2話 男の噂 女の歴史
全身傷だらけの状態でありながらフィリアを脅威から救い出した『アマト・フリューゲル』
その名を知らないものはよほどの世間知らずか、言葉を覚えたての幼児かの二択だろう。
いつのことか、大陸に多くの小国が形作られ、何がきっかけなのか、異なる国に属する者たちが覇権を賭ける戦乱の世。永き時を経て争いの為の戦士、騎士が生まれては消えてゆく。
そんな乱世の中にアマト・フリューゲルは突然姿を現した。騎士としての名前が知られるようになったのは今から5年前、大陸の南西部に位置するフラーズとネヴェルという二つの王国で争いが起きた。この時のフラーズ王国、ネヴェル王国共にまだ中規模の国止まりで戦争の目的は領土拡大が大部分を占めていた。
開戦当時戦局はネヴェル有利で進んでいたがその中で起きた撤退戦、フラーズに所属していたアマトは、わずか数百名の手勢で三千近い敵の進軍を丸一日押さえ込み、一時後退にまで追い込んだ。すかさずネヴェルへの反攻が開始、フラーズの勝利に終わった。
この戦いの報酬としてフリューゲルという姓と領地を与えられることになる。この大陸で公式の姓を持つためには王族、貴族などの特権階級に生まれるか、その地位にある者より授かる事で得るという2つの方法しか存在しない。アマトは後者であり、初陣にしてそれが認められることは極めて稀なことであった。
その後5年に渡り7回の戦争に参加し、4つの国を攻め落とした。
『翼を得た虎が虎穴より出でた』とフラーズは近隣諸国から強く警戒されている。
アマト自身も実績に伴い爵位を得る。男爵、子爵と着実にその権威を強めていく。内からは騎士階級からの出世頭として羨望と称賛を、外からは警戒すべき危険な敵としての視線を集めている。
そしてアマト・フリューゲルにまつわるもう一つの噂に、
『獅子や鳥、様々な生き物が合わさったような化け物を飼い慣らしている。地を駆け、天を舞い戦場に死を振り撒いている』といったものがある。こちらの噂の出所は敗戦国の戦士だったため、何かの比喩か敗戦のショックによる錯乱かと思われていた。
フィリアもまたこの噂は眉唾物と考えていた。しかし、目の前に倒れているこの男が本当にアマト・フリューゲルであるならばすべてに合点がいく。今自分たちのそばで横たわっているこの怪物こそ噂で語られた存在であり、主を救うために人手や薬草のような治療の道具を必要としていたこと。そしてようやく見つかったのが自分、旅人のフィリアだったということ。
簡潔にまとめた仮説だがこれが正しければフィリアの身の危険はとりあえず去ったと考えられるだろう。愛玩動物と飼い主は血より深い絆で結ばれているというのもよく聞く話だ。その仮説の根拠として、足元にあったフィリアの手荷物を咥えて持ってきた。その上近くに自生している薬草だ。おかげで応急処置程度だがフィリアは安心して治療に専念できる。
「よし、血は止まってる!」
しかし、いったいなぜ彼女はここまで熱心に治療をするのか?
恩を作っておけば後々有利だからか?否、彼女の目的はもっと別の感情に起因している。
彼女の過去にアマト・フリューゲルという存在が大きく関わっているのだ。
☆☆☆
フィリアは人間と獣人の子として生まれた。獣人とはより獣に近い容姿をした人間のことを指し、人間と獣人の間の子はそれぞれの特徴を折衷したような姿で生まれることが多い。それが亜人と呼ばれる種族として確立していった。
元来大陸には人間と獣人が混在していたが、現在の戦乱が起きるより更に以前に二種族の間で文化や習慣に齟齬が生まれはじめ、やがては互いに敵対心を抱くほどの大きな溝が出来てしまった。
今に至るまで両種族のほとんどが互いを相容れない敵だと教えられている。
そんなうねりの中で一番割を食うのはすでに種族として確立された亜人だった。二つの陣営から汚れた血の混じった存在と腫物のように扱われ、拓けていない土地に集落を築き、ひっそりと暮らすしかなかった。
そんな時代にフィリアの両親は出会い、惹かれあい、愛し合った。当然それはご法度であり、二つの種族から裏切り者とされた二人は流浪を続け、亜人の集落の一つに辿り着いた。やがて二人からフィリアが生まれるが、もともと病弱だった母は出産の際に力尽き、父親も流行病に侵されフィリアが物心付く頃に息絶えた。
それからというものフィリアは集落全体に道具のように扱き使われた。身寄りのないものを集落においてやっているだけ感謝しろ、などとおおよそ一個の人格として見られることはなかった。集落にいた時の記憶で楽しかったと感じられるものはかすかに残った父の背中だけだった。それすらも今では断片的にしか思い出せないでいる。
そのような日々が延々と続き、歳が17を過ぎた頃だった。集落に人間が現れた。すでに述べた通り人間も獣人も大半は亜人を蔑んでいる。一切の慈悲なく切り裂かれ、一部は戦利品のように連れ去られ、奴隷市場に売られる。フィリアは後者であったが、悪夢を抜けた先は地獄だった。
彼女を奴隷として買ったのはガイリアという国の公爵位の男だった。その男はフィリアより以前に多くの奴隷を買い、モノとして使い続けた。
奴隷には種別があり、それぞれ役割以外の労働を強いることは禁じられている。また、奴隷には最低限の生活水準を与える義務が雇い主に発生するが、この男は知ったことかと言わんばかりに所有する奴隷を酷使していた。
フィリアのような亜人にはそれが顕著で、死にこそしないものの極限まで厳しい労働に回される。
彼女個人も思い出したくもない責め苦を受け続けた。ある時公爵邸に突然呼び出されたときは意味もなく暴力を受け、そのまま純潔を散らされた。次に呼ばれた時は無理矢理抱かれながら顔面を殴られ続けた。
どうしてこんなこと?虚ろな意識の中で言葉がこぼれた時、何と返されたのか今でも脳裏に焼き付いている。
『なんだ、頑丈だな』
この男は自分を強姦しながら殺そうとしていたのだ、それも一時の気まぐれで。
自分は魔物に買われたのだと悟った時には「生きる」ことへの意義が見いだせなくなっていた。 亜人の女、たったそれだけで領内の侍女や兵士にも理不尽な扱いを受けていた。汚物の処理を押し付けられるのは日常茶飯事、八つ当たりのように暴行を受けたことも二度や三度では済まなかった。
フィリアと似通った立場の者も少なからずいたが、奴隷への酷使に耐えられず労働中に力尽きたもの、公爵邸に呼び出され戻らなかったものもいた。フィリアが五体満足でいるのは偏にフィリアが過去の経験から体が丈夫であったおかげだった。
しかし、結果としてそれが公爵に目をつけられる要因となった。度々邸宅に呼び出されては執拗に暴行を加えられた。殴打に飽きれば蹴り、それに飽きれば刃物で体を突き刺す。フィリアを最悪の形で「使い」続けた。
こうした環境の中で、フィリアは徐々に『モノ』としての自分を確立させるようになる。常に感情を押し殺し、どれほどの仕打ちを受けても抵抗どころか痛みに声を上げることすらなくなっていった。そうしなければ耐えられない程の生き地獄を味わったのだ。
周囲の奴隷たちの目にもそんなフィリアの存在は不気味に映っていた。
感情がない。それ以上に生気がない。奇妙な言い回しだが何もないことに努めていたのである。
彼女に救済がもたらされたのは奴隷に身を落としてから一年が過ぎた頃だった。
ガイリア王国は突如隣国の襲撃を受けた。当時勢いに乗り、領土拡大を進めていたフラーズだった。侵攻のきっかけは一切を隠匿していたフィリアたち奴隷に対する公爵の非人道的な扱いが外部に知られてしまったことだった。
この事実が世間に公表されてしまった以上、一貴族のスキャンダルで済まされるはずもなく、フラーズの新進気鋭の若き貴族がガイリアに侵攻した。
その若手貴族こそ徐々に頭角を現してきていたアマト・フリューゲルであり、大義名分を得たフリューゲル軍は士気も高く瞬く間に国境の砦を攻め落としていった。
一方のガイリアは最悪の状態に陥っていた。ガイリアの軍隊は正規兵より非常時に徴収される義勇兵が多くを占めているがこの義勇兵制度が仇となった。奴隷の酷使などという事実が明るみに出た以上徴兵に応じる国民は皆無に等しく、この時割ける人員すべてをかき集めてもアマト・フリューゲル率いる軍との戦力比はおよそ4000:9000。戦って勝つ見込みはほぼなかった。ダメ元の策として領土割譲、奴隷譲渡を条件にした休戦交渉をフラーズ側に打診することとなる。
しかし、意外なことにそれを受け入れ、あっけなくガイリアの危機は去った。
その直後にはフリューゲルは奴隷を手に入れたかっただけなのでは?などと憶測が流れたが譲渡された奴隷をすべて奴隷契約から解放したことによってフラーズへの批判的な評価はほぼ無くなった。
奴隷たちの反応は様々だった。あまりに突然の出来事に放心状態になるもの、歓喜に咽び泣くもの、抱き合い生を実感するもの。
皆が喜び、救いの使者であるアマト・フリューゲルに表せる限りの感謝を述べた。
だが、フィリアだけは別だった。その状態から解放されたことを理解するとそれまでと変わらぬ虚ろな瞳のまま精神が錯乱状態に陥っていた。奴隷の中で最も狂気にさらされ続け、感情を殺すことでしか自己を保てなかった彼女は、確かにそれまでの自分を取り戻すことが出来た。
その結果、解放されたと聞かされた時に自分の過去に幸福が見出せないことに気付いてしまったのである。自らを生んでくれた母も、自らを育んでくれた父もいない。悪夢が消え、地獄が終わりを告げてもなお自分は幸福になれないのではないか?生きていても待っているのは不幸だけではないのか?
そんなフィリアに時の人、アマト・フリューゲルがゆっくりと近づき語りかけた。
「大丈夫だ、ここには君を傷つける者はいない」
そういって手を差し伸べる。そこに一切の悪意がないことはフィリアにも感じ取ることが出来た。しかしそれでも、自分に手が向けられることは彼女の過去の恐怖を想起させ、悪意も敵意もないと理解しているはずのその手を何かとてもおぞましいものにしか見えなくしてしまった。恐怖が限界まで達したとき、フィリアの意識は濁流に飲まれるかのように途切れた。
次にフィリアが目を覚ました時は山なのか森なのか、深い自然の中にいた。
意識が覚醒し落ち着きを見せた頃、フィリアから血の気が引いた。自分はいったい何をしたのだ。今まで生きる価値がないと思っていた自分に向き合い、救済の言葉を紡いでくれた人に何をしてしまったのだ。
知らなければならない。自分の中の空白に何が入っているのか?
そしてそれ以上にただ一度だけ伝えたい。アマト・フリューゲルという人にたった一言、「ありがとうございました」と。
これが真実、この世界に生まれたフィリアという女の今の総てである。
生きる目的はアマト・フリューゲルとの再会、自分がどこにいて、フリューゲル領がどこにあるのか、それすら分からなくてもいつか必ず辿りついてみせる。ただそれだけを胸に抱いておよそ二年間旅を続けてきた。
そして今、アマト・フリューゲルは自分の目の前に倒れ伏している。彼女を突き動かすのは恩を売るという打算の感情と真逆の恩返し、生きていてほしい、助けなければ!
将来を見据えるでもなく、怪物に脅されるでもなく、ただひたすらその一心で彼女は目の前の男の傷を治しているのだ。
自分は在ってもいいと、その身で伝えてくれた人なのだから。
「死なないでください!今度は私が、貴方を救います!」
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