ。そして——どこからか花を持ってくる」
「花!? 花なんてどこにもないだろう!?」
草木どころか、雑草の一本も生えない世界のどこに花なんかが存在するだろう。今生きている人々は老人たちの話でしか花というものを知らない。実物を見たことさえもない。
「声がでけぇよ」
驚きのあまりに声が出てしまった。それにウォルターが軽くジェイクを睨み付けるが、彼がすぐに「悪い」と謝ると肩を竦めて溜息をついた。幸い、声に振り向く者はいたが、さほど気にもとめていなかった。こちらを気にしている者がいないことを確認するとウォルターは続ける。
「ニゲラが持ってきた花を持ち帰らせてジジイたちに確かめたから間違えはない。逆に言えばニゲラは植物が生えている場所を知っている。それが楽園なら絶望的だが、もし、楽園以外の場所であれば——」
「そこは土が生きているってことか……。ならば逆にニゲラを探した方がいいのではないか?」
ウォルターの言わんとしたことを察したジェイクは続きを口にする。それから思考を巡らせ、一つの案を出した。そんな彼にウォルターは大きなため息とつき、肩を落とす。テリーもやれやれと肩を竦めた。
「ニゲラは魔獣だ。楽園を自由に行き来できる。花だって楽園から持ってきた可能性の方が高いっての。んな可能性の低い方にだーれが希望を賭けるってんだ?」
「あ、そうか……」
言われてジェイクは納得した。魔獣は楽園を唯一自由に行き来できる存在だ。自由に行き来できる以上、どこかに楽園への入り口があるはずなのだが、誰一人としてそのありかを知る者はいない。仮に見つけたとしてもそこはおそらく魔獣たちの巣窟だろう。一歩でも足を踏み込めば命はない。
「ったく考えが浅いな、ガキ。所詮、ニゲラもアドルフが生み出した化け物だ。殺すべき対象だよ。例え、人間の命を慈しむ奴だとしてもな」
まるで自分に言い聞かせているようだとジェイクは感じる。他の魔獣と違うという理由だけでは味方だとは断言できない。命の尊さを知る魔獣と知って迷い、仲間を危険に晒すわけにはいかないのだ。特にウォルターはホープの地区部隊長である。この地区——タイガービル地区のホープの仲間たちの命を預かる身だ。軽率な行動で仲間を危険に晒しまいと己を律する。
また、ホープは地区を超えて団結した組織だ。目的は楽園の主であるアドルフを倒すこと。そのホープの地区部隊長を努める者が感情のみでアドルフが生み出した生物を危険がないと判断することは他の地区への不信感を高めることにもつながる。彼はそれがわかっているからこそ、判断材料がない今、ニゲラのついての情報を公にしていないのだ。
ふいにテリーがそっとジェイクに耳打ちする。
「過去にウォルターはニゲラと遭遇している。片腕を失った時だ」
「!?」
思わずウォルターを見た。気付いているのだろう。しかし、ウォルターは知らないふりをして手にしたナイフを見つめる。
「ナイフ一本で応戦している中、ニゲラが庇ったと聞いている」
偶然かもしれない。だが、ニゲラがいたことで彼もまた命を取り留めたのだ。それが彼にわずかな迷いを生じさせるのかもしれない。同時に自分の立場を理解した上で行動するウォルターに疑念を抱かせる不思議な魔獣・ニゲラへの好奇心が沸いた。
「アドルフはどうやって魔獣を生み出したんだろうな。今まで魔獣は生物兵器だとしか思っていなかったが、ニゲラみたいな魔獣もいるとなると簡単な話ではないな。楽園には生物がいるからこそ、その生物を遺伝子操作で組み合わせて作ったと思ったが、遺伝子操作できるものとは思えない。そもそも、楽園には一体どれだけの技術があるんだ? 自動的に電気やエネルギーを生み出せるんだったな。だが、当初は自給自足できるほどの食糧や食糧調達はまだ不完全だったはず。アドルフがその技術を確率したのは世界退廃後だと爺さんは言っていたんだが……。生物はそこにいたのか? いなかった場合はどうやって動植物を生み出していたんだ? それとも、昔の連中はそれだけすごい技術を持っていたのか? 大体七十年前だが、当時はどれだけの——」
ぶつぶつと独り言を呟き始める。それを見てウォルターが額に手を当てた。
「出たよ、科学者の孫」
「言っていることはあまりわからないが、ジェイクのじいさんのお蔭で今の生活ができるんだ。何よりもジェイクもいろんな武器や道具を作ってくれる」
テリーは苦笑しながらも優しくジェイクを見守る。実際に彼等の技術によってタイガービル地区は助けられているのだ。だからこそ、彼等の思考を邪魔するわけにはいかなかった。
ジェイクの祖父・オリヴィエ。七十年前、世界が退廃し人々が窮地に見舞われた中で科学技術を人々のために使った科学者だ。楽園の主であるアドルフほどの技術や知識を持っていなかったものの、オリヴィエもまた浄水器を作り出したのだ。毒を完全に取り除くことができなかったが、かなり浄水できる優れたものであった。彼が作った浄水器のお蔭で子どもや老人の死者が大幅に減り、今現在大人として生きている。また、彼はその技術を独り占めすることなく他の地区の人々にも授けたのだ。
その孫であるジェイクもまた昔戦争に使われた銃や剣、盾などの武器を作り出し、魔獣との戦いに貢献している。何よりも彼自身も戦いに参戦しているのだ。彼の作った武具のお蔭で魔獣との戦いにおいて死者も大幅に減少した。
「二人のお蔭で以前に比べてはるかにましな生活ができるようになったんだ。好きにさせていいだろう」
「そうだな」
優しくジェイクを見守るテリーの言葉にウォルターが静かに頷く。言葉を交わしながら二人は自分達の置かれた世界を改めて思い返す。
世界が退廃した日、彼等はまだ生まれてもいなかった。だが、父や母、祖父母から当時の話を聞いて育つ。昔の未知な世界に憧れを抱きつつ、恐怖を抱く。
世界が退廃したあの日、風は荒れ狂い、雷は地を制し、地は人を飲み込んだ。異常気象と共に訪れた数々の災害に人々は全てを失った。生き残った者たちは辛うじて残った大型のビルなどの建物に身を寄せ合い、共同生活をするようになったのだ。だが、最初の頃は秩序もなく最悪だったという。
数少ない食糧を求めて争い、殺し合うことが日常——。特に地区同士での抗争が多く、わずか二十年でいくつもの地区が潰れ、大勢の人が命を落としたという。下手すれば異常気象よりも人により殺し合いの方が犠牲者が多かったのではないかといわれるほどだ。
それが協力し合うような関係になったのは、皮肉にもアドルフが食糧を生み出し、それを独占するようになってからだ。人々は利害の一致でより協力し合うようになる。同時に共通の敵・アドルフを倒すためのホープが結成されたことにより地区ごとの協定も生まれた。最も移動手段が徒歩以外残されていないために地区ごとの協力などほとんど存在しないも同然である。そのため、他の地区がどのような状態なのか知る手段はほとんどない。精々、他地区の情勢を知ることができるのは、年に数回行われるホープの会合ぐらいだろう。
「魔獣もいいが、ジェイク」
魔獣についていろいろと考え出したジェイクにウォルターは声をかける。科学者という者は変わり者が多いのか、彼も彼の祖父も一つのことに没頭すると周りが見えなくなることがある。ひどい時はそのまま暴走してしまうので、話題を変えることで止めることにした。
「ん? なんだ?」
呆れた口調で話しかけて来たウォルターに気付き、ジェイクは顔を上げる。ウォルターの方を見ると大きなため息をつかれた。だが、なぜ溜息をついたのかわからないジェイクは首を傾げる。
「武器の開発頼んでいいか? 此間他の地区の連中から聞いた話なんだが、アドルフの奴、また強力な兵器を作り出したらしい」
「わかった。なら——近くで何か使えるものを探してみる」
物資も何もないほど荒れ果てた世界に残されたのは使えるかどうかもわからないガラクタばかり。そのガラクタを組み合わせることで人々は生きる力を得て来た。新しい武器を作るとなるとまずは材料集めが必要となる。その材料はガラクタである。ガラクタがあるのは辛うじて残った建物や津波や土砂崩れで一か所に集められたガラクタの山ぐらいだ。その中で一番使えるだろう道具やガラクタが残っていそうな廃工場を一か所思いついたジェイクは明日の計画を練り始める。
「明日、アンダー工場に行ってみる。保管庫から道具持っていってもいいか?」
「あぁ、構わねぇ。気を付けろよ」
ウォルターに許可をもらうやジェイクはコップを床に置いて地下にある保管庫へと向かった。
アンダー工場は歩いて三時間はかかる場所にある。そこに行くまでに恐らく魔獣と遭遇する可能性があるだろう。本来ならば誰かを数人で行くべきなのだが、周りの反対や忠告を無視して過去何度も足を踏み入れたことがある彼は一人で往復する自信があった。
特に誰かを誘うこともなく、アンダー工場に行くための準備を始める。物資はほとんどないが、使えそうなものは全て地下の保管庫にしまっている。地区のリーダーとホープの地区部隊長であるウォルターが管理しているために許可がなければ入ることも物資をもらうこともできない。その許可をもらい、彼は必要なものを揃えている。最も棚などがないので足元や部屋の隅に乱雑に放置されているために探し出すのも一苦労する。
必要なのは武器だ。彼が扱うのはリボルバーとナイフ。流石に武器等は危険なので、それだけは箱に入れられ、管理されている。その中から銃弾と二本のナイフを取り出した。
銃弾を作れるのは自分だけだが、作った武具はすべて皆が使えるように保管庫にしまっている。最もこっそりと作り、自分で用意しているのだが、誰かから何かを頼まれた際は保管庫から取り出すようにしている。ここで保管庫から取り出さねば、無許可で外出している常習犯だとばれてしまうだろう。
リボルバーは弾を多めに用意し、ナイフは常に携帯するように一本をベルトのホルダーに、もう一本の予備のナイフをバッグへと詰め込む。他にも水筒と持ち運びができ、かつ保存が効く干し肉を用意する。数少ない包帯などの医療道具も少しだけバッグへとしまい込んだ。
一日で済ませるつもりなので多くは持っていかない。だが、何が起きるかわからないために準備は万全にする。だが、物資が少ない以上、最小限しか用意はできない。
こんなものかと思いつつ、明日に備えてもう寝ようと思い、彼は地上へと向かった。
「ジェイク」
地下から出るや女性の声が響いた。振り向くと女性と彼女と小さな男の子がいた。
女性は黒髪のショートカットでスラリとしたスタイルだ。そんな女性が手を引くのは五歳ぐらいの男の子。女性とよく似ている愛らしい子どもなのだが、年齢の割に小さくやせ細っていた。女性の握る少年の手はとても細く小さい。
「ベティ、ジョン」
二人に気付き、呼ばれたジェイクは近付く。
「明日、アンダー工場に行くの?」
近付くや女性・ベティが不安そうに尋ねて来た。上目遣いに自分を見る大きな青い瞳には涙が浮かんでいる。外に出ることはこの上なく危険だ。皆、そのことを承知している。そんな中で遠くに行くジェイクを心配して彼女はやってきたのだ。
「あぁ、そのつもりだ。何度も行っているし大丈夫だ」
「何度も……?」
ピクリとベティの整った眉が動く。勘が良いベティはその単語だけですべてを察したようだ。眉を吊り上げ、剣幕な表情を見せる。
「ちょっと! 一人で何回も行っているってこと!?」
安心させるつもりで言ったのだが、逆に失言であった。ジェイクはしまったと後悔するが後の祭りだ。ベティの説教モードが始まる。
「あれだけ一人で勝手に行くなって言われたのに行ったのね! 何考えているのよ! ウォルターさんに報告するわよ!」
「あ、いや、その、……すまない」
言葉を濁し謝るしかなかった。どうしようかと視線をさまよわせながら、彼女の機嫌を直す方法を考える。ぐいぐいと詰め寄ってくる彼女から逃げるように視線を逸らすと、ベティの後ろできょとんとしている男の子・ジョンと目が合う。
「そうだ、ジョン」
ベティの脇をすり抜け、ジェイクはジョンへと近づくや彼を抱え上げた。
「何かおもちゃを作ってやろう。どんなのがいい?」
「んーんとね。ちぇん」
「ちぇん? あぁ、剣だな」
舌足らずで答えるジョンにジェイクは微笑み、声をかける。最もその程度でベティのお怒りが解けるわけがないのだが……。
「ちょっと、ジェイク! 話を変えないの! 私は——!」
「大丈夫だ」
怒鳴るベティの言葉を遮り、ジェイクは強い声で答える。彼の声音にベティがふいを打たれたかのように少しだけ目を見開いた。先ほどまで右往左往していたというのに、ジェイクは次の瞬間には揺るぎない強さを見せる。決して死にはしないと訴えかける青い瞳がまっすぐに彼女を捉え、言葉を奪っていった。
「絶対に帰ってくる。だから、安心して待ってろ」
ジョンを片手で抱え、もう一方の手で彼女の肩を掴んだ。大きな手に包まれる自分の肩。彼の手に自らの手を添えながら彼女は呟くように言った。
「……父さんや兄さんたちみたいに……死なないで……」
「あぁ、俺は死なない」
今生きる人の大半は家族を失っている。魔獣に殺された者、病で命を落とした者、水の毒に耐え切れず命を失う者、大人になれない子ども……。ベティの家族もそうやって命を落とした。父と兄は家族のために魔獣と戦い命を落とした。妹と弟も大人になれなかった。母も最期に末弟の命と引き換えに亡くなった。
幼い頃から共に育ったジェイクは彼女にとっては家族も同然だ。だからこそ、不安で仕方ないのだろう。そんな彼女を抱きしめ、彼はもう一度口にする。
「大丈夫だ。帰ってくる、必ず」
太陽の光——。残された本や文献によく表現される太陽。けれども、それは決して物語に出るような穏やかなものではない。灼けるように人を、世界を照らすか、暗く厚い雲に隠されるかだ。今は晴れ渡り、気温は四十度近くに達している。だが、夜は砂漠のように冷え込み、マイナスにまで下がる。気温さえも人類の敵となってしまった。
灼けるような日差しは壊れた天井の隙間から差し込んでくる。暗い建物の中を照らす灯りともなるが、自らの体力も奪う敵となる太陽の光。日差しを薄汚れた布を頭に被ることで防ぎながら彼は歩いた。
足元を何かわからない瓦礫が埋め尽くしている。転倒しないように注意を払いながら、中を探索する。鉄鋼の飛び出した瓦礫とボロボロに崩れた壁の跡からかつて存在しただろう建物の形と構造、内装が想像できる。そこから推測するにベルトコンベアでも使い、流れ作業でもしていたかのような構造と機械があったということがわかった。また、残された壁や天井の端が丸みを帯びていることから気温の著しい差と雨風に風化したことを推察できる。所々に酸で焼けただれて溶けた部分も存在した。もはやここが工場であったということ以外の証拠は残っていない。一体、ここで何を作っていたのかは今となっては決してたどり着くことができないだろう。
だが、彼は何度もこの場所に足を運び、ここがただの工場ではないことを知った。工場でありながら研究施設も兼ね備えた建物であることに気付いたのだ。ほとんどの道具、建物も家具などが壊れて原形を留めていないが、それでも辛うじて残った部分から過去の情報を得ることができる。その中でも瓦礫に埋もれたために無事に残ったものが存在する。彼の目的は過去を知ることと同時に奇跡的に残った過去の遺物を見つけ出すことだ。瓦礫だらけの足場が悪い建物を彼は一人で歩く。
ふいに背後で何かを踏みしめる音が響いた。音からして人の足音ではない。人よりも重たい生物だ。だが、人間以外の生物はほぼ死に絶え、皆無と言っても過言ではない。自ずと背後にいるものの正体がわかった。
決して振り向かない。手だけを腰のホルダーに持って行き、そこにしまったリボルバーを手にする。だが、まだ抜かない。息を潜めて近づいてくるのがわかる。足音と気配から距離を測る。七メートルはある。だが、大きさからして相手が一瞬で詰め寄る距離だ。速さ的には相手が上だ。飛びかかってくれば一瞬で終わる。当然、振り向く間に殺されるだろう。先手を打とうに咄嗟に振り向けば飛びかかってくるだろう。対処は一つだ。
ホルダーに入ったままの銃の引き金に指をかける。そして——引き金を引いた。
銃声が響く。ホルダーを貫通した銃弾が地面に着弾した。そのお蔭か、背後からの殺気が緩む。いや、突然の銃声に怯んだようだ。その隙をつき、ホルダーからリボルバーを抜きながら振り向く。その目で敵を捕らえた。
イヌ科のような四足の体を持ち、けれども、顔はワニと蛇を合わせたような化け物——魔獣。振り向いた彼に気付くや慌てて魔獣は駈け出した。だが、これ以上距離を詰めるのを許さない。走り近づいてくる魔獣の目を狙いつつ、後退しながら構える。引き金を引いた。
「キャン!?」
まるで子犬のような悲鳴を上げながら魔獣は飛び退く。魔獣の目元から青い液体が飛び散り、だらだらと流れ落ちた。そこに続けざまに四発の弾を叩き込みながら距離を取る。六発しか装填できないためにすぐに弾切れとなった。距離を取りつつ相手の様子を窺いながらリロードを急ぐ。途端、ぐにゃりとした感触が靴を通して伝わった。
「!?」
目の前にいる魔獣に集中していたため、足元への警戒を怠ってしまった。何か柔らかいものを踏んだ。それが何かを確認する余裕はない。目の前ではまだ魔獣が立っている。先ほどまでは攻撃されたために様子を窺っていたが、銃撃が止んだために魔獣は反撃へと出ようと地を蹴った。幸いにもすぐにリロードを終えた。すかさず心臓があるだろう胸元を狙い、銃口を向ける。引き金を引いた。銃弾が魔獣に直撃し、目の前で青い花が散る——同時に大きな衝撃を受けた。
「え……?」
口から溢れ出る生暖かい液体。それが自らの血液だと悟るのに多くの時間を要しなかった。腹部に感じた衝撃。一度認識すれば錯覚か、痛みを帯びた熱をそこに覚える。ゆっくりとそちらに視線を移せば、人間の腕ほどの太さがある灰色の縄のようなものが自らの腹部を貫いていた。
背後から貫いたのだろう。正面を向けば縄の先がある。縄の先にある平べったいひもがチョロチョロと動いていた。それが蛇であることがすぐに理解する。灰色の鱗に覆われた大きな蛇。
だが、その顔はただの蛇ではない。鼻と思われる部分が尖り、まるで貫くために生み出された刃のようだ。蛇はチョロチョロと動く舌をしまうや体を捻り、鼻先を彼へと向け飛びかかったのだ。大きな体はまだ彼の体を貫きえぐりながら通る。
まだ体の半分も通り抜けていないというのに蛇は彼の体を貫いたまま状態で、彼の右目を狙い飛びかかろうとする。体をひねり咄嗟に攻撃を回避するものの、余計に傷口を抉った。さらに蛇の体が抜け、腹部に大きな風穴ができた。そこから大量の鮮血が溢れ出す。
一瞬にして流れ出た血液。体の中で圧が急激な変化をもたらす。目の前が暗くなるのを意識するや否や意識は深い闇へと落ちていく。力を失った四肢は膝から落ち、彼はその場へと倒れた。
ゆっくりと蛇は体をひねらせ引き下がる。赤い液体で染まった自らの体を細く小さい舌で一嘗めした。そして、目の前で倒れた生物が微動だにしないことを確認してゆっくりと近付く。頭部へと近付き、その耳を見つめる。蛇が口を開けた。そこには蛇ではありえぬ鮫のような無数の鋭い歯とあごが存在した。蛇はその口で食いちぎろうとあぎとを向ける——。
だが、蛇の体は突如として宙へと浮かぶ。蛇は戸惑い、威嚇しながら自らの体を掴み邪魔をした存在を睨み付ける。すぐにでも飛びかかろうとしていたのだが、自分を邪魔した存在が誰かを知るや威嚇を止めた。まるで人間のようなばつが悪そうな態度で大人しくなる。
「ダメよ、人間を襲ったら」
鈴のような声。白く細い手で成人男性の腕ほどある蛇を掴む。風に緩やかに揺れる髪は深い青で、蛇を捕える瞳は黄金。けれども、それは人の姿をしていた。
「アンディ、怪我は大丈夫?」
目を銃弾で撃たれた魔獣へと人の姿をしたそれは黄金の瞳を向けながら声をかける。ワニと蛇を合わせたような顔を持つ四足の哺乳類のような魔獣は片目をつむりながらもゆっくりとした足取りでそれに近付く。そして、うやうやしく首を垂れた。まるで王に頭を下げるように——。
そんな魔獣に黄金の目の主は優しく手を伸ばす。顔を優しく撫でながら、傷口を見た。
「怪我の手当てをしましょう。それから——」
黄金の目は倒れる人間の青年へと向けられる。
「オリヴィエ……?」
少しだけ驚いたような声でそれは呟いたが、頭を横に振り続けた。
「彼を運ぶのを手伝って——」
しわだらけの手でガラクタにしか見えない金属を、繋ぎ合わせていく。それをじっと見つめていた。ガラクタがゆっくりと形を変えてフライパンやナイフ、フォークなどと日常に必要なものに変わったり、それらの代用品に変わっていくさまをずっと膝の上で見ていた。肌を通して伝わるぬくもりが心地よかったことを今でも覚えている。
ふいにしわだらけの手が止まり、目の前へと近付く。大きな手が頭を撫でた。黒髪がぼさぼさに乱れる。
「ジェイク」
懐かしい声が自分を呼ぶ。祖父の声だとすぐにわかった。ゆったりとした優しい口調。声はわずかにしゃがれていたが、それでもしっかりしていた。祖父の声を聞くとまどろみの中にいるかのような気持ちになる。優しくて立派な人だった。自分や世界のことをいつだって考えている人だった。
そんな中で祖父は固い声音で告げた。
「科学は人を助けるためにあるんだよ」
祖父の口癖——。祖父は科学者。タイガービル地区で浄水器を作り人々に貢献した。さらにその技術と開発した浄水器を他の地区の人々にも分け与えた、アドルフとは違う立派な科学者であった。
そんな祖父に憧れて、自分も科学について学んだ。祖父が亡くなる頃には祖父と共に武器を開発できるまでの腕前を身につけ、それがとても嬉しかった。だが、祖父は武器を作ることに抵抗があったようだ。そのため、武器開発には協力してくれるだけで、自身が作ることはついぞなかったのを覚えている。武器が完成する間際に祖父は亡くなった。最後まで武器を作る事に迷っていたようだ。こんな自分を祖父がどう思うかはわからない。
「アドルフもそのために頑張っていた……。だから、ジェイク。例え報われないとしても知識と技術は誰かのために使いなさい。例え、自らの技術が争いの火種となり、大切な人を失っても——」
聞きなれない音が響く。擬音語にするならば、ガガガガガガッやウイィィィィン、ジーといったような音だ。人の声でも生物の声でもない。たまにバチバチという音も聞こえて来た。あまりのうるささに閉ざしていた瞼を開ける。灰色の空が広がり、いくつかの白い丸が仄かに輝き浮かんでいた。意識がしっかりするのに伴い、視界がはっきりとする。そこで自分が見ているのが灰色の天井と小さな白い光を放つ灯であることを理解した。しばらくそれを眺めていたが、異変に気付く。天井が違うのだ。自分のよく知る建物はその大半が天井にひびが入るか、どこか崩れて穴があいている。今、自分が見ている天井は端から端まで見渡しても綺麗に整備されており、ひび割れ一つなかった。ここが自分の知る建物ではないことがわかり、慌てて飛び起きた。同時に腹部に鋭い痛みが走り、うずくまる。
「っ……!」
声が零れる。まるでその音が聞こえたかのように先ほどから響いていた音が突如として鳴りやむ。余韻が消えるやカツカツと足音が響き出す。人がいるようだ。段々と足音は大きくなる。近づいて来ている。
『人……? 敵か味方か……?』
魔獣に襲われたことまでは覚えている。その後、気が付けばここにいた。見知らぬ建物の中ではあるが、十中八九誰かが助けてくれたのだろう。だが、その助けてくれた人物が仲間だとは限らない。もし、楽園の者であれば情報を聞き出すために自分を助けたのかもしれない。拷問される可能性があった。警戒しつつ、情報を少しでも得ようとした。
辺りを見回す。特に何かがあるわけではない。いや、何もない。自分が座るベッドの横にサイドテーブルがあるだけだ。テーブルにはリボルバーとホルダーが置かれている。それは自分が愛用しているものだ。
『不用心だな。少なくとも敵なら武器を没収しているはずだ。味方……か?』
念のためにリボルバーをとり、弾数を確認する。装填してから一発しか撃っていないために五発入っていた。リボルバーを握り、シーツの下に隠す。足音が聞こえてくる扉の方へ目を向けた。扉はそこに一つしかない。窓もない。唯一の出入り口はそこだけだ。逃げるならば入って来た人物を押しのけなければならないだろう。だが、状況がわからない以上大人しく様子を窺う。
足音はさらに大きくなる。音からしてもう部屋から五メートルも離れていない。耳をすませばよりはっきりと足取りがわかる。何かを持っている。だが、戦いに慣れた者の足取りではない。足音から女性——子どもぐらいの体重だとわかる。逃げる分には問題ないだろう。何よりも足音と共に聞こえてくる鼻歌。声は高く女、それもまだ幼さが残る子どものものだとわかる。能天気な性格なのだろう。
「入るわよー」
少女の明るい声と共に扉が一人でに開いた。自動的に開いた扉の前に一人の少女が立つ。両手には大きな箱を抱えていた。自動的に開く扉だけでも驚きだというのに、それ以上に驚愕するものが存在した。そう、機械よりも彼は目の前にいる彼女の容貌に言葉を失った。
まるで深い夜空のような青く長い髪。その中に浮かぶ満月を表すかのような黄金の瞳。肌は真っ白でまるで色素がないようにも見える。そう白すぎるのだ。だが、少女は人間だ。肌は生まれつきだとしても目と髪の色は異常である。昔ならば髪は染色、目もカラーコンタクトという道具があったので不自然ではない。だが、文明が滅んだ今、それらの道具はないはずだ。
「あ、動けるっぽいね。でも、お腹に風穴あいているから無茶しちゃダメだよ」
子どもを諭すように言いながら少女は彼の傍に来た。手に持っていた箱をベッドの足元に置く。蓋を開けて中身を取り出した。入っていたのは円筒型の容器と透明なコップ。それから紙袋を取り出した。
「これ、薬」
言いながら少女は小さな紙袋を彼に渡す。受け取り重さからして数種類の薬が入っていることがわかる。中身を開けてみると、予想通り数種類の薬が入っていた。粉末状のもの、カプセル状のものと様々なものがある。
「痛み止めと解熱剤、それと——」
言いながら少女は円筒状の容器についている蓋を取り外し、その中身を透明なコップに移す。円筒状の容器は中身が見えなかったが、透明なコップに移されることで中身が見えた。さらさらと輝きながらコップへと注がれるのは透明な水だった。思わず透明な水へと目が奪われる。
どんなに足掻こうと濁った水しか手にすることができない世界の中で今、目の前に向こう側が透けて見える水がある。傷の痛みさえも忘れて思わず少女の方へと身を乗り出した。
「それ!」
「え!? な、何!?」
突然、身を乗り出してきた彼に少女は驚き後退りする。すっかりおびえてしまったようだ。少女の怯え方に彼は申し訳ない気持ちを抱く。
「あ、すまない。その、水があまりにも綺麗だったから、つい——」
慌てて彼は謝罪した。しばらく目をぱちくりさせていた少女だが、彼の言葉で合点がいったのか微笑みながら近づいてくる。手にしていたコップを彼へと差し出しながら言った。
「そうだったわね。世界中の水が毒も同然になってしまったんだったわ。はい、どうぞ」
「あぁ」
差し出されたコップを彼は受け取る。改めてガラス越しに水を見る。不純物一つない透明な水だ。夢にまで見た水が今目の前にある。どんなに望んでも手に入らなかったというのに皮肉にも怪我を負って手に入れた。
「珍しい?」
興味深そうに少女が尋ねてくる。黄金の瞳がきらきらと子どものように輝いていた。
「あぁ。遅くなったが、助けてくれたのはお前だな。感謝する」
きれいな水に驚き忘れてしまっていたが、自分を助けてくれたのは彼女だ。彼女に礼を述べる。すると、少女は微笑みながら首を横に振った。
「いいよ、気にしないで」
「……俺はジェイク。お前は?」
彼女は敵ではないだろう。そう判断したジェイクは名乗るそれを聞いた彼女もまた名乗った。
「アイビーよ」
優しく微笑む少女・アイビーはジェイクへと顔を近づける。そっと額に触れた。その手は異常に冷たい。本当に生きているのかと疑いたくなるほどだ。
「熱、少しあるね。シャワーは無理だね。やっぱり体拭いてから包帯替えようか」
「あ、あぁ」
甲斐甲斐しく世話をしようとするアイビー。気合を入れるように両手を握りしめる。そんな彼女に少しだけ戸惑いながらジェイクは頷いた。
「じゃあ、タオルとか取ってくるわ。ちゃんと薬飲んでね。ここではそんなに貴重なものじゃないから気にしなくていいよ」
それだけを言い残し彼女は部屋から出て行く。手に持ったままの薬とコップを見て彼女は気を使って言ったのだろう。
ここまで綺麗な水は貴重だ。薬になればもっと貴重になる。それを見ず知らずの人間に何の躊躇もなく、それも一度に数種類を彼女は渡した。ただのお人よしか、あるいは彼女にとって本当に貴重ではないか——のどちらかなのだろう。
もし、後者なればここは楽園、あるいは楽園付近なのかもしれない。だが、もしそうならばなぜ自分がここにいるのか見当もつかない。自分がいた場所は楽園から離れた——それこそ人の足では二日以上かかる場所にある廃工場であった。それをわざわざ助けて楽園まで連れて来たとは思えない。
ならば前者かと辺りを見回す。整った内装からしてここが楽園以外だとは思えない。仮に楽園でなければ、ここはどこで、彼女はどのようにして薬と水を入手したのか甚だ疑問である。
大きなため息を零した。ここで考えても何も始まらない。今は傷を治すことが先決だ。それこそ、何かが起きた時に対処できるだけの体力は取り戻しておきたかった。怪我が治るまで恐らくは彼女が敵に回ることはないだろう。だが、アイビーという少女が何者かわからない以上、油断はできない。何よりもここにいるのが彼女一人とは限らない。本人に悪意はなくとも、彼女の周りはそうは思わないだろう。だからこそ万が一を考えて今は彼女を信じて休むことにした。
薬そのものも疑わしいが、アイビーの様子や丁寧に手当てされた傷口からわざわざ変な薬を使い貶める必要があるとは思えなかった。いくら怪我しているとはいえ、少しでも敵意や疑いがあるのならば、身動きを封じるはずだろう。それがないということは、少なくとも彼女に敵意がないということだ。信頼して薬を飲むことにした。
念のために水を一口含む。苦みもえぐみもない水。これが本来の水の味なのかと感嘆した。水の美味しさに疑念はどこかへと消え去る。そのまま薬を飲み込んだ。
薬を飲んでからベッドに横になる。同時に扉が開いた。先ほどの少女——アイビーが戻って来たようだ。
「おまたせ、あれ? 寝ちゃった?」
入るなり、ベッドに横になったジェイクを見てアイビーは小さく呟く。足音も忍ばせてゆっくりと近づいてきた。
「いや」
戻ってくるまで時間がかかるだろうと横になっただけだったのですぐにジェイクは上半身を起こす。ふいにアイビーが悲しそうに眉を潜めた。
「ひょっとして起きているのきつい?」
「平気だ」
気遣うアイビーにそう言って彼女の方を見た。彼女が近付いてくる。。両手にたらいとその中にいくつものタオルを入れて持っていた。そんな彼女の足元には変わったものがある。いや、瓶やら変わった道具やらを入れた四角の箱が彼女についてまわっているのだ。まるで生きているようだ。
「……それは?」
足元で自動的に動く箱に目を向けながらジェイクは尋ねる。
「運搬用ロボット。荷物が多い時に使っているの」
「ロボット……。誰が作ったんだ?」
機械でさえ貴重だというのに自由自在に動き回るロボットがいるということは驚きであった。いや、ロボットとなるとそれを所持しているのは楽園しかありえない。彼女は楽園の者なのだろうかとジェイクは疑いの目を向けた。だが、彼女はそんな彼の視線など気にもせずに静かに答える。その態度は何一つとして疑っていない。こんな世界では自然と疑心暗鬼となるというのに、彼女は違う。無邪気な子どものようだ。
「この子は私が作ったロボットよ。設計図見ながらいろいろ作れるし、自分でも考えて作るよ」
「お前が、作ったのか……!? すごいな。俺ではここまでのものは作れない」
驚きのあまり傷の痛みを忘れる。世界の退廃に伴い、人類の文明は一気に退化した。そのため、人は文字を忘れ、かつての知識と技術をも喪失した。そんな中で現在も知識と技術を持つのはアドルフぐらいだ。そして、祖父や自分のような数少ない科学者である。このことから彼女も同じ科学者なのだとわかった。改めて彼女が作ったロボットをまじまじと見つめた。四角の箱に四つのタイヤを付けただけのように見えるが、恐らく箱は取り外すができるタイプだ。本体は平べったい板にタイヤをつけただけのものだろう。だが、その少ししかない本体はアイビーを認識して動いている。
アイビーが支度にとりかかろうと動き出した。それと同時にロボットも動き出す。彼女に踏まれないように、かつ彼女の手が届く範囲で邪魔にならないように距離を保ちつつ彼女の動きに合わせて動いている。
「包帯は足りるね。服の替えもこれで大丈夫かな? 男物ってあんまりないから。パパのも小さいだろうし」
ロボットの箱に入れた服と包帯を取り出しながらアイビーは呟く。
「パパ? 父親がいるのか?」
彼女の呟きにジェイクは眉をひそめた。やはりここにいるのは彼女だけではないようだ。そのパパという人物が気がかりだ。どんな人物か知ろうとアイビーの方を見る。彼女は苦笑していた。
「うん。けど、ここにはいないよ。パパはなかなか出てこないから。パパにはあなたのこと言ってないから大丈夫だよ」
道具を一通り箱から出しサイドテーブルの上に置くと、アイビーはジェイクの横に立つ。
「体拭くから服を脱ごうか」
「い! いや! 自分でできる!」
いくら怪我をしているとはいえ見知らぬ少女にそこまで世話になるわけにはいかなかった。慌てて断るが、アイビーは困ったように眉を潜める。
「でも、包帯も替えるから一人だと大変だよ」
「慣れてる! 大丈夫だ!」
「……わかった。じゃあ、外にいるね」
諦めたようにアイビーは溜息をついた。それから道具を乗せたサイドテーブルをベッドのすぐ傍にまで動かすと部屋の外に出る。彼女が出た扉が閉まったところで彼はほっと胸を撫で下ろした。いくら怪我をしているとはいえ、やはり年頃の少女に体を拭いてもらうのには抵抗がある。
『ばれたら、ベティに殺されるかもしれないしな……』
不安げに帰りを待つ嫉妬深い恋人の怒った表情を思い浮かべながら溜息をつく。
「いたか?」
「いや、いない」
大柄で黒髪の男性は自分に近付いてきた金髪碧眼の男性に尋ねた。だが、金髪の男性は首を横に振る。あまり表情に変化がみられない彼の青い瞳にも憂いが宿る。
「そう、か……」
大男は呟くように言いながら溜息を零した。手に持つナイフを腰のホルダーにしまい、片方しかない腕で黒髪をかき乱す。諦めたように視線を足元へと移した。半壊した天井の隙間から差し込む光に当てられた地面に壊れたガラクタや建物の残骸が残る。そこに広がる黒い液体が乾いた痕。何者かが怪我をしたということが予測できる。また付近には人間とは異なる青い血の痕が遺されていた。魔獣の血だ。十中八九魔獣と人がこの場で争ったのだろう。そして、争った人物についてはおおよその見当がつく。
乾いた血痕の付近に残されたかすかな足跡。砂と埃で汚れた灰色の床には足跡が残りやすい。争ったためにいくつかは消えていたり、かすれていたりしたもののはっきりと足跡が残っている部分もあり、その足跡の大きさから男性のものだとわかる。できた時期も新しく、ちょうど仲間が行方不明になった時期と重なる。事前に仲間はここに来ることを報告したので、この足跡は仲間のもので間違えないだろう。
「ウォルター、遺体がない以上、別の場所に避難している可能性がある」
眉をひそめ、乾いた血の痕を見つめる大男——ウォルターに金髪の男性が声をかける。「わりぃ」と言いながらウォルターは彼の方を振り向いた。自分と同じように仲間を心配している。そんな彼の頭を大きな手でわしゃわしゃと撫でた。それにはさすがの金髪男性も不機嫌そうな表情を見せ、すぐにその手を払い退け、少しだけ唇を尖らせる。
「いつまでも子ども扱いするな」
「ガキみたいなもんだっての、テリー」
子どものようにひねるさまはまさに子どもだ。何よりも彼にとっては年齢など関係なく、実の弟のように思っている。
「これでも五つしか変わらないだろう」
文句を言う金髪男性——テリーに口元に悪ガキのような笑みを向けるウォルターだが、ふいにその目を鋭く細める。何を見ているのだろうかとテリーも視線をそちらへと向けた。乾いた血痕から三、四メートル程離れた箇所に足跡があった。いや、足跡を消したような跡がある。何かが通らない限り足元の埃や砂は払われない。なのに、一定の間隔を開けて二つの丸い跡が交互に並んでいる。形が綺麗な丸だ。まるで人工的につくられたかのように不自然である。交互に並んでいることから足跡を消したものだとわかる。さらにはその隣には獣の足跡が残っていた。
「ジェイクのものか? 魔獣に追われて逃げた……?」
テリーが呟きつつ、不自然だと疑問を抱く。そんな彼の傍でウォルターは足跡らしきものに近付き、屈んで跡をじっくりと確認した。人の足跡のようだが、その大きさは先ほど見つけたものよりも小さい。
「小さいな」
彼の呟きにテリーも近付き、足跡をじっくりと観察する。
「確かに」
言われて気付く。無理やり隠そうとしつつ、お粗末に跡を消そうとしたのだろう。あまりにもお粗末過ぎて人が通りましたと自ら主張しているようにも見える。そして、中途半端に消しているために残された形から大体の大きさが読み取れた。明らかに人のサイズであり、しかしながら男性にしては小さいものだ。
「ジェイクにしては小さい。消して大きくなっていることからもっと小さいものだろうな。子ども——大体成長期の子どもか、女みたい、だな」
足跡から予測した大きさから子どもか女と判断するが、腑に落ちない。
「なぜここに人が? 襲われたのはジェイクではないのか?」
その疑問をテリーが口にする。
「わからねぇ。けど、襲われたなら足跡を消す余裕なんてねぇはずだ。それにジェイクらしき足跡の方はない。ジェイクと別の存在がいたのなら足跡は二つ残っているはずだ」
残っている足跡はジェイクのものと思われる男性の足跡と獣の足跡。それから、ジェイクより小さなものの三種類。ジェイクらしき足跡ははっきり、あるいは辛うじて判断できる程度残っているが、小さい方は明らかに消した跡があった。そして、小さい方はジェイクの足跡が途絶えた箇所——黒ずんだ液体が落ちた箇所にまで近づいている。恐らくそこで一度合流している。合流したところでジェイクの足跡が消えているため、やむを得ず小さい方を目で追い続ける。小さい方は獣の足跡と共に続く。恐らくここにいたであろう第三者を獣が追いかけたのだろう。その二つの足跡の向かう先へと視線を向けた。だが、足跡は途中で消えている。まるでそこで瞬間移動でもしたかのように——。
「なぜ、消したんだ? ひょっとして楽園の連中か……?」
わからないことだらけだ。ここで消えた二人と一匹の足跡。彼等はどこに消えたのか、誰にもわからない。
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