雨・未来・かなかた

矢口晃

第1話

 城中は厳かな静寂に包まれていた。

 城主武村光明が病に臥し、いよいよその命の終息を迎えつつあった。

 奥の座敷の一室にしかれた布団の中に、白い麻の装束に身を包んだ城主光明は横たわっていた。その脇には光明の長男光友、次男数光が正装で控えていた。光明は呼吸が浅く、苦しくなってきたと見えて、その額には脂汗を浮かべていた。口は半分ほど開き、唇はすでに水気を失って白味がかっていた。

 外は、村雨であった。光明の呼吸が一時止まると、城中には雨の音のほか何も聞こえる音はなかった。

 光明は病床から息子二人の顔を見つめると、わずか一握りばかりとなった生命を振り絞って、二人にこう告げた。

「わしは――もう、永くない。――家督は、――長男光友が継げ」

「は――」

 光友は、両の拳を畳につき、父へ深々と頭を下げた。家の未来を託された重圧を、若い光友は早くもその両肩に感じていた。光友にやや遅れ、数光が頭を垂れた。祐筆はその二人の様子をしばらく遠くから見つめたのち、淡々と光明の遺言を書き留めた。

 それからまたしばらくの沈黙が座敷を満たした。光明の呼吸が時々止まると、傍らから医師が光明の手首を掴み、脈をとった。二人の息子は、その様子を固唾を飲んで見守っていた。

 雨の粒が、ぱらぱらと城の瓦屋根を叩いている。

「光友よ――」

 光明が、遠く天井を見上げながらつぶやくように言った。

「は」

 光友は畏まり、光明の次の言葉をじっと待った。

 光明は腹を波打たせながら、わずかな呼気にかすれる言葉を乗せて言った。

「――かなかたを持て」

「かなかた、にござりまするか」

 しかし光明は、その問いには答えなかった。

「かなかたとは、何でござるか」

 神妙な面持ちで、光友は隣の数光に問うた。数光は若者らしい溌剌とした才気を眉のあたりに浮かべながら、

「かなかなには、ござりますまいか」

 と、兄光友に返答した。

「そうか」

 したり、と膝を打つと、光友は再び光明に問い直した。

「父上、かなかなにござりまするな。――しかしあいにく、今はまだ夏にござりますれば、秋の蝉かなかなを捕ることはまかりかないませぬ」

 光明は、光友の言葉に眉を曇らせた。

「――ではない。――かなかたを、持てと言うた」

 再び、光友は数光へ怪訝そうな表情を見せると、

「かなかなでは、ないらしい」

 と耳打ちするように言った。

「なぎなたでは、ござりますまいか」

 その時、こう口を挟んだのは、やや離れたところにあって筆を働かせていた祐筆である。光友は雲が晴れたような表情を浮かべ、

「でかした」

 と祐筆に讃辞を与えると、

「父上、なぎなたにござりまするな」

 と光明に問うた。すでに今わの際にありながら、武芸のことを忘れない父を、誇りに思いながら。

 しかし、光明の答えは、またしても

「違う」

 というものであった。

「金型に、ござりまするか」

 急いた様子で、数光が直接光明に尋ねる。しかし、光明は首を縦には振らなかった。

 そして、それからしばらくの時が過ぎてから、

「かなかた、きょう――」

 と、うわ言のように言ったのを最後に、光明は息を引き取った。享年五十四であった。

「かなかた卿――」

 光友は、父の遺した最期の言葉を、何度も胸中に反芻した。

 さて、城中は粛々と、先代城主光明の葬儀の準備に取り掛かった。しかしその間にも、光友は上の空であった。

 父が、最期に残した言葉は、いったい何であったのか。

 それが判明しない限りは、彼の心にできたしこりは消えないようであった。

「兄上、至極お悩みのご様子」

 城の最上階の窓からぼんやりと市中を眺める光友の背後から、立膝をついた三男信光が声をかけた。

 光友は顔を半分信光の方へ向けると、

「ああ。父上が、最期に申されたことが、気になってな」

 と、その重い心中を吐露した。

 信光は、低い位置から顔を上げて光友の浮かない表情を見ると、

「先ほど、祐筆より聞き及びましてござりまする」

 と、まだ声変わりのしない澄んだ声で話した。

「聞き及びましたるところ、父上は最期に、かなかた、かなかたきょう、と申されたとの由」

「うむ」

「それならば、わたくしに心当たりがござりまする」

 光友は、信光のその言葉に目を丸くして驚いた。まさか信光の口からそのような言葉が発せられることなど、夢想だにしていなかったからだ。

「何。わかるとな」

「御意」

 信光は恭しく頭を垂れた。

「な、な、何じゃ。申せ」

 もったいぶった様子の信光に、光友は急き込んで尋ねた。信光は再び顔を光友に向け直すと、自信ありげな表情で、こう答えた。

「それは、かなかたきょうこに相違ござりますまい」

「かなかた、きょうことな」

 その言葉が初耳であった光友は、表情を曇らせた。しかし、信光は臆せず後を続けた。

「御意。鐘方響子にござりまする」

「――なんじゃ、それは」

 まだ呑み込めない様子でいた光友に、いつからそこにいたのであろうか、襖の陰から顔を出して言ったのは、老中加藤彦三郎忠明である。

「殿。鐘方響子、それは、今を時めくGカップアイドルのことにござりまする」

 彦三郎の言葉を聞き、光友はようやく溜飲を下げた。

「それならば、わしにも聞き覚えがある。今、市中の若者の間で話題沸騰、羨望の的になっているという――」

 そこへちょうど部屋へ入って来た数光が、後を続けた。

「あの、鐘方響子君(ぎみ)にござりましたか」

 彦三郎は、莞爾として笑いながら、

「父君のお座敷の掛け軸の裏側から、たくさんの鐘方響子の写真集が見つかりました」

 と嬉しそうに言った。

 三人の若侍は、その日が父の絶命した日であったことも一瞬間忘れて、思わず大きな声を上げて笑った。

「兄者」

 にじみ出た涙を指で払いながら、数光はまだ笑いの収まらない光友に、声を揺らしながら言った。

「最期の最期に、おなごのことを申される。父上は、まさに男の中の男にござりましたな」

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雨・未来・かなかた 矢口晃 @yaguti

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