第5話 苧環

 長きに渡り、文明の発達がとどまった世界と人類。このまま衰退し滅びゆくであろうと思われていた。だが、奇跡が再び起きる。

 楽園が長い間独占していた技術を手にした地区が現れた。それはタイガービル地区である。彼等は技術を手にするだけでなく、それを活用し不純物のない水と食料を作り出すことに成功した。

 かつて絶えた野菜などの食材が再びこの世に現れ、飢えに耐え忍んだ人々が豊かな食べ物を手にすることができるようになる。何により水の毒で苦しみ、息絶えた子どもたちの生存率も格段に上がった。まだ十分な食糧を確保できていないが、

それでも人々にとっては十分すぎる進歩であった。

 最も一か所でも急激な変化が起きれば、当然のごとく他の地区も気付く。生きるために人々はタイガービルを目指すようになった。それというのも魔獣やロボット兵器に厳重に守られた楽園を

目指すよりもこちらの方が犠牲も出ず、確実に食糧を入手できるからだ。

 しかしながら、タイガービルにも十分な食糧はない。それでもなけなしの食糧を彼等は分け与えていた。 

 その行為はとても美しい慈善だろう。だが、残念ながらそれは自らの首を絞めるに等しい行為だ。

 言うまでもなく、タイガービルに住まう者たちは他の地区に食糧を分け与える必要はないと不満を口にする。他の地区に配給することによりタイガービル内での配給が減る。

  だが、他地区への配給を止めることはできない。それというのも、ホープに所属しているからだ。ホープに所属している地区同士は原則争いを禁止している。大部分の地区がホープとして同盟を組むのは楽園に対抗するためだけではない。地区同士の争いを抑止するためだ。

 そんな条約がある中、タイガービルは自力で食糧を得るようになった。その食糧を地区で独占するのはホープの理想に反することになるため、他地区から配給を求められれば応じなければならない。拒めばホープ脱退を余儀なくされ、他地区の襲撃を受けることになるだろう。一つや二つの程度の地区ならば問題ないが、一体どれほどの人間が敵になるかわかったものではない。

 だからこそ、タイガービルは食糧の配給を行う。当然、タイガービル内の食糧は減り、人々は少ない食糧に不満を抱き、同じタイガービル地区内でも食糧を巡っての争いが起きるようになった。

「……食糧の配給を止める? 一体何を考えているんだ!?」

 思わずその場にあったボロボロの机を叩いた。

はずみで机の脚が壊れてしまう。物資の少ない中で道具を壊すのはいただけないが、今の彼にとってそれはどうでもいいことだった。

 青い目に怒りを宿し、長い黒髪を獣のように逆立てる。目の前にいる人物を睨み付けた。

 彼の目の前にいるのは、一人の男性だ。長年食糧不足に苦しみながら生活してきたとは思えない筋肉隆々な体つき。皆が破れた服を継ぎ接ぎのように縫い合わせ使いまわす中、彼はほつれ一つない綺麗な服を着ている。

 彼だけではない。彼の後ろに控えて立つ十人の男たちもまたほつれ一つない綺麗な服を着ており、血色のよい健康そうな体を持っていた。

 食糧を作り出せるようになったとはいえ、全員が満足できるほどの量はない。未だに皆がやつれているというのに、その場にいる彼以外の男性たちは皆飢えを感じさせない健康としっかりとした体を持っていた。

 彼等は銃やナイフなどの武器――それも上等なもの――を持ち、自分達の前に立つ男性を守っている。

 今、彼等が守っているのは、このタイガービル地区のリーダーであるアクスという男性だ。ぼさぼさの茶色の髪を持ち、どこかひねくれた顔立ちをしている。人相は悪いがリーダーとしてはそつなく仕事はこなしている。だが、彼は贅沢を好み、手に入れた食糧や物資などは自分や自分の取り巻きに優先的に回るように手配している。そのため、地区での彼の支持はさほど高くはない。

 そんな彼が未だにリーダーを務めているのは彼の取り巻きたちが強いからだ。彼の取り巻きたちは彼から与えられる食糧や上等な衣類により買収され、彼に従っている。

 そんな彼等に正面から逆らう者はいない。ホープの地区部隊長であるウォルターも同士討ちを避け、強くは言えない。

 そんな自分勝手に振る舞うリーダーを目の前にしながらも反論する青年。本来ならば、すぐにでも部屋からつまみ出されるか、殴られているだろう。だが、アクスはそうしない。

 それというのも、目の前にいる人物こそが、この地区で唯一食糧と水を作り出せる科学者・ジェイクであるからだ。迂闊に彼の機嫌を損ね、食糧生産を放棄されては困るとさすがの彼も機嫌を窺っている。

「言った通りだ。水、食料の配給を取りやめる」

「ふざけるな! 皆飢えているんだぞ! 子どもの生存率だって上がった! それなのになぜやめなければならないんだ!」

 子どものように怒鳴りながら彼はアクスへと訴えかける。今にも殴り掛かろうとする雰囲気があったために取り巻きたちがアクスの前に立ち銃を構える。彼らがいなければきっと殴っていたことだろう。そんな彼にアクスが淡々と告げた。

「だから、やめるんだ」

「何……?」

 アクスの言葉に思わず彼は動きを止める。こげ茶の目には強い光が宿っている。どうやら、アクスにも止める理由があるようだ。頭を冷やし、話だけでも聞くべきだろうと耳を傾けた。

「子どもたちの生存率が上がって人口が増えた。ただでさえ食糧が少ないのに人数が増えたことでさらに不足する。それ以上に人口が増えることで地区内での争いが起きる」

「くっ……」

 食糧と水を配給したことにより子どもの生存率は上がった。同時に出生率も上がっている。だが、それは人口の急激な増加に直接つながり、食糧問題を加速させている。食糧生産率が上がらないのに人口ばかりが増えるのは考えものだ。このままでは共倒れになりかねない。

「だが、それはちゃんと量を考えて配給すればいい話だろう」

 それでも量さえ注意すれば何とかなるはずだ。

彼自身もそんな甘い話ではないとわかっている。だが、罪もない人間にこれ以上、ひもじあ思いはさせたくない。

 彼の甘い考えにアクスが肩を竦める。

「それでタイガービルの争いを防げたとしても、

他の地区の連中はどうするんだ? 他の地区にも配っているからあっちも人口が増えているはずだ。そいつらだって食糧をほしがる。そいつらにも平等に配給できるわけないだろう? だからと言ってタイガービル以外の連中にやらないなんて決めたら、地区同士での争いが起きる。そうなったら共倒れだ。そうなるぐらいならいっそうのこと、全てなくなったことにしてしまった方がましだ」

「……独占するための言い訳か?」

 アクスの言っていることは恐らく間違えばかりではないだろう。自治区内だけでも食糧が不足しているのに他地区にまで回せない。食糧を生産できるここが潰れれば共倒れだ。

 だが、楽園は食糧を独占した結果、崩壊した。内部で食糧を求めて争い、アドルフは我が子を人質とされた。自分とは望まぬ方向に事態が動く中で、救いたかった者たちの手によって我が子を失ったのだ。

 そこから彼は壊れ、何も感じなくなった。食糧を独占し始めたのだ。

 同じことを繰り返すつもりならば止めなければならないとジェイクはアクスを睨み付ける。

「第一、食糧がなくなったなんて言ったところで誰が信じる? 独占したと思い込まれるだけだ」

 彼もそうすればどうなるかわかっているはずだ。だが、アクスは何も言い返さない。ただ黙って彼を見た。まるで品定めでもするかのようにつま先から頭のてっぺんまでじっくりと嘗めるように見る。

「じゃあ、食糧生産率を上げろ。今、作り出せるのはお前だけだぜ、ジェイク」

 ジェイクは唇を噛み締める。生産率を上げるのは現時点では困難だ。

 助っ人と助手、弟子などの多くの人が手伝ってくれる。だが、字が読める者や科学などの基礎理論を持つ者、博識な者がほとんどいないために話にならない。字が読めなくてもできることはあると皆は言い張り、手伝ってくれる。

 だが、それが逆に邪魔になることの方が多い。それというのもほとんどの者が科学などの知識がない。いや、生きるだけで精一杯であるためにそれ以外の知識を教わっていないのだ。そのため、説明しても彼等には何も伝わらない。

 そのためにしてはいけないことをする者やしなければならないことをしない者が多い。人手がほしいこともあり、字の読み書きや基礎理論などを教える。だが、その基礎理論を教えることができるのも自分しかいない。

 教えている時間が惜しいほど食糧は少ない。どんなに人手を集めても結局自分一人で大半のことをすることになっている。現状では不可能に近い。

「話はそれだけだ。とっとと研究室に戻れ」

 アクスはそれだけを言うと背を向ける。今の彼は最も有効な手段を持ち合わせていない。反論したところでただの感情論だ。唇を噛み締め、己の無力さを呪う。

「失礼します」

 怒気を孕んだ声でそれだけを言うと部屋から出る。研究室に向かって歩き出した。

 至るところにヒビが入った灰色の壁。足元には崩れた天井だか、壁だかわからない瓦礫と使えなくなったガラクタなどが落ちている。危ないものは端に寄せられているが、そのほとんどが未だに建物の中にある。

 そんな危なげな廊下を歩きながらジェイクは怒りに全身を震わせる。

『何を考えているんだ? 確かに不満は募っている。食糧を巡っての争いもたびたび起こっている。だが、配給を止めたところで誰も信用しない。独占したと思われてそれこそ本当にタイガービル崩壊につながる。それくらいわかるだろう。なのに、なぜ――?』

「ジェイク」

 ふいに足音と共に幼い子どもの声がした。声の方に視線を向けると、先の曲がり角から男の子と一人の女性が姿を見せた。二人をよく知っているためにすぐに二人の名を口にする。

「ベティ、ジョン」

「ジェイク」

 男の子――ジョンがぱぁっと顔を輝かせながらジェイクへと駆け寄った。抱き付こうとしたのだろうか、足元の瓦礫に躓き転倒してしまう。

「あぁ、ジョン。大丈夫か?」

 慌ててジョンを抱き上げる。特に怪我はないようだ。泣きべそ一つかかずに抱えられたことに笑う。

「だいじょーぶ」

無邪気に笑うジョンを見て先ほどまで湧いていた怒りがどこかへと消えてしまう。自然と笑みが綻びた。

 そんな二人にゆっくりと足元に気を付けながら女性――ベティが近づいてくる。

「んもう、走ったらあぶないって言ったでしょ? ありがとう、ジェイク」

「いや」

 大したことないと言わんばかりに返事をしつつ、ジェイクはジョンをベティへと渡した。ベティは受け取り大切そうに抱きしめる。まるで親子のようだ。

 ベティはそう思ったが、ジェイクは露程にも思わなかっただろう。淡々と彼が尋ねてくる。

「それでどうしたんだ?」

「んー」

 ここしばらく忙しくしていたので顔を合わせる機会がなかった。久しぶりに恋人である自分と会えたのだから、少しは喜んでほしいと思いつつもベティは質問に答えた。

「ジョンがジェイクにお礼したいって。ほら、ジョン」

「あい」

 ふいにベティの腕の中にいるジョンがジェイクの方を見る。それからぺこりと頭を下げた。

「ジェイク、ごはん、ありゅがとー。おいちーの」

 にこにこと笑いながらジョンがお礼を言う。その幸せそうな顔に目頭が熱くなるのを感じる。ただおいしいものを食べられることに素直に喜ぶ子どもの姿を見て、大人は何ともあさましいのだろう。

 そして、自分が科学に興味を持った初心を思い出す。

 祖父が作ったものを見て、まるで死人のように暗い顔をしていた人々が笑顔になった。その光景が印象深く、科学は人を笑顔にするものだと思っていた。

 その光景を思い出した途端、胸の中でつっかえていたわだかまりがどこかへと消える。

「そうか」


 何を迷うことがある?


「それはよかった。もっとおいしいものを作ろう」

 大人の都合で飢え苦しむのは子どもたちだ。

だったら、俺は――……。


 食糧生産率を上げようと本格的に動き出した矢先、タイガービル地区のリーダーであるアクスは食糧の生産性が落ち、配給が減ったことを発表した。

 完全になくなったというよりもまだ現実味があるが、当然、誰も信じずに暴動になりかけた。しかしながら、彼の取り巻きがそれを制圧する。

 最もそれはあくまで表面的な解決である。皆、それぞれに不満と怒りを抱き、アクスへの不信感を募らせていた。

 こっそりと科学者であるジェイクへと頼み込み、その度に彼はその場しのぎにしかならないと思いながらも内密に数少ない食糧を分け与えた。

 皮肉にも人々を助けようとする彼のその行為が争いの引き金となることもあった。

 一刻も早く生産性を上げなければ――と彼は焦りを感じる。連日徹夜を繰り返し、皆から無理するなと心配される。それでも、少しでも成果を上げようと休む時間が惜しかった。

「……」

 気が付けば薄汚れた毛布に包まり眠っていた。辺りを見回すと自分の研究室だとわかる。場所を認識すると同時に体の痛みを覚えた。

 柔らかい敷布団はほとんどないためにボロボロの衣類などを床に敷いている。それで寒さは防げるが、体には負担がかかる。当然、硬く冷たい床ではとてもではないがゆっくりと休めるはずがない。自然と眠りも浅くなるはずだ。しかし、今日は異常に眠りが深かった。相当疲れていたのだろう。

『いつ寝たんだ……?』

 ここ連日徹夜したせいか眠る前の記憶がまったくない。研究に没頭していたと思ったが、研究内容も覚えてなかった。いつ眠ったのかさえわからない。だが、壊れた天井の隙間から零れる日の光から朝だということがわかる。

『起きるか……』

 研究室には助手か助っ人が常にいるはずだが、自分が眠ったことで気を使い皆出て行ったようだ。今は一人しかいない。

 食糧生産率を上げるために研究室には人が来るようになった。それからというもの、人が溢れ、研究室はにぎやかな空間へと変わる。

 そんな研究室に久しぶりの静けさが戻って来たのだ。いつもこんな感じだといいのにと思いつつも長い黒髪を掻き毟る。

 いつ寝たのか、最後に自分は何をしていたのかを確かめるためにも起きるしかなかった。毛布と床の衣類などを適当に片づけ、簡単に身支度を整える。 

 研究室から出てとりあえず誰かと会おうと思った。だが、研究室から出た途端、騒がしいことに気付く。大広間――タイガービルの一階から五階までが吹き抜けになっている場所――から大勢の人の声が聞こえて来た。

 大広間には常に大勢の人がいるのでそこから人の声がするのは当然だが、いつもよりも騒がしい。何かあったようだと思い、大広間へと向かった。

 研究室から大広間にたどり着くまでには大きなフロアを通らなければならない。そこも常に人がおり、往来が多い。

「イーグルアイ地区の連中だ」

「食糧渡せだってよ」

「そんな困るわ。ただでさえ少ないのに」

 向かっている最中、すれ違う人々の会話を聞いた。恐らく先ほどまで大広間にいた人たちだろう。危険だと判断し引き返してきたようだ。

 彼等の会話から推測するに、イーグルアイ地区から誰かが来たようだ。

 イーグルアイ地区はタイガービル地区から歩いて四時間ぐらいかかる場所にある。そこには廃校舎が健在し、タイガービル地区よりも大勢の人が暮らしている。

 だが、大勢の人が暮らしているために秩序がない。いや、大勢の人がいるためにまとめるにはそれなりの力が必要であった。

 現在は武力による制圧でまとまっている。その分、力がある者たちが好き勝手することが多々あり、秩序が乱れがちな地区だ。

 そんな地区だが、彼等もホープに加担している。そのため、タイガービルともいわゆる同盟関係を築いていた。

 だが、ホープを通した同盟は所詮まやかしだ。手を組んだ方がアドルフに対抗するのに有利であるためにそれぞれに妥協して大人しくしているだけに過ぎない。

 自分達が得をする、確実に利益を得る方法があるとわかればすぐに掌を返すだろう。そういう危ない橋でつながった同盟こそがホープだ。

 その証拠にアドルフあるいは魔獣討伐の時以外は互いに干渉することはない。それぞれの自治に任されているのだ。だからこそ、他の地区の者が用もなく訪れることはないのだ。

 それなのにイーグルアイ地区の人間が現れた。何か騒動が起きる前触れだろう。いや、ジェイクにはすでに見当がついている。

 最悪な事態にならなければいいと祈りながら大広間へと急いだ。

 大広間へと足を踏み入れるとそこには大勢の人々がいた。彼等は身を寄せ合うように大広間の端の方に寄り、遠巻きに中央の様子を窺っている。

 中央で何か起きていることは一目瞭然だ。人ごみを避け、彼は中央へと向かった。

 大広間の中央には見たこともない男性たちが武装して立っていた。数は約五十。全員武装しているが、その身に纏っているのはガラクタを繋ぎ合わせたような粗末なものだ。

 また、全員痩せこけており頬の肉がそぎ落とされている。やせ細っているせいか、爛々と輝く目が無駄に大きく飛び出しているように見えた。不気味な――まるで生きる屍のようだ。アレではまともに戦えもしないだろう。

 そんな彼等を率いているのは、いかにも健康的で筋肉隆々な男性だ。ぼさぼさの茶髪に、顔には刀傷がある。刃のような鋭い黒に近いダークブラウンの眼で目の前にいる二人の人物を睨み付けていた。

 一人はタイガービル地区ホープ部隊長・ウォルター。もう一人はタイガービルのリーダー・アクスだ。二人とも騒ぎを聞きつけてやってきたのだろう。

 三人は互いを睨みつけ合い様子を窺っていた。緊迫した空気が辺りを包む。三人から放たれるただならぬ空気に全員が遠巻きに様子を窺っているのだ。手を出せるような状況ではない。だからこそ、ジェイクも様子を窺うことにした。

「武装して押しかけてくるとはな。一体、何の用だ? スラッシュ」

 アクスが武装集団を引き連れてる刀傷を持つ男・スラッシュを睨み付け尋ねる。彼の言った名からそこにいる武装集団の先頭にいる男性が、イーグルアイ地区のリーダーであることを察した。

 また、アクスが他地区のリーダーを知っているのは、年に数回行われるホープの会合であっているからだろう。そうなるとウォルターもその男のことを知っているはずだ。いや、知っているからこそ、ウォルターは緊迫した面持ちでそこにいるのだ。

 武力で制圧している地区のリーダーである以上、スラッシュは相当な実力者だろう。普通に戦えば勝ち目は薄いだろう。迂闊に争いを起こさないように抑止力としてウォルターはそこにいる。そして、姿こそ見えないが、彼の右腕あるテリーも傍に控えているはずだ。

「なぁに」

 スラッシュがクックと笑う。

「タイガービルの連中が食料が少ないから他の地区にはやらねぇって独り占めするからよぉ。本当にねぇのか確認しに来ただけだ」

「てめぇらにやる分はねぇんだよ。ほとんど配給しちまってタイガービルの連中も空腹だ」

 アクスがすかさず応じる。だが、二人は互いに相手の目的と秘め事を探り合っている。

 スラッシュは本当にないのか、楽園と同じように独占するつもりならば奪おうと相手のしっぽを掴もうとし、アクスは争いになることを避けるためにしっぽを隠す。

「へぇ、本当にねぇのかぁ? 案外、お前が独り占めしているんじゃねぇのか? お前らはどう思う!?」

 突如としてスラッシュが声を張り上げた。

「本当にねぇと思っているのか!? こいつが独り占めしているとは思わねぇのか!?」

 遠巻きに様子を窺っていたタイガービルの人々を見回し、まるで演説でもするかのように話しかける。いや、周囲を味方につけるために声をかけたのだ。

「数少ない食糧だからこそ、上の連中が独り占めしているってお前らだって思っているんだろう!? こいつの体を見てみろよ! お前らと違って血色がいい! 肉付きだっていい! この体を見て本当に食糧がねぇって信じるのか!?」

 スラッシュがわざわざ示唆しさなくとも皆が気付いている。リーダーであるアクスは同じタイガービルの人間とは思えぬほど健康的だ。彼もまたスラッシュと同じく力による自治を行っている。同類と思われるスラッシュがわざわざ口に出して言うのだから、その通りなのだろう。

 皆の抱えていた疑念が徐々に確信へと変わる。それを象徴するかのようにタイガービルの人々の目はよどみ、アクスを捕えた。

「本当は隠し持っているんだろう?」

「なんでわけてくれない?」

 不満の声が零れ出す。このまま悪化すれば止まらないだろう。いや、下手すればスラッシュの味方となり、暴動を起こしかねない。皆、それほどまでに追い詰められている。

 ふいにジェイクは自分の傍に子どもを抱えた女性がいることに気付いた。彼女が抱える子どもはゾンビのようにやせ細り、骨と皮だけであった。

 しかし、そんな状態でありながらも子どもは必死に生きている。薄い皮膚の下で動く心臓がはっきりとわかった。配給が足りないことを象徴しているようだ。

 この子が生きるのに必要な最低限の食料さえも与えられていない。このままでは数日もしないうちにこの子どもは飢えで死ぬだろう。

 それがわかっているからだろうか、子どもの母親は我が子を片手に抱え、足元に落ちている瓦礫の破片を拾う。石を拾った母親の腕もまるで枯木のようにやせ細っていた。

 恐らく自分の分を子どもに与えているのだ。やせ細った顔に浮かぶギラついた目がアクスを捕えているのがわかった。

「止せ!」

 女性が瓦礫の破片をアクスに投げようとするや否や、ジェイクは彼女の手を掴んだ。

「放せ! 食べ物がなきゃこの子が死んじゃうのよ! あいつが独り占めにしているなら! あいつを殺して手に入れるわ!」

「そうだ! 殺せ!」

「殺せ!」

 女性の言動を皮切りに皆の怒りと不満が爆発を始める。食糧を作り出せるようになったことで皆が希望を見出した。だが、皆の期待を裏切るかのように配給が少ない。

 その上、配給された食糧は今まで口にしたこともない美味なもので、彼らは味をしめてしまった。一度幸福を味わえば誰だってそれをほしいと思うだろう。それなのに、与えられる食糧は日に日に減っていく一方だ。

 不満ばかりがたまっていく。溜まりにたまった怒りがイーグルアイの訪問と共に導火線に火をつけることになってしまった。

「落ち着け! 皆!」

 ジェイクが声を張り上げ皆の前へと立つ。そんなことしても無駄だが、何もしないよりはマシだった。

「ここでアクスを殺しても意味はない! 本当に食糧は少ないんだ! 今の生産率ではどうしても足りない! 生産率を上げる研究はしている! それが完成するまで耐えてくれ!」

 彼はすかさずアクスを睨み付けた。青い眼に宿る強い意志。それが語るのは皆が助けたいという意志であった。

 アクスは舌打ちする。子どものように、夢希望を語り、現実を見ようとしない科学時に苛立ちを覚えた。だが、その夢物語で食糧を作り出したのも事実だ。

 彼の甘い考えでは、共倒れになりかねない。しかし、後先を考えず今しか考えられない人間たちは彼の味方につくだろう。

 アクスはふたたび舌打ちした。

「何か対策打てばいいんだろう? 本当に足りねぇだけだっての」

「俺が生産率を上げる! 必ずだ! 約束する!」

 ジェイクが声を張り上げた。同時に辺りが静まり返る。

「だから、それまで耐えてくれ!」

 ジェイクは苦痛に満ちた声で皆に訴えかけた。

 自分の研究に全てがかかっている。何が何でも生産率を上げるつもりだ。だからこそ、それまで耐えてほしいとジェイクは改めて皆を見つめた。

 期待と不安の入り混じった眼が彼へと集う。プレッシャーに潰されてしまいそうだが、それ以上に自分の技術に皆が期待していると昂揚感が沸き上がる。

「がんばってくれよ」

 誰かがそう言った。その言葉を皮切りに皆が激励の言葉を贈る。

「頼んだぞ」

「待ってるから」

「お願いします」

 希望にすがる人々の声。皆の怒りが少しずつだが、静まっていく。いや、皆わかっているのだ。ここで食糧を生み出した男を敵に回すような真似をしてはいけないことをーー。だからこそ、怒りの矛先をおさめる。

 この場はなんとか収まりそうだ。しかし、根本的な解決にはなっていない。その場しのぎだ。それでも、ここで暴動が起き、イーグルアイの手の上で踊るつもりはない。

 恐らくスラッシュも味方を誘導して食糧を奪うつもりだったのだ。それを阻止できただけでもマシだと自分に言い聞かせ、彼は研究について考え直す。

 だが、集中できない。それというのも何か妙な視線を感じたからだ。誰だろうと思い振り向くと、自分をじっくりと品定めするように見つめる男性がいた。

 イーグルアイ地区のリーダー・スラッシュだ。彼が振り向くとスラッシュはニヤリと唇の端を釣り上げて笑った。

「てめぇがジェイクか」

 スラッシュは彼の名を口にしながら近づいてきた。最もアクスとウォルターが近付くことを許さず、二人の間には五メートル以上の距離が開く。スラッシュはアクスとウォルターを警戒しながら、ジェイクをじっと見る。

「アドルフに次いで食糧を生み出した天才科学者。なるほど、確かに科学者みたいだな」

 ニヤニヤとスラッシュは不気味に笑いながら踵を返す。

「アクス、今日は引くが、さっさと食糧を渡せ。三日以内に返事を寄越せよ」

 最後に彼はそう言うや武装集団を引き連れて立ち去る。不気味なほどあっさりと手を引いた。

 なぜだが、奴の背中に最悪な予感を感じさせるものが存在した。それがただの杞憂であることを無意識のうちにジェイクは祈る。

 不安と怒り、イーグルアイ地区の突然の訪問。一瞬にしてさまざまなことが起きたために皆がアクスを見ていた。アクスは黙って取り巻きたちに命令を下している。

 イーグルアイ地区への返答をどうするのか、誰にもわからなかった。



 タイガービル地区が地区外の食糧配給を完全に停止してからすでに三か月以上が経過している。それにより他地区の不満は高まり、いつ不満が爆発するかわからない状況となった。そうなれば襲撃されるだろう。

 そんな中で起きたイーグルアイ地区の訪問。彼等としても襲撃することによるメリットは少ないことはわかっているはずだ。だからこそ、可能な限り話し合いで解決しようと訪れたのだろう。

 最もアクスは食糧配給を再開するはずがない。タイガービル地区内でも食糧が不足している。数少ない食糧の配給量を少しだけ上げて地区内の不満を取り除くも、解決にはつながらない。食糧を求めて地区内での争いが増加した。

 今までは争い程度で収まっていたものが、殺人にまで発展している。秩序が乱れ始めていた。

 いや、今までないからこそ共倒れを恐れ、諦めていた、あるいは耐えていた。それが突如として手に入るようになったことで、押さえつけていた欲望が爆破し始めた。人は一度でも手にしたものを手放したくないのだ。

 皮肉にもアドルフという共通の敵が今までの秩序を作っていた。敵がアドルフから手近な人間へと変わり、秩序が崩壊した……。

 ジェイクはその有り様を見ながらアイビーが危惧していた問題を思い知る。だが、だからといって自分がしたことが間違えだとは微塵も思いはしなかった。

『アドルフやアイビーができなかったことを俺がする!!』



「本当にこれで勝てるのか?」

 大量の木箱。その中に入れられたものは数々の武器。そのうちの一つを大きな手が掴み取り出す。手にしたのは顔に刀傷のある体躯の良い男性であった。

 彼は手にした武器をじっくりと見る。信じられないほど綺麗な銃だ。傷どころか汚れ一つない新品だ。そして、その形も自分たちが手にしたこともない最新のものだということがわかる。

 男性はその銃を何度も観察したが、ふいに視線を移す。

 この武器を持ってきた青い花を見る。以前より青い花は度々訪れ、他地区の情勢を教えてくれた。

 また、青い花が持ち出す望みさえ叶えれば、花は食糧をくれた。そのため、食料ほしさにこちらから取引を持ち出すようになった。

 花はその度に望みを言う。花が何者でどこから来ているのか、どこから食糧を持ってくるのかはわからない。だが、それを追及すれば花は姿を消すかもしれない。だからこそ、あえて誰一人として追及しなかった。

 今回もこちらから取引を持ち出すつもりであったが、今回だけは違った。久々に青い花の方から取引を持ち出したのだ。だからこそ、思わず尋ねてしまう。

「なぜ、これをくれる……?」

「なんでって? タイガービルの連中はねぇ、あたしを殺そうとしたの。だから、タイガービルと戦ってくれるならあげるぅ」

 青い花はクスクスと笑った。すでに青い花はタイガービルとのいざこざを把握している。侮れない奴だ。

「そうか。なら、どうやってこれだけの武器を入手した?」

 男性は青い花を睨み付ける。

 物資の不足する中でこれだけの――人が入れるほど大きな木箱五十箱分――武器を用意するなど不可能だ。

 仮に集められたとしてもボロボロで使えるかどうか怪しいものばかりだろう。それなのに用意された武器はどれも不備がなく新品同然だ。念のために先ほど試し打ちしたが性能がはるかに良いことだけが証明された。

 得体のしれない青い花。だが、取引をするだけで危害はない。その取引が自分達にとってとても魅力的であったために応じて来た。

 今回も自分達の目的と一致している上に武器をくれた。

 だからこそ、応じることにしたのだが、一抹の不安を抱く。今更ながらに花がどうやって食糧と武器を調達しているのかがひどく引っかかった。最も尋ねたところで花が答えるわけがない。青い花はただ血のように赤い唇を釣り上げ、ニヤリと笑った。

 今度とも花と取引するのならば、これ以上詮索すべきではないだろう。



「まずいな」

 タイガービルの屋上で空を見上げながら彼は呟いた。

 朝焼けにオレンジと青が混じりあう空。わずかにピンク色の光が見えているようだ。そんな神秘的な光景を不安と深刻なまなざしで見つめる一人の男性。朝の冷たい風が彼のキレイに整えたオールバックの黒髪を乱す。

 そんな男性の隣には金髪の男性がいた。金髪の男性もまた不安と緊迫を抱き、青い瞳で屋上から世界を見つめる。

 二人の視線が捕えるのは、武装した集団だ。数は百人弱。タイガービル地区の人口は五百弱。数だけではこっちが有利に見えるが、実際にはタイガービル地区の者で戦えるのは百人にも満たない。

 戦えない四百人近い人々を守りながら戦うことになればこちらは不利だろう。

「テリー」

 黒髪の男性は金髪の男性ーーテリーに声をかける。

「イーグルアイだ。アクスの奴が敵対の意志を示したからな」

 三日前に起きたイーグルアイ地区の訪問。食糧を渡せと言ってきたイーグルアイのリーダーであるスラッシュにアクスは食糧を渡さない意志を示す。そして、その結果、引き起こされたのがこれだ。

「やはり戦争になるのか」

 テリーが小さく呟く。それから彼は黒髪の男性を見た。ホープ地区部隊長であるウォルターだ。これからどうするかと、彼からの指示を待つ。

 最もわざわざ尋ねる必要などない。

「戦うだけだーー。俺たちが生きるためにーー」



 三徹して体も精神も限界に近かった。だが、つい先ほど完成させた研究成果に全ての疲れが吹っ飛ぶ。堅くほとんど変わることもない彼の表情もこの時ばかりは無邪気な子どものように綻んだ。

「これで生産率が上がる。浄水の効率も上がった。作り出すのが大変なだけで、一度作ってコツさえ覚えてしまえば意外といろいろできるんだな」

 独り言を興奮のあまり零す。そして――ふと疑問を抱いた。

『これなら、作り方を他の連中に教えた方がよかったのではないか? 人が多い方がアイディアや考えは浮かぶものだ。それなのにどうして伝えなかったんだ? いや、広めることができなかったんだ』

 ふいに脳裏に浮かぶ数々の出来事と真実。今となっては真偽を確かめることもできない過去の出来事。

 もし、日記に書かれたことが事実ならアドルフは人間を信じられず広めることができなかっただろう。

 だが、アイビーは? 彼女は人間を決して嫌っていなかった。いや、彼女も広めることができなかった。

『あんな外見では誰も信じないな。何よりも話が良すぎると疑ってかかる』

 もし、何かが違っていればアドルフ自身が広めていたかもしれない。

『アイビーも何かが違っていれば、皆のために戦うことを決意しただろうな』

 少なくとも彼女はニゲラが出てこなければ友好的だ。父親とて期待できないが、娘であるアイビーの行動次第では心変わりしたかもしれない。

 わずか一か月程度ではあったが、彼女と過ごした日々はとても楽しかった。彼女が教えてくれた歴史と科学。文明が滅び、生きることだけに必死になった世界において、知識はさほど役に立たないとバカにされる。誰とも語り合うことのできない寂しさにを彼女だけが解消してくれた。

 彼の青い瞳が完成した浄水器と人工太陽を捉える。今、自分が作ったこれらも所詮は彼女のお蔭だ。自分の力ではない。彼女の設計図を、理論も自分流にアレンジしたものだ。

 それでも、彼女の知識と力があればもっと多くの人間を助けることができただろう。今現在起きている人と人とのいざこざも彼女ならば未然に防げたかもしれない。

 色々と考えて彼は頭を振った。

『考えても仕方な――!?』

 突然背後から強い衝撃を受けた。激しい痛みが頭部を襲う。殴られたようだ。この程度ならば耐えられそうだと思ったが、三日も徹夜した彼の体は限界にきていた。意識を手放してしまう――。

 ドサッと倒れた彼の体を見つめながら溜息を零す一人の男性。建物の隙間から入り込む朝日が男性の金髪を照らした。蒼き瞳で仲間を見下ろしつつ、ゆっくりと屈むや彼を抱える。

「悪いな、ジェイク」

 仲間のぬくもりを感じながら、命令を思い出す。



「奴らの目的は食糧と――ジェイクだろうな」

 多くを語らずともそれだけで彼はリーダーの意図を汲んだ。そして、答える。

「ジェイクを仲間に引き込めば食糧問題は解決するからな。地下倉庫でいいか?」

「あぁ、脱走されたら面倒だ。武器も取り上げてくれ」



 武装した男たちを引き連れ、先頭を歩く男。顔に刻まれた刀傷が印象的である。彼等が目指すのは世界の退廃と共に廃虚になったビルだ。衝撃の一つでも起きれば今にでも壊れてしまいそうなほどボロボロである。

 恐らくこの戦闘が終わる頃には瓦礫しか残らないか、半壊していることだろう。脱出のことも考えて戦わねばならない。

「建物を壊さないように人間を狙え。建物の崩壊には気を付けろよ」

「へい」

 部下たちが返事をする。

 同時に先頭を歩く彼の隣に一人の少女が現れ、並ぶ。一体どこから現れたのか、まるで少女は最初からいたかのようだ。朝の冷たい風に彼女の青い髪が乱れた。 

「……お前も戦うのか?」

 彼は振り向きもせず少女に尋ねた。少女はクスリと笑う。

「まさかあたしは遠くから見てるだけよ。自分の武器の性能を見たいの」

「そうか。皆殺しにできるから安心しろ」

「そうね」

 無邪気な子どものように笑いながら彼女は再びその場から離れ、立ち止まる。武装した男たちが歩くのを遠巻きに見つめた。

 このうちの何割が生き残るだろうか? 例え、自分の渡した武器が優秀でも、人間の強さは変わらない。

 作戦次第では負けてもおかしくない。どっちが勝ってもいいが、大勢の人間が死ぬことを期待している。期待を言葉にして小さく呟く。

「全員殺してね。あたしの手間が省けるから」

 両腕を天へと向けるように広げた。

「さぁ、あたしのかわいい子どもたち」

 獣の唸り声が響き、彼女の周りにこの世に存在しない生物が現れた。

「逃げて来た害虫をぜーんぶ食べちゃって」



 物の落下音、爆発音、銃声、悲鳴……様々な音が入り混じり雑音へと変わる。その雑音が頭部の痛みを悪化させた。

 雑音と痛みで彼は目を覚ます。ゆっくりと上半身を起こしながら後頭部に触れた。わずかに腫れているようだ。だが、大したことはないので大丈夫だろうと気にするのはやめた。そのまま、その場に座り込み辺りを見回す。

 壁のところに一本のろうそくが立てられた燭台がかけられている。そのお蔭で少しだが、周りの様子がわかった。

 人一人が横になれるスペースしかない狭い部屋で、埃をかぶっている。あまり使われていない部屋だ。ろうそくのすぐ傍には扉があった。

 立ち上がり、扉に手をかけるがびくともしない。鍵がかかっている上に開かないように外側に物が置かれているようだ。

『多分、タイガービルの地下だろうが』

 かすかな視界情報から自分がタイガービルの地下にいることを推測した。だが、肝心のことがわからない。それというのも、タイガービルは大型の建物であるが、崩壊している部分も多い。危険があるために一部のもの以外立ち入りを禁止しているところもあるため、住んでいる者たちでさえ全てを把握していない。

『なぜ、閉じ込められているんだ?』

 疑問を考えると同時に遠くから爆発音が響く。衝撃で建物全体が揺れる。ミシミシと天井が軋み、埃や崩れたかけた天井の破片が落ちて来た。

『戦闘しているのか。だが、一体何と戦っている? くそっ! 研究室にこもっていたせいで情報がない』

 ここ数日研究に没頭するあまり、部屋から出たことがなかった。そのため、外部と接触しておらず地区の情勢さえもわからない。籠る前の状況から考えると他の地区からーー恐らくイーグルアイ地区ーーの襲撃か、あるいは食糧不足による暴動が起きたのだろう。さもなくば魔獣が攻めてきたのかーーだ。だが、魔獣ならばここまでの騒ぎになることはない。そもそも魔獣は単独で行動するか、あるいは特定の生息地にしかいないことが多い。なわばりが決まっており、そこから離れることはない。だからこそ、魔獣の可能性は低いだろう。

『恐らく俺を閉じ込めたのはアクスかウォルターだろうな。ウォルターなら俺が勝手な行動しないように武器ぐらい取り上げるはずだからな。もし、そうならここで待つのが得策だろうな。他地区からの襲撃に備えての策略だろう。だが、アクスの指示なら、すぐに逃げなければーー』

 アクスならば、自分の目的のためにこれくらいするだろう。迂闊に暴れて内部争いに発展するのも他地区に攻めいる隙を与えることになる。

『しばらく様子見だな』

 


 銃声の飛び交う中、崩れた大きな瓦礫に身を潜めながら相手の出方を窺う。隙を見つければ潜んでいた仲間の一人が身を出し引き金を引いた。

 だが、その引き金が引かれるよりも前に銃声が響く。半瞬遅れて赤い雨が彼の頬に触れた。撃とうとして身を乗り出した仲間を見ると、銃を構えた腕が重力に従いゆっくりと落ちていく。ポタポタと仲間の背から血が伝い落ちた。

 いや――正面からたった一発の弾丸を腹部に打ち込まれたのに、彼の背にはまるで大砲でも撃ち込まれたかのような穴が開いていた。そこから大量の血が一瞬にして噴き出したのだ。

 空になった体からはわずかに残る血液がこぼれ、床にできた赤い血だまりの中にゆっくりと落ちる。

 まるで時が動き出したかのように仲間の体が崩れ落ちる。傍で身を潜めていた彼はそっと仲間に手を伸ばす。だが、その手が触れる前に彼の動きは止まった。

 倒れた仲間は彼を見ていた。何が起きたのかわからないようで、ただ驚いた表情で固まっている。開かれた瞳孔が無念と恐怖を語り掛ける……。

「あ、あぁ……」

 仲間の死に絶望と恐怖を知る。体が震え、がちがちと音を立てる歯の隙間から小さなうめき声が零れる。

 ガタッと震える彼の背後で瓦礫の動く音がした。同時に人の気配を感じる。恐る恐る背後を振り向くーー。

 そこにはーー銃を構えた武装した男がいた。その男は自分たちと敵対しているイーグルアイ地区の男だ。男が銃を構える。

 銃口が彼の額へと押し当てられる。銃口の冷たい感触が額を通して伝わった。早鐘のように鼓動が鳴り響き、目の端から涙が零れ落ちる。

 世界が、時が加速を止めたようだ。目の前で男が引き金に指をかけたのがスローモーションで見えるーー。

 響き渡る銃声と無様で不気味な人々の断末魔を耳にする。鉄の臭いと肉の焦げる臭いが混じり、腐敗臭とアンモニア臭が鼻腔を貫く。吐き気を催す臭いだが、彼にとっては無臭も同然であった。

 瓦礫に隠れていた仲間二人がイーグルアイの者によって射殺された。赤い血飛沫が上がったので間違いないだろう。だが、仲間の死よりも気がかりなことがある。

 二人の仲間を殺した男はもちろんのこと、今襲撃しているイーグルアイの大半がやせ細っている。健康で生きるために最低限の体重しかないレベルから今にも餓死してしまいそうなレベルまでの様々な体格の者がいる。

 そんな不健康そうな連中に自分達が簡単に殺せるとはとてもではないが思えなかった。それなのに圧倒的な戦力差がある。数も向こうが有利だが、圧倒的な差があるわけではない。

 それなのにここまで一方的にやられているのは不自然だ。

 タイガービルの建物外で防衛していたが、すでに防衛ラインは最終ラインの一歩手前にまで来ている。防衛ラインを破られるのも時間の問題だろう。

「テリー! 退け! 住民たちの避難誘導をしろ!」

 イーグルアイの者たちを相手にしながら状況と分析を行っていた金髪碧眼の男性の元に男性の声が飛んでくる。振り向かなくとも彼――テリーにはその声の主がわかった。

 タイガービル地区ホープ部隊長ウォルターだ。

「全員! 撤退だ! 住民たちを守りつつ脱出するぞ!」

 ウォルターが撤退と脱出を指示する。勝算がないと判断したのだろう。

 だが、撤退したところで、建物を捨ててまで逃げたとしてもその先には絶望しかない。それでも、これ以上戦ったところで勝ち目がないのはわかっていた。

 わずかな可能性に賭けて戦い命を落とすよりも、可能性が高い方を選ぶのは必然だろう。

「わかった! 先頭で誘導する!」

「おう!」

 テリーがタイガービルへと向かっていく。ホープ副部隊長である彼に避難誘導を任せ、ウォルターは自ら殿を努めることにした。入れ替わるように自分の真横をテリーが通り抜ける。そのわずかな時間にウォルターは言った。

「死ぬなよ」

 はっとした。思わずテリーは振り向きそうになる。だが、堪えた。気づいてしまったが、立ち止まるわけにはいかなかった。

「お前こそ死ぬなよ!」

 だからこそ、振り向かず声を張り上げて応じる。決して後ろは振り向かない。

 ウォルターもまた振り向かない。ただ黙ってテリーの気配が遠ざかっていくのを肌で感じていた。

 目の前の至るところで銃声が響き、その付近で赤い花が咲き乱れる。花びらは散り、辺りは紅く染まっていく。鉄と汗の臭いで鼻が麻痺していく。

「あぁ……。ダメだな、こりゃ……」

 ナイフを手にしながら彼はゆっくりと戦場へ向かって歩き出す。

 足元では怪我を負った仲間たちが呻き、助けの手を求めていた。ほとんどの者が銃で撃たれ、ひどい傷を負っている。

 今の医療技術では助けることはできないだろう。長く苦しむだけだ。トドメを刺して楽にしてやりたいところだが、そうもいかない。

 仲間たちが自分の指示に次々と撤退していく。それに伴い、敵――イーグルアイの戦闘員が進撃の勢いを増す。

 あっという間に四方を戦闘員に囲まれた。だが、彼が焦ることはない。肩を落とし、相手をよく見る。

 敵が手にするのはナイフと銃だ。だが、どれも刃零れも破損もないものであった。それを見てウォルターは溜息をつく。だが、次の瞬間には獣のごとき眼で睨み付けた。相手が怯む。

「てめぇら、誰と手を組んでいるんだ? そんな武器、お前らのところで作れる奴はいないだろう?」

 ウォルターが問う。だが、問いかけたところで下っ端である彼等が知るわけがない。それでも、全員がすでに気づいていることを確かめるしかなかった。

 イーグルアイの者たちが持つ武器はどれも新品だ。今の戦闘で傷つきそれなりに汚れているが、それでも綺麗すぎる。何よりも銃の形や性能が違い過ぎた。

 こんな荒廃した世界で大量の武器を用意するのは簡単な話ではない。現に科学者たるジェイクがいるタイガービルにも武器はあまりない。イーグルアイ地区の人間が手にするようなレベルとなるとなおさらだ。

 タイガービルの者たちが持つ銃はリボルバーが主流だ。だが、リボルバーの装填数は六発であり、弾丸自体数が少ない。

 リボルバーの次に多いのが、マスケットである。だが、マスケットでは一発撃つごとに装填しなければならない。命中精度も悪いためにほとんど使われることがない。

 他にも銃は存在するのだが、それを扱う者はほとんどいない。それというのも、本体や弾丸を作るための材料がないからだ。他にもメンテナンス等の扱いが難しいという点がある。そのため、銃は初戦相手と距離がある時に使う、あるいは補助的な道具として用いている。

 メインとなるのはナイフなどの刃物だ。接近戦となれば銃で照準を定めるよりも早くナイフで相手を攻撃できる。何よりも弾丸が少ない以上、すぐに弾切れとなり、最終的にはナイフ等の接近戦となる。

 そう、本来ならばこの戦いもすでに両者弾切れとなり、接近戦となっているはずなのだ。実際にこちらだけが弾不足に見舞われ、一発たりとも無駄にできない状況に陥っている。

 だが、相手には弾切れの様子がまったくと言っていいほど見られないのだ。それどころか、相手はこちらの弾切れを見切り、接近戦と遠距離射撃とに分かれて攻撃を仕掛けはじめた。性能が悪いために頻繁に起きる銃の暴発も相手側には一度も起きていない。

 その答えは、敵を目の当たりにしていやというほど突きつけられた。裏に何かがいる。そう確信し、確かめるためにもイーグルアイ・リーダーであるスラッシュに会わねばならなかった。

「てめぇらのボスはどこだ?」

「ここだ」

 問いかけると同時に聞き覚えのある男性の声が響く。イーグルアイの戦闘員たちの後ろから一人の男性が姿を見せた。

 茶色のぼさぼさ髪に顔に刻まれた刀傷。部下たちと違い筋肉質でたくましい体つきの男性だ。

「スラッシュ……」

 そう――その男こそが、イーグルアイのリーダー・スラッシュだ。

 スラッシュを認め、睨み付けながらウォルターは彼の名を口にする。それから皮肉を込めて続けた。

「ずいぶん最先端の銃を持ってんなぁ。そんだけの技術があんなら食糧ぐらい簡単に作れるんじゃねぇのか?」

「はっ!? んなもん作れる技術なんてねぇよ! 作れるならとっくにてめぇらなんて全滅させてるってんだ!」

 スラッシュが嘲笑った。まるでそんな安い挑発には乗らないと言っているようだ。意外と冷静な男かもしれない。スラッシュが口にした言葉でいくつかの推論が立つ。

 戦闘によって彼らの持つ銃は最新のものだと知った。だが、彼らと戦うよりも前にその銃をウォルターは一度だけ目にしたことがある。

 使っていたのは一人の少女。それは楽園の化け物であった。

 その二つの要因からスラッシュの後ろにいる者に気付く。恐らく、自分の推測は間違っていないだろう。

「なら――青い髪の女と取引でもしたのか?」

「!?」

 そこで余裕綽々の態度で嘲笑っていたスラッシュの顔色が変わる。ただの確認のためのひっかけだったが、彼の反応で確信を得た。

『作れるわけがねぇんだ。作れるとしたらあの女だけだ。だが、あの女がわざわざ取引して渡すわけがねぇ。何が目的だ? こいつらにやってあの女になんの得がある?』

 今、この世界で高性能な武器を作れるのは楽園だけだ。武器を得るならば楽園から入手するしかない。

 だが、魔獣やロボット兵器が多い楽園から盗み出すなど不可能である。唯一できる方法は取引ぐらいだろう。最も楽園の者が取引程度で自分達の技術や成果を渡すとは思えない。何らかの条件や目的があるはずだ。

 状況からしても考えられるのは、楽園がタイガービルを滅ぼそうとしているということだけだ。研究資料を盗み――結果的には自分で置いていったのだが――その技術を手に入れたタイガービルを葬るためにタイガービルと敵対したイーグルアイと接触した。タイガービルを壊滅させることを条件に武器を渡したと考えるのが妥当だろう。

『ま、それがわかったところで逃げ場なんてねぇな』

 最も何を考えたところで状況は何も変わらない。あの女が何かを企んでいるので戦闘を止め協力しようと提案しても無駄だろう。

 そう思うと溜息が零れる。ウォルターはスラッシュを見た。彼の目にはもはや生きる意志はない。だが、諦めたわけではなかった。全てを受け入れた、覚悟を湛えた眼。残った片腕に握ったナイフを握り直す。そして――

「頭をつぶせば、それだけで希望は生まれる」

 その切っ先をスラッシュへと向けた。頭さえ潰せば変わる。被害を最小限に抑えられる。それこそ、あの女の企みを止める手段でもあるのだ。

「希望は待つもんじゃねぇ。自分の手で生み出すもんだ」

 ナイフを片手に走り出す。同時に銃声が響いた。半瞬遅れて飛び出す銃弾。だが、走り出したウォルターを捕えることはできない。それでも、ウォルターを狙い、イーグルアイの戦闘員たちは引き金を次々と引く。

 飛び出し交差する弾丸の嵐を駆け抜ける。目指すはスラッシュただ一人。かすりすり抜ける弾丸をものともせず、距離を詰めた。一振りでナイフがスラッシュの方を捕える距離に入る。一気に飛びかかり、ナイフを振り抜こうとする――!

「!?」

 振り向くよりも先に弾丸の一発がナイフを弾いた。衝撃で体は後ろに下がった。それでも止まらない。いや、止まることができない。ナイフを失った手を握りしめ、殴り掛かろうとする。

 そんな彼の目の前でスラッシュが銃を構えた。手を伸ばせば届く距離。銃口はウォルターの心臓を狙う。外れることはない。外れても確実にダメージを負う。

『まずい――』


 そう思うよりも先に銃声が響いた――……。 


 握りしめた拳が届くことはない……。じわじわと紅に染まりゆく自分の胸元を見つめながら彼は突きつけられた現実を受け入れる。だが、それでも体の動く限り足掻こうとした。


 体はまだ動く。たった一撃でも運命は変えられる。一瞬でも運命を変えることができる。


 最後まで希望を諦めまいとする。けれども、彼の思いを裏切るかのように足はゆっくりと膝から地面へと落ちていく。両の膝が地に落ちても、彼は足掻いた。地を這い、皆を守ろうとした。最後の力を振り絞り、スラッシュの足を掴む。


「てめぇらの、すき、には――させ、ねぇ――……」


 手放しまいと思っていた意識が深い、地の底も見えない闇へと落ちていくーー。


 衣服ごと自分の脚を掴む骨ばった手。その指先からゆっくりと赤みが消えていく。手の主はこと切れた。自らの足を掴む亡骸を彼は蹴り飛ばす。

 最期の最期まで往生際の悪い男だと思いながら、男の死を確認すると彼は歩き出す。

 そして、次々と部下に命令を下しながら、倒れた敵を、身を潜める敵を殺していった。



「こっちだ! 負傷者には手を貸せ!」

 ホープタイガービル地区副部隊長であるテリーは皆の避難誘導をしていた。かつてこの建物は大勢の人が買い物をするためのデパートであったため、タイガービルにはいくつかの出入り口がある。

 正面や側面に当たる出入り口には恐らくイーグルアイの者たちが回り込んでいるだろう。そこから脱出するのは危険だと判断し、裏口からの脱出を試みた。

「慌てるな! 落ち着け!」

 冷静で感情を露わにすることが少ない彼が今は腹の底から声を張り上げる。滅多にーーあっても精々魔獣一体程度の襲撃ぐらいしかなくーーなかった。

 そのため、人々は突然の襲撃に戸惑い恐怖する。我先にと急ぐあまり周りの人間を押し退ける。何が起きているのかわからない一種のパニック状態に陥っていた。

 脱出を急ぐあまり狭い裏口は人で詰まり、出るにも出られなくなる。ある人は窓からの脱出を試みていた。

「どけ! どけ!」

 皆の悲鳴と怒号が入り混じる中で、テリーの耳は聞き覚えのある声を耳にした。振り向くとタイガービルのリーダーであるアクスが取り巻きと共に人々を押しのけて裏口へと向かている姿が視界に入った。

 周りの人間などどうでもいいのだろう。彼は傍にいる人間を片っ端から殴り飛ばし、あるあは鷲掴みにしては引き倒し出口へと向かう。

「邪魔だ!」

 アクスが薙ぎ払った腕が女の子へと当たる。はずみで女の子はその場に尻餅をついた。今まで我慢していたのだろうか、恐怖と痛みで女の子はその場で泣きじゃくる。

 だが、アクスはもちろん、周りの人々は誰一人として気づかない。皆逃げるだけで必死だ。いや、自分と自分の家族以外は視界にすら入らないのだ。

「くっ……!」

 テリーは駈け出す。脱出しようとする人の波を掻き分け、女の子の元へと辿りついた。

「大丈夫だ!」

 力強く声をかけながら女の子を抱え上げ、自らも出口へと向かった。無論、指示は出す。最も大勢の人が叫び、押し合う中で彼の声が届くはずがない。それでも一人でも多く助けるために彼は指示を出し続けた。

「押すな! 落ち着いて避難し――」

「ぎゃあああああああああ!」

 突如として建物の外から悲鳴があがる。だが、その悲鳴が人々には届いてないのだろう。出口付近にいる者たちは立ち尽くすが、後ろにいる者たちは気付かず、脱出しようと先に急ぐ。

 テリーが何事かと思う間もなく、先に脱出した人々が突如として逆走を始める。外の様子がわからず脱出しようとする人々と逆走しようとする人々で辺りはさらに混沌と化す。人と人との押し合い。逃げたい人間たちがぶつかり合い、相手を罵る。

「邪魔だ! どけ!」

「なんで戻ってくんのよ!?」

「何が起きた!?」

 一端混乱してしまえば、事態を治めるのは至難の業だ。

「止まれ! 一旦状況を確認する!」

 テリーが懸命に叫んだところで彼の声は人々の叫び声で掻き消される。泣きわめく女子供の声、助けを求める人々の悲痛の叫び。絶望を耐える声。祈る人々の姿。見渡す限りの人の群れ。状況を把握するなどできそうになかった。対策の打ちようがない。

『俺にできるのはここまでか――』

 指示を出すこともできず、自分の声も届かない中で、テリーは己の無力さを痛感する。思わず俯いた。副隊長として情けないと自嘲する。

「お兄ちゃん……?」

 そんな彼に声をかけるのは――腕の中にいる小さな女の子。不安そうにテリーを見上げるそのダークブラウンの瞳には大粒の涙が浮かんでいた。

「……大丈夫だ」

 絶望も同然の中、テリーは微笑む。女の子の涙を指で拭い、前を見た。まだこの腕の中には小さな命がある。自分が守るしかない命。この命だけでも――とできるだけのことはしようと決意をする。

「!?」

 覚悟を決めて前へと進もうとし矢先、建物の壁が大きな物音と共に崩れ落ちた。壁の破片が飛び散る。壁付近で混雑していたために崩れ落ちた壁や瓦礫に大勢の人が下敷きとなった。地面に赤い池ができる。

 だが、皮肉にもその轟音が人々の混乱を鎮める。人の悲鳴が止み、わずかな呻き声が木霊する。皆何が起きたのか把握できずただ立ち尽くした。

 いや、違う。彼等らは自分たちの目の前に現れたものに目を奪われた――。

「魔獣……!?」

 建物の外には大量の魔獣たちの姿があった。魔獣の姿を見て、テリーはやっと理解する。脱出しようとした人々が一斉に逆走したのは魔獣たちが現れたからだ。

 壊れた壁から見える建物の外は紅く染まり、人の亡骸が横たわる。押し合っている間にも中に入れなかった大勢の人が魔獣によって殺されていたのだ。そして、外にいる人間が少なくなったために、彼らは中にいる人間に標的を変えた。だが、なかなか建物に侵入することができずに壁を壊すという強硬手段に出た。

 真っ先に壁を破壊し侵入をしてきたのはライオンのような魔獣であった。壊れた瓦礫を踏みしめながらゆっくりと内部に足を踏み入れる。

 それに続き、大蛇、獅子の体にワニの顔を持つ獣、羽の生えた蛇、色とりどりの羽毛を持つ鳥のような生物――決してこの世に存在しない、人の手によって生み出された化け物たちが姿を見せた。化け物たちは唸り声をあげ、人間たちを睨み付ける。

「ま、魔獣だ!」

「いやああああああああああああああああ!」

「逃げろ!」

 魔獣の姿を見て脱出しようと人々が慌てて逃げ出す。どこに逃げればいいのかわからない状態でとにかく一刻も早くその場から逃げ出そうとしていた。

 人と人がぶつかり、時に転び、押し倒し――もはや何が起きているのか、自分達が何をしているのかわからない状態にまで陥る。

 ただ逃げることに必死であった。そんな彼等に追い打ちをかけるかのように魔獣たちが一斉に襲い掛かる。

 その牙と爪で人間を引き裂いた。一気に広がる鉄の臭いと人々の悲鳴。至るところで上げる赤い花と赤い滴。すぐ傍で見知った者が食い殺された者は恐怖で立ちすくむ。

 腰を抜かしその場に座り込む者さえもいた。他の者を犠牲にしてまでも逃げようとする人もいる。

 だが、魔獣たちに慈悲など存在しない。手当たり次第に人間たちにあぎとを向け、その体を無残に引き裂いて行く。

 そんな中でも抵抗しようと戦う者たち。足元に落ちた瓦礫や石を投げるも効果はない。

 魔獣の牙の餌食となった子どもを助けようと無謀にも突進する母親。

 恋人を助けようと鉄の棒を振り回す男性。

 必死の抵抗も空しく、逆に彼等は怒りを買い、次の瞬間には鋭い爪や牙の餌食になる。

 さまざまな声が入り混じる中でテリーは羽音を聞いた。見上げた天井には真っ赤な姿の赤い鳥が建物の中にもかかわらず飛び回っている。羽ばたく度に羽が落ちた。だが、その羽は火の粉であり、地に達する前に消えてしまう。

 赤い鳥がテリーたちの頭上へと下降する。その姿は他の魔獣と異なり、とても美しい。すらりとした図体に輝く羽毛。まるでお伽噺の火の鳥を連想させる。

 鳥が細く白く輝くくちばしを開き、その喉に赤い光を集める。それは火の塊であった。美しさに呼吸を忘れるテリーであったが、それを目の当たりにした瞬間、本能が危険を告げた。慌てて踵を返す。その場を離れようとした。だが、時すでに遅し。炎の鳥が火の玉を放った。

 走り出した彼の背に迫る熱気。炎の玉が彼を包み込んだ。一瞬にして消える熱に自分が痛みを感じていないほど焼かれたのだと彼は悟る。

 目まぐるしく世界が動く。自分がどこにいて何をしているのかさえわからない。それなのに頭の中が妙にすっきりとしていた。

 自分のすべきことはただ一つ。自分の腕の中にいる女の子だけは助けよう……。

 彼は焼けただれはじめた腕で女の子を放り投げる。そこで彼の体は崩れ落ちた――。

 視界が地面に近い。倒れたのだと気付く。だが、それよりも自分が投げた女の子の安否を確認したかった。

 目を動かすが、世界は暗い。まるで夜のようだ。自分は燃えているのだから、明るくていいのはずなのに、一筋の光さえない――……。



 徐々に戦闘音が消えていく。大きな爆発音が響いたのを最後に突如として辺りは静まり返った。戦闘が終わったようだ。敵が撤退したのだろうか。それとも、敗北したのだろうか。

 タイガービルの構造はそれなりに熟知している。頭上で広がる音と構造からした大体の位置と上の階で何が起きているかを推測することができた。

 だが、閉じ込められている彼にわかるのは大まかな位置と戦闘音だけだ。音と構造以外から情報を得る手段はない。遠くで人の声らしきものも聞こえるが、それが人の声だとかろうじてわかる程度だ。

『どうなった……?』

 敵と味方、どちらが勝利したのかわからない。自分の知る者たちの安否を確かめたい。それを知る術を持たぬが故に不安が胸を占める。

 しかし、知る術はなくとも推測することはできる。

『自分をここに閉じ込めたのは、やはりイーグルアイが攻めてきたからだろうな。スラッシュ、奴が食糧生産のために俺を捕まえる可能性があったのだろう。ウォルターの性格からして俺に武器を持たせたら脱走すると思われたんだろうな……。まぁ、脱走するがーー俺も戦闘員だ!』

 研究は好きだが、決して戦えないわけではない。大切なものを守るために強くなった。魔獣に親や姉弟を殺され、力をつけてきた。

 それなのに肝心な時に何もできていない。その事実に唇を噛み締める。

 最早待てないーーと脱出を決意した矢先、ふいと頭上で大きな足音が響き出した。大勢の人が一か所に集まっているようだ。それからまた静まり返る。それとはまた別に足音が響く。何か大きな動きがあったようだ。耳を澄ませ、神経を尖らせる。

 頭上では、しばらくの間大勢の人間が移動していたようだが、突如としてして止んだ。玉に銃声のような音が聞こえてきたが、特に騒ぎになってはいない。

 数分もしないうちに音は止む。何も聞こえなくなった。そう思ったが、どこかで何かが開く音がする。そちらへと耳を傾けると、同じ空間で足音が響く。段々とこちらに近付いてきているようだ。

 自分を釈放しに来た仲間だろうか? だが、それにしては人数が多すぎる。一人二人ではない。十人ぐらいいるだろう。敵かもしれない。

 相手がわからぬ以上、警戒は怠らない。念のためと構える。

 案の定、足音は自分がいる部屋の前で止まった。ガチャと鍵の開く音が響き、ゆっくりとドアノブの廻る音が響く。扉の隙間から一筋の光が差し込んだ。思わず身構え、扉の先を睨む。

「やっぱり、ここか……」

 聞きなれない。だが、一度だけ聞いたことのある男性の声が響いた。同時に声の主を知り、驚愕する。

「スラッシュ!?」

 いるはずのないイーグルアイ地区リーダー・スラッシュ。彼の出現に息を呑んだ。そして、最悪の事態を想定するや数歩後退し臨海体制に入る。

「他の――タイガービルの連中はどうした!?」

 決して部外者が入ることのできないタイガービルの地下。今、目の前にスラッシュがいることはタイガービルの敗北を示す。全員捕まったのか、それとも――

「あ? 今始末してるところだ」

「!?」

 彼の言葉で悟る。死んではいない。自分の推測は何一つ間違っていない。しかしながら、その状況を把握したことにより最悪の事態が想定できた。

 今から全員殺すつもりなのだ。当然だ。食糧が少ない以上、味方以外の邪魔者は排除した方がいい。

 自分達の取り分を増やすためにも、復讐を防止するためにも徹底的に排除すべきなのだ。

 今なら、まだ止めることができるかもしれない。己のすべき使命を見出し、彼は腰のホルダーから銃を抜こうとした。しかしながら、リボルバーどころかホルダーすらない。それでも彼等の思惑を止めるために殴り掛かろうとした。

「くっ!?」

 最も次の瞬間には地面を嘗めることになる。

「遅ぇよ、ジェイク」 

 何をされたのか、彼――ジェイクにはわからなかった。殴りかかったはずなのに、一瞬にして自分は地面に叩きつけられ、スラッシュに抑えつけられていた。抵抗しようにも関節技を決められ、下手に動けない。下手に動けば自分の腕が折れるだろう。大人しくするしかなかった。

「おい、お前ら、こいつ縛って連れて来い。絶対に逃がすなよ」

 スラッシュは部下に命じる。扉を開けたスラッシュの姿しか見えていなかったが、彼は五人もの部下を引き連れている。

 仮にスラッシュを殴り飛ばしたところで、残り五人を相手にして逃げられるわけがなかったのだ。

 二人の男性がスラッシュの代わりにジェイクを押さえつける。指示されなくとも武器の有無を確認し、彼の手を後ろ手で縛った。

「こいつの研究室は?」

「他の連中が道具を運んでいます」

「よし。んじゃ、片づけたら帰るか」

 部下と少し言葉を交わしたスラッシュは歩き出した。それに部下は続く。ジェイクは――歩けなかった。だが、歩きまいと抵抗したところで無駄だった。歩こうとしないジェイクを部下が殴り、無理やり歩かせる。この先――地下から出た先に待っているのは絶望でしかないと思うや足は重くなる。

 地上一階に出るまで始終無言であった。そのせいかはたまたは恐怖と緊張で神経が過敏になっているせいか、さまざまな音と臭いがジェイクへと届く。

 硝煙と鉄の臭い。肉が焼けるような、焦げるような、はたまたは腐ったような臭いさえも鼻腔に届く。子どもや女性の啜り泣き。怪我人がいるのかうめき声も聞こえた。

 そんな中で土を掘り返す音がひときわ大きく響く。男たちの怒鳴り声も聞こえて来た。何かしているようだ。

 地上に出ると――そこは自分が知る世界とは全く異なる世界であった。見慣れたはずの吹き抜けの大広間。壁や天井が壊れていたが、今はさらにボロボロになっている。赤い液体の飛び散ったあとや銃撃のあとが刻まれた壁。山積みにされた見知った人々の亡骸。今もなお倒れている人間たちの亡骸をまるでゴミでも扱うかのように武装した男たちが投げ、積み重ねていく。

 そこから少し離れた場所では、一か所に集められた女子どもがいた。四方を武装した男たちに囲まれ、互いに身を寄せ合っている。

 その中にジェイクはよく知った二人の人物を見つけた。

『ベティ、ジョン。無事、だったか――』

 決して楽観視はできない状況。それでも、二人が生きていることが彼にとって何よりの救いだった。思わず胸を撫で下ろす。

 少しの希望が彼に平常心をもたらした。それに伴い、耳に届くザクザクと土を掘り返す音。音のする方に視線を移すと、生き残ったタイガービルの男たちがいた。

 彼等は武装したイーグルアイの者たちに銃をつきつけられ、地面を掘っている。道具などほとんどないためにその場にあるガラクタ、あるいは素手で地面を掘っていた。素手で掘っている男たちの手は紅く汚れていた。だが、誰一人として手を休める者はいない。手を休めれば殺されるとわかっているせいだろう。

「そろそろ十分か」

 ふいにスラッシュがジェイクの元から離れる。

部下数人を呼び別の指示を出し始めた。何をしようというのだ――?

「お前ら、こっちに一列に並べ!」

 突如としてスラッシュがタイガービルの者たちに指示を出す。穴を掘っていた男性たちを彼等に掘らせた穴の前に一列に整列させた。そんな彼等と向かいうように銃を持ったイーグルアイの者たちも並ぶ。

 一人一人に向かい合うように並び銃を構えていた。それだけでほとんどの者が察した。皆の顔が青ざめる。恐怖で震える者もいた。だが、察したところで誰一人として逃げ出すことはできない。

 そんな光景にジェイクはスラッシュたちがしようとしていることに気付いた。あまりにも残酷な仕打ちに一瞬頭の中が真っ白になる。想定していたとはいえ、あんまりだ。

 遺体を片づける手間を省くために彼らに穴を掘らせた。そして、穴の前で射殺することで片付けようとしている。

 そんな残虐で功利的な人間を止める方法が見つからない。それでもジェイクは何かを言おうとした。

「ま――!?」

「撃て」

 スラッシュが指示を出すや同時にいくつもの発砲音が響く。一瞬の短い悲鳴が上がり、紅い飛沫が舞った。

 ドサドサ……という音と共に撃たれたタイガービルの者たちが倒れる。穴の縁に立っていたために彼等の体は自然と穴の中へと落ちていった……。

「あ、あぁ……」

「いやっ! いやああああああ!」

「やめ、やめて……」

 次々と上がる人々の悲鳴。仲間たちの死を目のあたりにして人々は恐怖する。我が子だけでも守ろうとする親。死を覚悟する者。恐怖のあまり気絶する者。逃げようと暴れ出す者もいた。だが――ガウン!

「!?」

 一発の銃声が辺りを黙らせる。スラッシュだ。部下から銃をひったくり、逃げようと暴れ出した者を一撃で仕留めたのだ。

 傍に倒れた遺体に人々は絶句する。恐怖が支配する空間で、更なる絶望と恐怖を植え付けるようにスラッシュは怒鳴った。

「騒いだ奴! 逃げようとした奴は殺せ! 次! お前らだ! こっちに並べ!」

 圧倒的な存在感と恐怖。一瞬にしてスラッシュはこの空間の支配者となった。

 殺されるとわかっているのに誰も彼の命令に逆らえない。言われるままに次の者たちが穴の前に横一列に整列した。

 響く銃声と短い悲鳴。鈍い落下音にまぎれ、かすかなうめき声がきこえてくる。辛うじて生きている者たちもいるのだろう。だが、いずれは息絶える。

 息絶えなくともこのままでは落ちてくる仲間たちの重みに負けるか、生き埋めにされるだけだ。

「ジェイク……」

 どうすることもできない歯痒さと無力感にさえずさまれ、唇を噛み締めるジェイクの元に幼い男の子の声が届く。

 思わず何かを期待するかのようにジェイクは声の方を振り向いた。

 ジョンだ。ベティの傍に立ち、彼女に両肩を掴まれている。ベティが不安そうな表情を見せた。泣きそうでありながらも懸命に堪えている。弟だけでも守ろうと必死に何かを考えているのが伝わる。

 そんな彼女の傍でジョンが今にも泣きそうな顔でこちらを見つめる。

「ジェイク、こわ、いよぉ……。みんな、しんじゃう……。お姉ちゃんも、ジェイクも、しんじゃ、やだぁ……」

 幼子でさえもこの残酷な世界の厳しさを知る。死への恐怖を彼等はすでに学んでいた。そして、恐怖は人の知能と力を急激に成長させる。それは最悪な方向へと成長を促してしまった。

「しんじゃ……やだあああああああああああああああああああ!」

 何を思ったのか、突如としてジョンは泣きじゃくりながら走り出した。あまりに突然であったためには反応が遅れた。

 掴んでいたはずのベティの手を振り払い、ジョンはジェイクへと向かって走り出す。慌ててベティも走り出し、ジョンを捕まえようとした。

 ジョンは武装した男たちの隙間をすり抜け、ジェイクの元へと走る。男たちも子どもの突然の行動に反応できなかったようだ。ベティもまたジョンを捕まえようとして武装した男たちの間を通り抜ける。

 そんな二人の背後で冷静さを失わなかったイーグルアイの者たちが銃を構えた。

「来るな! 止せ! やめろ!」

 ジェイクが叫ぶ。自分を捕える男たちを振り払って二人の元へと駈け出そうとした。だが、それをさせまいと地面に押し付けられた。それでも足掻こうと、暴れる。

 そうこうしている間にも二人は自分へと近付いてくる。背後では男たちが銃口を二人に向けた。

「ダメ! ジョ――!?」

 願いにも似たベティの声をかき消し響く銃声。彼女の目の前で赤い飛沫が舞った。その小さな飛沫に紛れ、大きな丸い塊が空を飛ぶ。

 目の前を走っているはずの弟の姿はそこにありながらもない。あるのは首の取れた子どもの体だけだ。

「ジョ……ン……?」

 文字通り頭部が弾け飛んだ。頭を失った小さな体は膝からゆっくりと崩れ落ちる……。

「う、そ……? ジョン……?」

 何が起きたのか理解できていない彼女の足元にゴトッ……と子どもの頭部が落ちた。

 その顔を彼女は知っている。開かれた瞳孔、血の気の失せた肌……。顔の半分が内側から破裂したようになくなっている。

 それが何か理解したが、わからなかった。そう――目の前でなにが起きたのか、彼女には理解できなかった。いや、わかりたくなかった。

 頬に当たった生暖かい液体。そこから感じる鉄の臭いでさえも認識できない。自分が立っているのか、座っているのかさえもわからない。

 そんな彼女の背後でイーグルアイの――発砲した男の歓喜の声が響く。

「ヒュー! マジで頭が吹き飛んだぜ! これ量産してもらえば最強じゃね!? ボス! もう一発撃つぜ! よかったら大量仕入れてくれよ!」

 男は再び銃を構えた。男には殺すことへの抵抗がない。むしろ楽しんでいる。次なる獲物を求めて男は銃口をベティの後頭部に定めた。

「ベティ! 逃げろ! ベティ!」

 男がしようとしていることは一目瞭然だった。だからこそ、ジェイクは叫ぶ。彼女だけでも逃げてほしいと声の限りに叫んだ。

 だが、彼女にはもう声が届かない。唯一の肉親を失った彼女にはもう絶望しか残されていなかった。

「やめろ!」

 男がニヤリと口の端を釣り上げた。引き金にかかった指が引かれる――。

「ベティ!」

 発砲音が響き、遅れてもののつぶれるような、はじけるような音が反響した。

 目の前で宝石のように輝きながら飛び散る血肉。失われた頭部。残された体。

 それらは全て血肉の塊と成り果てながらもゆっくりと倒れていく彼女の体――……。

「あ、ああ……あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」



 声にならない悲鳴が……あがった。





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