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毎年夏になると、この町へ帰ってくる。別にどうという理由は無いけれど、講義の無い大学に行っても特に大きな意味があるわけでもないし、だいたい、昔から人ごみがあまり好きではない。大きな駅の中にいると、自分が膨張しそうな気がしてくる。つまり、大勢の人ごみを歩きながら、それぞれの話し声や店の音、電車のアナウンスなんかを聞いているうちに、その人たちの感情の中に少しずつ自分が溶け出していって、どれが自分なのか、わからなくなってくるのだ。こういう傾向を精神医なんかは病気と診断するのかもしれない。けれど今のところ僕は他人に迷惑をかけるようなことはしていないし、実際、他の人から見れば、僕はここにいる僕なのだ。他の人の中に僕が少しずつ溶け出していっているのが本当だとしたら、この世界はすべて僕、ということになっていくが、現実的に僕はここにいる僕でしかない。

そんな、どこにもいきつかないようなことを、大きな街にいると考え込んでしまう。だから、長い休みがあると僕は実家と、ゆったりした川と、サッカーをする少年たちのいるこの町に帰ってくる。幸いのところ、向こう何十年かは人口が急激に増える見込みもないし、町並みは、ゆっくりと商店街がなくなっていっていることを別にすれば、ほとんど昔と変わりない。結局のところ、あれこれと難しいことを考えなくていいわけだ。

バー・フォールズには相変わらずよくわからない鉄製模型が並んでいて、それがこの店の無国籍性を際立たせていた。

「やぁ、今日は彼女と一緒なんだね」

マスターは、きまっていつもカウンターの奥のほうで、スパゲティ用のソースを作っている。店の中はこのソースの香りが充満していて、それが僕を少しだけリラックスさせる。なにか特徴のある香草を使っているのかもしれない。

「サッカーを、見てきたんだ。ああ、といっても、いつもの川べりで、少年サッカーだけどね。」僕はビールを注文しながら、言った。

「なつかしいね、あんたも昔はあそこでボールを蹴っていた。親子3人で、泥だらけの格好でよく来ていたよね。」マスターは、顔をくしゃっと微笑ませた。

「ねぇマスター、人はなぜ球体に興味を持つの?野球も、サッカーも、ゴルフもそうじゃない?」彼女はまだ疑問をぬぐえていないようだ。

「ラグビーボールは違う。」そう僕は言ってみたが、僕の言葉は彼女の耳には届かなかったようで、彼女の目はマスターを指していた。

「人の目は球体じゃないか。けれど、外側から見える目は、ラグビーボールの形に似ている。つまり、意識されにくいんだ。目は、自分自身が球体である、という事が。実際、目を実際に取り出して調べるまで、わからないだろう。そしてそんなことはできない。実際、だから、目は無意識に自己主張をしたがっているんじゃないかな?」マスターはソースパンに目を落としながら、彼女を見ることなく言った。

 

 ふだん僕はこのバーに、独りで行くことが多い。いや、独り、というのは正確ではないかもしれない。ここに来ればたいてい誰かひとりくらいは知りあいがいるし、仮にいなかったとしても、親しくしているマスターがいるからだ。彼女を連れてきたこの日もそれは例外ではなく、バーには阿部という友人がいた。

 阿部はいつも、きまってカウンターの端で本を読みながらビールを飲んでいる。たいていが、題名を読んだだけでなんだかわからなくなるような難しい本ばかりだ。この日も彼は小難しそうな本をじっくり読んでいた。

 この男とは、高校に進学したときからだから、もうかれこれ10年以上の付き合いになる。10年、とひとことで言っても、その間ずっと近いところに住んでいた、というわけではなくて、遠く離れていたこともあるし、近くに住んでいてもそれほど頻繁に会っていた、というわけではない。お互い、群れるのが好きではないのだ。一日のほとんどの時間をできれば自分の好きなことをして過ごしたいし、それが苦痛、つまり、ひとりでいるのが苦痛、とは考えていない。だから結局のところ、阿部と会うのはバー・フォールズであることが多い。この頃からすでにそうなっていた。

 「珍しいな。誰かと来るなんて。」軽く本から目を離し、阿部は僕になんとか聞こえるくらいの声でつぶやいた。

 「休みに入ったから。ちょっと長くこっちにいることにするよ。」

 「この人、ひどいんだから。学校のあるときはこの町になんて寄り付きもしないのよ。」

 彼女は、都内の大学に在籍はしているが、この街から毎朝6時半の電車で通い、夜10時過ぎに帰ってくる。電車の中で彼女は本を読み、疲れてくると目を閉じてあてもなく考え事をする。決まった景色、決まったアナウンスが、静かにものごとを考えるのには向いているのだ、と彼女は言う。

 この町から都内までの景色は、僕も嫌いではない。ちょうど田舎から都会へ、1時間で歴史の変遷を垣間見られるような景色の構成になっている。ある駅には牡丹の花祭りのポスターが張ってあり、客がひとりかふたりのコーヒーショップがあり、地域住民の駅に対する抗議看板が立てかけてある。東京へ近づくにつれて、ポスターは20代向けの舞台広告に変わり、コーヒーショップは大手のハンバーガー・ショップに変わる。地域住民の抗議看板だけは変わらないが、その内容は駅と地域の発展を目指したものから次第に公害問題に変わっていく。住む場所が違えば、考え方も変わる。いいかえれば、ひとつの場所に長く住んでいると、考えることも似てしまうのかもしれない。それは、果たしていいことなのだろうか。

 「大学は楽しいか?」阿部の前にはビールとフライド・ポテトが本と並んで無造作に置かれている。

 「楽しいも何も無いよ。入り口を通って、出口から出て行く。開始のベルが鳴って、終了のベルが鳴る。クラシックと同じさ。時間が来れば、終わる。後に残るのは、少しの耳鳴りだけだよ。阿部、レイコフは知ってる?」僕の前にはビールと、マスターが作ったスパゲティ・ソースをきのこであえたものがこれも無造作に置かれていた。

 「metaphor we lived by. 我々の世界は比喩で出来ている。今日、川辺でサッカーを見てただろ。土手を走っていたとき、見つけたんだ。なぁ、これからボールを蹴らないか?そんなに酔ってはいないだろう?」阿部は本を閉じて、いすから立ち上がろうとした。彼はいつも唐突にものごとを進める。しかしなんというか、僕が彼に対していつも感心させられるのは、それを実は僕も求めている、ということだ。実を言うと、僕もビールを飲むよりは、体を動かしたかった。季節は夏だし、まだそれほど遅くない。小学生の頃だったら、まだ元気に外を駆け回っている時間帯だ。

 「ずいぶん急だね。しかし、あんたたちには慣れているからね。ほら、アイスティーを一杯飲んでいきなよ。」マスターはまるで我々がこうなることを予測していたかのように、きりっと冷えたアイスティーを差し出した。どうしてだろう。ここに来ると、僕のなかには僕一人じゃないみたいに思える。ちょうど、大きな駅の中にいるのと逆の感覚だ。いろんな人が僕の中に入って、僕の考えを盗んでいるようだ。しかしそれでいて、僕の望むことを、僕より先に現実化してしまう。本当に心地よい。

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