第4話 紅花翁草

  ジェイクが行方不明になってから早一か月経とうとしていた。生存は絶望的と言われる。

 当然だ。ただでさえ、毎日のよう人が死ぬ。一人で危険な地帯へ行くことは自殺行為だ。わかっていたが今まで何度のジェイク一人向かい、一人で帰ってきた。

 だからこそ、皆深く考えなかったのだろう。本人の責任に他ならないのだが、自身のせいでもある。

  自分がちゃんと少人数でも部隊作ればこうならなかったのではないかと彼は後悔した。

 世界が退廃した今、魔獣がうろつく外に人は出たがらない。何よりもジェイクは一人で何度も往来した。信頼していたのだ。

 失った片腕の付け根を慰めるようにも一方の手で撫でる。

 こんなことは日常茶飯事だが、いつまで経っても慣れることではない。特に自分がこれからしなければならないことを考えると心が重くなる。

 一部が破損しながらも立ち続ける壁と天井。その一部だと思われる瓦礫は端の方に寄せられているが、建物の中であっても危険だ。雨風を防げるものの危険な生物の侵入を防ぐことまではできない。

 常に見張りが立ち、周囲の警戒を行っている。そんな者たちをまとめるのはタイガービル地区ホープ部隊長であるウォルター。

 彼は戦いの中で片腕を失ったが、今もなお戦い続け、皆の指揮を取る。片腕を無くしながらも戦い続ける彼の姿は皆に希望と勇気を与えた。彼が先頭で戦う限り、誰もが勇気を振り絞って戦うのだ。

 だが、果敢に戦う彼でもどうしても心が憂鬱になることがある。

「ウォルター」

 ふいに呼ばれて彼――ウォルターは振り向いた。はずみでオールバックにした黒髪の一部が乱れる。だが、気にせずずっと握っていたナイフを腰のホルダーにしまい込んだ。

 自分を呼んだのは金髪隻眼の男性だ。背が高く細いせいか、ヒョロヒョロとした印象を与える。

だが、食糧難でもあるに関わらず、しっかりとした肉付きをしており見た目に反して力強い。その実力を表すかのように彼はタイガービル地区ホープ副部隊長を務めていた。その信頼できる相棒の名前を口にする。

「どうした、テリー?」

 ウォルターは自分に近付いてくるテリーに声をかけつつ自らも近付いた。途端、テリーはわずかに俯く。唇を噛み締め何かを堪えているようだ。長年の経験から彼が何を抱えているかを全て悟った。

「俺が話をする。連れて来てくれ」

 大きな手で彼の肩を握りながら声をかける。

それにテリーは一度だけ顔を上げた。

何かを言いたげな視線をウォルターへと向けるが、何も言わずに頷く。

それから引き返した。これからのことを考えると憂鬱よりも重く暗い気持ちになる。

それはウォルターだけでなく、彼の補佐を務めるテリーも同じだ。

 部屋から出て行くテリーの後ろ姿を見ながら、ウォルター・ラグナは唇を噛み締める。楽園討伐組織・ホープ。そのタイガービル地区部隊長を努める三代目リーダー。彼の祖父こそがホープの創始者であった。

 アドルフが食料や水を作り出す前は地区同士の争いが頻繁に起きた。当時から彼の祖父はこのタイガービルを守るために戦ってきた。

 そして、アドルフが食料を作り出し、その独占をしてからは、彼の祖父はアドルフ討伐を目標にホープという組織を作りあげ、それぞれの地区との協力関係を築き上げたのだ。

 今現在ホープの頭領は別の地区の別の者が引き継いでいる。だが、いずれはウォルターが引き継ぐだろうと誰もが思っている。それほどの実力と人望を持つ男だ。片腕がないことなどハンデにさえならない。だが、そんな彼でもくじけそうになるのだ。

 再び足音が聞こえて来た。今度は一つではない。二人分の足音だ。視線を出入口へと向ける。

戻って来たテリーがいた。そして――彼の隣には女性がいる。食糧不足にも関わらず艶やかに輝く黒髪でショートカットの女性。かつての晴れ渡った青空を連想させるような青い瞳。その眼には悲しみを湛えた、年齢よりも幼い表情が映し出される。

「ベティ、大丈夫か?」

 食糧難であるためにほとんどの者が痩せているが、その中でも彼女はいつも以上にやつれていた。原因はわかっている。だからこそ、やさしく声をかけながら女性・ベティを手招きした。同時にテリーが部屋をあとにする。

 ベティは少し戸惑ったが、意を決してウォルターに近付く。彼女が、手が届く距離までくると、その頭を大きな手で撫でる。皆よりも年上である彼にとって地区の仲間たちは子どもみたいなところがある。折角綺麗に整えた彼女の黒髪をぼさぼさにした。

「ウォルターさん」

 震えた声でベティが彼の名を口にする。今にも泣いてしまいそうだ。だが、泣いてもどうにもならないかと彼女は続ける。気丈に振る舞ってはいるが、胸のうちに広がる不安にもう耐えられないのだろう。

「ジェイクは……?」

 震えた小さな声が反響する。不安そうに自分を見上げるベティ。目の端に涙が浮かんでいた。

 彼女がそんな表情をする理由はわかる。彼女の恋人は行方不明になってすでに一か月も経っているのだ。

  恋人と言ってもただの恋人ではない。幼い頃から共に生きてきた家族であり、心の支えだ。いて当然、半身に近い存在なのだ。

 こんな世界だ。いつどこで誰を失ってもおかしくない。家族を失ってもそれはよくあることに過ぎない。だが、心はまだ死んでいない。心が生きているからこそ、人である彼らは絶望しながらも生きるのだ。

  もちろん、ウォルターもわずかな可能性縋っている。ホープ者たちと共に捜索しているのだが、一切手がかりはない。最も外には魔獣がうろついているために二次被害が出ないよう、捜索も簡単なものしか行っていない。すでに一か月が経過した以上、生存は絶望的だ。もはや諦めるしかない。

  薄暗い廃墟は彼女の気持ちをより沈ませるだろう。だからこそ、一刻も早く彼に帰って来てほしいと願い、縋るように彼の元に来た。彼ならばきっと見つけてくれるとわずかな希望を信じている。

 それが相手を追い詰めることになるなど露ほど思わず、彼女は問いかける。

「ジェイクは、生きてますよね?」

 彼女は諦めきれない。だからこそ、縋るようにウォルターを見上げる。その目を傷つけることを恐れながらも嘘をつくのが正解ではないと自分に言い聞かせる。

 本当は今すぐにでも嘘をついてしまいたかった。だが、それはできない。二人がいる廃虚が物語る。一人の人間に構っている余裕はないのだ。他人の命や心を踏み潰さなければ生きていけない。だからこそ、ウォルターは静かに言う。

「もう一か月経っている。生存は絶望的だ。残念だが――」

「ウォルター! ベティ!」

 彼の言葉と共にベティの表情が曇る。だが、突如として響いた声が彼の言葉と彼女の絶望を遮った。

 続けて慌ただしい声と足音が響く。声からしてテリーだとわかったが、彼は冷静で滅多に慌てることがない。その彼がこれほどまでに慌てているのはよほどの事が起きた時だけだ。

 何かあったのかもしれないとウォルターは気を引き締め、ホルダーのナイフを抜く。

「どうした、テリー?」

 ベティを端の方にどけつつ出入り口へと近付く。同時にテリーが姿を見せた。汗だくの上、肩で呼吸をしている。相当まずい状況なのだろうかと不安を抱いた。魔獣の襲撃ならばすぐにでも指揮を取らねばならない。

「ジェ、ジェイ……」

 何かを訴えようとしているが、呼吸の乱れでうまく話せずにいる。

「落ち着け、そんなまずい状況な――かっ!?」

 まずは落ち着かせようとした矢先、テリーの背後で何かを踏みしめる音が響く。思わずそちらを見てウォルターは言葉を失った。

 出入り口、テリーの背後に現れたのは、長い黒髪を一つに束ねた青年。恰好はボロボロで汚れていたが、特に目立った怪我もなく元気そうだった。大きな鞄を片手に持ちながらも空いた片手をあげて彼は口元に笑みを浮かべる。

「ただいま」

 彼の声を聞いた途端、ベティの瞳から大粒の涙が溢れ出す。その涙を拭うこともなく、彼女は駈け出した。そして、彼の胸へと名前を口にしながら飛び込む。

「ジェイク!」



「――って感動の再会はたったの二分ってどういうことよ! ちょっと! 出てきなさいよ! ジェイク! 聞いてるの!? 怪我は!? こら! 引き込もるな!」

 ドカドカと壊れかけの扉を黒髪の女性――ベティは殴る。普通ならば女性の力ぐらいでは壊れないだろうが、彼女の激昂の仕方からして壊してもおかしくはないだろう。それ以前にこの建物は古く至るところが壊れているのでふとした衝撃で壊れかねない。

 流石に壊されては困るので、彼は背後から彼女を羽交い絞めにして引き離す。

「落ち着けよ、ベティ」

「放してください、ウォルターさん! あのバカを一発殴りたいんです!」

 確かにベティの言う通り殴りたい気持ちはわかるとウォルターは思わずしきりに頷いた。

 今、二人――彼等から少し離れたところに立って見ているだけのテリーも含めて――三人がいるのはとある部屋の前だ。その部屋というのもタイガービルに唯一存在する研究室である。

 最もその部屋を使うのは一人しかいない。科学技術が失われた今、かつての科学者からその技術と知識を受け継いだ天才。

 タイガービルに人が集まり、一つの集落として動き始めた初期の頃、ウォルターの祖父がホープを結成しタイガービルを指揮していた。その時にどこからかとある科学者が流れ着いた。

 そう、ジェイクの祖父・オリヴィエだ。

 貧弱で力仕事などできそうにない彼を人々はあざ笑い、科学をバカにしていた。事実、科学など大自然の前では無力だったのだ。役に立ったのは自らの肉体ばかり。

 かつて人々の生活を向上させた技術を人々は軽視し始めた。

  だからこそ、彼は長い間バカにされていた。しかし、いくらなじられようともオリヴィエが科学を捨てることはなかった。

 そして、ついに彼は浄水器を作り上げた。彼が作った浄水器により生存率が比較的に上がり、人々は彼を讃えたのだ。

  そして、その孫であるジェイクもまた魔獣に抵抗するための武器――銃を作り出した。それにより彼等は実力と共に認められ、今となってはいなければならない存在と化したのだ。

 彼等がより発明と研究に力を入れるように、また彼等が研究に集中できるようにと皆が研究室を与えた。だからこそ、今、その部屋に引き持っているのは、科学者であるジェイクのみ。

 確かに彼の技術は必要である。だが、科学者というのは変わり者でなくてはならないのか、昔から彼も人とは一風変わったところがある。今もその変人っぷりを発揮している。

「おい、ジェイク。食事は? 怪我してねぇよな?」

 一か月ぶりに生還したタイガービル唯一の科学者・ジェイクへウォルターは声をかける。この一か月彼が何をしていたのか、どこにいたのかは部隊長であるウォルターさえ知らない。

 それというのも彼はつい先ほど――本当に一、二分前に生還して「ただいま、研究室にこもる」とだけ行って本当に研究室にこもったのだ。

 普通ならば一か月ぶりの――それもいつ死ぬかもしれない状況の中で――生還すれば仲間が恋しいはずだ。ましてやそれが恋人になれば再会に歓び時間を共にするだろう。あるいは部隊長であるウォルターに報告の一つぐらいするはずだ。

 そうでなくとも自力で食糧を得るのが難しい中では満足な食事ができなかったために体が弱っているはずである。

 だが、弱っている様子も見せず、恋人との再会も報告も惜しみ、彼は研究室へと駆け込んだ。本当に速かった。その速さを別に活かせと言いたくなるぐらい速かった。

 これには彼の恋人であるベティが激昂。報告ぐらいしろよとウォルターも研究室の前まで来たが、ジェイクは返事さえしない。

「しゃーねぇな」

 唯一の科学者を失うわけにもいかず、ウォルターは黒髪をかきむしる。折角のオールバックがもはやぼさぼさだ。

「ジェイク! 報告なしで閉じこもるなら、あの時のことをベティに――!」

  ウォルターが外から大声で声をかけると突如として部屋の中が騒がしくなった。ドタバタと足音が聞こえて来た。「った!」という声と共に物が落ちる音が聞こえてくる。研究室の中は散らかっている――研究の没頭するあまり片付けをしない――ので何かに躓いたのだろう。

 『何やってんだ?』と外にいる者たちが思っていると、鍵を開ける音と共に扉が開いた。不機嫌そうなジェイクが顔を出す。

「ウォルター」

 恨めしそうにウォルターを睨み付けるジェイク。それにウォルターは子どものようにニヤッと笑った。同じ場所で共同生活をしている以上、相手の弱みぐらい把握している。最もそういうことができるのも人としての心がまだ残っている証拠に他ならない。

「ホープの一員なら報告ぐらいしろって。何よりも食事が先だ。あの環境で満足な食事ができたとは思えないぞ。それとちゃんと怪我の手当てしろ」

  ニヤッと笑ったウォルターだったが、次の瞬間には顔を引き締め、静かな声音で言った。

 帰ってきた時、ジェイクはボロボロな格好をしていた。ひどい怪我は見た限りないようだったが、こんな世界だ。

 否応となく魔獣との戦闘もあったことだろう。怪我をしている可能性は十分にある。部隊長としてウォルターは確認しなければならない。

「あぁ、怪我はないぞ。食事も問題ない。そうだな……」

  言いながらジェイクは少しだけ逡巡する。その様子を見ると、ジェイクが健康体そのものだということがウォルターにもわかる。

 だが、同時に疑問も沸いてきた。魔獣がうろつき、満足な食糧もない中でどうやって一人で一か月もの間生きてきたのか? 不可能ではないが、かなり過酷な環境だ。ただが人間では生存が困難である。

  ふいにジェイクがウォルターとベティ、それからテリーを見て三人を手招きした。

「中に入ってくれ。何があったのか、話す」

 ジェイクが部屋へと引っ込んだので、三人は互いに顔を見合わせると研究室へと足を踏み入れた。

 研究室はガラクタばかりで埋め尽くされており、辛うじて足場があるぐらいだ。明らかに役に立たないだろうと思われてる鉄の屑などもある。

  それらを踏まないように気をつけながら奥へと進んだ。部屋の奥には豆電球と粗末な机がある。豆電球の小さな明かりに照らされた工具と思われる道具が机の上に放置されていた。豆電球も机も工具もあり合わせのものなのだろう、全てのボロボロで布などを使って補強してある。

 それらとは対照的に無駄に綺麗な青いファイルが机の上にあった。明らかにタイガービルのものではない。

 それにウォルターが視線を向けているとジェイクが机に近付いた。そして、机の足元に置いていた鞄――この鞄もまた新しくとても綺麗なもので、タイガービルのものとは思えない――を手に取り、その中からビニール製の袋に入った物体と鉄でできた筒形の入れ物二つを取り出し持ってくる。

 その時点で三人は驚いた。希少だが、今もビニールは存在する。しかし、滅多に手に入らない上、あってもボロボロで使い物にはならない。使えるような代物など滅多にお目にかかるものではない。それをどこで入手したのか、彼は持っていた。

「これ」

 驚く三人をよそにジェイクは持ってきたビニール袋の方をウォルターへと渡した。渡されたビニール袋には何か茶色の塊が入っており、それをビニールで潰しているようだった。

 続けてジェイクは筒状の入れ物ー天辺の円形の蓋を外してからベティとテリーへと渡す。三人は渡されたものを見た。見たこともないものだったために不思議そうに見つめる。

「ウォルターに渡したのは牛の肉だ。開けて焼けば食べられる。ベティのは野菜スープ、テリーのはクリームシチュー。二人のはそのまま食べられるが、温めた方がうまい」

「……食べ物?」

 三人は一体何を言っているのかとジェイクの方を見た。

「昔人類が栽培・養殖していた野菜や動物などからできた食糧だ」

 文明が絶たれた今、先人の体験談の中でしか昔の食べ物の知識はない。実物を見るのは初めてだろう。だからこそ、彼等はジェイクに言われてもピンと来なかった。

 むしろ、鮮やかな色の食べ物に抵抗さえ覚える。普段口にするのは地中奥深くにわずかに存在する植物の根や虫。あるいは魔獣の肉だ。

「これが本当に食べ物だとして、どうやって入手したんだ?」

 鋭い眼光をウォルターはジェイクへと向ける。まず本当に食べ物かどうかを確認せねばならない。

 だが、ジェイクの様子から本物である可能性が高いと踏んで問いかける。そして、本物ならばどこで入手したのか?

  これだけの食糧を生産あるいは確保する方法、綺麗なビニール、それらを加工する方法。どれも今の人類にはない、いや、できない技術だ。

  ジェイクはウォルターを見つめ返す。ゆるぎない目だ。嘘など通用しないだろう。可能な限り嘘偽りなく話すことを決意せざるを得なかった。

「とある科学者に出会った」




 少しだけ戸惑っているのが声の調子からわかる。何よりも彼が出会ったという科学者がウォルターは非常に気になった。しかし、深く追求せずにまずは話を聞くことにする。

  ウォルターがジェイクの様子を窺うように、ジェイクもまた探るように言葉を紡ぐ。

「魔獣どもに襲われ死にかけたが、その科学者に助けられた。そいつは俺以上の科学者で――浄水器や食料を作り出していた。そいつが作った食糧がそれだ。昔の調理方法、材料でできている。しかも長期間保存できるようにしてある」

「へぇー。すげーな。つーか、そんだけの技術持っているって、そいつ――」

 話を聞いていくつかの疑念をウォルターは抱いた。念のためにまずはその科学者について尋ねる。

「楽園の者じゃねぇだろうな? まさかとは思うが、捕まったのか?」

 ジェイクが口をつぐみ、わずかに俯く。少しだけ迷ったような素振りを見せたが、すぐに前を見て続ける。

「……確かに楽園の者だったが、敵というわけではないようだ。本当に敵なら俺を助けたりはしないだろう。ましてや研究成果や資料を見せたりしないはずだ。それどころか他の連中から匿ってくれた」

 ジェイクがその人物について触れないのは、その人物について語ることでその者への危険を危惧しているからだろう。もしくは食糧等で彼自身が買収されたかだ。

 ウォルターは思考を巡らせる。

『まぁ、楽園がわざわざこいつを買収するとは思えないがな。楽園の連中は確かに魔獣を放ち、俺たちを惨殺しているが、計画的ではない。むしろ、殺せたら殺す――そんな無計画さがある。わざわざ買収する理由がわからねぇし、本当に買収したならこいつが帰ってくることはないだろう。

一度楽園に入ってこんな食糧を食べたなら帰りたくなくなるはずだ。この研究バカなら、それだけ高度な技術を持った楽園から出たがるとは思えない。となると、楽園で助けられたが、出ていくしかない状況になったと考えるのが妥当か。買収の可能性は低い。そもそも買収してまでここを潰すとは思えねぇ』

 ジェイクの性格と状況から考えて彼が裏切った可能性は低いだろうと思った。仮に裏切るとしても楽園が彼をほしがるとは思えなかった。何よりも彼がこちらへと持ち込んだ食糧が証拠だ。

『楽園の連中が食料を持たせてこいつを帰らせるはずがない。逃げ出す際にこいつ自身が持ってきたと考えるべきだな』

 食糧を独占している楽園が楽園外に食糧を出すはずがない。買収したからと言って持たせるのも不自然だ。どう考えても裏切りの可能性はない。むしろ、可能性はゼロだ。

「そうか。ま、この食糧は当分隠しておけよ。持っているってだけで他の連中が疑うだろうし、これだけしかないんなら奪い合いになる」

 彼の裏切り、買収はありえないとウォルターは信じるが、他の者はそう思わないだろう。むしろ、食糧を裏切りの証拠と判断するはずだ。そのことはジェイクも理解しているため、彼は素直に従う。

「あぁ」

「でも、おいしいわね。これ」

「そうだな」

「ん?」

 二人が話しながらも互いに裏を探り合う中、呑気な声が聞こえて来た。二人が振り向くと、ベティとテリーが静かに筒状の入れ物に入った食糧を食べていた。

 二人が話している間に、自分達で探し出したのか、それとも持ってきたのか、スプーンを手に完全に食事を楽しんでいた。

「……お前ら神経図太いな。毒が入っているとか思わなかったのか?」

 ウォルターが呆れた様子で溜息をついた。先程まで険悪な空気はどこへやら、なごやかな空気が流れ始める。

「だって、ジェイクが健康そうだし大丈夫だと思ってさ」

「楽園の連中がわざわざ毒を混入させてジェイクに運ばせるとは思えない。俺だったら大量に食事を持ってきて、それら全てに毒を混入させて全滅させる」

 ジェイクの様子から安全と判断したベティ。それには賛同する。だが、そんな彼女とは対照的にテリーは最悪な事態を考慮した上で安全性を確かめた。しかもその内容はかなり残酷そのものだ。思わずウォルターがドン引く。

「お前の発想がこえーよ。つーか、黙々と喰ってんじゃねぇ! 俺にも食わせろ!」

 二人の様子から安全を確かめると同時においしさに気付いたのだろう。ウォルターは二人へと近づき、自分の口を指差した。雛鳥が親鳥に餌を要求しているようだ。しかし、かわいくはない。

「……」

 三人の様子を見てジェイクは思わず思う。

『なるほど、食べ物の奪い合いは醜いな』

 人間は食欲に勝てない生物なのだろうとつくづく実感する。食糧は本当に重大な問題だ。何が何でも解決策を見つけなければならないーと改めて考えさせられる。

「……ベティ?」

 ふいに先ほどまでおいしそうに食事をしていたベティが手を止め、俯いた。どうしたのだろうかとジェイクが声をかけようとした矢先、彼女が呟く。

「ジョンにも食べさせたいなぁ」

「あぁ」

 すぐに彼女が何を考えているか理解できた。

ひもじい思いをする子どもたち。幼い子どもや弟妹を持つ者たちは守るために彼等にできる限りのことをしたいと願っている。ベティもその一人だ。

  何よりもこんな過酷な世界で今もなお存在する相手を思いやる気持ち。それがあるからこそ、彼らは今もなお戦えるのだ。

「……気持ちはわかるが……ベティ」

 ウォルターが口を開く。彼は手にしていたビニール製の袋をジェイクへと返しながら続けた。

「ジョンは子どもだ。下手に食べ物をやって味をしめたら他の連中にも言いふらすだろう。そうなったら、他の連中の抑止が効かなくなる」

「そっか……残念」

 ベティががっくりと肩を落とす。今の状況でまだ幼いジョンに食糧を与えればきっと彼は言いふらすだろう。そうなれば困るのはジェイクたちだ。

 数少ない食糧を求めて争えばどうなるかわかったものではない。タイガービルの崩壊を招きかねない。

 それを理解しているために彼女は大人しく諦めることにしたようだ。だが、彼女の気持ちも痛いほどわかる。

「皆が満足に食べられるように何とかしてみる」

 そっとジェイクはベティに近付き、彼女の肩に手をかけた。共に生きる中で芽生えた絆が彼を振るい立たせる。

 祖父からもらった確かな愛情、抱いた憧れが今の彼を作っているのだ。だからこそ、彼は進む。

「だから、もう少しだけ待っていてくれ……」

 青い眼が唯一の科学者を見つめる。訴えかけるような目だ。本当にできるのかと、信じていいのかと訴えている。そして、その言葉を信じようとしていた。

「できるのか?」

 皆が黙り込む中でウォルターがまっすぐにジェイクを見つめながら問う。その眼差しには期待と共に疑いの色が浮かぶ。できればうれしい。だが、今までかつての技術が現存している楽園でしかできなかったことがそんなに簡単にできるはずがないと思っている。

「他人にできたことが俺にできないとは思えない。それに――研究資料は奪ってきた。無駄でもやってみるだけだ」

 青い瞳に強い光が宿る。信じてくれとその目で皆に訴えた。

 彼の性格を知っているウォルターたちは溜息をつく。それぞれに髪をかきむしったり、肩を竦めたりと諦めたような表情を見せた。だが、清々しく口元に笑みを浮かべる。

「わかった。やってみろ」

「がんばってね」

「無理だけはするな」

 皆が彼の背を押した。期待ではなく、自分の考えを認め、力を貸すと伝える声。それに彼は一つ大きく頷く。

「あぁ」







 所々隙間の空いた本棚。長年使っている書庫であるために、また他の誰でもない自分が管理しているために何の本が無くなっているのかすぐにわかった。その上で大したことがないことに胸を一撫でする。

 本だけでは何の役にも立たない。いくら理論や情報があっても肝心な道具やエネルギーは彼の手元にはない。

 楽園以外は荒廃した世界だ。使える道具がまずないだろう。あっても電気やエネルギーとなるものがない。

  昔は水流や太陽光、風量といろんなものを利用していたようだが、この世界にはないのだ。川や湖の大部分が枯れ果て、海までは遠い。とても歩いていける距離ではない。仮に辿り着けたとしても、そこで流水を利用し発電するための機械を作ることなど現時点では不可能だ。

 風も吹くが、有害なガスを含んでいたり、細かなゴミ屑等を含む。ちゃんとした機械を設計しないとあっという間に壊れることだろう。

 太陽ももちろん存在する。しかしながら、ほとんど厚い雲に覆われ、日光が届かない。十分な量に達することはないだろう。何よりもかつて存在したオゾン層などが壊れ、あるいは変質し、生物や機械に悪影響を与えることさえもある。

 実質不可能なのだ。最もあくまでそれは今の彼の技術での話だ。彼の努力次第では可能かもしれないが……。いや、彼自身が作り出さなければならないのだ。

  できないことに思い悩むだろうが、それでいい。他人が作ったもので発展するのも手だが、自分たちの力で生み出し生きなければならない。

 ここにあるのはあくまで楽園が生きるために生み出した知識と努力の成果。今のこの世界に適した科学とは限らないのだから。

 現時点では不可能だろうと自分の心配が杞憂であることを知って安堵する。そして、研究資料を納めている本棚の方へと向かった。

 こちらの本棚は頻繁に使うために常に隙間がある。そんな本棚に手を伸ばして背表紙を指でなぞっていく。

「えっと、あれ?」

 背表紙には本の内容と番号が書かれている。番号に応じてファイルが並んでいるのだ。だが、一部番号が飛んでいたり、順番が入れ替わったりしていた。自分が取り出したファイルかと思ったが、そうではなさそうだ。

「二三一と二五四がない? あ、一もない。一なんてほとんど使わないのに……。パパも使わないから……ニゲラは科学わからないか」

 独り言のように呟きながら気付いた。黄金の目に鋭い刃のような光を宿す。

「彼が―」

  一の資料には植物や食糧に関する基盤となる知識と技術が記載されている。楽園のとっても始まりとなった技術だ。

 この資料に記載された知識ならば、科学の知識技術を持つ者であれば比較的容易に食糧等の生産ができる。

 皆が望む夢が叶う資料。だが、使い方を誤れば一瞬にして滅亡へと招きかねない。

  今の彼にはそれがわかっていない。最も体験しなければわからないことだろう。過去に二度も同じ運命を辿った自分だからこそ、言葉では伝わらないと知る。

「私も甘い夢を見たんだよ、ジェイク。 でも、それは知恵のある、本能を理性で抑えられる人間にしかできない夢なの。 死と体面する人々に同じことを望んではいけない。 生きたいのはみんな一緒。 だから協力するべきなのに、それができない」

  きっと彼は救おうとして苦しむことになるだろう。けれども、それを乗り越えればきっと自分とは違う道を見つける。それも一つの手だと彼の成功を祈ることにした。

『それとも、気付いているのかな? だから、武器も持って行って…あれ? 持っていけるはずがない!?』

 考えてある結論に至る。

 危険な場所から脱出するのに余計な荷物などは持たない。彼の性格上、優先すべきは科学情報であり、武器は最低限しか持ち出さないだろう。何よりも大量に持ち出すための道具を彼は持っていない。建物内の道具や機械はすべて揃っている。彼が使った形跡はない。

 だが、管理していた大量の武器が消えている。武器はすべて武器庫に管理しており、鍵は常に父の目が届く場所にある。武器を持ち出せるはずがないのだ。

「まさか!?」

 気付いてしまった以上、時が来るまで待っているわけにはいかない。自分の計画はすでに彼女によって崩れ出していた。だが、これ以上崩れてはまずい。走り出す。最も止めに行ったところで無駄だろうということは察している。





 紙は大分古い。だが、それでも大切に保管されていたために内容は綺麗に残っている。だからこそ、年月を超えてジェイクでもその内容を読むことができた。

 問題は書かれた材料集めだ。なんとか集まりそうなものもあれば、自分で作るしかないものもある。どうしても集まらないものは代用品を探さなければならない。

『爺ちゃんの研究室に何かあるだろうか?』

 集まりそうにないものが多かったために、かつて祖父が使った研究道具や失敗作をしまい込んだ小さな部屋へと向かう。そこは現在自分が使っている研究室内にある小さな部屋だ。

 時折祖父はその部屋で研究を行っていたが、ほとんど物置としての役割しか果たしていない部屋だ。祖父亡き後はただの物置小屋と化し、祖父が使っていた道具や研究資料をしまい込んでいる。

 物置小屋へと入ると埃が舞った。ほとんど使用していないために汚れている。埃だけならばまだしも土や砂かはたまたは炭かわからないものまでもが部屋にはたまっている。恐らくわずかな隙間から外の汚れが侵入したのだろう。大切な資料がボロボロにならないように隙間を塞がなければならない。そう考えながらも漁り始める。

「ん?」

 近くにあったガラクタのような謎の物体を取り出した矢先、ゴトと何かが落ちる音が響いた。視線をそちらへと向けると埃まみれの黒い箱が落ちているのが目に入る。汚れ方からして相当古いものだ。長い間しまわれていたものだとすぐにわかった。

 見覚えがないので恐らく祖父のものだろう。取り出したガラクタをその辺に置き、黒い箱を手にする。

 かぶっていた埃を吹き払ったところ、箱には装飾品などはなかった。とりあえず、開けて中を確認する。

 中には二通の手紙と一冊の本が入っていた。

 先に二通の手紙を手にする。どちらも「From A For O」と書かれていた。恐らく祖父へと当てられた手紙だろう。中を見れば差出人がはっきりするだろうと思い中身を取り出す。

 入っていた便箋には次のようなことが書かれていた。




オリヴィエへ

 昔ながらも手法で伝える。

もう私はダメだ。

世界よりも子どもたちが大切だ。

妻が遺したあの子たちを見殺しにはできない。

世界中を敵に回してもかまわない。

あの子たちは必ず助ける。

だから、オリヴィエ、お前を信じて託す。

楽園から研究資料を持って逃げてくれ。

あいつらに独占されるわけにはいかない。

世界中の子どもたちが飢え苦しんでいる中、自分達だけが豊かな生活をするなんて許せない。

だが、我が子を見捨てることもできない私にはもう何もできない。

だから、頼む。

H.A





 もう一つを読んだ。





オリヴィエへ

 ホープの襲撃で息子が死んだ。

何の罪もないのに、殺された。

私は何のために研究をしていたのだろうか? 

あの子も……私のせいで……

H.A


 もう一方は黒いシミで汚れており、文字も走り書きであった。

『ひょっとして爺ちゃんは楽園から逃げて来た科学者だったのか? それなら、あの写真も、爺ちゃんが浄水器を作れたのも合点がいく。じゃあ、このH.Aは――』

 一人の人物を思いつく。だが、それを否定したいとも思った。もし、自分の考えが正しければ祖父はまたも非難されるだろう。

 自慢の祖父が避難されるのは昔からいやだった。だから、自分の胸の内にしまうことにした。

 そして、一緒にしまわれていた本を手にする。開いてすぐに日記だということがわかった。


二八二七年 六月四日

 アドルフとの研究がついに実った。

完全ではないが、人が飲めるまでに水を浄水できる機械を作り出すことに成功した。

 アドルフもヴィヴィアンも私も、他の研究員たちも喜んだ。

絶望的だと思われていた中で、やっと完成したのだ。

ここからが始まりだ。

やっと希望を見つけたのだから。

 しかし、まさかあの一言でここまで大きな希望が生まれるとは当時は思ってもいなかった。

むしろ、私は彼のことをバカにしていた。

 私が初めてアドルフと出会った日、彼は私にこう言ったのだ。

「役立たずの科学で世界を変えよう」

 世界が退廃したその日以来、文明と技術は力を失い、科学は無能の烙印を押された。

何の研究成果も出せず、ただ飯ぐらいとバカにされるようになった。

健康的、運動が得意な者たちが羨まれるようになった。

そんな中で科学に力を入れるバカはいない。

 昔から運動が苦手で、だからと言って研究成果も出せないもやしっ子の私にとっては、頭を使う以外に役に立つことはなかった。

だが、その頭脳も意味をなさなかった。

だから、その言葉は私にとっては救いだった。

同時に夢物語だと嘲笑った。

 だが、今、その言葉が実現した。

今まで飲めもしなかった水が――煮沸消毒が必要だが――飲めるようまで浄水される機械が完成した。

科学の力が証明された。

 こんな喜ばしいことはない。


二八二七年 七月一日

 ついに植物の栽培に成功した。

ヴィヴィアンの仮説と研究が実る。

このまま食糧となる食べ物が実ればいい。

実らなくとも心の癒しとなってくれるだろう。

少なくとも植物の一つでも実れば、遺伝子操作でより強い植物を作れるかもしれない。

 基本的に強い芋などの植物で今後は実験をしていく予定だ。

このまま成功していけばいい。


二八二七年 七月二十一日

 遺伝子実験が成功した。

牛や豚、鶏などの家畜を生み出したのだ。

 この退廃した世界で細胞や遺伝子を探すのには大変骨が折れた。

生物の死骸を探し、そこから使えそうな遺伝子や細胞を探す。

苦労した甲斐があった。

もっと増やせば食糧問題は解決するだろう。


二八二七年 八月四日

 実験は順調。

少しずつだが、塔の者たちに食糧を配給できるようになってきた。

子どもたちを優先にしたために子どもの死者が減った。

このことに何よりも喜んだのはアドルフとヴィヴィアンだった。

 二人は世界退廃の際に子ども二人を失い、その後も栄養失調と上で六人もの子どもを失った。

今は息子が一人しかいない。

その一人のためにも研究を始めたそうだ。


二八二七年 九月七日

 ヴィヴィアンが妊娠した。

アドルフが歓び、さらに研究へと熱を込める。

産まれてくる子どものためにもより世界をよいものに変えようとしている。

その子が飢えで苦しむことがないようにと、かつての世界を取り戻そうと――。

 私もその力になれるように力を貸したい。


二八二八年 四月――

 ヴィヴィアンが亡くなった。

だが、彼女は最期の力で女の子を出産した。

アドルフがひどく悲しみ、私も泣いた。

だが、立ち止まっている暇はない。

彼女が命と引き換えに生んだ子どもは弱々しい。

この子が幸せになれるように世界を変えなければならない。

 こんな小さな命が生きられる世界を目指して――……。

 そうこの子こそが希望となる世界を作らなければ――。

人と人が争う世界を変え、人の純粋な愛情と優ししい心が失われることのない世界を――。

 そんな願いを込めて、私たちはこの子にアイビーと名付けた。


二八二九年

 なぜ、こうなったのだろう? 

塔の者たちは他の地区の者たちに食糧を与えることを拒んだ。

今こそ助け合いが必要だというのに――。

 逆らおうとしたが、できなかった。

子どもたちを人質にされてしまった。

今の私たちでは助けることさえできない。

ただ従うしかなかった。


二八二九年

 部屋に手紙があった。

アドルフからだ。

塔から脱出するように言ってきた。

研究資料を持って他の人々に食糧と水を分け合ってほしい……と。

 私は――それに従うことにした。

子どもを見捨てきれず、悪への道を進むことを決めたアドルフに代わり、彼の夢をかなえるために――。

 彼と共に導き出した実験成果と研究資料を手に、脱出用の隠された地下通路を使い塔から出て行く。

塔を建設した際に極秘に作られた地下通路だ。

ほとんどの者が知らないはずだ。


二八二九年

 無事にタイガービル地区にたどり着き亡命した。

研究成果と塔の者たちに対抗する武器を作り出すという条件でだ。

武器の方は難しいが、浄水器だけでも作れば信頼を得ることはできるだろう。

 最もそれもそう簡単には行かない。

裏切り者と、非人道と罵られた。

だが、もはや関係ない。

今はこの世界を変えるためにできることするだけだ。


二八三〇年

 ホープが塔を襲撃した。

だが、塔側の勝利に終わり、世界は変わらない。


二八三三年

 魔獣と呼ばれる生物が出現した。

どう考えてもアドルフが生み出したとしか思えない。

あの地下通路を使い、真実を確かめに行った。

 そこで私が見たのは――……ヴィヴィアンが命と引き換えに生んだ子どもだった。

 だが、母親似の黒髪は蒼く、同じく母親似の青い瞳も黄金へと変色してしまっていた。

産まれてからすでに五年は経過しているはずなのに、二歳ぐらいの姿をしていた。

 アドルフに問い正したところ、ホープの襲撃で息子は死に、娘も死の淵を彷徨ったそうだ。

娘だけでも助けようとした結果がこれだという。

 私は絶望した。もう彼は壊れてしまったのだと――。

塔の中に広がる血の痕と二人の親子以外いない無人の空間が彼の狂気を表しているようだった。

あの眩しかった光のような彼はもういない――。



 日記はそこで終わっていた……。

『やっぱり爺ちゃんはアドルフの友で塔にいたんだ』

 祖父の日記を読んで彼は全てを確信した。そして、かつてアドルフが皆のために研究をしていたのだと知り、心が痛む。子どもを失い、それを繰り返しまいと足掻いた。そうやって足掻いた挙句、仲間たちに裏切られ、救おうとした者たちにも悪党という烙印を押された。そして、救おうとした者たちの手によって我が子を失い、狂ってしまった。

 祖父の日記から読み取った真実に迷いが生じる。彼もまた被害者なのだと――……。

『いや、被害者であったとしても今は加害者だ。

本当に世界を変えたいのなら食糧を分け与えるべきなんだ。例え、食糧が足りなくても技術を渡せばいい』

 迷いを振り払いつつ、日記をしまう。本来の目的でもある材料探しを忘れて、彼は物置から出た。

 出ると同時に人の気配を察する。だが、わざわざ相手の姿を探すまでもなかった。物置を出た先、自分の研究室が広がる。ガラクタと道具ばかりで埋め尽くされた部屋の中、唯一スペースを開けて机のある場所――その机に一人の少女が腰かけている。

 夜空のような青い髪。雪のように白く、けれども健康でありながらも死者を連想させる肌。年齢の割に豊満で、スタイルのよい。皆がボロボロの衣服を繋ぎ合わせてきている中でほつれ一つない綺麗な衣服を着た少女だ。

 その手には青いファイルが握られ、中身を確認している。彼女は物置から出て来た彼に気付くや顔を上げる。ゆっくりと優雅に立ち上がった。

「こんにちは、ジェイク」

 薔薇のような赤いふっくらとした唇を釣り上げ、彼女は言った。笑っているが、その目は笑っていない。その黄金の目は色を隠し、彼――ジェイクを捕える。

「アイビー、なぜここがわかった? いや、俺がどこの地区か知っていた以上、簡単にわかるか。それよりもどうやって入った? 見張りがいたはずだが……」

 タイガービル地区には常に見張りがいる。魔獣が侵入しないように人が入れる隙間や出入り口には必ず二人一組で見張りがついているのだ。彼等の目を盗んで侵入するとなるとかなり困難であるはずだ。ましてや彼女のような髪の色が異なる人間を彼等が通すとは思えない。

 それに彼女――アイビーは静かに答えた。

「別に簡単よ。人間には死角があるし、癖や集中力もある。どうしたって気のゆるみや油断は生じるわ。そこをつけばいいだけの話。ましてやここにいるのは民間人が大半。少々戦闘訓練積んだぐらいで私に勝てるわけがないのよ」

 彼女の言う通りだ。生きるために皆戦闘訓練を積んではいるが、あくまで護身レベルだ。戦闘に慣れた者には通じない。

「それでも魔獣を倒せる奴はいる」

「そうね」

 それがどうしたのだというかのように彼女は長い青髪を耳にかけた。それから懐から銃を取り出し、それをジェイクへと向ける。

 彼女の持つ銃はリボルバーではない。スリムで真っ黒なものだ。鉄ではなくまるでプラスチックのような材質でできている。

「お前は……ニゲラなのか?」

 彼女の言動に人格がどちらなのかと疑ってかかる。自らのホルダーに収めたリボルバーを抜き、彼女へと向けた。今のところ、彼女が撃ってくる様子は見られない。

「安心して、ニゲラは眠っているわ。というよりもニゲラが眠っている今じゃないとここになんて来れない」

 アイビーが溜息をつき続けた。心底、ニゲラに辟易しているようだ。

「私たちは別々の人格だけど記憶や体験を全て共有しているわけではないの。どちらかが睡眠中や意識を失っている間は共有ができない」

「そんなこと言っていいのか?」

 自分が不利になる発言をしている彼女に挑発のように尋ねてみる。問うたところで彼女は動じない。むしろ、不敵に笑った。

「問題ないでしょ? 今生きている人間の何割が多重人格についての知識を持っているのかしら? 生きるだけで必死で勉強する暇なんてない。七十年前から徐々に知識は絶えているのよ。だから言ったところですぐには理解できない。理解できる人なんて少ない」

 言われて気付く。自分は祖父から受け継いだが、それ以外の人とは話さえできないほど知識に差がある。文字の読み書きも一部の人間――高齢者や重要な役割を持つ者――しかできない。

 恐らく彼女の言う通り多重人格について知っている者はほとんどいないだろう。何よりも彼女が多重人格だとわかったところでそれが何の役に立つのか? 今のところ役に立ちそうもない。アイビーは味方でニゲラは敵などと言えば、混乱させるだけだ。

 さまざまな思考を巡らす中で、アイビーが続ける。

「だからこそ、断言できる。ニゲラのことを知り、理解が早いあなたは私に関する人体実験記録も読んだ」

「……そうだな」

 彼女の読みは鋭い。否定したところで無駄だろう。話を変えることにした。

「それで、わざわざ敵のアジトに来たのは何が目的だ?」

「研究資料の回収よ」

 言いながらアイビーは手にしている青いファイルを見せる。その青いファイルは元々楽園にあったものだ。重要な情報が刻まれている。取替されるのはまずい。

「やっぱりあなたが持ちだしたのね。返してもらうわ」

 彼女は素直に答えつつ、視線を下ろしファイルの中身を確認し始めた。

 だからこそ、気付かなかったのだろう。彼女の背後には壁がある。その壁は人の手が届かない箇所に小さな窓がついているのだ。

 だが、反対側は通路になっており、人が通ることができる上、そちらの通路から開け閉めができる。いつも閉まっているはずの窓が今は開いていた。はっきりとは見えないが人影が見える。

 すぐに仲間だと思った。アイビーに気づかれないように手で合図を送る。それに気づいたのか、人影が消えた。

 アイビーにそのことが悟られないようにジェイクは改めて彼女の方を向き、注意を引き付ける。

「断る――といったら?」

 返すつもりはない。敵のものとはいえ、これ以上ないほど重要な情報だ。書かれていること全てを自分の手で行えるならば今の生活は変わる。うまくいけば世界そのものを変えられる。

「殺すわ」

 はっきりと断るとアイビーが黄金の目で睨み付けながら、銃を構える。同時にジェイクは気付く。彼女の手がかすかに震えている。

「できるのか?」

 恐らく彼女の性格からして人を殺すことはできないだろう。本当に殺せるならばもっと前に殺していたはずだ。いや、人を殺したことがないのだ。

「殺す? 無理だな。お前は人を殺すだけの覚悟がない。本当に殺す覚悟があるなら俺を助けたりはしない。そもそもなぜ俺を助けた? 研究成果を持ち出されれば困るのはお前だろう? だったら最初から助けなければよかったはずだ。それをわざわざ助け、研究資料を見せた。まるで最初から盗んでほしいと言っているようなものだぞ」

 アイビーがわずかに俯いた。相手に銃を突き付けて置きながら目を逸らす。それは愚かな行為だ。やはり彼女が戦闘に慣れていない。

「……楽園を得るためにあなたたちは父を殺すでしょ?」

 ポツリと呟くように彼女が零した言葉。家族を失うことへの恐怖。それは誰しも持つ感情だ。彼女もまた父を失うことを恐れている。失う恐怖を知るならば、人の痛みがわかるはずだ。

 だからこそ、その心理を利用させてもらう。

「だったら、食糧を配給しろ。独占しなければ敵対するつもりはない。こちらとて無駄な争いは望んでいないんだ。お前ならわかるだろう? 父親を失いたくないならなおさら」

 理解し合えると彼女に言葉をかける。だが、彼女の考えは彼の考えとは違った。

「そしたら、誰が機械を管理するの?」

「……な、に……?」

 予想外の言葉にジェイクは言葉を失う。彼女の言わんとしていることがわからない。

「仮にこちらが楽園を解放したって信じてくれないでしょう?  長年の恨みで殺そうとするはず。

そうでなければ、楽園の機械を奪う。 どうやって楽園内にある機械を使うの?  研究資料を読める人はいるの?  家畜を育てることができるの?  どうやって? 知識は? 技術は? 経験は?」

 まっすぐに前を見据えながら彼女は問いかける。今のジェイクに返答はない。全て不可能に等しいからだ。そんな彼にアイビーはさらに現実を突きつける。

「あなたたちは何も知らない。生きるために知識の伝授を放棄したからわからない。父を殺し、私を殺して楽園を手に入れたところで本当に平和が訪れると思っているの? そこにある機械を扱うこともできず、ただ壊して終わりじゃない? 今まで堪えて来た欲望が爆発して争うんじゃないのかしら? 食糧を増やす前に食いつぶしておしまいじゃないのかしら?」

 彼女は父の死を恐れていない。それどころか、父や自分達を殺したところで滅びるのはこちら側だと脅しをかけてきた。それに怒りにも似た感情を覚え、ジェイクは怒鳴る。

「俺がいる! それに俺以外にも文字の読み書きができる奴はいる! 他の地区にだってそれなりに機械を扱う奴がいるはずだ!」

 そんなことにはならないと彼女に訴えるが、彼女は信じようとはしない。何も信じていない黄金の眼を向ける。

「だから、あなたに目をつけた」

「……?」

 予想外の言葉。彼女が言おうとしていることがわからない。

 自分に目をつけたとはどういう意味だ? ニゲラとは別に彼女も何かを企んでいる。

「あなたを助けたわけではないわ。利用させてもらうつもりだっただけ。あなたを選んだのはオリヴィエにうり二つだったから。彼の子どもか孫だろうと思った。彼の家族なら恐らく科学技術と知識を持っているだろうと思ってね。私の予想通りだっただけよ」

「……俺をどうするつもりだったんだ?」

 自分の素性を知った上で助けた彼女。そして、利用するつもりだと彼女は断言した。彼女が一体何をしようとしているのか、今の彼にはわからない。ただ警戒し、リボルバーを持つ手に力を入れる。

「別にどうもしないわよ」

 向けられたリボルバーに見向きもせずに淡々と彼女は告げる。その姿を見ると外見にそぐわない大人びた言動にしか見えなかった。

 いや、外見上は自分よりも幼く見えるが、実際は自分よりもはるかに年上だ。だからこそ、自分には見えていない事、自分の知らないことを知っている。

 外見に惑わされて彼女の手の上で躍らせているのは自分の方だ。

 気持ちを落ち着かせようと深く呼吸をする。決して彼女からは目を逸らさない。気持ちが落ち着くのを待ってくれたのか、彼女はタイミングを見計らって続けた。

「あの部屋に時が来るまで置いておくだけだったわ。その間に楽園の知識と技術を身に着けてもらうためにもね」

 他人を信用せずに自ら滅びの道を歩むと告げながらも自分に知識と技術を伝授しようとする彼女。敵なのか、味方なのか、一体何が目的なのかわからなくなる。だからこそ、思わず尋ねた。

「……お前は味方、なのか?」

 彼の問いに彼女は首を横に振った。その姿はどことなく儚く、今にも消えてしまいそうに見える。冷静に、客観的に物事を見据えながら行動している彼女が何かを悟っているように思えた。いや、諦めている。覚悟を決めているのだ。

「いいえ。あと五年もしないうちに楽園も終幕を迎える」

「!? どういうことだ!?」

 彼女の口から出た意外な言葉にジェイクは食い掛かるように彼女へと問い詰めた。まるで彼の反応を予測していたかのように彼女は落ち着き払ってただ静かに淡々と続ける。

「父はすでに八十を超える高齢よ。こんな世界で、人間の寿命からしてこれ以上生きることは不可能。ニゲラがわがまま言って仕方ないから機械で延命させているけど、それも長くはもたない。私の見立てでは五年も生きられない。ホープに父を殺されてはニゲラは恐らく激昂し、本格的に攻撃を仕掛けるでしょうね。けど、寿命で亡くなればニゲラは絶望して大人しくなる。あくまで私の見立てだけどね。そうなってくれればニゲラの制御もできるし、楽園も解放できる。けど、それをするのは私ではだめなの」

「……なぜだ? お前は俺たちと敵対するつもりはないのだろう?」

 そこまで物事を見据え考えているのならば、彼女が自らの手で動いた方が得策だ。ニゲラも抑えきれるならば問題はないはないはず。疑問を抱く彼の前で悲しげにアイビーが微笑む。

「私は魔獣。始まりの魔獣。今いる魔獣たちは皆、私のクローン体。私の手足。私の子ども。人間嫌いのもう一人の私が愛する父のために生み出した化け物たち。私がいる限り魔獣は生まれる」

「お前は――」

 察してしまい言葉が詰まる。

 父を愛し、人間を嫌うニゲラ。

その一方で人を愛し、人のために戦うアイビー。

二つの相反する人格を一つの肉体に宿し、長い歳月を生きて来た彼女。


本当の彼女はどちらなのだろうか? 

彼女は自分自身を愛しているのだろうか?


 疑問と同時に憐れみを覚える。やはり彼女は敵ではない。そう思いたかった。

「い――!」

「動くな!」

 今からでも遅くない――そう続けようとした言葉を遮るように男性の怒声と共に扉を開ける音が響いた。複数の足音が響き、扉から武装した男性たちが入ってくる。

 彼等は左右に分かれ、アイビーを囲んだ。武装した男たちは各々に銃やナイフを構えている。そして、ジェイクのすぐ傍に一人の男が立った。

 大柄だが左腕を持たないオールバックの男性だ。男性は右手に銃を持ち、それをアイビーへと向ける。

 鋭い眼がアイビーを捕えていた。アイビーもまたその男性を見据える。だが、今までとは異なる表情だ。明らかに敵意を示している。

「あなたが――タイガービル地区ホープ部隊長ウォルターね」

 一目でジェイクの傍にいる男性が誰か理解したのだろう。アイビーはその手にしていた銃をウォルターへと向けた。手の震えが止まっている。あからさまに態度が違う。いや、はっきりとわかる。彼女の目には強い憎悪が宿っていた。今にもウォルターを撃ち殺さんとしている。

 それでも、彼女が引き金に手をかけないのは、理性と平静さが残っているからだろう。

「そうだ。で、てめぇはなんだ? 人間……か?」

 彼女のいささか異なる外見に流石のウォルターも戸惑う。他の者たちも戸惑っているようでウォルターとアイビーの様子を交互に窺っていた。敵か味方か、人間かどうかが迷っている。

「人間? 少なくとも私をこんな体にしたのはあなたの祖父よ。あなたの祖父が楽園を襲撃しなければ私はこうはならなかった……」

 深い恨みの声。この時になってジェイクは理解した。日記にあったホープ襲撃。その主導者はウォルターの祖父であるホープの創始者だ。だが、彼が理解すると同時に他の者たちも理解する。彼女が楽園の者であるという事実を……。

 ウォルターや他の者たちの目に激しい怒りが宿る。動揺が憎しみと怒りに変わった。

 食糧を独占し、魔獣で仲間たちを殺す悪魔の仲間。その人物がアジトへと侵入してきた。

 もはや取るべき手段は一つしかない。全員が今すぐにでも彼女の息の根を止めたいという衝動に駆られた。

 だが、楽園の者が何の考えもなしに乗り込むはずがない。逆に緊張が走る。皆がウォルターの指示を待った。

「楽園の者……か」

 皆の視線が集う中でウォルターは小さく呟く。皆を苦しませる楽園の者の一人。今すぐにでも殺したい。

 だが、彼女は貴重な情報源でもある。誰も知らない楽園についての情報を持っている。単身で乗り込んできたのは彼等にとっては好機だ。

「名前は……?」

 皆が見守る中でウォルターは静かに尋ねた。アイビーは子どものように眉を潜めながら抑揚のない声音で答える。

「アイビー」

 恐らくアイビーはウォルターの考えていることなどお見通しだろう。

「アイビーか……」

 彼女の名前を呟きながら、ウォルターは少しだけ逡巡する。

『恐らくジェイクに研究資料を見せたのも、食糧を与えたのもこのガキだな。そんな馬鹿なことする以上、利用できるかもしれねぇな』

 ジェイクの話と目の前にいる彼女の様子からして話し合いで解決できるかもしれないと判断する。そして、銃を降ろした。そう、敵意のないことを示したのだ。

「取引しようぜ」

「!?」

 ウォルターの行動と言葉に皆が驚愕した。だが、肝心のアイビーはわずかに眉を動かすだけだ。さほど動じていないようだが、興味を持っているようで鸚鵡返しに尋ねる。

「取引?」

「あぁ。お前が知っている限りの情報、それと食料と水。人が生きるのに必要な物資を分けてくれ。そうすれば命だけは助けてやる」

 彼が持ちだした取引に皆が理解した。ここで迂闊に彼女を殺し楽園の怒りを買うよりも彼女と直接取引した方が得策なのだ。彼女がどう応えるのか皆が見守る。

「私がそんな取引に応じるとでも?」

 だが、彼女はそれに応じようとはしない。ウォルターはさらに説得を試みる。

「こんな状況だ。お前なら逃げきれないってわかるだろう? 捕まったらどうなるかもわかるんじゃねぇのか?」

 四方を囲むホープの者たち。その手に持つ銃の照準は彼女に合わせてある。アイビーは横目でそれを確認しつつウォルターを軽く睨んだ。

 彼女ならば自分の置かれた状況を理解できるはずだ。それなのに彼女は呆れたように大げさに肩を竦め溜息をついた。

「バッカみたい」

「なんだとっ!? てめぇ! 状況がわかってねぇのか!?」

 ホープの一人が引き金に指をかけた。すぐにウォルターが制止するように男を睨む。流石の男もすぐにおとなしく引き下がった。だが、ウォルターの行動が半瞬でも遅ければ彼女は撃たれていたことだろう。

「取引に応じるつもりはないのか?」

 最後のチャンスの如く、静かにウォルターが尋ねる。

「ないわ。だって、私から情報を引き出したところで、食糧を得たところで、何も変わらない。世界そのものが自力で回復しない限り人類に希望はない。人類が生きるには自らの知恵を引き出し、環境に合わせて進化するだけよ。気づいている? たった七十年ちょっと、三世代。その間に人は免疫をつけた。あれだけ濁り毒にまみれた水を飲んで体を少し壊すだけの体に変化している。他人が作り出した知恵と理論、技術を奪うよりも自力で生きる術を獲得しなさいよ」

 言いながらアイビーは銃を降ろした。それから手に持っていた青いファイルをジェイクに向かって投げ渡す。青いファイルは重たいために彼の元に届く前に床に落ちる。はずみで開き、中の資料がパラパラとめくれた。

「これ、あげる」

 ジェイクはアイビーを見る。彼女が何を考えているのかわからない。

「データはまだ残っているから別になくてもいいのよ。ただそれがもたらす悪夢を止めに来ただけだから。彼女が私の知らないところで何かしているようだしね。武器を持ちだしたのがただの杞憂であればいいのだけど」

 溜息をつきながら彼女はくるりと背を向ける。

辺りを見渡し、道を探しているようだ。だが、四方はホープの者たちに囲まれている。彼女に逃げ道はない。降伏するしかないだろう。それでも、彼女は逃げるつもりだった。

「協力、する気はないのか?」

 無理だろうと思いながらも、最後の最後にジェイクは問う。

「ないわ。本当のことを知れば私を生かしておくわけないもの」

「……そうか。残念だな」

 彼女の答えにウォルターが銃を再びアイビーへと向けた。それが合図だった。他の者たちも銃をアイビーへと向ける。そして、ジェイクに下がるように目で指示を出す。

「あら? そんなオモチャで私を殺せると思っているの?」

 誰も答えない。ジェイクの隣でウォルターが引き金を握る指に力を入れた。そして――


ガウン!


 銃声が響く。目の前で青い花が咲いた。衝撃に耐え切れずバランスを崩し、倒れそうになる少女。彼女の眉間には小さな風穴が開いた。頭部を貫通した銃弾と共に青い液体が飛び散り、足元に落ちた。

 思わずジェイクは目を逸らしそうになった。だが、逸らせなかった。彼女の体から溢れ出た青い血液。それが魔獣と同じものであることを皆が知っている。見るのは二度目だというのに、目を逸らせなかった。

「なっ!?」

 人間の体から飛び出した魔獣の血にその場にいた全員が言葉を失った。そんな彼等に追い打ちをかけるかのように不可思議な出来事が続けざまに起きる。

 脳天を撃ち抜かれたはずの彼女はその場に踏み止まる。ぽたぽたと零れ落ちる青い大粒の雫。風穴の空いた額を抑えながら彼女は笑った。脳天を撃ち抜かれたはずなのに彼女は動いている。

「ふふっ」

 不気味であった。彼女の声を聞いた途端、全身が凍り付く。知らず知らずのうちに手足が震えた。指先から熱が奪われていくようだ。

「だぁめよぉ~」

 彼女が笑いながら言った。話し方が違う。纏う雰囲気が違う。誰もが豹変した彼女を前に立ち尽くす。

 そんな中で、ジェイク一人だけが何が起きているのかを察した。同時に警戒心を強め、彼女を睨み付ける。 

 彼女はただ楽しそうに笑った。

「あたしを殺すならぁ、原形を留めないほど粉々に切り刻まないとぉ~」

そう言うや彼女は額の手をどける。そこにはきれいな額があるだけだ。先ほどまで開いていたはずの風穴がふさがっている。

 だが、青い血液が円を描くように付着している。それが彼女の額に風穴ができた紛れもない証拠となった。

「ば、ばけ、もの……」

 震えた声で誰かが言った。

「う、撃て! 撃て撃て!」

 冷静さを欠き、正気を失った誰かが叫びながら銃を乱射する。だが、照準の定まらない銃弾は仲間たちへと当たる。至るところで悲鳴が上がった。

「おい! やめろ! 落ち着け! くそ!」

 パニック状態に陥った仲間たちにウォルターは声をかける。事態を収拾させようと命令を下すが、彼自身も目の前の出来事に不安と恐怖を抱いていたことが声を通して通じてしまう。動揺と恐怖が伝染し自体は悪化する一方だ。収拾することもできず、ジェイクはただ辺りを見回す。

「あらあら、たいへんねぇ。とめてあげる」

 騒々しい中でジェイクは確かに聞いた。楽しそうに話す彼女の声を――。そして振り向く。

 青い髪をきらきらと輝かせながら、青い光を纏う。今の彼女は神秘的な存在であった。彼女は自らの指先に青い光を集め、その指で空を切る。

 冷たい空気が刃のように辺りを走り抜ける。そうかと思うや――パアン!と破裂音が響く。音の方を慌てて振り向く。先ほどまで銃を乱射していた男性が血だらけで立ち尽くしていた。

 彼の両腕は血にまみれ、先ほどまで持っていた銃がない。何が起きたのかわからないという表情をしながら、足元を見ている。彼の足元には先ほどまで持っていた銃が落ちている。

 銃は銃口が氷でふさがれ、内側から破裂したかのように損傷していた。恐らく銃口を塞がれ爆発したのだろう。そして、そうなるように仕向けたのは十中八九彼女だ。

 ジェイクは振り向き、彼女を睨み付ける。そこにいる彼女は彼女であって、彼女ではない。忌々しい人間嫌いの少女だ。

「お前がしたんだな、ニゲラ」

 奥歯を噛み締め、ニゲラへ問う。ニゲラは赤い唇を釣り上げ、静かに頷いた。まるで遊んでいる子どものようだ。

 彼女は愉快で愉快でたまらないといった表情を浮かべていた。

「あんまりにもうるさかったから起きちゃった」

「アイビーは……?」

 先ほど、アイビーはニゲラが寝ていると言っていた。だが、ニゲラは起きている。ニゲラが起きたことでアイビーはどうなったのか? 起きているならばニゲラを野放しにするわけがない。

 ニゲラを睨み付けながら問う。

「気絶しちゃったぁ~。アイビーったらあたしが寝ている間にあんたたちに忠告しに行くんだもん。ま、せっかくアイビーが忠告のために来たのにいきなり撃つから気絶しちゃったけどね。びっくりしてあたしも起きちゃったし、交代したの」

 ニゲラの言葉からウォルターの放ったたった一発弾丸が自体を悪化させたことがわかった。ニゲラは好戦的だ。恐らく強い。

 あの時はアイビーの意識があったためか、戦闘そのものに発展しなかった。だが、構え方からして只者ではない。今の出来事で彼女が何かの能力を持っていることがわかった。

 銃口が凍りついていることから恐らく氷を生み出せるようだ。そんな能力を持った奴を相手に勝ち目があるとは思えない。

「ふぅーん。ここがタイガービルかぁ。さっさと壊滅させようかなぁ?」

 楽しそうにニゲラが辺りを見回しながら言う。いつの間にか辺りは静まり返り、皆の視線が彼女に集う。先ほどまでのパニックが消えていた。

 それほどまでに彼女の存在感は大きいのだ。いや、本能が語る。彼女から目を離してはいけない。だからこそ、皆が全神経を張り巡らせ彼女を警戒していた。

「雰囲気が変わった……?」

 傍にいたウォルターが異変に気付き呟く。

「彼女にはニゲラというもう一つの人格があるんだ。ニゲラは好戦的で俺たちを殺そうとする。強いぞ」

「お前が言うってことはマジなんだな」

 冗談を言わないジェイク。彼が言う以上十中八九本当だろうとウォルターは判断する。だが、いまいちわかっていないようで戸惑っているのが伝わった。それでも、状況は変わらない。

 やる事は一つだけだと自分に言い聞かせ、黒髪をかきむしる。頭が混乱しそうだと思いながらもニゲラを睨み付けた。

「一人で壊滅できると思っているのか?」

「大勢でかかって殺せると思っているのぉ?」

 少しでも自体を自分たちの優位に進ませようとウォルターは挑発する。それにニゲラは嘲笑った。そうかと思うや彼女の体が青い光を発する。そして――

「!?」

 光の中で彼女の体が変貌した。全身に淡い青色の体毛が生え、細い指からはそぐ合わない爪が伸びていく。人間特有の平面的な口が盛り上がるように飛び出し、小さな口が獣のような大きなものへとなる。そこには鋭い牙が生えていた。どんどん伸びていく髪と体毛が彼女の全身を包む。

 足もまた靴が破れ、足にも鋭い爪が生える。長く太い眉が姿を見せた。服が弾け破れ、彼女の裸体が露わになるも、それはヒトのものではなかった。獣の足へとなり果てた足では二足歩行は不可能なのだろう。二本の手を地面につけた。

 グルル……と獣の唸り声が響く。青い光を発するそれは体長三メートルはあるだろう四足の獣であった。淡い青い色の長い体毛に全身を覆われている。鋭い爪と牙、黄の角を持つ。獅子のような体格に、伝説上の生物――龍を思わせる顔立ち。

 それをジェイクは知っている……。

「魔獣の主・ニゲラ……?」

 決して人間を襲わない魔獣・ニゲラ。その正体を初めて知る。同時にニゲラが人を襲わない理由を理解し、心が揺れた。その揺れが彼の反応を鈍らせる。

 獣へと変貌した彼女に皆が言葉を失っていた。そんな中でニゲラが飛びかかる。速い。目で追うだけで精一杯だ。だが、幸いにもニゲラが飛びかかったのは彼ではない。彼の隣にいたウォルターだ。

 巨体の獣に飛びかかられたため、さすがのウォルターも押し倒される。ニゲラは前足でウォルターを押さえつけ、牙を顔へと近付ける。鋭い牙が今にも彼をかみ砕こうとした。抵抗しようにも押し倒された弾みで銃を手放しまった。やむを得ず、咄嗟に片腕で受け止め、抵抗する。片腕では牙を防ぐだけで精一杯だ。度々唾液があふれ出る口がウォルターに迫る。そのあぎとを身を逸らしながら回避する。

「くっ!」

「ウォルター!」

 仲間たちがニゲラへと銃を向ける。援護のために発砲しようと構えた。

「止せ! ウォルターにも当たる!」

だが、すぐにジェイクが皆を制止する。図体の大きさからして当てやすそうに見えるが、争い合っているために下手すればウォルターにも当たる。そうでなくともニゲラは速い。避けてウォルターに当たるだけかもしれない。よほどの腕前がなければニゲラに当てるのは難しいだろう。

 どう考えてもウォルターを助け出すのは不可能だ。

 焦りと不安、怒りを抱えながらジェイクは思考を巡らす。そんな彼の気持ちを察したのかのように事態は変化した。

 目の前でニゲラが再び人へと姿を変える。一糸まとわぬニゲラがそこにいた。彼女は覆いかぶさるようにウォルターを押し倒し、自らの全身を接触させる。

 雪のように白く輝く肌に豊満な体つき。自らの体重に押しつぶされた豊かなふくらみを持つ胸部がウォルターの胸へと当たる。一糸まとわぬ体を覆うように青い髪が体に触れていた。

「ほら、殺せない」

 勝ち誇るニゲラ。そんな彼女にウォルターは吐き捨てるように言った。

「黙れ、変態」

「あらぁ? レディに向かって言う?」

 クスクスとニゲラは笑う。そして、何を思ったのか、ウォルターから降りた。彼女は自らの体を隠そうともせずただ笑う。彼女の体はどこからどう見ても人のそれと同じであった。先ほどの変貌が嘘のようだ。

「……何のつもりだ? 情けか?」

 ニゲラが離れるやウォルターは起き上がり落とした銃を手にする。ニゲラはウォルターが武器を手にしたことさえ気にも留めずスタスタと歩き出した。

 傍にいた者たちもニゲラの行く手を防いでいた者たちも彼女が近づいた瞬間、離れる。いや、恐怖で彼女に近付けないのだ。むしろ、今すぐ彼女のいないところに逃げ出したいと思った。

 最後に彼女は一度だけウォルターの方を向いて行った。

「だって、わざわざ手を下す必要ないもの。あなたたちは裏切られて死ぬ」

「あぁ?」

 ニゲラはクスと笑い、再び獣の姿に戻るやその場を後にした。あまりの速さに誰一人として動けなかった。

 遠くで恐らくニゲラを見たのだろう、人々の声とざわめきが聞こえて来た。だが、それもすぐにおさまる。

 完全にニゲラの気配が消えた。それを示すかのような静けさが辺りを包み込み始める。途端、全身を襲う脱力感にほとんどの者がその場に座り込んだ。

「冗談だろ? 楽園にはあんな化け物がいるのかよ……」

 あまりにも衝撃的な出来事にウォルターが項垂れた様子で呟く。彼の様子に皆が絶望を覚えた。希望を見出したつもりが、あっという間に砕け散った。

「ジェイク!」

 皆が絶望的にうちひしがれる中、その空気を打ち破るかのように女性の声が響く。同時に足音が聞こえて来た。脱力していた中でジェイクはそちらを向く。

 黒髪のショートカットに青い瞳の女性――ベティが自分の方に駆けてくるのが見えた。彼女はジェイクの無事を確認するかのように抱き付いてくる。

 だが、すぐに離れて全身を何度も見る。怪我をしていないか確認して大丈夫だとわかるや胸を撫で下ろした。

「よかった……。窓から覗いたら知らない人がいて……びっくりしちゃった。どうしたらいいのかなって本当にわからなくて……」

「やっぱりアレはお前だったのか」

 アイビーと会話している最中、窓越しに見えた人影。今、ジェイクが無事なのは、彼女のお蔭だ。

 彼女は偶然にも――ベティのことだから研究に没頭する彼が心配で邪魔にならないように様子を窺っていいたのだろう――窓から覗き込んで異変に気付いた。そして、ジェイクの合図に気付き、応援を呼びに行ったのだ。幸いにもアイビーに気づかれず応援を呼ぶことができた。最も彼女が相手では効果はあまりなかったようだ。

「すまない、助かった」

 ジェイクは礼を述べながらベティの肩に手を置いた。それにベティは頬を綻ばせる。

「あなたが無事でよかったわ」

その笑顔が絶望するのはまだ早いと元気づけてくれた。






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