第7話 盗難事件発生

 4月になり、自分達にも4人の後輩が出来た。理学療法士2年目として、先輩から学びながら後輩を教える事もしなくてはいけない。教えると云っても、技術的なことはスーパーバイザーが教えるので、我々は掃除の仕方やカンファレンスの準備など、いわゆる雑務を教える役目であった。

 昼食の弁当を食堂まで取りに行くのも新人の仕事であった。当院では、外部に頼んでいる仕出し弁当が食堂に届くので、昼休みが始まり次第リハビリ科の人数分取りに行き、食べ終わったら容器を食堂に戻すのである。食堂で食べることも出来るが、食堂は椅子が10個しかないほど狭く、20人近いリハビリ科スタッフが一斉に食堂に行っても十分なスペースが無いので、リハビリ科スタッフはリハビリ室で食べるようにしている。看護師も同様に、自分達の控室で食べている。食堂を使っているのは、主に自分達の控室を持っていない介護士の方達であった。

 当院の介護士はウエルネスと呼ばれ、患者様のオムツ交換、着替え、シーツ交換、配膳、入浴、検査やリハビリへの送迎など、患者様の入院生活を全面的にサポートしている。

 自分も、新人の時はリハビリ室で弁当を食べていたが、2年目になってからは休み時間も仕事をして、昼休みが終わる10分前に急いで弁当を食べていたので、新人に迷惑が掛からないように食堂で食べるようにしていた。食堂では、食事以外でもウエルネス課の人達の休憩所になっていたので、患者様の病棟での生活を聞く為にも、昼休みに食堂に行く事はとても重要であった。

 ウエルネス課の中でも、特によく話をするようになったのが、自分より7歳年上の金杉さんだ。金杉さんは、大学の建築科を卒業し、大手建設会社で現場監督として働いていた。現場の仕事は夜中が中心で、昼間も仕事をすることがあるため自宅に帰れない日も多く、それに加え出張も多かったので、奥様の出産を機に介護士に転職した方だ。

 介護の仕事も夜勤があり給料も下がってしまったが、それでも時間通りに帰宅でき、育児に協力が出来るこの仕事をとても気に入っているようだ。金杉さんとの会話は、殆んど金杉さんの娘さんの話しだった。自分はまだ独身で、結婚を考えている人も居なかったが、金杉さんの育児話しにはとても興味があった。今日も食堂に行くと、金杉さんが携帯電話を見ながら弁当を食べていた。

「何をニヤニヤして見ているのですか?」

 聞きながら金杉さんの横に座った。

「娘の写真だよ。ほら、アンパンマンの格好をしているでしょ。最近は帰ると毎日バイキンマンをやらされているよ」

 嬉しそうに話してきた。

「大変ですね。仕事で疲れて、帰っても疲れることをして」

「志村君、これが全然疲れないのだよ。幾ら仕事で疲れても、家に帰って子供の顔を見るだけで、疲れが吹っ飛んでしまうよ。志村君も早く結婚して、子供作りなさいよ」

「そうは言っても、結婚してくれる人が居ないですからね」

「選ぶなら若い娘を選びなよ。年上過ぎてもだめだから。志村君がスナックのママに惚れ込んでいるって噂だし」

「え、なぜそれを金杉さんが知っている。そもそも、そんなに行っていないし、惚れ込んでもいないですから」

「はいはい。それより、506号室の田中さんの担当は志村君だっけ?」

「いや、違いますけど、どうしました?」

「田中さんの小銭入れが無くなったみたいだけど、もしリハビリ室にあったら教えてね?」

「分かりました。係長にも伝えておきます」


 ウエルネス課の仕事は、肉体的・精神的に厳しい割に待遇が良くない為、常に人手不足の状態であった。そしてその大変さを理解している多職種も多くはなかった。オムツ交換や着替えは看護師も手伝ってはいるが、患者様の便や尿がオムツをはみ出し布団やシーツを汚していると、ウエルネス課のスタッフと交代し、その後始末をさせられる。リハビリ科でも、時間通りに患者様がリハビリ室に来ないと、病棟に電話をして早く連れてくるように催促するスタッフもいた。

 介護職は、国家資格である介護福祉士の資格を持っているスタッフもいるが、基本的には資格がなくても仕事は出来る。その為、病院の中では常に弱い立場におかれ、本来ならば患者様の入院生活の質を向上させる為に作られたウエルネス課だが、実際は他の職種の仕事が円滑に進むようにサポートする事が最優先になっていた。金杉さんも、1回りも年が下の看護師に指示を受けながら、文句の1つも言わずに働いていた。


 そんなある日の昼休み、いつもと同じように10分前に急いで食堂に行き、金杉さんの横に座った。

「聞いた?今度は509号室の藤谷さんのお金が無くなったみたい」

「またですか。物騒な世の中になりましたね」

「おいおい、そんな事も言っていられなくなるぞ。藤谷さんの娘さんが、警察に届け出るって言っているから、スタッフへの事情聴取もあるかも知れないぞ」

「勘弁して下さいよ。この忙しい時に」

 とは言ったものの、自分には心当たりが無かったので全く興味のない話しであった。


 藤谷さんの娘さんが警察に被害届を出した事で、制服の警察官が1人当院に来た。しかし、盗難があった時に担当していた看護師と介護士に事情を聴くだけで、まずは病院スタッフで捜索し、出てこなかったら再度連絡するようにと言い帰っていった。これまでの2回の紛失事件は日中に起きており、もし盗難事件だったとしても、日中は病院のスタッフ以外にも、患者様に面会に来られる方が1日50人近くはいるので、犯人を特定するのも容易ではない。病院が古いだけに、防犯カメラも入り口に1台設置してあるだけで、病院内の様子を確認することも出来ない。

 病院側としては、入院している患者様か面会者が盗んだのではないかと考えていたようだが、警察が来た2日後の夜中に、3回目の現金紛失事件が起きた。被害に遭ったのは、柴田さんと云う脳梗塞で入院されていた50代の女性であった。顕著な運動麻痺、高次脳機能障害と云った後遺症は無いものの、歩行時のめまいが強い為、当院に入院している方であった。夕食後に談話室で缶コーヒーを買い、翌朝も缶コーヒーを買おうとした時に、財布が無い事に気付いたようだ。

 当院の面会時間は19時までとなっている為、盗んだ人がいるとしたら、19時以降に病院にいるスタッフか患者様となる。さすがに病院としても、再発防止の為に委員会を設置する事態となった。委員会と云っても、メンバーは院長と看護部長、そして事務長の3人であった。委員会で話し合った結果、患者様に1000円以上の現金をベッド周りに置かないようにしてもらい、それ以上の現金と貴重品は、当分の間はナースステーションで預かる事に決まった。要するに物理的に取れる物を無くしていく方針になったのだ。

 しかし事務長が、今までに起きた3件の盗難事件で、全ての時間でシフトに入っていた人物が居ることに気付いた。約100人弱の患者様を、日中は看護師12人、介護士12人のシフトだが、夜勤は看護師4人、介護士4人で勤務している。夜中に盗難が遭った日の8人が、他の盗難が起きた日に勤務していないかを確認したところ、介護士2人が該当した。そして、その内の1人が金杉さんだった。委員会で2人の事情聴取をする事は無かったが、ウエルネス課の課長に、当分の間はその2人を夜勤のシフトから外すように通達があった。これは明らかに、疑われているのと同じことだった。

 

 病院としては、無くなった財布を探すよりも、再発防止に力を入れていた為、盗難事件が起きた3日全てに出勤していた、金杉さんと吉野さんと云う40代の女性の行動が、何となく周りから監視されるようになっていた。リハビリ科や看護部のスタッフも、口には出さないが2人を疑いの目で見ていた人は少なくなかった。

 自分も、金杉さんに限っては、そんな行為は絶対にしないと信じていたが、吉野さんに関しては、犯人ではないと云う確信は無かった。

 

 3件目の盗難事件が発生してから5日後、いつもより早く昼食を食べに食堂に行くと、金杉さんが居なかった。そこで近くにいたウエルネス課のスタッフに聞いてみた。

「金杉さんはまだ休憩ではないですか?」

「さあね」

 金杉さんへの苛立ちを抑えるように答えてきた。ウエルネス課は常に人手不足な状態で、基本的に看護師や介護士が夜勤に入ったら、夜勤を明けた日と翌日は休みになるのだが、金杉さんと吉野さんが夜勤から外れたことで、夜勤を開けた翌日に出勤しなくてはならないスタッフも出てきているので、2人への不満は大きかった。

 心配になったので、弁当は食べずに、金杉さんを探しにまずは10階の談話室に向かった。すると、談話室のテレビで、お昼のバラエティー番組を見ながらお弁当を食べている金杉さんが居た。

「落ち込んでいるかと思ったけど、元気そうで良かったです」

 声を掛けながら向かいの席に座った。

「本当にいい迷惑だよ」

「でも、夜勤が無いから良かったじゃないですか」

「そんな事ないよ。日勤のように入浴や、時間にうるさいリハビリの送迎がないから俺は好きなんだけどね」

「今入院している患者様全員の持ち物検査をしたら、絶対に出てくると思いますよ」

「そんな事をしたら、大問題だよ」

「それにしてもひどいですよね。完全に病院全体が金杉さんと吉野さんを疑っていますよ」

「まあね。吉野さんは退職しようかと考えているみたいだよ」

「今辞めたら、それこそ疑いが強まってしまいますよ」

「それはそうだけど、やっぱり厳しいよ。建設会社で現場監督をしていた時は、職人さん達が怖くてね、文句があるなら辞めてやるって言われて、もう毎日職人さんのご機嫌取りをしていたよ。でも病院に就職して、介護士と云う立場がこれだけ低いのかって驚いているよ。毎日病院の為に、患者様の入浴やオムツの交換をしているけど、盗難事件で真っ先に自分達が疑われてしまえば、出る涙も出なくなるよ」

「金杉さんは、何で建設会社を辞めて介護士になったのですか?」

「妻が看護師で、都内で働いて勉強したいって言うし、自分の仕事は地方が多かったから、手ごろに正社員になれる介護士を選んだ訳よ。でも、この仕事を始めてみて分かったのだけど、介護士によって介護の質が違うんだよ。オムツ交換にしても、声掛けをしながらゆっくり行うスタッフもいれば、何も言わずにいきなり患者様を横に向けて強引に変えるスタッフもいる。仕事が出来る人はもっと認められて良いと思うけど、そういう世界ではないんだよね。志村君、千手観音って知っている?」

「聞いたことはあります」

「千の手を持つ観音様だけど、その千の手には1つ1つ意味があるのだよ。解釈によって多少異なるけど、人間が生まれてから死ぬまでに、人から差し伸べられる手の形みたい。抱っこされる手、背中をさすられる手、ご飯を食べさせてもらう手などがあるけど、オムツを変えてもらう手は2つあるそうなのよ。それは人生において、おむつを替えてもらう時は、赤ちゃんの時と、年を取ってからの2回あるって意味みたい。つまり、人間いくら地位が高く、お金があっても、最後には他人にオムツを替えて貰わなくてはならなくなるってこと。そう考えると質の良い介護を受けたいと誰もが思うでしょう。だから自分はそれを実行しようと思っているのよ。質の高い介護を目指している介護士達で会社を作って、病院や老人ホームに介護士を派遣していくんだ。稼げる仕事ではないけど、人から頼られる仕事をしたいからね」

「どんな仕事でも上を目指す事が大切ってことですか?」

「上を目指す訳ではないよ。今の世の中が必要としている事を、先立ってやっていくって事だよ」

「介護職は金杉さんにとって天職みたいですね」

 いまいち意味を理解していない天職と云う言葉を使ってみたが、金杉さんは首を横に振った。

「分からないよ。天職って、働くだけ働いて死ぬ間際に分かるのではないかな。結局は自己満足ってやつだと思うよ」

「死ぬまで働きたくはないですけどね」

 そう言って席を立った。

「ありがとね、志村君。心配してくれて」

「金杉さん、辞めないで下さいね」

「こんな事でへこたれていたら、起業なんて出来ないよ」

 強い気な意見を聞けたところで、昼食を食べずにリハビリ室に戻った。


 翌日の午前中、4件目の盗難事件が発生した。発見したのは5階を担当している看護師であった。510号室に入院している岩本さんと云う70代の男性が、508号室の他の患者様のクローゼットや、ベッド横のサイドテーブルを開けている所を看護師が発見し、どうしたのか聞くと、財布が無くなったから探しているとの事であった。新たな盗難事件が起きたのだと看護師はパニックになり、大慌てでナースステーションに行って看護師長に報告した。

「岩本さんでしょう。あの人は認知症があるから、自分のベッドの引き出し開けたら入っているんじゃない」

 そう云う事で、看護師長と看護師が岩本さんを連れて岩本さんの部屋に向かった。そして、サイドテーブルの引き出しを開けると、財布が3つ入っていた。

「あぁー」

看護師が叫ぶと、看護師長が続けて質問した。

「岩本さん、この財布はどうしたのですか」

「これは俺のだよ」

 財布の1つを指して言った。すると看護師長が、もう1つの財布を持ち上げて聞いた。

「じゃあ、これは誰のですか?」

「それは俺のだよ」

「じゃあ、これは?」

もう1つの財布も聞いた。

「それが俺のだよ」

「一体、どれが岩本さんの財布ですか?」

「分からないよ」


 どうやら、自分の財布が分からなくなり、他の患者様の部屋を探して目に入った財布を持ってきてしまったようだ。すぐに院長に連絡し、盗難に遭った患者様3人をナースステーションに呼んで確認してもらうと、3つの財布はそれぞれの患者様の物であった。認知機能が低下した患者様が、自分の財布を探している最中に、間違えて持ってきてしまった事を説明するよ、3人とも理解してくれ、警察に被害届けは出さない事で了承してくれた。実際に、岩本さんの財布はどこにあるのか、念の為、娘さんに連絡してみると、岩本さんには財布を持たせていないと云う事であった。

 これで、一連の盗難事件は解決し、夜勤を外されていた金杉さんと吉野さんも通常のシフトに戻ったが、病院の対応の悪さに愛想を尽かしたのか、吉野さんは翌月に退職していった。

 

 我が国は、技術の発展に伴い医療体制が医師を頂点としたピラミッド型の指示伝達体制から、チーム医療体制に変わってきた。従来は医師が出した指示を看護師や薬剤師が受け、それらを他の医療従事者に伝えていた。しかし、現在はそれぞれの専門職が独自に情報収集や検査をし、それらの情報をカンファレンスと云う形で共有して、より質の高い医療やケアの方針を決めている。つまり、上の人から言われた事をやっているのではなく、自分達の専門性を生かして積極的に患者様と接していかなくてはならない。

 しかし、その分、責任も付いてくる。自分がやった行為が患者様や他のスタッフに害になるような事があれば、それはやった人の責任になる。責任者や上司が一緒に謝ってくれても、警察沙汰になれば誰も守ってくれない。最近では、理学療法士や作業療法士が個人で入る保険がある。業務中の過失で、損害賠償を請求された際、一部負担してくれる内容だ。

 しかし、自分の身は自分で守るようにしていかなくてはならない。カルテを細かく書く事や、1人で無理をせず、危ないと思ったら協力を要請するなど、日ごろから気を付けることはもちろん、係長の小田切さんがいつも言っている事は、使った物は元の場所に戻し、足りなくなる前に補充し、壊れそうな物があったらすぐに修理に出す。これらの事が出来ない人間は患者様の小さな変化に気付かず、事故を起こすと。

 今回の盗難事件も、日ごろから患者様の状態や行動の変化に気を付けて、こまめに声掛けをしていれば防げた事件だったかも知れない。そして、そう云う事が出来てこそ、質の高い医療なのではないかと思った。

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