第3話 黒種草


「もし、本当に全ての人間が己の欲に勝ち、協力し合えるならば楽園は言葉通りの楽園になっていたはずよ。身内同士で殺し合い、人がいなくなるなんてなかったでしょうね」


 恐らく彼女の言っていることは正しいのだろう。楽園という高い壁を超えるよりも、身近でいともたやすくそれも確実に入手できる方を誰だって追うだろう。自分がここの資料と技術を持ちかえればそうなってもおかしくない。だが、誰よりも知っているつもりだ。

 今、生きている仲間たちは、人間たちはアドルフの独占によって飢え苦しんでいる。同じことを繰り返すまい前と協力してくれるはずだ。飢えの苦しみを皆が知っているのだから・・・・・・。

 けれども、同時に理解してしまう。誰だって同じ苦しみを味わいたくはない。心のどこかで彼女の言葉が正しいと思った。


 アイビーの住まうこの居城は地下にある。さまざまな災害から、人間から逃れるために作った建物なのだろう。自由に出入りするための出入り口はなく、地下であるために窓さえもない。

 窓がないために、外の様子もわからない。厚い雲に覆われようとも、人間にとって害になろうとも、太陽は人に時の流れを伝えるために必要だ。日照を遮られた建物の中では、時間がわからない。常にほのかな灯がついているせいで体内時間が狂ってしまう。

ここで過ごした日々を元に大まかな時間を推定する。天井の灯りがついている時が昼だ。だが、今は足元が照らされる程度の灯りしかない。人の持つ体内時間を刺激し狂わせないようにしているのだろう。また、昼であれば部屋や廊下からはいろんな機械音が聞こえてくる。

 一方で夜はその機械音がかなり減るのだ。昼にだけ聞こえる機械音も今は聞こえない。さらには昼にはロボットたちが動き回るのだが、夜は稼働していない。時折衣擦れの音が響くほど静かな時もある。そのことから感覚的にも、今までの経験からも夜であることがわかる。

 ホルダーのリボルバーを確認し、道具を一通りそろえると彼は全神経を研ぎ澄ます。人の気配がないことを確認してゆっくりと扉を開けた。彼は足音を忍ばせて部屋から出た。薄暗い廊下を慎重に歩く。足元を見える程度照らす灯が幸いし、移動しやすい。

 だが、いくら足元が見えても問題は山のようにある。いくらロボットがいない、人間がアイビーぐらいしかいないとはいえ、誰かに見つかる可能性がある。まず本当にここにはアイビーとロボットしかいないのか確証がない。何よりもアイビーも完全に味方だと決まったわけではない。

 彼女の言葉から読み取った情報を整理すると自ずと答えが出てくる。彼女には父親がいる。その父親が楽園の関係者であることは間違えないだろう。

 だが、何かがあり――恐らくアドルフによる実験により――父親は気が狂ってしまったようだ。

  また、ここの具体的な位置はわからないが、恐らく楽園ではないだろう。自分が最後にいた場所は楽園から離れていた。アイビー一人で成人男性を運べるわけがない。道具を使ったとしても距離が制限されるはずだ。

 だからこそ、ここは楽園ではない。ここは、アイビーが父親と共に楽園から抜け出し避難した場所だと裏付けることができる。同時に彼女がこれほどまでの技術と知識を持っているも楽園から逃げ出した証拠に他ならない。

 そして、アイビーがアドルフの娘ではないかという疑念……。これは、ありえないと断言できる。なぜなら、アイビーは十五、六の少女だ。アドルフは世界退廃時には若くても十代後半。それから五十年、いや、六十年近くが経過している。今の彼は八十代前後のはずだ。子どもを作ることなど不可能だろう。

  魔獣を生み出し、人を殺し、かつての仲間さえも実験材料にしたアドルフ。彼ならば、そこらにいる子どもぐらい拉致し、実験材料とすることだろう。かつて楽園にいたと思われるアイビーはアドルフにとって手近な実験材料だったのだろう。その裏付けをするかのように彼女の髪は青い。彼女の髪こそがアイビーは被害者である証拠に他ならないのだ。

 同時にそれはアイビーが楽園にいたことを決定付ける証拠であり、彼女が楽園の情報を持っているという裏付けになる。

 本来ならばその情報もほしいところだが、彼女は恐らく仲間にはならない上に情報を口にすることもないだろう。賢いが故に今の状況を打破できないこと、するために必要な犠牲の大きさをも理解してしまう。その先読みの力が邪魔をして希望を持てないのだ。むしろ、絶望の未来へと目を向けてしまう。

 だからこそ、協力しない。

 彼女が協力しないならばすることはただ一つ。彼女の持つ知識と情報を盗むだけだ。罪悪感がないわけではないが、こうでもしないと今の状況を変えることなどできやしない。助けてもらった恩を仇で返すことになる知りつつも皆のためと自分の言い聞かせる。

  気付かれないように気配を殺し、全神経を張り巡らせ周辺を警戒しながら廊下を歩く。最初に向かうのは資料室だ。資料室は書庫とつながっており、兼用にもなっている。そのため、資料室には眩暈が起きそうだな程大量の本と資料がある。探すだけでも本来ならば骨が折れるが、入り浸っていた彼は資料室内部を把握している。

  目的の研究資料は全て青いファイルに入っていることも知っていた。その研究資料も食糧をはじめとした様々な種類のものが存在するのだ。そこから浄水器や武器、動植物に関する資料全てを手に入れるつもりだった。

  薄暗い廊下を漂う生温い空気を肌で感じた。罪悪感からか、時折聞こえてくる物音に心臓が飛びのく。以前よりも一人で何度も行き来していたために薄暗い中で資料室に向かうのは苦労しなかった。

 すぐにでも、資料室にたどり着く。彼が知る限る鍵もはかかっていない。いや、自分たち以外は誰もいないため、鍵が必要ないのだ。周辺を見回し、周りに人やロボットがいないことを確認するやゆっくりと扉を開けた。

  念のため、隙間から中を見回す。部屋の灯が点いていないために中は真っ黒だ。音や空気の流れを頼りに気配を探った。特に人の気配はない。

 ゆっくりと扉を開きながら奥のほうの様子を窺うが、やはり気配はない。それを確認しつつ、中にゆっくりと入り、後ろ手で扉を閉める。

  本当はよくないのだが、部屋の灯をつけた。最もつけたところで灯りが照らすのは、周辺だけだ。たくさんの棚があるために光源が遮られているせいもあるのだが、部屋が広大であるために奥の方にまで届かない。

 それほどまでに資料室は広く、埋め尽くすようにたくさんの本棚が並んでいた。すべての本棚にぎっしりと資料や本が詰め込まれている。

  彼はわずかな灯りと記憶を頼りに本棚を手探りで数える。事前に目星はつけていた。何番目の何段目に何があるのかを記憶している。慎重にけれども素早く数え、目星をつけた本のみを取り出す。取った本はすぐさま鞄に詰め込んだ。その鞄もアイビーに頼み、大き目な鞄をもらった。

 持ち出す本は最小限にとどめるが、必要な本は持ち切れないほど存在する。可能ならばもっと持っていきたいぐらいだ。しかし、必要以上に持って行けば怪しまれる上に、脱出の際に邪魔になる可能性があった。それだけは避けたい。そう思うからこそ、最小限にとどめる。

次に設計図や研究資料が保存されている青いファイルが並んだ本棚へと向かった。全ての棚、段にが青いファイルで埋め尽くされている。背表紙のタイトルがなければ区別がつかない。

  元々は内容ごとに綺麗に整理されていたファイルだが、すでにその中身は意味を成さない。脱出を決意したジェイクが中身を入れ替えたのだ。事前に自分が欲しい、あるいは必要だと判断した資料を一つのファイルにまとめておいた。

 そのファイルを鞄へと入れると、別の棚へと移動する。その棚には番号が振られた青いファイルが順番にならんでいる。1番を振られた青いファイルへと手を伸ばした。その1番のファイルには重要な食糧と水を作りだす方法などが記載されているのだ。宝物でも抱えるようにそのファイルを鞄へと入れる。

 水と食料関係の資料は満足いくほどではないが、必要最低限は入手する。可能ならば武器関係あるいは楽園関係の資料も入手できればよかったのだが、それは叶わなかった。それらの情報があれば、楽園を倒すための力となっただろう。自分の知らない場所に資料があるかもしれない。だが、ここで深追いするわけにもいかない。

 彼は肩を落とし、部屋の出入り口へと向かうや灯を消す。そっと扉を開けて廊下の様子を窺いながら部屋を後にした。再び足元だけがうっすらと照らされている廊下を歩く。

 ある程度ならば道を知っているが、建物の構造は全くわからない。そもそも出入り口などあるのだろうかと疑問に思うほどこの地下は広かった。しかし、あてもなく歩いているわけではない。今までの経験とアイビーが立ち入りを禁止した場所から大まかに脱出口があるだろう場所を予測している。そこに脱出口があればいいのだが、なければ最悪だ。

 アイビーが来るまでに脱出しなければ見つかってしまうだろう。そうでなくとも、明け方になればロボットたちが勝手に動き出すはずだ。長居は無用だ。時間さえ注意すれば、特に警戒する必要などないのだろう。しかし、油断はできない。辺りを時折見回しながら慎重に早足で歩く。

 どこを見ても灰色の冷たい鉄の壁だ。時折、部屋を見つけるが、その扉が鉄でできているためによく見なければただの壁にしか見えない。何よりも扉にはプレートもなく、部屋の区別もつかない。念のために少しだけ扉を開けて中を窺う。出口らしき部屋はない。そうこうしているうちに方向感覚でさえも狂ってしまいそうだ。

『出口があるはずなんだが、どこに……? そもそもここがどこかもよくわかっていない。ここから無事出られればいいのだが……。無事に出られたとしても帰れるのか?』

 不安が胸をよぎった。だが、頭を振り自分を奮い立たせる。深呼吸をして自分の現状を再確認する。

『まずはここからの脱出。予測した脱出口にはまだついていない。ここがだめならあと三か所候補がある。それでもなければ今回は諦めるしかないが……。大丈夫だ。きっとどこかにある。脱出後は—―現在地の確認だ。方角さえわかれば、なんとかなるだろう。だが、タイガービルから遠い場所なら食糧や地図が必要だな。どこかで確保するか』

 使えそうなものはないかと辺りを見回しながら歩いているとあるものが視界に入った。扉だ。だが、他の扉とは異なる。よく目にしてきた扉は壁と同化してしまうような鉄の扉であった。壁と見分けるにはドアノブを見るしかない。

 だが、今目の前にある扉は違う。扉全体が赤茶色の――いや錆びついた赤銅である。古い扉のようだが、床にこすれたような跡があり、頻繁に使用されていることがわかった。ドアノブに手をかけると、鍵がかかっていないことに気付く。

 警戒しつつ扉を開き、中を覗く。かすかに灯りが漏れた。中に人の気配はないようだが、壁にかけられた灯りが爛々と輝いていた。

 オレンジ色の仄かな光が辺りを照らし、彼に中の様子を見せる。見えたのは先が見えぬほど細い――細いといっても幅が四メートル近くある――長い廊下であった。扉のすぐ傍には何か大きな物体が置かれている。念のために誰もいないことを再度確認してから中に入り、扉を閉めた。

 近づいて部屋の詳細を調べる。壁につけられた灯りはランタンのようだが、それは形のみで電気で輝いているようだ。どこからか風が流れてくるというのに炎は揺らめきもしない。灯りは扉付近にしかないのか、細長い廊下の先は闇に食われてしまっている。このまま、進めば自分までもが闇に食われてしまいそうだ。だが、闇の先にしか道はない。

 進むか否やを決める前に彼は扉付近にある大きな物体へと視線を移した。それは大きな鉄の箱だった。大きさは縦は一メートル五十弱、横が二メートル、幅が一メートルぐらいで人が入れそうだった。底には連結した車輪がいくつか並んでついている。

『確か、トロッコ、だったか』

 知識の糸をたぐり、それが昔、物の運搬に使用されたトロッコであることを知る。

それを裏付けるかのようにトロッコと思しき物の足元を見ると二本の鉄の棒とその二つを結ぶかのように木の板が均等に並んでいた。トロッコが走るための線路だ。

『どこかにつながっているんだ?』

 トロッコの先に何があるかはわからない。だが、トロッコがある以上、何か重いもんを運搬しているのは容易に想像がついた。

 運ぶ先にあるのは何か? 考えられるのは食糧貯蔵庫、大型の道具、そして――大量の武器だろう。ひょっとすれば巨大な浄水器や研究所があるのかもしれない。

 彼の知る限り、アイビーの私室や研究所らしき部屋はこの地下には存在しなかった。地下は広いために見つけ切れなかっただけかもしれないが、資料室があるのにその付近にないのは不自然だ。そもそも部外者である自分を自由にさせている時点で重要なものはここにはないのかもしれない。

  武器は取り上げられなかったものの、アイビーが護身用に一つも持っていないのも不自然である。となれば、別の場所に管理しているのかもしれない。その別の場所こそがこのトロッコの先だと確信を抱く。

 彼はうずく探求心を抑えきれず、トロッコへと乗り込む。危険など考慮してなかった。あのアイビーが隠すぐらいだ。自分の想像できない何かがあるのかもしれない。

 知っている限りの知識を頼りにトロッコを動かそうとした。何がなんだかわからなくとも、トロッコの中には鉄の棒があり、左右に倒せる仕組みになっている。おそらくこれはブレーキと思われるレバーだろう。

 試しにレバーを引いてみた。ガコンと大きな音と共にトロッコが揺れる。そのままガタゴトと音を立てながらトロッコが進み出す。

 徐々にスピードを増していくトロッコにすぐにもう引き返せないことを悟った。どこに続いているのかもわからないままにトロッコに身を任せる。

 先が見えぬ暗闇の中を線路はどこまでも続く。トロッコについたわずかなランプの光だけが頼りだ。少しだけ照らされる周囲。様子を窺おうにもトロッコのスピードが速すぎるために見ることができない。だが、見ているうちに左側にもう一つ線路があることがわかった。出発点からずっと続いている。同じ場所にたどり着くのかもしれない。

 ふいに空気の流れと湿度、温度が変わる。熱がこもっていた空間から出たかのように空気がひんやりとしていた。近くで反響していた車輪と鉄のぶつかる音が遠くで反響する。どうやら広い空間に出たようだ。それと同時に先の方に光を見つける。

やわらかく白い光だ。光の下には青い扉があるのが見える。

 近付くにつれ、扉の姿がより鮮明になる。同時にトロッコが自ずとスピードを落とし始めた。扉との距離が二メートルとなるところでトロッコはガタンと大きく一度だけ揺れる。そして、極端にスピードを落とし、慣性の法則で扉の手前まで近付いて停止した。

 彼はトロッコから降りようとしたが、それよりも先に自分の乗って来たトロッコの隣に別のトロッコが止まっていることに気付く。そのトロッコの線路を目で追うと自分が来た方向と同じ場所へと続いているようだ。おそらく、アイビーがこちらに来ているのだろう。

  念のために辺りを目を凝らして見回す。他にも、二、三台のトロッコがあり、それぞれ別の場所へと続いていることがわかる。想像以上にこの地下は広いのかもしれない。最も暗いためにそれがどこに続いているのか、見当もつかない。別の場所に続いている以上、他にもいろんな場所に繋がっているのだろう。脱出口につながっているのかの知れないが、今はそちらよりも目の前にある青い扉の方が気がかりだ。

 ゆっくりと警戒しながら彼は扉へと近付く。同時に扉が一人でに開く。この扉も自動ドアなのだろうと思いながら開いた扉の先に目を向ける。

 扉が開くや通路の手前から順に天井の灯が点いていき、辺りが照らされる。照らされた通路を目で追って息を呑んだ。

 天井一面につけられた真っ白いライト。他の通路と同じように壁は鉄でできているが、所々に材質が異なる黒い四角のものがある。足元にはゆっくりと動く床があり、その両端には白銀の床がある。白銀の床は動いていない。

 おそるおそる動く床へと片足を乗せてみる。特に止まる様子も異変もない。そのままもう片方の足を乗せる。動く床に全身を乗せると、床は彼を運び出した。同時に壁ついた黒い四角の物体が灯りを点す。

「異常ナシ。気温27℃」

 抑揚のない女性の声がどこから響く。辺りを見回したが、人はいない。

「プログラムAを始動シマシタ」

再び声を耳にしてそれが人間のものではないと知る。機械音声だ。初めて耳にしたそれに驚きを隠せない。足元の動く床も魅力的だ。

『どうやって動いているんだ? そもそもロボットといい、自動的に動く機械をどうやって作っている? 動力はなんだ?』

仕組みを理解しようと読んだ文献、得た知識を総動員させる。

 かつて人類は電気や水力、風力などの力を用いて機械を動かしてきた。だが、今はそれらの動力は一切なく、それを生み出すための技術もない。恐らく、この動く床もなんらかの力を必要としているはずだ。ならば、昔とは違う動力、あるいは動力の代わりになる力がどこかにあるはずだ。

 それを探すことができればより高度な技術を手に入れられるかもしれない。最も、それはここが楽園でなければ、の話だ。

 それというのも、楽園は大災害を予測し立てられた建物だ。自動的に電力や動力を生み出せる機械を組み込み、自給自足で生活できるように設定された避難用の建物である。

 だが、塔の建物本体と動力、電力の自動発電装置が完成したところで世界の退廃が起きた。それにより楽園は昔ながらの動力があり、使用も可能ではある。だが、肝心な自給自足システムは何一つとしてできておらず、すぐに食糧不足に直面した。

 前進的なシステムでわずかながら食糧を確保することはできたのかもしれないが、それでは意味を成さない。だからこそ、楽園の者は食糧を独占し、今の争いが起きている。

 もし、楽園に自給自足システムが開発されていれば、食糧と水を求め争うことはなかっただろうか。

 考えている間にも動く床に運ばれてどんどんと彼は元に来た場所から離れていく。

迷わないようにと目印を探して辺りを見回した。特に部屋らしい場所や扉はなく、廊下が続くばかりだ。途中で別の道につながる廊下を見つけるも、迂闊にあちらこちらをうろつくのは危険だと判断してそのまままっすぐに進み続けた。

 ある程度進んだところで、十字路に出る。動く床はそこで三方向に分かれており、分かれ道の手前には動かない白銀の床があった。一度動く床から降りて辺りを確認する。

  見た限りどこに続いているのかわかるような手がかりはない。簡単に覗いたが、暗いために奥まで見通すことができない。だが、左側の通路を覗き込んだ時、隙間から青い何かが走り抜けるのが見えた。どうやら別の通路に何かがいるようだ。

「アイビー?」

 青――から連想したのはアイビーの青髪だった。彼女がいるのだろうかと無意識のうちにそちらへと近付く。左側の通路は先ほどの通路よりも狭い。狭いといっても人が一人は通れるぐらいの広さはあるため彼でも通れた。そこを通り抜けると別の廊下へと出る。

 すぐに辺りを見回した。鮮やかな青い何かが端の曲がり角を曲がるのが見えた。

 わざわざトロッコで移動するほど離れた場所にアイビーが来ている。こちらの建物には何かあることを裏付けた。

 すぐに彼女のあとを追うことにした。足音を忍ばせ、追いかける。どこもかしこも同じ造りで、一度見失えば自分の居場所さえわからなくなるだろう。

 十分以上、彼女を追いかけていたが、突然、曲がり角で彼女を見失った。気づかれた様子はなかったはずだと思いつつ、彼は辺りを警戒する。

「……!?」

 ふいにとある扉が目に入る。通路の先にある真っ赤な二枚戸の扉だ。他の扉とは明らかに違うのは一目でわかった。何か重要なものがありそうだ。そして、その扉は少しだけ開いている。

『アイビー? 誘われているのか?』

 誘導のために開けているのかと疑いつつ、彼はゆっくりと扉に近付いた。開いた隙間から中を覗く。だが、アイビーの姿は見当たらない。部屋の中は暗いため見えないだけかもしれない。そう思いつつもゆっくりと扉を開ける。ギィと鈍く重い音が響いた。廊下の光と共に自らの影が伸びて部屋へと入り込む。

 差し込んだわずかな光を頼りに中を見ても何もわからない。意を決してゆっくりと中へと足を踏み入れる。特に人の気配はない。

  二、三メートル進んだところでガコンと何かが落ちる音が響いた。音に驚く中、突如として灯がつく。天井からいくつかの白い光が注がれるように辺りを照らし出した。突然であったので一瞬だが、目がくらんだ。幸いにも強い照明ではなかっためすぐに目は順応する。

「アイビー……か……?」

 順応した目で辺りを見回すやしゃがれた男性の声が響いた。導かれるように彼は声のする方を見る。

 部屋の中央に大きな椅子に腰かけた一人の男性がいる。年は初老ぐらい。くすんだ金髪はぼさぼさで艶がない。死んだ魚を思わせるような目をしており、焦点は定まっていない。まるで干乾びたミイラを連想させるかのように皺だらけで痩せこけている。本当に生きているのかと疑うぐらいだ。

 男性が腰かけているのは白い金属で作られた頑丈そうな椅子だ。柔らかそうなひざ掛けがかけられているために下半身は見えない。そのひざ掛けに隠されているが、椅子には無数の白いパイプと細い管がついており、それは男性の後ろにある大きな物体とつながっている。

 男性の背後にある大きな物体は黒い巨大な壁を思わせる箱だった。時々、一面のどこかに赤や青、貴、白などの小さな灯がついてはすぐに消える。すぐにその物体が機械であることは理解できた。だが、それが何かまではわからない。

 何もわからないのだが、不思議と機械と目の前にいる男性が危険であることだけは本能的に察する。すぐにこの場所から去らねばならないと本能が告げるのに彼は好奇心に負けた。その機械が何なのか知りたかった。

『これは何だ? 何の機械だ? 動力? これで生み出しているのか?』

 ふいに衣擦れの音が響く。男性が顔を上げた。強い殺気を肌で感じ取り、彼は我に返る。

 思わず身構え、ホルダーのリボルバーに手をかけた。しかしながら、その警戒心は男性の目を見た途端、恐怖へと変わる。死んだ魚のような目であるはずなのに、その奥には強い意志と不気味な感情が渦を巻く。

「誰だ?」

 普通の年老いた男性の声――であるはずなのに、怒気を孕んでいるためか、聞く者に恐怖を与える声であった。広いはずの空間で声が反響し、恐怖を増長させる。本能が近付くなと、逃げろと訴え出した。だが、一度対峙してしまえばもはやその場から離れることもままならない。

 かすかに音をたてる機械音でさえも彼の耳にはもう届かない。五感すべてが一人の男に支配されてしまった。

「ホープ……か? どうやってここまで来れた? 魔獣どもはどうした……? いや、警報機すら鳴っていない。単独で来たのか。勇気がある若者だ。だが、私の研究をお前らに渡すわけにはいかない」

 男性は独り言を言うかの如く語り掛けてくる。その内容から敵と認識されていることがわかった。

男の言い表せぬ威圧感に気圧されながらも固唾を飲み込んだ。

「お、俺はジェイク。アイビーの知人だ。 あんたと敵対するつもりはない」

誤解を解こうと語りかけるが、男は聞く耳を持たないのか、独り言を呟き続ける。淡々とした声音は、徐々に激しい憎悪を露にした。

「アイビー、私の最後の希望。 ホープはあの子を殺した。 また、殺すのか? だが、あの子はもう死なない。 ずっと一緒だ。 害虫を殺して、あの子のために平和な世界を作らなければ。

 欲深い連中は全部排除して、あの子のための楽園を。害虫が入らないように万全の警備をしたというのに、どこから入った? またあの子を奪うのか? させない! お前ら害虫なぞにあの子を殺させはしない、二度と!?」

 背筋が凍りついた。だが、それ以上に彼は驚愕する。

 激しい怒りの声が男性がアイビーの父親であることを告げる。年齢的には少々年を取りすぎており、皺だらけでミイラのようだが、男には確かにアイビーと同じ面影を持っているのだ。

「待ってくれ。俺は敵ではない!」

 アイビーの父と争うつもりはない。敵意がないことを必死で訴える。だが、男性は怒りに全身をわなわなと肩をふるわせるのみで、彼の言葉に応じる様子を見せない。

「渡さない。ここは私の楽園だ。お前達には渡さない。害虫共め、寄生虫どもめ……っ! 殺せ……。 殺せえええええええええ!」

 狂ったような叫びと共にどこからかガチャ、ガチャと銃の装填されるような音が響く。複数の生物の息遣いと共に何かが駆け寄る音がした。足音からして獣のようだ。それも一匹やなんて生易しい数ではない。数十体はいるだろう。 獣などほとんど存在しないこの世界にこれほどの生き物がいるはずがない。いるとするならば、魔獣ぐらいだ。

 自分の予測が外れていることを祈りながら、慌てて踵を返し、彼は部屋から飛び出た。同時に部屋の中から獣のうめき声が聞こえてくる。想像以上に集まってくるのが速い。

 目の前に一匹の獣が飛び出した。まぎれもなく魔獣だ。

『なぜ、ここに魔獣がいる!?』

現れた一匹の獣が、飛びかかってくる。

 その魔獣は文献に載っていた狼という動物を思わせる風体をしている。だが、体毛は蒼く、目は赤く輝く。大きさも文献に書かれていたサイズよりも二回りは大きいだろう。狼はジェイクにあぎとを向けて飛びかかろうとした。

 ジェイクはホルダーからリボルバーを抜く。狼との距離は一メートルもない。そんな危機的状況の中、彼は一瞬たりとも目をそらさず、ただ一点を見据える。黄ばんだ牙が顔を店、唾液をまき散らす赤き口内。そこに銃口を向け、引き金を引く。

 ガウンという銃声と共に目の前で青い滴が飛び散った。青い返り血を浴びながらそれが魔獣であることを確信する。同時にそれは覆すことのできない真実を語っていることに気付いてしまう。真実に思わず立ち尽くしてしまいそうになる。

 だが、響く獣のうめき声と息遣いに彼は我に返る。自分が気付いた事実に立ち止まる暇はない。ジェイクは駈け出した。

 走りながらも頭の中では自ら気付いた事実から様々な思惑と推測が生まれ、彼の思考を鈍らせる。ぐるぐると目まぐるしく憶測と真実が回る。

『なぜ魔獣がここに……? いや……! なぜ気づかなかった!? いや、わかっていたはずだ。考えていた。可能性はあった。けど、目を逸らしたのはなぜだ!? アイビーがいたからか!?そうだ。アイビーの父親と思ったからだ。年齢的にあるえないはず。違う!! 血のつながりなど関係ない!アドルフは魔獣を生み出せる。人間ぐらい作れるんだ』

 敵である楽園。それを作り、独占する一人の科学者・アドルフ・ヒュドル。先ほど、自分が対峙した男がアドルフだと確信する。そして――その人物は十中八九、アイビーの父親だ。アイビーもまたアドルフの実験材料によって生み出された人間だ。だからこそ、外見が人と異なるのだ。

 点と点がつながり、解が見えてくる。自分が今いるここは楽園だ。食糧と水、技術を独占し、魔獣で人を蹂躙する悪の科学者・アドルフの居城。誰一人として辿りつかなかった夢の果て。

 だからこそ、ジェイクは何が何でも生還しなければならないと自らに課す。自分の得た知識と情報が皆の希望になるのだ。

『……アイビー、お前は……どちらの――』

 自分の成すべきことを見つけ、それを成そうと決意する。だが、一抹の不安が胸を占め始める。自分を助け、食糧を、水を与えた一人の少女――アイビー。彼女がアドルフに作られた存在だからといって、本当に敵かはまだわからない。


本当に敵ならば自分など助けはしなかっただろう。何か理由があるのだろうか?


 それを確かめたいと心から思ってしまった。敵対すればこの手で彼女を撃たなければならない。研究成果を持ち出そうとしたが、彼女と戦う覚悟はない。

 そんな彼の不安を描くかのように、角を曲がった矢先に彼女の後ろ姿を見つけた。

思わず立ち止まる。背後からは魔獣の気配が近付く。

  走ったせいか、それとも、彼女を見つけたせいか心臓が早鐘のように脈を打つ。

「アイビー・・・」

思わず彼女の名を呟いた。青い髪の揺らめきと共に彼女が振り向く。黄金の目が大きく見開かれた。

「アイビー」

祈るように彼女を呼んだ。

 それと同時だった。彼女はどこからか二刀一対のナイフを取り出し構えるやニタリと口角を吊り上げる。荒れ地に咲いた一輪の花。荒んだ人々の心を癒し、希望となったかもしれないその蒼き花は、もうない。まるで喜劇だと内心で苦笑した。

『あぁ……やはり……』

 だが、不思議と気持ちは落ち着いている。まるで最初のから理解していたようだ。手に握るリボルバーを彼女へと向けた。引き金に指をかける。あとは引くだけだ。

「くっ……!」

 引くだけなのに、引けない。手が震えた。照準がぶれる。心は不思議と穏やかななのに、体が震える。

 背後からは数えきれない程の魔獣が近づいてくる気配がする。撃たなければ死ぬのは自分だ。

 唇を噛み締めた。噛み締めた唇以上に眉が歪む。視界が霞む。震えて照準が定まらない。脅しさえかけることもできない。きっと彼女には自分の不安が伝わっていることだろう。

「アイビー……!」

 祈るように声を張り上げる。そんな彼の目の前で彼女の赤いふっくらとした唇が言葉を綴った。

「害虫、みーっけ」

無邪気な子どものような声と共に悪魔のような微笑みを浮かべた少女。二刀のナイフを彼へと向け、走り出す。

 彼女の表情を見た途端、彼の中で何かが音をたてて壊れた。彼は無意識のうちに引き金を引く――。

 狭い廊下の中に銃声が響く。目の前でバランスを崩し、衝撃で後ろへと倒れる少女。彼女の左胸から青い花が咲き、青い花びらが舞い散った――いや、銃弾を受けた胸の傷口から青い液体が飛び散った。鉄の臭いが鼻腔を貫き、それが血であることを告げる。それが――魔獣の血であることを悟った。

 トスンと目の前で少女が尻餅をつく。少女はひどく驚き、その目を見開いていた。まるで痛みなど感じていないかのようにきょとんとしている。はずみで手放した二刀のナイフが地面へと落ちた……。

 カランと響く鉄の音が何かを塗り替える。

「ジェイク……?」

 アイビーが呟く。その声は心底驚いているようだった。何が起きたのか彼女はわかっていないのか、辺りをきょろきょろと見回す。先程までの敵意と殺気は微塵も感じられない。まるで夢でも見ていたかのようだ。

「アイビー、お前……?」

 ドクドクとアイビーの胸から溢れる青い血を見つめながら、ジェイクは声を漏らす。青い血液は魔獣である証拠に他ならない。自分がしたことと気付いてしまった事実に彼もまた驚き戸惑っていた。しかし、それ以上に何か違和感を覚える。

『何かが違う……ような気がする』

 違和感の正体を突き止めようとしたが、踏みしめる足音と獣の唸り声にジェイクは考えるのを止める。突然の出来事に茫然自失していたアイビーも我に返った。緊迫した声で告げる。

「ジェイク! 西側に出口があるの! そっちから行って! そこから出ればタイガービルの東南東に出るから! 早く! ニゲラがまた出てきちゃう!」

「アイビー、お前……は……?」

「行って! ニゲラがあなたを殺してしまう前に!」

 突然、彼女の態度が変わった。敵意を感じない。むしろ、騙そうとしているようにも見えず、本当に自分を助けようとしているようだ。

  ジェイクは戸惑いつつも彼女自身がどうするのか、味方なのか確かめたかった。だが、有無を言わさぬ口調でアイビーは叫ぶ。

「行け!」

ジェイクは確かめたい真実全てを胸に潜め、走り出した。

 彼女の真横を通るしかなかった。罠かもしれないと疑い警戒しつつも彼女の言葉を信じて走る。幸いにも彼女は何もしてこなかった……。

「行って、逃げて……」

 走り去っていく青年の姿を見つめながら彼女は右手で空を切った。途端、彼を追いかけていた魔獣たちが足を止め、たたらを踏む。唸り声や雄たけびを上げつつ、全ての魔獣が彼女の指示に従う。その中の数匹が彼女の近付き、その傷口を嘗めた。そんな彼等を優しく撫でながら彼女は呟く。

「ニゲラさえ出てこなかったら行ってもよかったんだけどね、こんなおばあちゃんでも」



 どれほどの距離を走っただろうか? 肺に入る空気さえ痛むほど呼吸が乱れていた。 言われた通りに走り抜けた先、とある部屋へと入り込む。

人間の体には限界がある。態勢を整えるためにも一旦休む必要があった。

 扉を閉めて、乱れた呼吸を調えながら耳を澄ます。特に魔獣が追ってきている気配はない。やっと一息つけた。扉に寄りかかるように体を預けそのまま座り込んだ。

 休みつつ状況を整理しようと思い、まずはこの部屋が安全か確認することにした。そこは鉄の棚が並んであり、段ボールが棚に置かれている。特に危険はなさそうだ。このまま休むことにした。

『とりあえず、ここから出ることを考えよう』

 少し休んだことで呼吸は整ってきた。常に死と危険が隣り合わせの世界で生きて来たために体力の回復速度は速い。何よりも体力配分には自信があった。バクバクとなる心臓が静まったのを見図り、ゆっくりと立ちあがる。

『ここはどこだ? 倉庫? 何か使えるものはあるのか?』

 辺りを見回した。鉄の棚といくつもの置かれた段ボールから倉庫だと推測する。だが、備品を置いておくには管理が雑過ぎる。いや、ここには二人しかいないのだ。厳重に管理する必要がないのだろう。それはつまり、警戒する必要もなくいくらでも物を入手できるということだ。

 ジェイクは役立ちそうな何かがないかと物色することにした。罪悪感がないわけではないが、アイビーならば文句をいうこともあるまい。棚へと近付き、手近な適当な段ボールの一つを開ける。中にはビニール製の袋に密封された食べ物が入っていた。

『食べ物? そう言えば、保存がどうとか言っていたな。こうやって保存しているのか? だが、こんなものに入れてどれほどもつんだ?』

 保存方法も何もわからないが、こうやって実物を見ることでアイビーが言っていたこと理解できる。このように個別で袋詰めてしまえば、いろいろと便利だろう。持ち運びにも配給にも役立ちそうだ。

『……もらっていくか』

 自分の居場所や今後のことを考えると先が見えない。食糧は持って行っても邪魔にならないだろう。むしろ、必要だ。持っていた鞄へと詰め込んだ。邪魔にならないだけ詰め込み、他の段ボールを漁る。

 段ボールをの中には食糧他にも何かわからない道具や薬などの日用品が入っていた。また別の段ボールにはビニール製の固い筒状の容器に入った水も見つけた。

『こんなにたくさん……。これを分け与えれば死ぬ人間は減るというのに……?』

 明らかに多すぎる物資の量に彼は唇を噛み締めた。アドルフ・ヒュドル、そして、その娘アイビー。たった二人で生きるために必要なものを独占しているという事実に怒りが湧く。

 たくさんの人が飢えと渇きで死に、病で亡くなる。今を生きる人々は、生きるために殺し合っている。魔獣に殺されている。子どもたちの大半が飢えと病で亡くなり、大人になればいいと言っても過言ではない。毎日のように子どもの遺体を片づける者たち。その大部分が狂い、自ら命を絶った。母親も子どもの死に心を痛める。時には命の重みを忘れて子どもへの愛さえも忘れる。

 そんな世界を変えるだけの力を、食糧を持ちながらも与えない二人に激しい憤りを覚える。拳を握り締め、唇を噛み締める。これで救われる命があるなら――と願い込めて、縋るように見つけた薬を取り出して鞄に入るだけ詰め込んだ。

 そして、他には何かないかと箱を漁る。数え切れないほど棚に詰め込まれた段ボールの中身はほとんど同じであった。

『同じものをこんなにも用意する必要があるのか?』

 わざわざ生産性を落としていると以前アイビーは言った。二人しかいないのに、これだけの食糧を用意する必要はない。

『何か見落としてないか、俺は?』

  腑に落ちない何かを抱えながら役立ちそうなものを探す。中身の同じ段ボールがたくさんある中、奥の方に一つだけ赤い箱が置かれている。まるで隠されるかのようにたくさんの段ボールの中、奥深くに置かれていた。また、ずいぶん古いもののようで埃をかぶりボロボロだ。

 不思議と引かれ手に取る。深く考えずに箱を開けた。

 中には隙間から入り込んだ埃を被った本が数冊入っていた。埃を払いながら一冊を手に取る。中を開くと人が写った紙がいくつも貼られていた。

『写真……? アルバムか?』

 知識を総動員させ、それが本に書かれていたアルバムというものだと理解した。実物を見るのは初めてだ。思わず本当にありのままを絵として残すことができるのだと感心する。だが、今はそれよりも写真の内容が気になった。

 写真の下には日付と場所が記載されている。

その日付は世界が退廃する前――二八〇六年――今から七十年ほど前のものであった。たくさんの科学者と思われる白衣を着た人物が建物の前に並んだものを皮切りに、科学者たちの写真がたくさん貼られている。女性もいれば、男性もいた。皆、それぞれに実験をしており、自分が撮られていることに気付いてポーズを取る者、熱中して気づかない者と当時の姿を留めている。明るく楽しげで幸せそうな写真だ。見ているだけで当時の幸せが伝わってくる。

 そんな中でとある黒髪の女性が写っている写真を見つけた。その女性はアイビーを大人にしたような人物だ。黒髪に青い目。落ち着いた物腰で穏やかに微笑んでいる。その手には赤ん坊が抱かれていた。彼女も白衣を着ているので恐らく科学者だろう。

『アイビーの母親か……。だが、これは七十年も前の写真だぞ。いや、そもそも待て。アドルフの娘なら、もう五十近くになるんじゃないのか? どう見てもあいつは十代……。いや、落ち着け。髪の色から考えて魔獣だろう。ただ人に近い形をした魔獣なんだ。血のつながりは多分、ないだろう……』

 アイビーはアドルフのことを父と呼ぶが、年齢的にありえない。彼女は十代。アドルフは世界退廃前から楽園の建設に関わっているためにどんなに若く見積もっても八十を超えているはずだ。だからこそ、アドルフとアイビーが親子だという考えを否定していた。

 いろいろと考えながらページをめくっていく。ふいに視線がとある写真で止まった。見覚えのある白衣の男性一人とそこにいるはずのない人物が写っていたものだ。

見覚えのある白衣の男性は恐らく若き日のアドルフ・ヒュドル本人だろう。昔の面影が今も残っているのですぐにわかった。だが、そのアドルフの隣にいるのは――その時代にいるはずのない人物――そう、自分自身だった。

「お、俺……? じ、時代は……?」

 ありえないと驚きながら、写真の下に書かれている時代を見る。二八〇六年――どう見ても世界退廃前だ。そして、その年代の下には、『オリヴィエとの共同研究、成功』と書かれていた。

『オリヴィエ……。爺ちゃんの名前』

 自分にうり二つの男性は自分の祖父と同じ名前だった。いや――違う。正真正銘、自分の祖父だ。外見と年代、名前、それら全てが一致する。そして、このことからいくつかの真実が見えて来た気がした。

『どうして、爺ちゃんが?』

 だが、肝心なことは何もわからない。なぜ、祖父がアドルフと一緒にいるのか? 少なくとも祖父は科学者であった。同じ科学者であったために知り合ったと考えられるが、二人がどういう関係なのかはわからない。

 仲間だったのか、敵だったのか、確かめる方法もない。確認したいが、今はそれどころではない――とかぶりを振った。ここで時間を無駄に過ごすわけにはいかない。

 確認のためにもアルバムから念のためにその写真を一枚抜き出す。その後、パラパラとページをめくり、一通り目を通した。特に気になることはない――そう思ったが、最後のページで手が止まる。

『子ども?』

 十人の子どもの写真が綺麗に並べられていた。皆どことなくアドルフやアイビーに似ている。子どもたちの正体を裏付けるかのように写真の傍には子どもたちのフルネームが書かれている。

 どの子どもたちも皆、苗字がヒュドルであった。だが、書かれているのは名前だけではない。全員、生年月日と逝去日まで書かれている。最初の子どもも十も満たずに亡くなっている。

『死んだ――のか……。まぁ、仕方ない。最初の子ども以外は皆世界退廃後に生まれている。こんな世界で無事に育つはずがないんだ』

 多くの人が子どもを失う中、子ども全員を失うのはよくあることだった。むしろ、十人も産めるだけでもありがたい。食糧不足や水の毒のせいで子どもは産まれ難い。産まれても毒のせいで障害や奇形を持つ子どもが多い。障害や奇形を持つ子どもは生活する上で足手纏いとなる。

 ただでさえ少ない食糧を役に立たない者には与えられないと皆が思う。そのために暗黙のうちにそういう子どもたちは闇に葬られる。助けたいと母親や家族が思っても、無駄飯食らいを庇う気かと地区の人々に迫害されてしまう恐れがあった。

 そうなれば他の家族も迫害を受け、ひどい時には死に追いやられる。だからこそ、親が生き地獄を味わせるぐらいならば、自らの手で殺すのだ。

 そんな子どもを助けるためにも世界を変えなければならない。だが、それと同時にここに来てわかったこともある。こんなにも水も食糧も豊富なアドルフでさえこれだけの子どもを失ったのだ。

『俺たちでは夢のまた夢か……』

 最後のページを閉じようとした際、本の遊び部分――本来ならば何もないはずの白紙ページに女の子の写真があった。恐らく、末っ子で入りきれなかったのだろう。

 年齢は二歳程で黒髪に青い瞳のとても愛らしい子どもだった。生年月日は今から五十年ほど前の春。この子が誕生した時には日付を正確に数えるだけの生活ができなくなっていたのだろう。名前は――

『アイビー……?』

 写真の下に書かれた名前を見て驚愕した。そして、自分が出会った少女の事を思い出す。自分を助けた少女――アイビーは蒼い髪に黄金の目をしている。年はどう見ても十四か十五ぐらいだ。だが、写真の女の子と同じ顔をしている。いや、正真正銘同一人物だ。

『まさか……アドルフは自分の血のつながった子どもを魔獣に変えたのか!?』

 なぜ、父であるはずのアドルフが娘を魔獣へと変えたのかはわからない。だが、アイビーが魔獣であること、幼い頃の姿を見れば彼女が人間から魔獣になったことは確かだ。彼女は五十年近い歳月を生きた年を取らない化け物。

『不死の実験? アドルフが高齢であるにも関わらず生きているのはその研究の成果か……? だとすれば……』

 世界退廃後、人の寿命は一気に八十代から四十代にまで後退した。病と食料不足が主な原因だ。そんな中でアドルフはそろそろ八十近くになる高齢なのに生存している。ただ単に水や食料、医療技術があるだけではないのだろう。

 だからこそ、娘を実験体に永遠の命を得ようとした。自分のために我が子でさえも手に書けた。案外、写真の子どもたちもアドルフの手によってその命を散らしたのかもしれない。

『そんな化け物連中に俺たちは勝てるのか?』

 そんな非道な人間を相手に本当に自分たちに勝機はあるのかと疑念を抱きつつ、アルバムを閉じ、片付けようとした。同時にアイビーの言葉を思い出す。

『だから、行けないと言ったのか――ん?』

 取り出したアルバムを箱に入れようとして気付く。箱の中にはかわいらしい花柄の表紙の本が入っていた。古いもので、表紙には子どもの字で「にっき」と書かれている。だが、なぜかその日記には至るところに付箋がついており、付箋のところには紙が挟まれている。分厚いものや日記より大きなものといろいろな紙が挟まっていた。何気なく一番最初の紙が挟まれている部分を開いた。

 日記の方には子どもの字で、『ごさい、はるのいちにちめ』と書かれている。辛うじて読める字で書かれていた。


『きようわニゲラとけんかしました。

ニゲラばっかり、ぱぱとおはなしするの。

だから、アイビーもはなしたいったらニゲラがおこった』


 普通の日記のように見えた。だが、下半分から字が少し変わっている。


『アイビーがわるい。ニゲラわ わるくない。ニゲラ、ぱぱ、だいすき』


 まるで別の子どもが書いたようだ。不思議に思いながら挟まれていた紙の方を見る。紙は我が子の実験内容とその過程と成果、そして、その後の経過観察が書かれていた。恐らくアドルフの実験だ。


遺伝子組み換えにより生命維持・停止機能回復実験

 現時点では不可能だが、唯一この子を助けられる手段と判断し治療を施す。


二八三〇年(治療終了一日目)

 実験成功により蘇生

 二歳 女 体重 十.二キログラム 身長 八二.七センチ

 脳への影響、障害、現時点ではなし

 副作用――色素の変化(髪・黒→青、目・青→黄金)

      成長の停滞・遅行(別冊・成長記憶)


二八三三年 (治療終了三年目)

 五歳 女 体重 十四.六キログラム 身長 九七.七センチ

 多重人格の発覚


 以前より、記憶障害らしき症状があったが、記憶障害ではなく多重人格であることが判明

 一人遊びの際に「ニゲラ」という空想の遊び相手を持っていたところから見るに、治療後に出現したと仮定。

 互いに互いを認識しており、基本的には記憶を共有している模様。

だが、時折記憶の一部がどちらか一方の記憶が欠如している。

本人たちに確認させたところ、アイビーが知っており、ニゲラが知らない。

その逆もしかり。

 一日の行動を観察後、本人たちに覚えていることに丸をつけさせたところ、以下のことが判明した。


 睡眠時間六時間――どちらも記憶なし

 十二時間――どちらも記憶あり

 六時間――アイビー、ニゲラのどちらかしか記憶がない

 以上のことから、六時間は一方の人格が眠っていると思われる。

一方に必ず六時間の空白が生じる原因は不明。副作用の一種と見られる。

主人格は恐らくアイビー。だが、ニゲラの方が強い意志を持っている模様。


【性格・言動】

・アイビー

大人しく明るい。

・ニゲラ

残虐で狡猾。

他者を憎み、殺したがる。数名の楽園の生存者が殺害される。


・能力の発覚――肉体の変化

・字が書けるので、それぞれに日記を書かせることにした。


現時点での多重人格についての推測

原因

 死の恐怖と実験の後遺症、孤独による妄想

対策

 特になし

 ニゲラは残虐なところがあるが、基本的には対象は害虫。


 衝撃を受けた。紙を持つ手が震える。だが、だからこそ、アイビーの言動と彼女に抱いた違和感の正体が理解できた。先ほど自分を殺そうとしたのはアイビーではない。殺そうとしたのはニゲラだ。そして、逃がしたのはアイビーだ。

 彼は紙切れをしまい、箱の中の元の位置に戻す。それから棚にしまうとその場を立ち去ることにした。これ以上調べれば決意が揺るぎそうだ。

 出口を探そうと部屋を後にする。アイビーの言葉を信じるならば西側だ。幸いにも通路には時折東西南北の印がある。それを頼りに歩いた。いつもなら通路にいるはずのロボットが一体もいないことからもまだ夜であることを悟る。ロボットが動き出す前に出て行く必要があったために急ぐ。

 周りの気配を探りながら歩く。一体どれくらい歩いたのか、自分がどこを歩いたのかは見当もつかない。警戒しながらも無意識のうちにぐるぐると頭の中は疑念で渦巻いていた。自分のなすべきこと、置かれた状況を基に冷静さを辛うじて保っているに過ぎない。だが、目の前に他とは違う頑丈そうな扉を発見するや頭のなかがくっきりとする。

するべきことを成すだけだ。

 その扉は、他の扉と違い、大きな環貫で固く閉ざされている。内側で大きな環貫に閉ざされている以上、外へと続いている可能性が高かった。そのため、彼は環貫を引き、扉を開ける。

 開けた先は広い部屋があった。部屋の中には鉄の棒で作られた棚が並んでいる。それらが扉の前――部屋の中央は大きな通路を作っていた。

 そして、まっすぐと続く通路を目で追うと、部屋の奥に梯子があるのを見つけた。梯子は天井へと続いている。ここが地下である以上、恐らく外へとつながっているはずだ。そこでやっと希望を見いだせたような気がする。

 すぐに梯子へと駆け寄った。梯子の前に来ると念のために壊れていないかを確認する。梯子はさびれているが、大丈夫そうであった。梯子の先を見ると蓋がある。ここを開ければ外へ出られるはずだ。すぐにでも出ようと手と足をかけようとしたが、はずみで何かを蹴った。

「ん?」

 何かと思い、足元を見ると銃が落ちていた。何気なく拾い使えるかどうかを確認する。自分が使用しているリボルバーとは異なる。細見ではるかに軽い。新しいタイプのものだ。残念ながら引き金部分が欠けている。使えそうになかった。

「ダメか」

 諦めてその場に捨てようと思った。だが、視界に別のものが入る。それは木箱とその中に乱雑に詰め込まれたライフルや剣などの武器であった。

『使えるのをもらうか』

 外に出たところで安全だとは限らない。むしろ、外の方が危険だろう。外にはアドルフが放った魔獣がうろついているのだ。戦いになれば武器は必要になる。一応はリボルバーとナイフを常に携帯しているが、リボルバーの弾丸は限られている。ナイフも魔獣によっては刃が通らないこともある。使える武器があるならば持っていた方がいいだろう。そう思い、木箱に近付いた。

『ダメか。どれも使えそうにない』

 木箱を漁り使えそうなものを探したが、どれもこれも故障していたり、刃こぼれしていたりしており使えそうにない。材料等は上等なので加工すれば使えそうだ。だが、脱出の際荷物になるだけなので、残念ながら諦めるしかなかった。

『しかし、なぜここに壊れた武器があるんだ? 外にでも捨てるのか? いや、外に捨てたらむしろ危険だろうな。俺だったら捨てられたこれを改造する。ここは武器保管庫か? いや、それにしては管理が雑すぎる』

 武器庫にしては管理が雑すぎる部屋。どう考えてもここは武器庫ではないだろう。ならば、なぜ壊れた武器を詰め込んだ木箱がここにあるのか。鉄の棚を見てもそこには何もない。ただ空の棚と壊れた武器しかない殺風景な部屋だ。わざわざここに置いておく理由がわからない。

 わからないことだらけだ。不思議に思いながらそんな部屋を見回すと、埃が積もっている床にいくつかの足跡がついていることに気付いた。扉から梯子に向かって一直線に続いている。一つは自分のものだ。もう一つは、自分のものとは思えない一回り小さな足跡である。恐らくアイビーのものだろう。そして、アイビーの足跡の他にも二本の線がついていることがわかる。恐らく台車の車輪だ。アイビーの足跡も台車も扉から梯子に向かっているために彼女が何かを運んだことが容易に想像できた。

『何かを外に持ち出したのか?』

 彼女が何をしようとしているのかはわからない。だが、梯子を上ればわかるかもしれない。再び梯子に近付き、手をかける。ゆっくりと足をかけた。カツンカツンと鉄の音が響く。この先に何があるかわからないが、先に進まなければならない。

 天井へと手が届く距離まで上る。天井にある蓋には凹んだ取っ手があった。

取っ手部分に手を入れ、ふたを開ける。かすかな光が隙間から差し込んでくる。冷たい風が肌を刺した。硝煙と腐臭の混じる空気の香りはどことなく懐かしい。思い切って開けた。

 灰色の厚い雲に覆われた空。そのわずかな隙間から零れる光が妙に眩しい。下に広がる黒き死の大地を照らして何もないことを告げた。パラパラと持ち上げた蓋から土が落ちる。見慣れたはずなのにどことなく無力さと寂しさを語る世界。自分が先程までいた場所が夢のようだ。


 何もない世界を目の前にして彼は改めて思い知る――。


 この世界は、死んでいる――――。








 外界とつながっている部屋。ここは正確には楽園ではない。この部屋は楽園へと続く地下通路の一部だ。本来ならば楽園の完成と共に発表される予定であったが、その前に世界退廃が起きたために発表されなかった。それでも一部の者たちは知っていたはずだが、肝心な出入り口がどこにあるかはほとんどの人間が知らず、見つけられなかった。

 だが、ここを使う者はいた。自分以外にも二人。一人は外に出て世界に貢献した。もう一人は今から世界を変えるか、はたまたは絶望を生み出すだけだろう。五十年前、ここから外に出た科学者は情に流され、ここのことを誰にも告げなかった。そして、今回出たもう一人も手にした宝物に気を取られ、ここが何か気付けなかった。だからこそ、ここのことを誰かに告げることもないだろう。

 そんな部屋で彼女は一人、部屋を見回す。多くの鉄の棒でできた棚が置かれているが、それ以外はほとんど何もない。外へと通じる唯一の梯子は外からの光で照らされて輝いていた。足元に着いた埃が人の足跡の形を残している。

 どうやら彼は無事脱出したようだ。それに安堵して踵を返そうとしたが、視界の隅であるものをとらえる。この部屋に存在するはずのないものに気付いた。武器が乱雑に詰め込まれた木箱。

「あれ? 武器は全部武器庫に入れていたよね? あ、不良品だ」

 木箱から武器の一つを取り出してそれが不良品であることに知る。そこから武器庫に入りきらなくなったものをきっとあの子がここへ運んだのだろうと思い、さほど気にも留めなかった。

「廃棄処分しなきゃね」



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