第8話 人材と人才と人財

 南大崎リハビリ病院で働き始めてから1年半が経とうとした9月に、10月からの人事が発表になった。南大崎病院グループのリハビリ科は、半年に1度人事異動があり、南大崎病院、南大崎リハビリ病院、訪問リハビリの人事が変わる。通常、入職して2年から2年半は南大崎リハビリ病院で勤務をするが、今年は、2年目の新藤君と自分が10月から南大崎病院に配属することになった。

 人事異動の発表後すぐに、南大崎病院リハビリ科の主任である、浅尾さんと云う女性の先輩に挨拶に行った。

「だめだったら戻ってもらうから、しっかり勉強しておいてね」

 いきなり厳しいお言葉を頂いた。

 浅尾さんは、リハビリ科係長の小田切さんと同じ理学療法士10年目で、ここに来る前は都内の大学病院に勤務していた。3年前に南大崎病院がリハビリ科を設立するのに合わせ、急性期リハビリの第一線で活躍していた浅尾さんを、院長が直々に引き抜いてきたのだ。

 

  南大崎病院は2次救急の指定を受けおり、入院される患者様は救急車で運ばれてくる方が多く、その半数以上は胸痛や腹痛などの内科系の方であった。その他では、脳卒中など脳神経外科の患者様が1割くらいおり、残りの4割は整形外科での入院であった。

 南大崎病院の整形外科で入院される患者様で1番多い疾患は、高齢者の4大骨折でもある大腿骨近位部骨折である。1年間に当院の整形外科で入院される患者様は約400人おり、その内100~120人が大腿骨近位部骨折の方である。その次に多いのが、これも高齢者4大骨折の1つ脊椎圧迫骨折、次いで下腿骨骨折であった。

 大腿骨近位部骨折と脊椎圧迫骨折は高齢者に多いが、下腿骨骨折は若年層に多かった。下腿骨とは、膝から足首までの骨で、内側の脛骨と外側の腓骨を合わせて下腿骨と呼ぶ。骨折の原因は、転倒、転落、交通事故、スポーツでの接触などがある。

 下腿骨骨折では、脛骨か腓骨の片方だけか、両方折れるケースがある。外側の腓骨は立位や歩行時に体重が掛からない為、骨折によるズレが大きくなければギプス固定で保存的加療となる事が多い。内側の脛骨が折れている場合は、骨折部にプレートを貼り付ける方法や、膝の下から脛骨の中に髄内釘と呼ばれるチタン製の棒を入れて固定する手術が行われる。

 南大崎病院では、他にも人工関節や頸椎・腰椎の手術を多く実施しているので、異動までの1か月弱で整形外科疾患を一通り勉強することにした。


 10月1日より南大崎病院に異動となった。初めは自分達と入れ替わりに南大崎リハビリ病院に異動となった先輩の患者様を引き継いだ。しかし、急性期病院では整形外科患者様の平均入院日数は3週間弱なので、異動した翌週には引き継いだ患者様の半分が退院されていった。

 リハビリ病院では、入職して6ヶ月間はスーパーバイザー制度により、自分達から聞かなくても先輩から声を掛けてもらえていたが、ここではそのような温かい制度はない。

 手術翌日のリハビリでは、術創部内に溜まった血液を外に出すためのドレーンチューブが挿入されていたり、尿を排出する為の尿道カテーテルや、腕や脚に点滴が付けられていたりする為、安全面を考慮して他のスタッフに付き添いを依頼することがあるが、それ以外は新人であろうと1人で行わなくてはならない。

 自分に新しい患者様が担当になったのは、異動して2週間後の事だった。大浦さんと云う47歳の男性で、5日前に会社のバイキング形式の飲み会で、お店の段差に引っ掛かり、ジョッキとお皿を持ったまま前方に左足を捻りながら転倒。その時は恥ずかしかったようで、何とか自分の席に戻ったが、そこから動く事が出来ず、仲間に肩を借りタクシーで当院受診。左脛腓骨骨折の診断で入院。そして昨日、腓骨はプレートで固定し、脛骨には髄内釘を挿入する手術を受け、本日よりリハビリが開始となった。

 整形外科疾患のリハビリを行う上で気を付けなくてはならない事は、安静度を守ることである。安静度とは、動かして良い関節の幅や、手術した脚に体重の何%荷重して良いかなどである。これらの指示は、主治医がリハビリの指示書かカルテに書いてくれるのだが、週ごとに指示内容が変わっていく為、直接主治医に確認を取っていく必要がある。

 大浦さんの指示書には、関節可動域に制限はないが、荷重は左下肢トゥータッチと書かれていた。トゥータッチとは、左脚にはまだ体重を載せてはいけないが、歩行時につま先で床をこする程度なら良いと云うことだ。カルテの他の記載内容も確認すると、体重が104㎏となっていた。ここでも、体の大きい患者様は自分が担当する傾向が受け継がれていたようだ。

 

 早速、この日の朝9時に大浦さんに挨拶をしに行った。すると、点滴と尿道カテーテルに繋がれて、仰向けで新聞を読んでいる体の大きな男性がいた。ベッドに付いた名前の札を確認してから声を掛けた。

「大浦さん、お早うございます。リハビリの担当をさせて頂きます志村です」

「お早うございます、大浦と申します。よろしくお願いします」

 起き上がる事は出来なかったが、笑顔で答えてくれた。

「早速ですが、これから車椅子に乗ってみませんか?」

  手術後の患者様は、トイレに行ける事が確認でき次第、おしっこの管を外してもらえる。自分で歩く事が出来る患者様は、看護師が確認して外してくれるが、脚に荷重制限があり、車椅子を使わなくてはならない患者様に関しては、まずは理学療法士が連れて行って確認することになっている。その為、脚や腰の手術の患者様は、術後なるべく早くに車椅子乗車とトイレの練習をするように言われている。

「え、痛いから、まだいいですよ」

 拒否されてしまった。

「トイレに行ける事が確認出来れば、おしっこの管が外れるのですが」

「まだ付けていて下さいよ」

 離床に対し消極的であった。仕方がないので、午前中はベッドの上で足関節の可動域を確認させてもらう事にしたが、包帯を外そうと左脚を持ち上げた瞬間に大きな悲鳴を上げた。

「痛たたた」

「結構、痛みが強そうですね」

「すいません。痛くはないのですが、痛くなりそうだと怖くなって」

 何だか先が思いやられた。何とか包帯を外すことは出来たが、左足を触ろうとするだけで大騒ぎ。それでも、角度だけは測らせて下さいと動かそうとしたが、殆んど動かなかった。

 

 足関節は、下腿骨と足の裏が直角になる位置を0°として、そこからつま先を膝の方に動かす動きを背屈、逆に下の方への動きを底屈と呼ぶ。背屈の正常値は20°で底屈は50°である。通常、歩行に必要な角度は背屈が10°で底屈が15°とされている。大浦さんの角度はと云うと、底屈15°の位置からどちらの方向にも動かない状態であった。動かない理由として、術後の炎症による足部の浮腫みや痛みが考えられたが、大浦さんの痛がり方を見ていると、早く動かして循環機能を改善していかないと、治りが遅くなると感じた。そこで、大浦さんに、包帯をしていても足の指をこまめに動かす事と、午後にもう1度来るので、出来たら車椅子に乗りましょうと伝えた。

「はいはい、分かりました」

 きっと、やらないであろうと感じた。


 午後のリハビリは南大崎リハビリ病院と同じで13時から始まる。1人目の患者様のリハビリを終え、部屋に送ってからリハビリ室に帰ってくると、自分と一緒に南大崎病院に異動してきた、先輩の金子さんが声を掛けてきた。

「志村さん、大浦さん担当の看護師さんが、手が空き次第すぐにナースステーションに来てくださいって連絡があったけど、行ける?」

「次の患者様が14時にリハビリ室に来てくれる事になっているのですが」

「高田さんですよね?来たら私が対応しますので、大浦さんの所に行ってあげて下さい」

「はい、分かりました」

 そう言って、すぐに3階のナースステーションに向かった。

 理学療法士5年目の金子さんは、3年前に、この南大崎病院リハビリ科設立時のオープニングスタッフとして2年間働き、その後、新人教育のために南大崎リハビリ病院に勤務し、今年から南大崎病院に戻ってきたので、南大崎病院の事は浅尾さんの次に詳しい先輩であった。


 看護師に呼ばれたとなると、午前中のリハビリで術創部が痛くなったと云うクレームでも出たのかと心配になり、急いで3階のナースステーションに向かった。

「あ、志村さん。大浦さんが便はトイレでしたいと言っているので、トイレまでの移乗をお願い出来ますか?」

「分かりました」

 少しほっとしたが、大浦さんの部屋に行くと、ベッドの上で辛そうな顔で座っていた。

「お待たせしました」

「志村さん、すいません。トイレに行きたくて」

「分かっています。車椅子を取ってくるので、待っていて下さいね」

 廊下に置いてある車椅子と、車椅子の座面に載せて片脚だけ伸ばした状態で置けるように切った、厚めのべニア板を持って、大浦さんの部屋に戻った。大浦さんは、座った状態でも、左足を床に着けることがまだ禁止されているので、この板を使うか自力で足を浮かせておかなくてはならない。

 車椅子への移乗は、ベッドに腰掛けた大浦さんの右脚側に斜めに車椅子を置き、自分が大浦さんの左脚を持ち上げながら立ち上がってもらい、車椅子に座ってから板の上に左脚を載せる。車椅子へはスムーズに移れたが、トイレ内は狭い為、今のようにはいかない。

 トイレ内では、便座が正面になるようにしか車椅子を着ける事が出来ず、さらに自分が大浦さんの左脚を持ち上げてあげられるスペースも無い。従って、右脚だけで自力で立ち上がり、体を180°反転して便座に座ってもらう。その間、自力で左脚を浮かせてもらわなくてはならない。左脚を自力で持ち上げようとするだけで、筋肉が攣れて痛いのか、常時悲鳴のような声を発していたが、何とか便座に座る事が出来た。

 終わりましたら呼び出しボタンを押して、看護師さんか介護士さんと戻って下さいねと言い、置き去りにしようかと思った。

「ちょっと、すぐに終わるから待っていて下さいよ」

 すかさず引き止められてしまったので、外で待つ事にした。トイレの目の前がナースステーションなので、担当の看護師に何とかトイレに行ったが、まだ尿道カテーテルは外さない方が良いかも知れないと伝えた。


 大浦さんがトイレに座ってから10分ほど経過して、トイレ入り口に付いている呼び出しランプが光ったので、ノックをしてからトイレに入った。

「すいません、結構臭いますよ」

「大丈夫です、慣れていますから」

 そうは言ったものの、強烈な便の臭いが鼻の奥に突き刺さった。便座から車椅子に戻る時も、車椅子を正面に着けて、先程と同じように行うのだが、車椅子に座ってから板に左脚を載せるのを自力でやらなくてはならない。その旨を伝え、理解はして頂けたが、立ち上がって体を反転する時に、左足が車椅子の足を載せるフットレストにぶつかってしまった。

「あぁ!」

 この日1番の大きな悲鳴と伴に、崩れ落ちそうになったので、後ろから両脇を支えようとした。

「志村さん、左脚を持ち上げて下さい」

 悲痛な叫びをあげたが、左脚を支えるだけのスペースは無かった。

「狭いから無理です」

「そこを何とかやって下さい」

 そこまで言うので、車椅子と壁の間から体を横にして上半身を便座の方に傾け、左手を便座に置き、右手で大浦さんの左脚を持ち上げた。さすがに、無理な姿勢で力を入れたからか、トイレを出た時には、下着のシャツが汗でびっしょりとなっていた。

 他の患者様がリハビリ室で待っているので、早くベッドに戻りましょうと急いで部屋に戻った。

「せっかく車椅子に乗ったので、1階の売店に行きたいです」

 そう頼まれたので、近くにいた介護士さんに付き添いをお願いして、自分は急いでリハビリ室に戻った。

 

 リハビリ室に戻ったのは14時25分、14時からの高田さんは大腿骨頸部骨折術後の患者様で、脚の自主トレーニングをしているかと思ったが、金子さんの手が空いていたようで、関節可動域練習をしていてくれた。

「金子さん、ありがとうございます」

「お帰りなさい、高田さんの股関節が固そうだったから、少し動かしていました。もっと強くやっていかないと、固まってしまいますよ」

 怒られてしまった。すぐに金子さんと代わり、高田さんの股関節の運動を始めた。

「良かったわ、金子先生は痛いのよ」

小声で言ってきた-。

「でも、それくらいやらないと良くなっていかないですから、自分にはその勇気が無いだけです」


 関節内の怪我や骨折では、長期間の固定や手術により、関節を覆っている膜や靭帯などの組織の柔軟性が低下して、関節の隙間が狭くなってしまう。自分が所属している徒手療法学会では、関節の隙間が狭い状態では無理に動かしても痛みを出すだけなので、骨と骨を軽く引っ張り、関節の隙間を広げていくような治療をするようにと習っている。関節に十分な隙間が出来れば、おのずと関節は動いていくと云うのが、インストラクターの口癖であった。

 当院における整形外科手術術後の入院日数は、1週間から長くて1ヶ月である。1ヶ月が経っても、自宅退院出来ない患者様は、南大崎リハビリ病院か他のリハビリ病院に転院となる。金子さんは、南大崎病院から直接自宅に帰れるように、入院期間中に正常に近い動きを取り戻そうと必死になっているのだ。

 しかし、骨折の部位や度合、術式や出血量により炎症の強さは変わり、一般的には約2週で落ち着くと言われているが、長い場合1ヶ月くらいは浮腫みや痛みが続く方がいる。その間、痛みを我慢してまで無理に動かすと、組織を傷つけて炎症が悪化してしまう事がある。逆に、全く動かさなければ良いかと云うと、そうとも限らない。傷の修復に必要な白血球は血液中に含まれているので、適度に筋肉を動かし、血流を維持する事が必要なのである。そこで、術後早期は小刻みな運動が良いと自分は習ってきた。だからと云って、金子さんに盾突くようなまねはしない。南大崎病院で平和に過ごしたければ、素直に返事をしておくのが利口である。主任の浅尾さんも、ちゃんと結果が出ていれば、自分が考える治療をしなさいと、理解をしてくれていたからだ。


 大浦さんとのリハビリ2日目、11時に迎えに行くとベッド横で車椅子に座っていた。まだ、病棟のスタッフに車椅子への移乗介助の方法を説明していなかったが、話しを聞くと、佐々木さんと云う介護士さんに手伝ってもらったとの事であった。佐々木さんはベテランの介護士で、若い理学療法士よりも、遥かに安全に移乗介助を行なえる人だった。

 今日から、リハビリ室で左足首を動かす運動に加え、平行棒内での歩行練習を実施した。手術後1週間はトゥータッチの指示なので、まずは、平行棒内で左脚を浮かしての歩行練習から始めた。両手と右脚だけでの歩行だが、大浦さんは簡単に歩き始めた。

「志村さん、楽勝ですけど、これで良いんですか?」

「はい。もう少し歩いたら分かります」

 遠回しに警告をしたが、何の疑いもなく笑顔で歩いていると、3往復目に入ってすぐに答えが出た。

「痛たたた、すごい左足が痛いです」

「車椅子に戻って座って下さい」

 迷わず指示に従って車椅子に座った。そして左脚を板の上に載せると、痛みが消えたようだ。

「結構、痛そうでしたね」

「いや、すごい痛かったですよ」

「手術で左足周囲の末梢血管が傷つき、ただでさえ循環が悪いのに、立っているとさらに血液が心臓に戻りにくくなり、左脚がうっ血して痛みが強くなるんですよ」

「それを先に言って下さいよ」

「そうでしたね、でも、これは慣れるしかないので、もう少し頑張りましょう」

 そう説得して再び歩き始めたが、今度は2往復した所で車椅子に座ってしまった。

「やっぱり痛いです」

「痛くなりそうでしょ?左脚を浮かしている間は、ふくらはぎの筋収縮による血液を心臓に戻すポンプ作用が弱いので、痛みは続きますよ」

「志村さんは厳しいですね」

「あそこにいる金子さんの方がもっと厳しいですよ」

 離れた所にいる金子さんに聞こえないように言った。

「え、何ですか?」

 しっかり聞こえてしまった。

「いや、何でもないですよ。大浦さんがリハビリに対して弱気だったので、金子さんだったらこんなものでは済まないですよと、言っただけです」

「私は、そんなに厳しくないですよ」

 自分が厳しい人間と言われた事が嬉しかったのか、笑いながら答えた。金子さんは絶対にいじめっ子だ。

 左足を浮かしての歩行に慣れてきたようなので、次にトゥータッチでの歩行練習をした。

「基本的には左足を浮かすのですが、左足の親指を床にこすりながら歩いて下さい。絶対に左脚に体重を掛けないで下さいね」

「大丈夫です。親指を床に着けるだけでも怖いくらいですから」

 そしてこの日は、左足の親指が床に着いたかどうか分からないくらいの状態で合計10往復して終了した。


 下腿骨骨折術後の患者様は、通常1週間から2週間は掛かる所、早い方は術後3日目には車椅子を卒業し、松葉杖歩行になる。大浦さんも出来るのではないかと、翌日のリハビリに合わせて、松葉杖を用意した。

「え、そんなの無理無理。俺、運動神経が鈍いから出来ないよ」

 全力で拒否された。

「松葉杖歩行に運動神経は必要ありません。車椅子を卒業して早く歩きたいかと云う気持ちがあれば出来ます」

 力を込めて訴えた。

「そんな気持ち、全くないから無理ですよ」

 あっさり否定された。そこまで言われると、無理やり歩かせる訳にはいかない。今日も、平行棒内での歩行練習のみで終了した。


 このままでは、大浦さんの回復が遅れるだけでなく、ここから直接自宅退院出来ないとなると、自分の指導不足が原因だと金子さんに指摘されてしまう。

 松葉杖歩行が出来ないのはまだ良いとしても、おしっこの管を付けている限り、日中の活動量が増えない。そこで、担当の看護師さんに、歩行練習が進まないので大浦さんの尿道カテーテルを抜去してもらうようにお願いした。実際、尿道カテーテルを長期間挿入する必要がある患者様もいるが、感染予防の為に2~3週間に1度、カテーテルの入れ替えをしている。

 看護師としても、尿道カテーテルが付いていると、おしっこを溜める袋から定期的に尿をバケツに移して捨てなくてはならないので、その手間が省けるからか、すぐに大浦さんに部屋に行った。

「大浦さん、おしっこの管を外しますね」

「なんで、なんで」

 拒否をしようとしていたが、それ以上の反論を言わせる間を与えず、看護師は管を抜去した。


 翌朝、大浦さんの部屋に行くと、ふてくされ顔でベッドに座っていた。

「大浦さん、お早うございます。痛みはどうですか?」

「おしっこの管を抜かれたよ」

「あら、それは大変ですね」

「志村さんが指示をしたんじゃないの?」

「僕にそんな権限はありませんよ。それより、これからは毎回トイレに行かないといけないですから、松葉杖での歩行練習をしませんか?」

「まだ車椅子で良いですよ。手術して1週間したら左脚に少し体重を掛けて良いみたいだから、それからにします」

「今のうちから、リハビリの時だけでも練習をしていた方が、体重を掛け始めてからすぐに松葉杖を使ってトイレに行けるようになりますよ」

 消極的な大浦さんに負けじと誘ってみた。

「志村さんはどうしてそんなに焦らすのですか?自分はゆっくり治していきたいのに」

 活動量を増やそうとする自分に腹が立ったようだ。

まさか、病院の回転率を上げる為だとは言えないが、実際に救急病院では、患者様の平均入院日数を15日以内しないと、入院や診察に対する保険点数が下げられてしまい利益が落ちてしまう。従って、経営側はこの数字に目を光らせている。

「それは、大浦さんに出来るだけ元に近い状態に戻ってもらいたいからですよ」

「元に近い状態って、元には戻らないの?折れた骨が付いたら、普通に歩けるんじゃないの?」

「厳密に言うと、骨折前と全く同じ状態には戻りません。骨折部がぴったりと付けば別ですが、少しでも欠けたり潰れたりしていると、整復して固定したとしても骨折部にズレや傾きが生じてしまいます。その小さな変化が、荷重時の足関節や膝関節に掛かる力を変え、不安定性や痛みを出す原因となります。筋肉も、使わない期間が長くなると筋繊維が委縮して、元のような筋力が発揮出来なくなる事もあります。そうならない為にも、早期から骨折部以外を動かし、骨折による体の変化に対応出来るようにしていくのです」

「そう何ですか。分かりました、出来るだけ頑張ります」

「はい、出来るだけで良いですから」

 元に戻らないと言われた事がショックだったのか、少しだけ素直になり、リハビリに対しても前向きになってくれた。

 結局、手術後1週間は車椅子で過ごされたが、平行棒内歩行練習は積極的に行い、連続10往復しても、腫れによる左足の痛みは出なくなっていた。


 そして、手術から1週間が経過し、主治医より左脚に体重の25%を荷重して良い指示が出た。大浦さんの体重は104㎏なので、その25%は26㎏となる。

 体重の25%を荷重する練習は、平行棒内で体重計と、体重計と同じ高さに作った台を横に並べて行う。左足を体重計に、右足を台に載せて、まずは右脚に全体重を掛けてもらい、そこから少しずつ左脚に体重を移し、体重計が25㎏になった所で合図を出す。しかし、大浦さんは、痛みが出るのが怖いのか、中々左脚に体重を掛けられなかった。

「大浦さん、もっと左脚に載せて下さい」

「はい。どうですか?」

 体重計を確認した。

「まだ10㎏です」

「これ以上は無理です」

「分かりました。ではその位の量で良いので、今度は重心を左右に動かしてみて下さい」

 ゆっくり体重を掛けようとするから力んで荷重量が上がらないと考え、テンポ良く繰り返し左脚へ荷重を掛けてもらうと、15㎏まで掛けられるようになった。

「痛たたた」

 荷重練習を始めて1分も経たずに痛みが出てしまった。

「どうしました?1度座りましょう」

「左足全体が強く圧迫されたように痛みます」

「今まで休んでいた筋肉を使い始めたので、急激に血流が増え、筋肉内の圧力が上昇しての痛みかも知れません。ただ、これも慣れるしかありません」

「そうですか。まぁ頑張ります」

 以前よりかは、リハビリへの意欲が上がっているのは確かであった。次に、左足を体重計の上に載せたまま、右脚を前に出す練習を行った。今までは右脚で左脚への体重コントロールをしていたが、右脚を浮かす事により、両腕の力で左脚への荷重をコントロールしなくてはならないので、通常、体重を掛け過ぎてしまう事が多い事を説明してから始めた。しかし、大浦さんは、両腕で全体重を支え、右脚を前方に踏み出した時は、左足に殆んど体重が掛かっていなかった。

「大浦さん、全然載ってないです」

「分かっています。ただ、これは怖いですよ」

「そうですよね、でも松葉杖でやるともっと難しいですから、練習あるのみです」

 2回目は、左足に最大20㎏掛かった。

「今、20㎏まで載りました。今の感じを覚えて頑張りましょう」

 その後、何回か行うと、左足への荷重量は増えてきたが、25㎏を超えてしまう時もあった。少し掛け過ぎていますと指摘すると、今度は5㎏以下になり、微妙な荷重のコントロールが難しいようだった。

 結局、この日は平行棒内での練習で終わったが、翌日には、片手を平行棒、もう片方の腕で松葉杖を持ち、左足への荷重を10~15㎏で歩く事が出来た。

 そして、25%の部分荷重練習を始めて3日目、ついに両手で松葉杖を持ち、左脚の荷重練習を行う事となった。掛け過ぎないように気を付けて下さいと促したにも関わらず、左脚への荷重量が30㎏を超えてしまった。さらに続けて3回挑戦してもらったが、どれも30㎏を超えてしまった。

「松葉杖だけで体重を支えるのは、ちょっと怖いですね」

 やはり、腕の力だけで全体重をさせられない内は、25%の部分荷重は難しいのだと判断し、松葉杖練習は次週に見送る事にした。


 この頃には車椅子への移乗が1人で行えるようになっていたので、日中病室に居る事は少なかった。大抵は、自室のテレビを見るとお金が掛かる為、談話室に行って無料でテレビを見ている事が多く、他の患者様がテレビを見ている時だけ、自室でテレビを見ていた。


 手術後12日が経過した日の午後、大浦さんの部屋を通り掛かると、大浦さんがベッドに横になり、雑誌を見ていたので、声を掛けようと部屋に入ると、左脚を冷却用のアイス枕3つで冷やしている姿が目に入った。

「大浦さん、こんにちは。左足痛いですか?」

 アイス枕を指して聞いた。

「いや、痛くはないですけど、まだ少し術創部周囲が温かいので冷やしていました」

「温かいのは、まだ炎症しているからしょうがないのです。風邪を引いた時もむやみに解熱剤で熱を下げない方が良いと言われていますよね?」

「え、アイシングって良くないのですか?」

「いえ、アイシングはとても大切です。しかし、タイミングが重要です。アイシングの大きな目的としては、手術や怪我、又は激しい運動後に、血管内に炎症物質が放出され,発痛物質が生成されるのを抑え、筋損傷の程度を和らぐことにあります.しかし、これらの物質が生成されるのは術後2~3日とされています。その後は、血液中の白血球が術創部に集まり、その発痛物質を排出し、組織の修復に働いてくれます。その時に発熱が生じるのですが、その熱を下げてしまうと、白血球の活動が弱くなり、組織の修復が遅れる事があります」

「では、冷やすのは手術後3日で良いってことですか?」

「そこは、色々と議論が出ている所です。膝の人工関節術後の患者様を対象に、アイシングを術後24時間までと、48時間実施した2群の間に,術後の炎症値に有意差がなかった為、アイシングは術後24時間で十分と言う先生もいれば、術後は傷口から細菌が入り、感染の原因になる可能性があるので、術後1週間はアイシングをした方が良いと云う先生もいます」

「手術後のアイシングについては何となく分かりましたが、リハビリ後のアイシングについてはどうですか?」

「そうですね。激しい運動まではいかないですが、炎症している部分を動かすので、その後の炎症増悪に対しての対策は必要です。最近、プロ野球の投手が、試合後に肩をアイシングしている姿をよく見ますよね。あれは、運動後のアイシングにて細胞内のpHが上昇し,細胞内代謝の効率を上げ,炎症物質の循環をアップさせると報告があるからです。しかし、運動後10分以内に冷やさないと、その効果も半減してしまうと云うデータもあります。従って、リハビリ後に冷却するのであれば、リハビリ後すぐに開始し、15分ほどで十分だと思います。それでも腫れぼったさや熱感があれば、術創部を拳上していて下さい」

「わかりました。それにしても志村さんは詳しいですね」

 

 アイシングについては、まだ分からない事が多いようだ。野球選手が試合後に肩を冷やすようになったのも最近であり、それまでは、肩を冷やす事はご法度とされていた。体を冷やす時は十分な配慮が必要だが、熱があったり痛みがあったりすると、アイシングをする事で、組織温度が低下し、交感神経性アドレナリン作動性ニューロンの反射が活性化し,「気持ちいい~」と,疼痛に対する不安を取り除く心理的な療法もあるので、どうしてもアイシングをしたいと云う患者様には、術創部から少し離れた部位を冷やしてあげれば良いと云われている。


 手術後、2週間が経過した。この日、主治医より大浦さんの左脚の荷重量を体重の50%まで可能と指示を出してくれた。大浦さんは、入院生活により体重が2㎏減り、102㎏になっていたので、51㎏まで掛けられると云うことだ。51㎏は、大浦さんにとっては体重の半分だが、60㎏の人だったら、殆んど全体重を掛ける事になる。

 体重が重い人ほど骨が丈夫かと云うと、そうとも限らない。成人男性の全身の骨重量は、推定で2~3㎏とされている。つまり、体重が50㎏でも100㎏の人でも、骨の重さに大きな差は無いと云う事だ。荷重量に関しては、体重が重い人ほど骨格筋量が多く、骨や関節を支える力が強いと考えられている為、部分荷重量を体重の比率で決めている。

 しかし、髄内釘が入っている左脚に、いきなり荷重量を50㎏に上げるのは少し心配だったので、主治医に確認した。すると、髄内釘固定は下腿骨に対し長軸方向、つまり骨の縦方向に掛かる力には強いので、荷重量が上がる事は心配ないと。ただし、下腿骨に対して垂直方向や捻じりに対しては弱いので、骨折部を押したり、左足が床に着いた状態で膝を捻ったりするのには注意するようにと教えてくれた。

 念の為、文献も調べてみたが、同じような内容の事が書かれていたが、骨折部の粉砕がひどいと、髄内釘で固定しても、骨折部が圧迫され、骨が短縮する事があるので、その場合は荷重開始を遅らせるとされていた。大浦さんの骨折では、そのような心配はないようだ。

 

 50%の部分荷重も、まずは平行棒内で体重計を使用して確認する所から始まった。30㎏までは痛みなく荷重が可能であったが、50㎏までは怖くて掛けられない状態であった。今は無理して左脚への荷重量を挙げるよりも、松葉杖での歩行を獲得することが最優先であった。

 松葉杖を使えば、左脚へは40㎏まで掛けて歩く事が出来た。しかし、体重を掛けると、左足首の少し上が痛いと訴えていた。

「恐らく、左足関節の可動域にまだ制限があり、その状態で体重を掛けようとすると、筋肉や靭帯が伸ばされて痛みが出ているのだと思います。もう少しほぐれてくれば痛みは減ると思いますよ」

 数回練習し、ぎこちなさがまだ残るが何とか歩けていたので、松葉杖を貸し出し、車椅子を卒業とした。

 翌日、出勤して病院に入ると、大浦さんが1階の廊下を松葉杖ですたすたと歩いていた。

「大浦さん、お早うございます。だいぶ慣れなしたね」

「あ、志村さん、お早うございます。昨日、1時間くらい練習したら、コツを掴みました」

「体重を掛け過ぎてないですか?」

「逆です。左脚に体重を掛けないで歩くコツを掴んだので、左脚には多分10㎏ぐらいしか載っていませんよ」

「まぁ、安全が1番ですから。荷重量に関しては、これから一緒に練習をしていきましょう」

 そう言うと、笑顔でエレベーターの方へ向かって行った。


 術後16日が経過して抜糸も終わり、松葉杖歩行も出来るようになったので、退院の目標を立てなくてはならない。このまま上手くいけば、術後21日で75%の部分荷重が始まり、術後28日に左脚全荷重の指示となる。全荷重が可能になってから退院される方が多いが、松葉杖歩行が安定すれば、部分荷重の状態でも退院される方はいる。その場合は、エスカレーターの乗り方、電車やバスの乗り方、入浴の仕方など練習することが多いが、大浦さんは、全荷重が可能になってから退院したいとの希望であったので、歩行が安定すれば退院可能となる。大浦さんが全荷重になるまで残り2週間、その間に左足関節の可動域も改善すれば、問題なく退院となる。

 

 術後18日目、いつも通りにリハビリ室で左足関節の可動域連練習を実施してから、左脚の荷重量を確認した。しかし、この日は痛みが強く、左脚に10㎏も掛けられない状態であった。

「今日は、ちょっとでも体重を載せると痛いですね」

「痛いのは足首の所ですか?」

「いや、脛の方で、多分折れた所に近いです」

「ちょっと心配なので、今日は左脚への荷重は控えて、脚の運動だけにしましょう」

 その後、執刀した主治医とは違う整形外科の大山先生を見付けたので報告した。

「352号室の大浦さんですが、今朝から左下腿骨折部周囲に痛みが出て体重を掛けられないと訴えていました」

「髄内釘の患者様ね、分かりました、診ておきます」

 大山先生は若い女医で、理学療法士の話しを親身に聞いてくれるやさしい先生だった。大山先生なら今日中には診てくれるだろうと、後の事は先生に任せることにした。

 しかし、その日の夕方、リハビリ室の掃除をしているとリハビリ室の電話が鳴り、出てみると浅尾主任から、すぐに3階のナースステーションに来るように言われた。

 ナースステーションに行くと、先程、報告した整形外科の大山先生と、執刀した主治医の久本先生、整形外科部長の阿部先生、そして大学の医局から半年ごとに入れ替わりに来る、若い武田先生と浅尾さんがレントゲンを見ながら話をしていた。とても、その輪の中に入って行く気分にならなかったが、勇気を出して声を出した。

「すいません、お待たせしました」

「志村君。大浦さんの髄内釘が外れたよ」

「えぇ」

 整形外科部長の阿部先生が言った。

「すぐに大浦さんの歩行を辞めさせて、車椅子に変えて来て」

「は、はい」

「それと、大浦さんをここに連れて来て下さい。説明するので」

「分かりました」

 すぐに大浦さんの部屋に車椅子を持っていくと、横になってバラエティー番組を見ながら、ニヤニヤと笑っている大浦さんがいた。

「大浦さん、ちょっといいですか?」

「あ、志村さん、どうしました?」

「今日のレントゲンの結果が出たので、これからナースステーションに行けますか?」

「良いですよ」

 起き上がり、松葉杖で立とうとされたので、それをすぐに止めた。

「念のため、車椅子で行きましょう」

「え、何で何で?また折れたの?」

「それは主治医に確認して下さい」

 大浦さんを車椅子に乗せてナースステーションまで押して行くと、先程のメンバーに加え、看護部長の田口さんと、医療ケースワーカーの廣田さんが待っていた。

「お待たせしました」

 到着するなりすぐに、整形外科部長がレントゲンを指しながら話し始めた。

「大浦さん、ここを見て下さい。左脛骨に髄内釘と呼ばれる棒を入れて、膝下と足首の上の2か所でネジ留めしたのですが、下のネジが外れて髄内釘が少しずれています」

「はい、え?」

 状況を把握していないような返事をしたが、整形外科部長は話を続けた。

「もう1度手術をしてネジを留め直すか、このままギプス固定をして様子をみるかです。ギプス固定では、約1ヶ月は左足を床に着けないで過ごしてもらいますし、骨折部も若干歪んでいるので、その後の歩行に影響が出るかも知れません。再手術を勧めますが、どうしますか?」

「何故、外れたのですか?」

 大浦さんが恐る恐る聞いた。

「恐らく、左脚に体重を掛け過ぎたのだと思います。リハビリのカルテを確認したら、25%の部分荷重を始めて松葉杖練習をした時に、左脚への荷重量が25%を超えてしまうので、松葉杖歩行は部分荷重が50%になってからと書いてあったので、その練習の時からずれ始めたのかもしれません」

「でも、その時に左脚に体重を載せる練習は5回ぐらいしかやっていませんよ」

 大浦さんが自分をかばってくれるように言い返した。

「1回でも超えてしまうと、ずれることはあります」

 整形外科部長はぴしゃりと切り捨てた。

「分かりました。少し考えさせて下さい」

「勿論です。ただし、骨折部が歪んだ状態でくっ付いてしまうと手術が出来なくなるので、再手術をするなら明後日の夕方を考えています。出来れば、今日中に決めてもらうと助かります」

「分かりました」

 そう返事をして、ナースステーションから出ようとしたが、車椅子の操作が上手く出来ていなかったので、自分が車椅子を押して部屋まで送った。その間、大浦さんは何も話さなかった。

 そのままリハビリ室に戻ろうかと思ったが、先生方に謝った方が良いと思い、ナースステーションに戻ると、若い武田先生と主治医の久本先生が謝っている声が聞こえた。ナースステーションには入らずに、壁に寄りかかって先生達の会話を少し聞いてみた。

「まぁ、起きてしまったものはしょうがない。患者には体重の掛け過ぎが原因だと通し、必ずここで手術するように」

「はい」

 武田先生と久本先生が返事をして、ナースステーションから出て行こうとした。まずいと思い、咄嗟に目の前のトイレに逃げ込んだ。トイレの中で、先生方の会話の意味を考えた。大浦さんの話をしているのは確かであったが、必ずここで手術をするようにと云う意味が分からなかった。自分に非があり、先生方に謝らなくてはいけないのだが、何か腑に落ちない点があったので、1度リハビリ室に戻ることにした。

 リハビリ室では、浅尾さんと金子さん、そして南大崎リハビリ病院から係長の小田切さんが来て、話し合いをしていた。

「すいませんでした」

 謝りながら、その輪の中に入っていくと、真っ先に金子さんが攻撃をしてきた。

「志村さん、やってしまいましたね」

 人のミスを喜ぶかのような言い方だった。

「50%の部分荷重をする前に、大浦さんの体重は102㎏なので50㎏になりますが、大丈夫かと久本先生に確認したのですが」

 言い訳をするように言うと、金子さんがさらに突っ込んできた。

「問題は荷重量ではなく、25%部分荷重の指示を守らず、掛け過ぎてしまった事です」

「荷重練習を5、6回実施したけど、少しオーバーしてしまい、これ以上練習しても荷重量を守るのは難しいだろうと判断し、それ以上はやりませんでした」

「そのオーバーした5、6回が、今、問題視されているのです。事前に、座った状態から両手で椅子の座面を押して、お尻を持ち上げるプッシュアップ運動をしっかりやって腕の力をつけていれば、もっと荷重コントロールが出来て、荷重オーバーする事は無かったかも知れないじゃないですか。それに、荷重コントロールが苦手だと、50%部分荷重で松葉杖歩行になったみたいだけど、その時も荷重量がオーバーしていた可能性もありますよ」

「それはないです。逆に、体重が載らないくらいでしたから」

「志村さんはそう思っているかも知れないですが、第3者がこのカルテを見たら、掛け過ぎていたと思いますよ」

 金子さんの攻撃が止まらなくなった所で、浅尾さんが声を出した。

「部長の阿部先生が、志村君には当分の間、整形外科患者様を担当する時は、先輩の付き添いを付けるように言ってきたけど、私達にそんな余裕はないから、申し訳ないけど南大崎リハビリ病院に戻ってもらうことになるかも知れません」

「わかりました」

 不満は隠せなかった。

「まぁ、整形外科以外の患者様もいるから、ここに残って、整形外科以外の患者様を担当してもらうか、リハビリ病院に戻るかは、明日、田辺先生と話して決めるから、明日は今まで通り、1人でやって下さい。今回の件は、志村さんだけが悪い訳ではないけど、患者様に実害が出ている以上、誰かが責任を取らなくてはならないから」

 係長の小田切さんがフォローするかのように言い、リハビリ病院に戻って行った。確かに、金子さんが言うように、手術後から腕のトレーニングをしていれば、こんな事態にはならなかったかも知れない。しかし、25%部分荷重の時、25%を何回か超えてしまったが、その翌週には50%部分荷重になっている。そんな1週間の間で、髄内釘の耐久性が上がるのか疑問があった。そもそも、少し掛け過ぎたくらいでネジが外れるような固定力が弱いものなのか、納得がいかない部分が多かったが、自分が責任を取らなくてはならない状況は変わりそうになかった。

 他の仕事に手が付かなかったので、早めに帰宅しようとリハビリ室を出ると、誰もいなくなった診察室前の待合で、車椅子に乗った大浦さんが携帯電話で話をしていた。少し様子を見ていると、1分程で電話を切り、大きなため息をし、そのまま固まって動かなくなった。

「大浦さん、本当にすいませんでした。自分がもう少し腕のトレーニングを勧めていれば、左脚に体重を掛け過ぎる事は無かったと思います」

「志村さん。さっき、久本先生に再手術をお願いしてきました。久本先生は、リハビリの指導に問題があったと、志村さんに責任があると言っていたけど、俺はそうは思わないんだよね。だから、そんなに掛け過ぎた覚えは無いって言ったら、君が太り過ぎなのも原因だって言われたよ。本当に体重の掛け過ぎが原因なの?そんなに髄内釘って弱いものなの?それを知っていたら、体重を掛けようと努力はしなかったのに」

「自分には分かりません。先生が言う事が全てですから」

「何でも知っている志村さんでも分からないのですか?」

「すいません。自分が手術をしている訳ではないので、大浦さんの左脚の詳しい状態は分かりません」

 そう言うと、大浦さんは無言で部屋に戻って行った。


 明日も普通に仕事だが、お酒を飲みたくなったので、帰りに自宅近くのメロディーと云うスナックに行った。きっと、自分は暗い顔をしているだろうと思ったので、最上の笑顔で陽気に店に入った。

「こんばんは、いいですか?」

「いらっしゃい、あらあらどうした?何か嫌な事でもあったかい?」

 自分の作り笑いを無視するかのように言ってきた。

「うわぁん、何で分かったんですか」

 無く真似をしながら、奥のカウンターに崩れるように座った。

「人はオーラって云うのを持っているのよ。嬉しい事も悲しい事も、顔にではなく、オーラに出るのよ。で、何があったの?」

 そう言いながら、いつものバーボン水割りを作り始めてくれた。

「自分、病院をクビになるかも知れません」

「何やったの?」

「自分は自分の仕事をしたまでです。それで罪を着せられたのです」

「真相が分かっているなら、言えば良いじゃない」

「いや、分かってはいません。分かったとしても、言えないですよ。相手は医者ですから」

 バーボンを飲みながら、大浦さんとの経緯を話した。

「それは災難ね。明らかな原因を調査しないで、少しでも可能性がありそうな事の責任にして。まぁ、大企業ってのは、都合が悪い事は隠そうとする所だから」

「そう何ですか?」

「これはお客さんの話しだけど、その方の母親が膵臓がんになって、分かった時には余命半年と言われたけど、膵臓がんの外科治療の権威がいる病院を紹介してもらい、そこで手術をしてもらったの。普通なら、手術中か手術直後には亡くなってしまうような手術なのに、術後の経過も良く、さらに部分切除で済んだので、毎日のインシュリン投与の必要もなくなり、2ヶ月後には家に帰れる状態になったみたい。そして、1人暮らしは心配だからとお客さんの家に引き取って、約20年ぶりに母親と同居を再開したの。その後も順調に回復して、3ヶ月に1度の定期検診にも1人で行けるようになってね。手術後は若い先生が診察をしてくれたみたいだけど、2年目の定期検診を境にお母様の体調が少し悪くなり、通院の間隔が狭くって、術後2年半で再入院、その1ヶ月後にはこの世を去ったのよ。死因は糖尿病が悪化しての心不全となっていたけど、急に体調が悪くなったのが気になって、たまに飲みに来てくれる内科医のお客さんに聞いてみたら、もしかしたら、抗がん剤を使い始めたかも知れないってなったの。亡くなったお母様は、手術前から抗がん剤治療は望んでいない事を主治医に話していたから、それは無いだろうと思ったけど、一応、病院に問い合わせてカルテを見せてもらうと、やはり術後2年目の診察の時から抗がん剤を使い始めていたの。そして、院長直々に抗議したら、手術した執刀医ではなく、術後から担当になった若い先生を呼んでくれて説明をしてもらったみたい。すると、手術直後から膵臓の残した部分に転移が見つかったが、再度手術をしてもしなくても1年持つかどうかだったので、これ以上患者様の負担を掛けない為にも説明しなかったと。しかし、2年経っても、そのガンが大きくなっていないどころか、若干小さくなっていたので、もしかしたらまだ寿命が伸び、当院の膵臓がん5年生存率が上がると思って抗がん剤を使い始めたと」

「転位していた事を黙っていたと云う事ですか?」

「当時は、ガンの告知は患者様や家族への心理的なストレスを考慮して、主治医の判断で行う事になっていたから、言わなかった事は罪にはならないみたい。無断で抗がん剤を使ったことに関しては謝罪をしてくれたようだけど、それが直接的な死因とはなっていないと」

「それで、そのお客さんは納得されたのですか?」

「いいえ、内科医のお客さんにそれを伝えたら、抗がん剤が体に与えた影響は大きいと言ってくれたので、息子さんは厚生労働省に手紙を書いたの。そしたら、厚生省から返事が来て、事実は確認しました、病院へは厳重注意の処分としますと、書いてあったみたい」

「それだけですか?」

「そう。それで、弁護士のお客さんにも相談して裁判が出来るか聞いたら、日本の医師は医師法に守られているから、裁判で勝つのは難しいと。元々、余命数ヶ月の状態が手術のおかげで3年近くもインシュリン注射をせずに、自立した生活を送れたと云う事実の方が有利だと言われ諦めていたわ。結果的には、3年弱だったけど、母親と一緒に暮らし、最後に親孝行が出来たのも、先生方のおかげだったのだと、最後には感謝もしていたわ。」

「では、その病院は厚生省から注意を受けただけって事ですか?」

「そうよ。ただ、抗がん剤を使ったのは、その若い先生の独断で決めたと云う事で、責任を取る形で病院を退職したみたい。果たして本当に、その先生の意志で抗がん剤を使ったのかは分からないけどね。何年かして、その先生は外科部長として病院に呼び戻され、今では副院長になっているわよ。やっぱり、組織で働いている以上、その組織の事を1番に考えて行動を取っている方が、本人にも組織にも良いって事ね。その若い先生も、濡れ衣を着せられる形で辞めたかも知れないけど、他の病院で頑張って経験を積んで、偉くなって戻って来たって事よね」

いつの間にかママもバーボンの水割りを作り、飲みながら話してくれた。

「自分の事よりも、会社の事を1番に考えるのですね。でも、その会社が間違った事をしていたらどうするのですか?」

「それは、その会社から逃げるか、自分が上の立場になって、不正を正すかだわね」

「病院で理学療法士が上に立つのは無理ですね」

「志村君は諦めも早いわね。まぁ、あなたなら何処に行っても自分の仕事をしっかり出来るわよ」

「それにしても、このスナックには凄いお客さんが多いですね、お医者さんが多いし、弁護士さんも来るんですね」

「優秀な理学療法士さんも来るわよ」

「他にも、理学療法士が来るのですか?」

 びっくりして聞いてみた。

「今、来ているわよ」

 笑いながら答えられた。

「クビになりそうな人間に、優秀だなんて笑えないですよ」

 理学療法士であることに、うんざりしたように答えた。

 この日は、水割りを3杯飲んで帰った。


 翌朝、早めに出勤すると、すでに浅尾さんと小田切さんが、院長室で田辺先生を交えて話し合いをしていた。8時前に浅尾さんと小田切さんが出てきて、来週から自分と、南大崎リハビリ病院に残っていた同期の稲本さんとが交代する事を知らされた。そして、残り3日の内に引き継ぎをするように言われた。

 この日の朝礼で、この緊急の人事異動が発表された。

「志村さんが戻ってきてくれて本当に嬉しいです。又、色々教えて下さい」

1年目の後輩が言ってくれたが、自分の理学療法士人生に汚点が付いた事は確かだ。整形外科の勉強をたくさんして、スポーツの場で働くと云う夢も、もはやどうでも良くなってきた。この病院で働き続ける意欲も無くなってきてしまった。

 明日は、大浦さんの再手術の日、そして翌土曜日からは主任の浅尾さんがリハビリの担当になる。明日中には、現在担当している患者様のリハビリ状況を簡潔にまとめた、申し送り書を作らなくてはならない。これだけは、患者様の為にもしっかりやるつもりだ。しかし、この日は仕事に打ち込む事が出来ず、定時で自宅に帰り、インターネットで理学療法士の求人サイトを見ることにした。すると、自宅の高円寺からは少し遠いが、中央線沿線のリハビリ病院で募集が出ていた。

 業務内容は、南大崎リハビリ病院と大きく変わらないと思うが、その病院は海外進出を目指しており、3年後にはモンゴルにリハビリ病院をオープンさせる予定と書いてあった。自分は高校を卒業してから、ニュージーランドに渡り、スポーツトレーナーの学校に通ってから働いていた経験があるので、モンゴルは英語圏ではないが、語学が生かされるかも知れないと興味が湧いてきた。翌日の昼休みに病院に電話して、来週の木曜日に見学させて頂くことになった。


 明日、稲本さんと患者様の引き継ぎを行わなくてはいけないので、申し送り書を完成させる為に残業をしていたら田辺先生がリハビリ室に入ってきた。

「志村さん、良かった。ちょっと良いですか?」

 そのまま院長室に連れて行かれた。中に入ると、見たことのない男性が院長の椅子に座っていた。

「こちら、大学の同期で整形外科講師をしている松島先生です」

 院長が紹介をしてくれた。

「理学療法士の志村と申します」

「どうもどうも、座って下さい。田辺先生から見て欲しいレントゲンがあるって頼まれたので来ました。ナベちゃん、どれ?」

 田辺先生をあだ名で呼ぶと、田辺先生が電子カルテから大浦さんのレントゲン写真を出した。

「はいはい、これね。皮質骨スクリューが外れたのね。手術直後のレントゲンは?」

 松島先生の言う通りに田辺先生がレントゲンを出した。

「あらら、これはちゃんと留まってないですね。大腿骨のような縦長の長管骨は、表面を硬い皮質骨で覆われ、内側はスポンジ状の海綿骨で出来ているのは知っていますよね?大腿骨中央部の管の部分は、皮質骨が厚いので、スクリューを貫通させればしっかり固定されるけど、大腿骨の両端は皮質骨が薄く、殆んど海綿骨で出来ているから、スクリューの固定性が得られにくいのですよ。そういう場合は、海綿骨スクリューと呼ばれる、ネジの渦の部分が大きめに作られている物を使うと、反対側に貫通しなくても海綿骨の部分で固定性が得られます。この患者様のレントゲンを見てみると、皮質骨スクリューを使っているけど、反対側に貫通させるどころか、スクリューの先端が皮質骨に少し掛かった所で止まっているよね。まぁ、これは難しいんですよ。手術前にレントゲンから大腿骨の太さを測り、スクリューの長さを予測して準備するし、手術中は大腿骨の反対側は見えないから、スクリューが貫通したかどうかは術者の手応えって事になるからね。それにしても、この留め方では、遅かれ早かれ外れるよ。執刀は若い先生?」

「そう。整形5年目の大学からローテーションで来ている先生で、助手は僕らの1期下」

 田辺先生が答えた。どうやら執刀したのは武田先生で、久本先生は助手として指導していたようだ。

「もし、今回の手術で、髄内釘が外れないようにするには、どうすれば良かったのですか?」

 勇気を持って聞いてみた。

「術後1ヶ月は荷重しないで、2ヶ月目から部分荷重にして、術後3ヶ月間は25%部分荷重にしていれば、外れなかったかも知れないね。でも、体重が100㎏を超えているのでしょ?外れるよ。部分荷重の時に外れたから君のせいになったけど、全荷重で外れたら、手術か患者様の体重のせいにするしかないから、今回は君の運が悪かったって事だね」

 自分のせいにされて悔しいと云うかは、大浦さんの髄内釘が外れたのが、自分だけのせいでは無かったと知り、なぜか目に涙が溜まり、1粒こぼれてしまった。

「なべちゃん、これ大学の資料に使っていい?スクリューをしっかり入れないと、こうなると云う例に使えるから」

「だめだめ、この情報を松さんに見せた事だけでも、ばれたら大変なんだから」

「そっか、しょうがないか」

 田辺先生と松島先生にお礼を言い、院長室を出た。


 翌朝、院長室に行き昨日のお礼を言った。

「昨日は、自分の為に本当にありがとうございました。こんなにして頂いたのに、聞くのは大変失礼かと思うのですが、なぜ自分に教えて頂いたのですか?」

「私達、病院の経営に関わる人間にとって、良い人材を探すのは大切な事ですが、その人材を才能あふれる人才(じんざい)に育て、そして人財にする事がとても重要なのです。それは病院の存続に大きく関わる事でもあります。志村さんはすでに私達にとって人才であり、人財になるだけの素質があります。そんな人を、こんな所で見殺しにする訳にはいきませんから。それに、私はこの病院の院長であり、リハビリ科の部長でもあるので、リハビリ科を守るのが役目です。しかし、志村さんの異動を止める事は出来ませんでした。ただ、志村さんはこんな事で負ける人ではありませんよね?」

「はい、リハビリ中に左脚に体重を掛け過ぎてスクリューが外れたのですから、自分が処分を受けるのが筋だと思っています。しかし、田辺先生のおかげで、どこにいても頑張れる自信が付きました。昨日までは、この病院を辞めようと思い、理学療法士の募集が出ていた多摩市のリハビリ病院に電話して、来週の木曜日に見学に行くアポイントメントを取ってしまったのですが、止めます。」

「え、何て病院?」

 驚いたように聞いてきたので病院名を言うと、田辺先生が大きな声で笑い出した。

「そこは、私の大先輩の徳川先生が理事長をやっている病院ですよ。いい歳をしてモンゴルにリハビリ病院を建てようとしているから、すごい精力の持ち主ですよね」

「そうです。海外進出を視野に入れていると書いてありました」

「でも、志村さんだったら、徳川先生の下で働いた方が、もっと才能を発揮出来るかもね。見学に行ってみたら?」

「え、見捨てるんですか?」

「ここに残るか、移るかは志村さんが決める事ですから。ただ、あの先生と話をするだけでも勉強になりますよ」

「そんな、理学療法士の見学ごときに、大病院の理事長様が相手をする訳がないですよ」

 吐き捨てるように言うと、何かをたくらんでいるかのような、含み笑いをしていた。

「私が連絡しておきます」

「いや、結構です。ちょっと見て帰って来ます」

「それじゃあ意味が無いですよ。何でも経験ですよ」

 田辺先生としては、自分の先輩の病院に行ってくれる事が嬉しそうだったので、お願いする事にした。

「では、宜しくお願いします」

「志村さん、あなたはどこに居ようと私達の人才です。これからの医療界は横の繋がりがとても大切です。それだけは覚えておいて下さい」

 田辺先生の言葉をしっかりと胸に刻み、一礼して院長室を出た。田辺先生がせっかく言ってくれたので、見学だけは行く事にした。


 この日が、南大崎病院での勤務最終日、全体朝礼が終わってから、まずは南大崎リハビリ病院の稲本さんの患者様に担当変更の挨拶を30分程かけて行い、その後、2人で南大崎病院に向かった。南大崎病院に着いたのは9時を少し回った所で、この時間のリハビリ室は患者様で賑やかになっているのだが、この日はまだ患者様が誰も来ていなく、何やら慌ただしい雰囲気であった。金子さんにどうしたのか聞くと、今日からリハビリ再開の大浦さんが、担当が変わったことに怒っていて、先生達と浅尾さんが話し合っている最中だと教えてくれた。

「ちょっと自分が行って、説得してきます」

 リハビリ室を出ようとすると、金子さんが止めてきた。

「ちょっと待った。浅尾さんが、志村さんが来たらリハビリ室で待つように伝えてと言っていたので、もう少し待って下さい」

 そして10分ほどしてから、浅尾さんがリハビリ室に戻ってきた。

「志村さん、稲本さん、ちょうど良かった。今回の人事異動は白紙」

 格好よく言い切った。驚きの声を上げる前に、稲本さんが声を上げた。

「ちょっと、何すか」

 明らかに不満をぶつけてきた。それも無理はない。今回の件で、関係の無い稲本さんが巻き込まれていたのだ。

「まぁまぁ、稲本さん。今度、看護師の小池さんを交えた合コンをセッティングしますから」

 浅尾さんが、稲本さんお気に入りの看護師を出しに使ったが、そんな事で納得する筈がない。

「絶対ですよ」

 簡単に納得した。そして、南大崎リハビリ病院に戻って行った。

「志村君、ちょっとこれを見て」

 浅尾さんが大浦さんの1回目と2回目の手術後のレントゲン写真を見せてきた。

「この2つのレントゲンの違いが分かる?」

 恐らく昨日までの自分だったら分からなかったと思うが、松島先生に教えて頂いていたので、浅尾さんが何を言いたいのかすぐに分かった。

「下のスクリューが2回目の手術では貫通しています」

 無言で頷いた。

「それを部長の阿部先生に指摘したら、あくまでも大浦さんには体重の掛け過ぎが原因だと云う事を通すなら、志村君を担当に戻しても良いって言ってきたの。まぁ、当の大浦さんが希望している事だからしょうがないけどね。さっき、田辺先生と小田切さんに連絡したら、快く異動の取り消しを認めてくれたけど、どうする?」

「リハビリ時に左脚に体重を掛け過ぎた事で、スクリューが外れたのは事実です」

「では、今日から大浦さんの担当をお願いします」

 浅尾さんが笑顔で自分の肩を叩いてくれた。

「良かったね、だから大丈夫だって言ったでしょ」

 隣にいた金子さんも喜んで言ってくれたが、よく考えてみると、そんな事は一言も言ってない。むしろ、止めを刺そうとしていた。そう突っ込むと、とぼけた事を言って患者様の迎えに行ってしまった。


 週が変わった木曜日、予定していた多摩市のリハビリ病院に見学に向かった。高円寺駅から電車で約40分、そこからバスで20分弱の場所にあった。バスの本数が少なかったので、多少不便を感じたが、建物はとても大きく綺麗であった。11時前に着き、受付で見学に来た事を告げると、どこかに電話をして、5分程待つと白いケーシーを着た40代であろう女性が来てくれた。

「こんにちは、リハビリ科主任の斉藤です。遠い所を、お疲れ様でした」

「初めまして、志村と申します」

 そのままリハビリ室に案内してくれた。

 リハビリ室では、約10名の理学療法士がリハビリをしていた。患者様は、見ただけで殆んどの方が片麻痺や高次脳機能障害などの脳血管障害の患者様だと分かった。

「ここに来る患者様は、市内にある系列の脳神経外科中心の救急病院から来る方が多く、整形外科患者様は1割弱です。そう云う事もあって、ここでは、ヨーク法を取り入れた治療をしている理学療法士が多いですね、私もそうですけど。志村さんは、脳血管系の治療に興味があるのですか?」

「特別、片麻痺の治療に興味がある訳ではないのですが、ここは海外進出を考えていると書いてあったので、そこに興味を持ちまして」

「なるほどね。今も、理学療法士の1人がボランティアでメキシコの病院に行っているけど、実際、海外にリハビリ病院を建てるのは難しいと思いますよ」

案外消極的であった。一通りリハビリ室内を案内してもらってから、齊藤さんのPHSが鳴った。

「お疲れ様です。はい、今リハビリ室にいます。はい、失礼します」

 PHSを切った。

「これから理事長室に案内します」

 そして理事長室に向かい2人で歩き始めた。

 齊藤さんがノックをしてから部屋に入ると、中央の椅子に、白衣を着た白髪のやさしそうな先生が座っていた。

「齊藤君、ありがとう」

「失礼します」

 そう言うと、齊藤さんは部屋を出て行ってしまった。

「志村さんだっけ?初めまして、徳川です」

「あ、志村と申します。本日はお忙しい中、お時間を頂きありがとうございました」

「いえいえ、どうぞお掛け下さい」

 来客用のソファを勧め、徳川先生も椅子から向かいのソファに移った。

「先日、田辺先生から電話をもらって、ウチの優秀な理学療法士が就職見学に行くので、医療について話してくれって言われてね、私はそんな偉そうな事を言える立場ではないけど、田辺先生とは長く一緒に働いていたんでね」

「そうだったんですか」

「私は大学の教授選に負け、早い段階で大学の医局を辞めて、君が働いている病院に移ったのですよ。その時、研修医だった田辺先生がローテーションで来て、あまりにも手術のセンスが良かったから、研修が終わったら、ウチの病院に来るように誘って、それから10年くらいは一緒に働いたかな。彼は才能の塊で、助からないと思われる患者様の命も諦めずに手術で救う素晴らしい医者でしたよ。ただ、田辺先生は手術にしか興味が無く、その後の患者様の状態に関しては看護師やリハビリに任せっきりで。ある時、自分が救った患者様が植物状態から回復しないで、家族の方達が苦しそうに介護している姿を見て、本当はあのまま人生を終わらせてあげた方が良かったのではないかと考えるようになったのだよ。そんな時、植物状態となっていた患者様を懸命にリハビリをして、少しずつだけど回復していく姿を見て、これからは手術だけでなく、その後の治療をしてくれる理学療法士や作業療法士を育てていかないといけないと思うようになったみたいだね」

「だから田辺先生は、こんな自分の為にここまでしてくれるのですね」

「志村さんの一連の話しは田辺先生から聞きました。今は訴訟の時代ですから、医師も自分の身を守る事で精一杯なんですよ。だから、あなた達も自分の身は自分で守らないといけないのです」

「でも、病院では医師が言う事が絶対ですから」

「そうかも知れないね。でも、もし君に医者と同じくらいの知識があったら防げたのではないかな?私もそうですが、田辺先生は、あなた達に医者を超えるくらいの知識を持ってもらいたいと思っているのですよ。そうでないと、全ての患者様を救えないですからね」

「全ての患者様を救うのですか?」

「あ、失礼。これは私が田辺先生に教えてきた事なんですが、医者になったからには、他では治療を断られるような患者様の最後の砦となるように、全ての患者様を救いなさいと言ってきたのです。私は度が過ぎて、モンゴルや中国に、日本のリハビリ技術を提供できるような病院を建てようとしていますが、中々、政府の協力が得られなくてね。でも、必ず実現させてみせます。その時に又来てください」

 このままこの病院にスカウトされるのかと、少し期待をしていたが、そう甘くはなかった。

「今は、田辺先生にたくさん教えてもらいなさい。あの田辺先生が理学療法士さん達と肩を並べて働いているなんて、昔では考えられませんから。知識と技術が無い人間を鼻で笑うような、生意気な医者だったのですよ」

 大きく笑いながら言った。

「さぁ行きなさい。今、君が居るべき所へ」

 そう言って、送り出してくれた。

 帰りに、リハビリ室に寄って齊藤さんにお礼を言い、今回は就職を希望しない事を伝えた。

「そっか、残念だわ。でも偉いわね、2年目なのに自分の将来をしっかり考えて、私みたいにずるずるとここに20年近く働いているのとは大違いね。頑張ってね」

そう励ましてくれた。


 翌朝、院長室に昨日のお礼に行った。

「どうでした、将軍様?」

「え、ああ、徳川先生ですね。とても勉強になりました。そして、もう少し田辺先生の下で働きなさいと言われました」

「やっぱりね。私も徳川先生の病院に移りたいと相談したことがあったのですが、君はもう少し1人で勉強しなさいと、突っぱね返されました。才能が無いと思われたのでしょうね」

「徳川先生が、田辺先生は才能の塊だって言っていましたよ」

「嘘、嘘」

 真剣に手を横に振りながら答えた。

「あと、生意気だったと」

「あ、それは本当です」

 笑いながら話してくれた。

「先生、本当にありがとうございました。先生のおかげで、大きな目標で出来ました」

「何ですか?」

「自分が関わる全ての患者様を救う事です」

 そう言うと、大きく頷いてくれた。

「さぁ、今日も患者様が待っています。頑張っていきましょう」


 この日の帰りも、自宅近くのメロディーに寄った。別に飲みたい気分では無かったが、今の病院を続ける事を、ママに報告したかったからだ。ただ、嬉しい事が悟られるのが嫌だったので、精一杯の悲しい顔と、作り笑いでお店に入った。

「こんばんは、いいですか?」

「いらっしゃい、どうぞ」

 カウンター奥のいつもの席におしぼりを置いてくれた。そして、大きなため息を1つついた。

「バーボンを水割りで」

 注文をしたが、返事もしないで自分の顔を見ながらニヤニヤしていた。

「あんた、心の底から喜んでいるオーラが溢れているわよ」

「うわぁん、何で分かったんですか」

 泣く真似をしながら頭をカウンターに落とした。

「だから、人にはオーラがあるって言ったでしょ。もう下手な芝居は止めなさい」

 完全に悟られていた。

「その様子だと、今の病院を続けるのね?」

「はい、やっぱり良い上司に恵まれた職場で働くのが1番ですね」

 今までの事を報告した。

「素晴らしいわ、その田辺先生も周りの人達も、みんなあなたに良い影響を与えてくれているのね」

「はい、初めて理学療法士になって良かったと思いました」

「あなたは英語が得意だから分かると思うけど、コーリングの意味分かる?」

「呼んでいるとか、呼ぶ声とか」

「お客さんから聞いたんだけど、天職って意味もあるみたい。その人は大学で統計学を教えているんだけど、ティーチャー イズ マイ コーリング、なんて言ってたわ」

「ちょっと知らなかったです」

「何で天職か聞いたら、統計学を教える事は、神様が私に与えた試練だからだと言っていたわ。私達がよく目にするデータは、殆んど統計学で解析って作業をして出しているみたい。出生率や、ガンの5年生存率なんかも統計で出していて、経済の発展には統計は不可欠なんだって。ここの営業時間も、その人に、時間別の客の人数、注文数、光熱費なんかを教えたら、営業時間は17時から23時までが良いと教えてくれたので、そうしているの。統計は数字だけだけど、企業で働くには社会情勢や心理学も学ばないと、1人前の統計学士に成れないし、成功する人も多くないみたい。だから一人前の統計学士を育てる為に毎日が試練で、仕事が楽しいと感じたこともなければ、やりがいを感じる程自信もないけど、自分の生徒が活躍している話を聞くと、この仕事に感謝し、これが天職なんだって感じるみたい。今のあなたみたいね」

「まぁ、僕はしっかり乗り越えましたけどね」

「1つの試練を乗り越えても、すぐに違う試練がやってくるわよ。だって、理学療法士はあなたにとってコーリングですからね」

「コーリング、天職、試練、もう何でも来いです」

今夜は水割りを3杯飲んで帰った。

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