第9話 変わりゆく心
玲於が友人と会うと言って出かけた夜、朱里は聖と会い、久しぶりに彼と二人の時間を過ごした。
「元気にしてたか?」
朱里は出されたステーキを切り分けながら答えた。
「うん。玲…有坂さんも良くしてくれてるから。」
「そうか。俺も仕事が一段落したから会いにきた。考えはまとまったか?」
答えを急かすわけでもなく聖はそう言った。
「………ううん。ごめんなさい。」
朱里はすぐには答えられなかった。
「…気にするな。ゆっくり考えろ。」
「ありがとう。できるだけ早く答えを出すから待ってて。」
「…ああ。」
聖は静かにそう言うと料理を口に運んだ。そしてワインを一口飲んだ。
その
「…煽るな。」
「?…え?」
聖は席を立ち、朱里の手を取ると近くにいたボーイからカードキーを受け取りエレベーターに乗った。そして噛みつくように唇を奪われた。
「ん、…─やっ…んん。」
聖の胸を押し返そうとするがびくともしない。唇が離れたと同時にエレベーターが停まる。荒い呼吸を繰り返しながらせめてもの抵抗、と彼を睨む。当の本人は意に介したふうもなく、笑って言った。
「お前…、そんな表情で睨まれても俺を煽るだけだぞ。」
頬を紅潮させ潤んだ瞳だけが怒りをはらんでいる。
「……。」
聖は朱里をベッドに組み敷くとジャケットを脱ぎ床に放り投げた。
朱里は逃げることも拒否することもない。
聖は満足げに笑う。
「…さて、どう乱れるかな?朱里。」
「─っ、知らない!」
朱里は朝まで寝かせてもらえないだろうと覚悟した。
朝方、隣で寝息をたてる朱里の首筋が露になり、痕が視界に入る。
「……。やってくれるな─。」
聖はベッドから抜け出すと服を着替えてそっと部屋を出た。エントランスに降りた聖に気づいたコンシェルジュが声をかける。
「久瀬様、おでかけですか?」
「ああ。朝食の時間までには戻るから。彼女にはそう伝えてください。」
「かしこまりました。では戻られましたらお声かけください。」
「ありがとう。」
「いってらっしゃいませ。」
聖はタクシーを拾うと運転手に言った。
「──マンションまで。」
「─お客さん、着きましたよ。」
どうやら少し眠っていたらしい。代金を払ってタクシーを降りる。
「…さすがと言うべきか?ウチで働かなくても十分じゃないか。」
タワーマンションを見上げて呟く。
しばらく待っていると彼が歩いてくる。
「─?なぜここに。」
「悪いが調べさせてもらった。」
彼─玲於はたいして驚きもせずに肩を竦めただけだった。
「そうか。で、何か?」
襟元は派手に乱れ、危険な色香をまとっている。くわえタバコと胸元の
「─朝帰りとは…楽しめたか?」
聖が言わんとしていることを察した玲於ははぁーと息をついた。
「別に楽しんじゃいない。これは奴が勝手につけたものだ。実際に楽しんでいるのは燈禾と涼香だ。オレは巻き添えになっただけだ。勘違いするな。」
「それは悪かったな。それより、朱里につけたあれはなんだ?」
玲於は悪びれもせず言った。
「ああ、あのキスマークのことか。─立ち話もなんだし、部屋に入らねぇ?オレ、あんま目立ちたくねえんだわ。」
言いながら歩き出す玲於に聖も続いた。
「ブラック?でいいか。」
「ああ。意外とシンプルだな。稼いでるからもう少し飾ってるかと思ったが違うようだな。」
玲於はマグカップを聖の前に置くと服を着替えた。
右肩から上腕にかけて鳳凰のタトゥーが彫ってある。
「─遊んでるなぁ。」
「…ほっとけ。で、わざわざ会いにきた理由は?」
マグカップを置き、テーブルを挟んで座る。
空気はピリピリしていて息が詰まりそうだ。
「さっきの続きだ。なぜあんなことを?」
「─あんたから奪うため。」
隠すことも臆することもなくそう彼は答えた。
聖の眉がピクりと動く。
「…本気で言ってるのか?」
語気に凄みが増す。
「嘘をつくのは嫌いでね。」
玲於は口元に笑みを浮かべながらそう言った。
「分かった…、コーヒーご馳走さま。─朱里は絶対に渡さない。見送りはいい。」
聖はそう言ってリビングを出る。
玲於はマグカップを手にベランダに出た。
酔っているせいか、風が心地いい。
と、着信音が響いた。画面には"有坂"と表示されていた。嫌な予感を覚えながらも電話に出る。
──はい。
──朝早くに申し訳ありません。就寝中でしたか?
──いや。帰って客の対応してただけだ。で、なんかあったのか?
──実は…英吉様が倒れられました。
電話口の慎也の声は少し硬かった。
──なんだと⁉大丈夫なのか?
──ええ、軽い肺炎だろうということですが念のため入院されます。
──そうか。よかった。
──ええ。ああ、入院中のことは玲於さんに一任するとのことです。
──は?
聞き返す声はとても低い。
──は?ではありません。会長命令です。こちらにお戻りください。
──無理だ。朱里を1人にするわけにはいかない。
──ですが、仕事を停滞させるわけにはいきませんのでご理解を。
── …分かった。護衛をつけるが問題ないな?
──はい。人選はお任せします。
──夜には帰る。
──かしこまりました。
電話を切り、身震いする。暖かくなってきたとはいえ朝、夕はまだ冷える。
「さむ…。」
腕をさすりながら部屋に戻り、冷めたコーヒーをシンクに置いてシャワーを浴びる。
さすがに眠たくなってきたのでアラームをかけてベッドに入る。ほどなくして
ホテルに戻った聖はまだ眠っている朱里の髪をさらりと撫でた。
「ん…玲於…」
聖は手を引っ込めてそこから離れた。
「………。」
聖は外に出て冷えた
上がると朱里が起きていた。
「体は大丈夫か?」
髪を拭きながら気遣う。
「…大丈夫。あたしもシャワー浴びてくるね。」
手近にあったシーツを巻きベッドを降りようとするが、足に力が入らずバランスを崩す。
「っ─…」
そのまま尻もちをつくかと思ったが力強い腕にグッ、と引き上げられそのまま横抱きにされた。
「…きゃっ!」
「無理させたな。─だが、|キスマーク《これ》を他の男に付けられるとは無防備すぎる。」
バスルームまで歩きながらそう言った。
朱里は気づいていなかったらしく、え?とあちこち触っている。
「…髪、よけてみろ。」
朱里は言われるがまま髪をよけた。首すじにキスマークがついている。
「え、うそ?…いつ??」
「やっぱり気づいてなかったのか…。」
「ご、ごめんなさい…。」
バツが悪そうに下を向く朱里に聖は言った。
「本当にな。─いっそ、このまま連れて帰って軟禁してしまおうか?」
そう冷ややかな口調で言われ顔が強ばる。相当怒っているのか目は全く笑っていない。
「…─っ。」
「─ま、軟禁って言うのは冗談だが…。これから先、
「はい。」
素直に返事をすると聖はよしと言って笑った。それから彼は全てをやってくれた。
髪を乾かすこともしてくれ朱里はされるがままだった。
「─!」
急にギュッと抱きしめられて驚く。
「─離したくない。…まだ答えは出ないのか?」
「………」
すぐに答えることはできず黙りこむ。
「─すまない。急かしているつもりはないんだけどな…。忘れろ。」
意に反して朱里を抱きしめる聖の腕は力がこもっている。
「─聖、さん。ごめん…。」
「!?」
今度は聖が驚いた。初めて叔父ではなく聖と呼ばれたからだ。
「─ごめん、しばらくこのまま…。」
聖はそう耳もとで囁いた。
朱里はわかったと聖の回された腕に手を添えた。
そのときテーブルに置いていた朱里のスマホが振動していたが気づくことはなかった。
玲於が実家に戻ったのは日付が変わる頃だった。エントランスは当たり前だが閉まっているので裏口から中に入る。
靴を脱ぎながらスマホを取り出す。
何コール目かの呼び出しのあと、機械的な音声が留守番電話の案内をする。
「…まぁ、出ないわな」
そう呟いた玲於は通話を切って英吉の書斎へと向かった。ドアの隙間から光が漏れている。
「─!?」
玲於は勢いよく書斎のドアを開ける。
「─おかえり玲於。」
英吉がいつも使っている革の椅子に座っていたのは伯父の隆晃だった。
「…どうして
少しというか、かなり冷たい口調になってしまう。
隆晃はあまり気にした風もなく答えた。
「会長からお前の手助けをしてやれと言われて来たが…、嫌そうだな。」
表情に出ていたらしい、玲於は顔を背けた。
「上に立つ者なら常にポーカーフェイスを。隆浩から言われなかったか?」
初めてダメ出しをされた。
「─。わかっています。」
彼が言ったことは正論であり隆浩から散々言われていたことだ。
「なら実行しろ。おやすみ玲於。」
隆晃はそれだけ言うと書斎から出ていった。
「…─おやすみなさい。」
隆晃がドアを閉めると中で何かを蹴る音がした。
「─…言いすぎたか。」
どこか
そこは隆浩たちが生前、使用していた部屋である。掃除が行き届いており埃ひとつない。 物はそのまま残され時間が止まっているかのようだ。隆晃は帰ると必ずこの部屋に寄ってから離れにある自室に戻る。
一服していると電話が鳴った。
画面には"オフィス"と表示されている。
──はい。
──
── …様子見だな。玲於には俺から伝える。
──了解です。それにしてもアキさんと玲於さんの間に何があったんです?
──
──あー、ならやめときます。アキさんの請求、えげつないから。
── ふ、それは残念。昼には顔を出す。
──分かりました。では
──ああ。
電話をテーブルに置き天井を仰ぐ。
「しばらく、寝れそうにないな。今のうちに仮眠しとくか。」
瞼をとじるとゆっくりと眠気が襲ってくる。
だが完全に眠るわけではない。
その分、五感は鋭くなるので周囲の変化には敏感になる。
時間にして10分程だろうか、ドアの開く音で目が覚める。ちらりと横目で見やると玲於が来ていた。
「何か用か?」
突然、声をかけられ玲於がビクリとする。
「⁉…寝てたんじゃないんですか?」
隆晃は起き上がり椅子に座り直す。
「
「そうですか。」
それっきり話が続かない。隆晃も無理に話をしようとは思わない。
沈黙が続き部屋は静かだ。
隆晃はマグカップにコーヒーを注ぐと玲於に差し出した。
警戒心もあらわにこちらを見てくる玲於に隆晃は言った。
「毒なんぞ入ってないから安心しろ。…殺るならもっと上手くやる。」
最後の呟きは小さく聞こえなかった。
「─ありがとうございます。」
「それで?いったい何の用だ。」
隆晃はコーヒーを持ったまま玲於の言葉を待つ。
「…あなたの目的は何ですか?」
「目的ねぇ…、何が言いたい?俺が当主の座を狙ってるとでも言いたいのか?」
玲於は肯定も否定もせず真っ直ぐ隆晃を見つめている。隆晃はため息つく。
「…だとしたらどうする?親父に言って追い出すか?」
隆晃は玲於を軽く睨んだ。
「それは、あなたしだいだ。これから先、オレらの邪魔をするようなことがあれば容赦しない。」
そう言って席を立った玲於は部屋を出ていく。
「─玲於、経理に気をつけろ。」
返事はなくドアの閉まる音だけが響いた。
「…ったく、可愛いげがねぇ
翌日、隆晃は病院にいた。午前中、英吉に呼び出されたからだ。
「何だよ親父、急に呼び出したりして。俺、このあとオフィスに顔出さなきゃならないんだが?」
英吉は座るように促した。
「…まぁ、待て。お前にしか頼めんことだ。」
隆晃は近くの椅子を引っ張ってきて座った。
「─嫌な予感しかしないが?」
そうは言いながらも彼は英吉を見据えている。
「…
「はあ?明後日の総会は次代当主の"顔合わせ"も兼ねてる。現当主がいなければ意味がないだろ?…玲於にはまだ早すぎる。」
「分かっておる。だが、わしがおる間にやれることはしてやりたいんじゃ。」
隆晃は反論しようと口を開くが上手く言葉が出てこない。
確かに、英吉は80歳近い。いつ何があってもおかしくないのである。
「…だが。親父の代理はどうする。慎也さんにでも頼むか?」
いや、と真面目に答えた英吉が隆晃を見る。
「…─わしの代理としてお前が出席しろ。」
「本気か?俺が出れば混乱するだけだぞ。
……それが狙いか?」
英吉は答えない。
「は…、どんだけ荒らす気だよ。─まぁいい、そろそろ帰るわ。無理すんなよ。」
「すまんな。お前も無理をせんでくれ。」
本気で案じる英吉の言葉に隆晃は言った。
「…わかってる。」
そう答えて病室をあとにする。車に乗り込みオフィスに向かった。
いつものように受付に挨拶をすませてエレベーターを待っていると同僚の
「おはよう、有坂。」
「おはよう。」
階数が点滅して扉が開いた。真輝とともに乗って8階のボタンを押す。出勤ラッシュの時間を過ぎていたため2人だけだった。
「紫上、身だしなみをきちんとしろ。」
真輝のネクタイを直しながら言うと彼は笑った。
「あの時みたいだな。」
「…昔の話だ。それに社会人としての基本だろ。着いたぞ。」
扉が開いて隆晃はさっさと降りてしまう。真輝もそれに続く。
「おはようございますアキさん、紫上さん。今まで一緒だったんですか?」
上木がニヤニヤしながら挨拶してくる。
「残念ながら偶然だよ。」
「紫上、変な言い方するんじゃねえよ。上木、ノルマ倍にされたいか?」
睨まれた上木は青ざめてすぐに謝った。
「……すいません。」
隆晃は何も言わずに社長室に入った。
「─そう落ち込むな上木、本気で言ってないから。」
「紫上さ~ん。」
泣きそうな顔で上木は抱きついた。真輝はよしよしと優しく撫でる。
それをブラインド越しに見ていた隆晃はなぜか胸がモヤモヤした。
「……─終わったはずだ。」
隆晃はそう口にした。まさか、未練でもあると言うのか?
考えることをやめ仕事に没頭する。書類の山が無くなった頃にはそんな考えは消えていた。定時を過ぎ、
「あ、アキさん、このあとなんか予定あります?」
「─特に入ってないがどうしたんだ皇?」
「…飲みにいきませんか?みんなで。」
遠慮がちに言ってくる皇に隆晃は少し驚きながらも答えた。
「別に構わないが?どこかオススメの店でもあるのか?」
「はい!」とうれしそうに答える皇を見て隆晃は笑った。
「ほらな?有坂は飲み会が好きだからな。誘ってみるもんだろ?」
「お前の入れ知恵か紫上。」
椅子に背を預けていた真輝がニヤリと笑う。
「入れ知恵って失礼だな。オレはアドバイスをしてやっただけだ。」
隆晃はそうかよと答えて皇に視線を移す。
「じゃあ、行くか。」
彼らは皇オススメの居酒屋に向かった。
飲み会がお開きとなったのは日付が変わってからだった。
真輝は隆晃のマンションに来ていた。
「水、いるか?」
「ああ、もらう。」
水を受け取り喉を潤す。
「悪いな真輝。送ってもらって。」
「気にするな。久しぶりに名前呼んだな。」
「─かもな。今日は泊まっていけ。」
「いいけど。珍しいな、熱でもあるのか?」
確かめるために真輝の顔が近づく。
「熱はない。ただ…1人でいたくない。」
真輝は何も言わずタバコに火をつけるとライターをテーブルに置いた。
「膝貸してやるから寝ろ。」
「ありがとな。」
真輝は寝息をたて始めた彼の頭をそっと撫でた。
「…いろいろ頑張りすぎなんだよお前は。せめて俺といる時ぐらい甘えろよ。そのために俺がそばにいるんだからな。」
呟きが聞こえたらしい。
「そうだな。…だからそうしてる。」
「…起きてたのか。おやすみ。」
「…ん。」
今度こそ隆晃は寝落ちした。真輝は掛けてあった毛布を取り、かけてやった。
「─寝そう。確かこれだったか?」
そう言って真輝がボタンを操作するとソファーがリクライニングする。
「あの時のままかよ。…まぁいいや。」
こうして真輝も寝落ちしたのだった。
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