第6話 リハビリは患者様の人生を救う

 入職後3ヶ月で、リハビリ時のスーパーバイザーの監視が無くなり、それからさらに3ヶ月が経過した10月からは、リハビリカルテのチェックもなくなった。つまり完全に1人立ちすることになった。とは云うものの、南大崎リハビリ病院に入院される患者様の殆んどは、系列の南大崎病院から転院される方なので、患者様の状態をある程度把握してから、先輩が担当を割り当てる。その為、新人には難しい疾患が振られないようになっている。他院からの転院患者様に関しても、脊椎圧迫骨折や大腿骨頸部骨折など、新人でも経験のある疾患であっても先輩が担当することが多かった。

 10月に入ってすぐの金曜日に、明日入院される患者様が自分の新しい担当になることを告げられた。当院に入院が決まった患者様の情報は、入院の3日前にはファックスで送られてくるが、当院の患者様が急に退院した場合は入院の患者様も急に決まる。


 担当に決まった患者様は、橋本さん44歳男性、疾患名は中心性脊髄損傷。脊髄損傷とは、背骨の中にある脊髄神経が何らかの衝撃により傷がつき、麻痺や痺れなどの神経症状が出る疾患である。


私達人間は、身体を動かすのに脳からでた指令が、脊髄神経を介してそれぞれの部位に伝えられる事で可能となる。冷たい熱いなどの感覚も、脊髄神経を通り脳に伝えられる。


症状は、損傷した脊髄の高さにより変わってくる。背骨は上から頸椎、胸椎、腰椎、その下に仙骨と尾骨がある。

腰椎の高さの脊髄は主に下半身、胸椎レベルは体幹、頸椎は腕や内臓系の神経伝達の役割がある。損傷した部位より下位の神経も麻痺が生じるので、頸椎損傷では、腕、体幹、下半身に症状が出る事がある。

 中心性脊髄損傷とは、その名の通り、脊髄神経の中心部に近い場所での損傷である。脊髄神経は、直径が1~2センチあり、脳からの指令を伝達する部位によって、神経の通る場所が変わってくる。脚への神経は外側を通り、腕や手への神経は中心よりを通っている。交通事故などによる頸椎の脱臼や骨折は、頸椎がずれる方向に強く力が掛かり、脊髄の外側、または全体が損傷する為、下半身の症状が残りやすい。

 また、スポーツでの頭部の衝突や、転倒により、頭部が強く前方に曲がったり、後方に反ったりして、脊髄神経が急激に引っ張られると、脊髄の中心部の損傷が生じる。そのようにして起きる傷害を中心性脊髄損傷と呼ぶ。損傷の度合によって変わってくるが、頸髄での損傷であっても、脊髄の外側の損傷が少ないと、下半身の麻痺は軽いが、腕や手の麻痺が強く残ることがある。


 橋本さんの経過を見てみると、今年の5月に、出勤しようと朝アパートの外階段を下りている際、最後の3段目を踏み外して後方に転倒。大き目のリュックを背負っていたおかげで、後頭部をぶつけずには済んだが、頭部が後方に強く反った。その時は痛みが無かったが、立ち上がろうとした時に脚に力が入らず、今度は前方に転倒。そのまま動けなくなっている所を、アパートの住人が発見し、近所の救急病院に搬送となった。

 救急病院に2か月、その後、系列のリハビリ病院に3ヶ月入院したが、両手の指に力が入らず、脚の筋力も平行棒内を介助にて立ち上がれる程度であった。車椅子を使用しての退院を勧められたが、本人のリハビリ継続への意志が強いため、当院に入院する運びとなった。

 日本では、怪我や骨折でのリハビリは、発症、又は手術をしてから5か月間しか出来ないことになっている。しかし、脊髄損傷など長期に渡ってリハビリが必要な疾患に関しては、継続してのリハビリが可能なのである。

 そんな人生の岐路に立たされている患者様の担当に、なぜ新人である自分が任されたのか。その答えは、ファックスの2枚目にあった。1枚目は主治医からの経過など医師からの情報で、2枚目は看護師からの、食事形態や血圧、身長・体重などの記録が書かれていた。そこに、身長176センチ、体重118キロと記されていた。

「なるほど」

 声を出して納得をした。


 自分の勝手な分析だが、理学療法士を目指した人の理由は、大きく分けて3つあると思う。1つ目は、自分又は家族が怪我や病気をして、その時に受けたリハビリに影響を受けるタイプ。2つ目は、中学高校と体育会系として過ごし、スポーツに関わる仕事をしたくて目指すタイプ。3つ目は、医療従事者になりたいが、医師は無理だし、看護師も血を見るのが嫌だから、手ごろな理学療法士を選ぶ医療職あこがれタイプ。

 当院では、1番目と3番目のタイプが多く、いわゆる体育会系の理学療法士が自分以外にいなかった。自分は、学生時代にパワーリフティング部に所属し、大会に出るレベルではなかったが、ベンチプレス110㎏、スクワット120㎏、デッドリフトを140㎏挙げた経験がある、つまり自称、体育会系の肉体派である。その為、背が高い患者様や体重の重い患者様が入院される時は、自分が担当になる傾向がある。先輩達が、どの辺で線引きしているのか分からないが、体重118㎏と云う数字は、無条件で自分が担当になるレベルだった。


 橋本さんの入院日、部屋に挨拶に行くとベッド一面が埋まってしまう程、身体の大きな患者様が大の字で寝ていた。

「こんにちは、理学療法士の志村です。明日からですが、橋本さんのリハビリを担当させて頂きます」

「あ、橋本です。宜しくお願いします」

 首にポリネックカラーをして動かしにくいからか、目だけをこちらに向けて答えた。

「先生、今日からリハビリをしたいのですが、出来ますか?」

 入院日にリハビリをしてはいけないと云う決まりは無いので、担当の時間に余裕があれば入院日にリハビリをすることは可能である。幸いにも、今日予定している患者様は後2人だったので、16時からでしたら可能だと伝えた。

「それで、お願いします」

 圧倒されそうな程のリハビリへの意欲を感じた。


 そして、16時を5分程過ぎてから橋本さんの部屋に行くと、すでに車椅子に移りベッドの横で待機していた。車椅子への移乗は、車椅子を抑えておく介助が必要だった為、介護士に頼み事前に移って待っていてくれたのだ。寝ている時は分かりにくかったが、正面から見ると橋本さんは44歳には見えないほど若々しく見えた。この日は、リハビリ室に行き脚の筋力を測定、その後、平行棒内での歩行を確認する事にした。

 脚の筋力は、MMT(Manual Muscle Testing)と呼ばれる6段階に分ける検査を実施、グレード3以下が筋力低下とされる中、両側の足関節、膝関節、股関節を動かす筋肉が全体的にグレード2と、筋力低下を認めた。

 当院には、平行棒の他に平行板と呼ばれる、バーの部分が幅15センチほどの木の板で出来ている歩行練習器具がある。平行棒は手で握れるが、平行板は、肘から手の前腕部で体を支えながら歩くことが出来る。しかし、身長が176センチの橋本さんには、平行板の高さを最大に上げても前腕部で支えるには前屈みにならなくてはならなかった。それでも、膝を伸ばす力が低下している橋本さんにとっては、手で支える平行棒よりも、腕で寄りかかって歩ける平行板の方が安全であった。

 平行板で立ち上がるのに臀部を持ち上げる介助が必要であったが、立ってしまえば、前腕部で寄りかかり立位保持は可能であった。そこから、平行板内を歩くかどうか悩んだが、本人の強い希望により歩くことにした。橋本さんの前方に立つと歩行の妨げになるので、後方から橋本さんの両脇を軽く支える介助で、1歩1歩慎重に歩いた。もし、膝折れが生じたら、118キロの体重を支える自信がなかったので、膝折れしない事を祈りながら平行板内を1往復した。


 頸髄損傷では、完全麻痺か不完全麻痺かによって麻痺の回復の予後が変わってくる。頸髄が損傷されると、脚や腕の運動機能と温度や痛みを感じる知覚が麻痺する。損傷部以下の運動機能と知覚機能が完全に失われている状態は、完全麻痺とされ現代の医学では麻痺の回復が難しいと考えられている。運動機能が完全に失われていても、知覚機能が部分的に残存していれば不完全麻痺となり、麻痺の回復の可能性がある。特に、肛門周囲の知覚と肛門括約筋の収縮、そして足の指が動けば、回復の可能性が大きいとされる。

 橋本さんは、尿意と便意があり、トイレで排出しているので肛門括約筋の機能は残存していると考えられる。足の指も、力は弱いが自分の意志で動かす事が出来る。従って、回復の可能性は大きいとされるが、受傷直後では脚に殆んど力が入らなかった橋本さんを考えると、5か月で平行板内を歩けるようになった事は、大きな回復をされてきたと捉える事も出来る。今後どこまで回復するかは整形外科の医師でも予測が出来なかった。南大崎リハビリ病院に週に1回診察に来ているリハビリ専門医に聞いても、脊髄損傷後は、約6ヶ月間は機能回復訓練を重視するが、その後は日常生活動作自立を目指したリハビリを行い、2年後には自宅退院を目指すと教えてくれた。

 受傷後5か月が経過した橋本さんにとって、機能回復訓練重視は後り1か月で、残りの2か月は現在の能力で自宅に帰れるように、車椅子の操作練習や自宅改修を検討することになる。現に、橋本さんは腕の筋力も低下している為、乗り移りに加え、車椅子を操作するにも介助を要している。そうなると、自宅を改修して車椅子で生活が出来るようになっても、電動の車椅子を導入しなくては、自立した生活が送れない状態である。

 しかし、その判断を現段階でするのは厳しかった。そこで、1か月は機能回復を重視し、1か月後に検討していくことを初回のカンファレンスで話した。

 

 リハビリは、午前と午後の1日2回、筋力強化と歩行練習、それに加え作業療法士による箸の練習と車椅子を自走する練習が行われた。

 1か月後、脚の筋力はMMTではまだグレード2だが、関節の動かせる幅と力強さは確実に上がっていた。しかし、歩行に関しては、平行板を前腕で寄りかかりながら歩くスタイルは変わらなかった。入院時に比べ安定感は増したが、膝折れが起きたら一貫の終わりだと、毎日びくびくしながら介助をしていたのは変わらなかった。

 当院の入院期間は3ヶ月を目安にしている。入院直後のカンファレンスでリハビリ目標を設定し、1ヶ月後の2回目のカンファレンスで退院先をおおまかに決める。そして入院2ヶ月後のカンファレンスで、具体的な退院先を決める。

 橋本さんの初回のカンファレンスでは、1ヶ月後のリハビリの成果をみてから退院先を決めると云うことで終わったが、明日の2回目のカンファレンスでは、おおまかな方向性を決めなくてはならない。しかし、麻痺の回復の可能性がある中、半年でリハビリを終了して、車椅子で自宅に帰る準備をしましょうと言うのはあまりにも酷すぎた。そこで、まずは本人の意思を再確認する必要があると思い、部屋に行ったが居なかった。

 作業療法での車椅子練習のおかげで、自分で車椅子を操作して移動する事が出来るようになり、日中は10階の談話室で本を読んだり、テレビを見たりして過ごす事が多かった。この日も10階でテレビを見ていたので、少し時間を貰えないか聞くと、快く了承してくれた。

「実は、明日のカンファレンスで、橋本さんの退院先について話し合わなくてはならないのですが、現状では、2ヶ月後にここから歩いて自宅に退院するのは厳しいと考えています」

「分かっています。前の病院の先生からも、今後は車椅子が主体の生活になると言われていたし、ここに入院した時も、田辺先生にここの入院期間は3ヶ月だから、その間に自宅に帰る準備をするか、継続してリハビリをするなら自分で病院探すように言われました。だから、住んでいたアパートは2階でエレベーターが無いので、そこは引き払って自宅のアパートに帰ることにします。ただ、自宅も1階ですけどバリアフリーではないので、状態によっては引っ越しも考えてくれています。この歳になって母親に迷惑をかけて、本当に情けないです」

 橋本さんの目から涙がこぼれてきた。

「志村先生、自分はこのまま一生歩けないのですか?リハビリしても歩く事は出来ないと先生が考えるなら、車椅子で自宅に帰ります。ただ、少しでも歩ける可能性があるのならば、最後まで諦めたくはないです」

 まだ出会って1ヶ月そこそこの新人理学療法士に、自分の人生を委ねてきた橋本さんをどうしても救ってあげたくなった。とは云うものの、このまま筋力強化をしていても、2ヶ月で歩けるようになるとは到底思えなかった。

「1ヶ月のリハビリで筋力は確実に改善していますが、完全に回復するのは厳しいかと思います。ただし、体重が減れば、確実に今よりかは動きやすくなると思います」

「痩せるって、どのくらい痩せるのですか?」

「2㎏でも3㎏でも痩せれば、動きは変わってくると思いますが、176㎝男性の標準体重はだいたい70㎏です。現在118キロですので、約45㎏の体重を落とすことが出来ます」

「痩せるにはどうすれば良いですか?」

「基本的には、有酸素運動と無酸素運動の両方が必要です。無酸素運動は、今でも実施している筋力トレーニングです。有酸素運動は歩行や自転車漕ぎ等ですが、ベッドの上でも出来ます」

「やります。俺、やりますよ。痩せて、必ず歩いてみせます」

 今までにない輝いた目で訴えてきた。

 そこで、自主トレーニングとして、午前中はベッドの上で仰向けになり、膝を立てた状態で足踏みを左右で100回、1分間休んでさらに100回、これを計500回。次に、同じく両膝を立てた状態で、左右に膝を倒し、体幹を捻じる運動を100回5セット。午後はベッド上仰向けになり、ゴムチューブを背中に回して両端を握り、肘を伸ばす運動を50回5セット。そしてもう1つは、ゴムチューブをベッドの頭側の柵に引っ掛け、両手で両端を握り、そこから両手を下半身の方へ引き寄せる運動も50回5セット。これらを、毎日、理学療法と作業療法の時間以外に行うよう伝えた。

 初めのうちは、全てのメニューをこなす事が出来なかったようだが、2週間もすると全てのメニューをこなし、木曜日と日曜日のリハビリ科が休みの日は、全てのメニューを倍の10セット行っていた。

 自主練習を開始して3週が経過したところで、仰向けでの足踏み練習を、自転車のペダルこぎのように、脚を左右交互に曲げ伸ばしする運動に変更した。しかし、変更した翌日、看護師から橋本さんの両側の踵が擦り剥けて出血し、シーツが血だらけになっていると連絡があった。すぐに橋本さんの部屋に行ったが、橋本さんは脚の感覚が低下している為、踵が擦り剥けている事に気付かず運動を続けていた。看護師から、踵の傷が落ち着くまではベッド上で膝を立てての運動は控えるよう、橋本さんに伝えて欲しいと依頼があった。

 ここにきて、有酸素運動を止める訳にはいかない。仰向けになるだけで、踵がベッドにあたるので、うつ伏せで、腕と脚を左右交互に挙げる運動が出来るか挑戦してもらったが、うつ伏せでは首が圧迫されて辛いと言うことだったので断念。長津さんに相談しても、傷からばい菌が入って感染したら大変だから、当分の間、自主練習は腕のメニューだけにした方が良いと云うことになった。それを伝えに橋本さんの部屋に行こうとした時、看護師長がリハビリ室に自分を探しに来た。

「志村君、これをあげるから橋本さんの踵に着けて運動させてみたら?」

 当院看護師が作った、床ずれの患部に貼り付けるパッドをくれた。

「でも、傷が悪化して感染して取り返しのつかない事にでもなったら」

「何を心配しているの。どうせ動かない脚なんだから、少しでも動くようになるなら感染くらいしょうがないでしょ」

 いつも辛口な発言をする看護師長だが、誰よりも患者様の回復の事を考えてくれる、頼れる看護師だった。

「ありがとうございます」

 それを受け取り、すぐに橋本さんの部屋に向かった。

 おかげで、踵からの出血は止まり、仰向けでの自主練習も継続することが出来た。


 自主練習を開始して1ヶ月、体重が118㎏から105㎏に減量。この頃は平行板内歩行が、前屈みでの前腕部支持から、姿勢を正して手で支えての歩行が見守りで可能となっていた。さらに、タイヤが付いた前腕部で体を支えて歩けるサークル歩行器での歩行練習を始めていた。このまま減量していけば、松葉杖での歩行が可能となり、歩いて自宅に帰れるのではないかと思えてきた。しかし、当院での入院期間が残り1ヶ月となり、4日後のカンファレンスでは退院を決めなくてはならなくなった。

 理学療法士としては、このままリハビリを継続した方が良いと考えた。これまでに自分が調べた限りでは、橋本さんがリハビリを継続するには、西東京にある、脊髄損傷の患者様の、リハビリと社会復帰に特化した国立の医療センターと、一般企業が運営している脊髄損傷のリハビリを専門やっているトレーニング施設があった。 トレーニング施設は当院からも近く、ホームページを見てみるとトレーニング内容も充実していたが、入会するのに3ヶ月待ちだった。さらに、入院施設ではないので一度自宅に退院し、そこから通わなくてはならない。

 国立の医療センターは、入院までに1~2ヶ月待ちの状態であったが、入院費が安いので、患者様の負担も少なくて良いのではないかと考えた。しかし、ホームページではリハビリの内容までは分からなかったので、平日の休みを利用し見学に行く事にした。

 

 自宅から電車とバスを乗り継いで1時間半ほどかけて着いた場所は、周りが自然に囲まれた、大きなリハビリ施設であった。リハビリ室の他に、水中訓練室、トレーニングルーム、体育館など、リハビリ以外にも、運動する場所が確保されていた。ひとまず、リハビリ室に向かい、遠目で中の風景を見ていたが、理学療法士によるストレッチや、車椅子からベッドへの移乗練習など、南大崎リハビリ病院でやっている内容とさほど変わらなかった。リハビリ室の隣にある、水中訓練用のプールには誰も居なかった。すると、リハビリ室に戻ってきた理学療法士に声を掛けられた。

「見学ですか?」

 自分が理学療法士で、スパイに来ている事が分かってしまうと問題になると思い身分を隠す事にした。

「はい、自分の弟が来月ここに入院することになったので、少し様子を見てみようと思いまして」

「脊損ですか?」

「はい、中心性ですが、下肢の筋力がMMTの2レベルで、何とかサークル歩行器で歩行練習をしている段階です」

 少し専門用語を出してしまったかと、後から心配になった。

「かなり、レベルは高いですね。ここでの入院期間はだいたい2年なので、その間に松葉杖歩行が可能になるかも知れませんね」

 前向きなコメントをくれた。

「隣に水中訓練室があるみたいですが、今日は使われないのですか?」

「以前は頻繁に使っていたのですが、プールでのリハビリはスタッフの人数も必要ですし、安全面・衛生面で問題が多いので、今は殆んど使っていません。しかし、機能訓練としては、クレーンで体を浮かし、体重が掛からない状態で歩行訓練が出来るトレッドミルがあるので、施設としては充実していますよ」

「それは良いですね」

「是非、リハビリ室を見学して下さい」

 勧められたが、ある程度の事は分かったので遠慮して帰ることにした。

 

 帰りのバスの中で、橋本さんがこの病院に入院して歩けるようになるか考えた。病院の施設は充実していたが、機能訓練と云うよりかは、日常生活訓練を重視している傾向があるように見えた。トレッドミルでは、弱くなっている筋肉への負担を減らして歩行練習が可能であるが、今の橋本さんにとっては、浮力や水圧が掛かる水中の方が、筋力アップに加え脚の循環改善も見込まれる。

 水中訓練を考えていたら、温泉病院の事を思い出した。関東近郊では、栃木県、山梨県、静岡県などの温泉地に、温泉病院と呼ばれるリハビリ病院がある。そもそも、日本では、温泉に入り、痛みや痺れ、麻痺を治していた事がリハビリの始まりであった。最近の研究においても、温泉に含まれている、硫黄、二酸化炭素、ラドン等の成分が皮膚から吸収され、末梢血管を拡張させ、循環機能や血糖コントロールが改善されると発表されている。

 現在の温泉病院は、温泉に入るだけでなく、専門性の高い治療やリハビリが行なわれている。しかし、脊髄損傷のリハビリが行なわれているかは分からなかった。そこで、静岡の温泉病院に就職した同級生にメールをして聞いてみる事にした。

そして、その日の19時過ぎに、友人から電話が掛かってきた。

「リーダー、お久しぶりです」

 自分は、クラスの仲間からリーダーと呼ばれており、年齢も高校を卒業して入ってきた同級生よりか6歳年上なので、敬語を使われている。

「健ちゃんごめんね、お疲れのところ」

「いえいえ、大丈夫ですよ。それより、どうしました?」

 そこで、橋本さんの事と医療センターを見学した事を説明してから、温泉病院での脊髄損傷のリハビリについて聞いた。

「自分の病院でも水中訓練はやっていますけど、脊髄損傷のリハビリでしたら、山梨にある温泉病院が有名ですよ。ただ、ここの先輩で脊髄損傷のリハビリに力を入れている人がいて、それなりに成果は出ていますけど、ここも最大6ヶ月しか居られないので、その後は国立の医療センターなどに移る方が多いですよ」

「なるほどね、ちなみに入院の待ちはどのくらい?」

「詳しくは分からないですけど、今は1ヶ月くらいですかね」

「ありがとう。もし橋本さんが行く事になったら宜しくね」

「了解です」


 友人の話しを聞く限り、橋本さんの退院先として、医療センターに行く前に温泉病院でリハビリを受けるのが良いのではないかと考えた。後は、橋本さんの意欲と経済的な状況を確認する必要がある。

 翌日、朝7時半に橋本さんの部屋に行ったが部屋には居なかったので、そのまま10階の談話室に行くと、部屋の電気も付けずに車椅子に座ってテレビを見ていた。

「橋本さん、おはようございます。朝早くに申し訳ないのですが、少し大事な相談をしたいのですが、よろしいですか?」

「ちょっと待って下さいね」

 テレビを消し、部屋の電気を点けに行ってくれた。

「お待たせしました。先生も朝早くから大変ですね」

「満員電車が嫌いだから早く来ているだけですよ。それより、自分が調べた結果、橋本さんがここを退院してリハビリを継続するには、ここと同じようなリハビリ病院を探すか、多摩市にある国立の医療センターに行くか、静岡や山梨にある温泉病院に行くかの選択肢がある事が分かりました。昨日、医療センターに行ってみたのですが、ここよりかは設備が揃っていて、入院期間も2年間なのでゆっくりリハビリが出来るのですが、機能回復よりかは、現在の能力で早期に自宅に帰れるような目的で訓練をしている印象が強かったです。そこで、静岡の温泉病院に働いている友人に話を聞いたら、そこの入院期間は6ヶ月と短いですが、筋力トレーニングに力を入れていて、水中での歩行訓練も積極的に実施しているようなのです。そして自分としては、温泉病院に行った方が良いのではないかと考えました。しかし、温泉病院までは移動するのも大変ですし、入院費も今より高くなると思います。明後日のカンファレンスで、橋本さんの方向性を決めなくてはならないので、出来れば明日中にどうするか決めたいのですが」

「志村先生、自分の為にそこまでしてくれて本当にありがとう。俺は志村先生の事を信用しているから、先生が行けと言う場所ならどこにでも行くよ。温泉病院が良いと考えてくれるなら温泉病院に行く。お金の事は心配しないで下さい。この歳なので、それなりの貯金はありますから」

 即答してくれた。そして、医療相談室に行き、ケースワーカーに自分の友人がいる温泉病院への入院待機状況を確認してもらった所、1~2ヶ月待ちとの事であった。


 通常、カンファレンスでは、理学療法士と看護師がリハビリ状況と入院生活について報告し、院長とリハビリ医が方向性を決め患者様に伝える。しかし、橋本さんに関しては、自分が方向性と転院先まで患者様と勝手に決めてしまった。田辺先生に怒られるかと不安になりながら、今までの報告をした。

「では、そのようにお願いします」

 いつものように、笑顔で了承してくれた。

 早速、ケースワーカーに連絡してもらい、入院待機のリストに上げてもらった。そして先方の入院準備が整い次第、連絡がくることになった。 当院の入院期間は3ヶ月となっているが、退院先が決まって転院待ちの状態であれば、多少の入院延長は大目にみていた。


 退院日はまだ決まっていないが、橋本さんとのリハビリは約1ヶ月となった。リハビリのメニューは大きく変更してないが、1ヶ月後の目標を、サークル歩行器での移動自立と体重を105㎏から100㎏の減量とした。しかし、橋本さんは、1ヶ月で15㎏減の90㎏を目指したいと言ってきた。15㎏をカロリーに計算すると、10万kcalとなる。1日の消費カロリーを摂取カロリーより400 kcalプラスにしても250日、安全に15㎏減量するには約8か月は掛かる。それを1ヶ月で行うには、単純に計算しても消費カロリーを1日3300 kcalプラスして消費しなくてはならない。体重100㎏の男性が、3300 kcalを消費するには、ウォーキングでは約32㎞、自転車こぎでは約6時間掛かる。

 40代男性の基礎代謝基準値が22.3(kcal / ㎏ / day)なので、体重105㎏では2342 kcalが心臓を動かしたり呼吸をしたりと、生きていく為に1日に消費しているエネルギーである。

 当院の食事は1日で1900 kcal、体の大きい患者様にはご飯やパンを増やし、摂取エネルギーを維持している。橋本さんが主食を追加しなければ、食事だけで400 kcal、現在のリハビリによる1日の消費カロリーを約200 kcalとして、1日に600kcalのマイナスとなり、1ヶ月で減らせる体重は4~5㎏の計算となる。


 その事を説明しても、早く減量したい気持ちは変わらず、逆に1日の食事量を1200 kcalまでに減らしたいと訴えてきた。食事の変更は看護師が医師に許可を得て行うが、成人男性の1日1200 kcalは、看護師に相談するまでもなく無理だ。そんなに摂取カロリーを減らしたいのなら、出されても食べなければ、自己責任として減らす事が出来ると提案したが、食べ物を捨てる事だけはしたくないと。

 そこで、毎週水曜日に大学病院から診察に来ているリハビリ専門医の大橋先生に相談することにした。すると、急激に摂取カロリーを減らすと、内臓や脳に最優先に栄養を送ろうと体が反応し、筋肉への血流量が減少して筋力回復が遅れることもあると。そこで、まずは主食を半分に減らし、1700 kcalにして2週間様子をみる。その後、糖尿病患者様用の1日1500 kcalの食事に変更することを提案してくれた。

 橋本さんも、専門の医師から言われると納得するのか、素直に聞き入れた。


 そして2週間後、自主トレの量を増やした効果からか、体重が何と105㎏から98㎏に、100㎏を切ったのだ。歩行も、平行板内は軽く手で支える程度で、10往復は連続して可能になっていた。そこで院内の移動手段を、車椅子からサークル歩行器自立に変え、病棟の廊下での歩行練習を、午前と午後1時間ずつ1日2時間を目安に実施するように伝えた。しかし、看護師から話を聞くと、日中、歩いていない時間はなかったような気がすると言うくらい、練習に励んでいたようだ。食事も予定通り糖尿病食の1日1500 kcalに変更。その1週間後には体重が94㎏になった。

 来週で橋本さんが当院に入院してから3ヶ月が経つ。退院先は静岡県の温泉病院に決まっており、先方からお呼びが掛かり次第の退院となる。橋本さんの体重が減ってから、びっくりするくらい歩行能力が改善した。このまま、ここでもう1ヶ月も入院すれば、松葉杖歩行で自宅退院が出来るのではないかと思えるくらいであった。しかし、その目標が達成出来なかった事を考えると、橋本さんに大きなストレスを与えることになる。次の病院に行けば6ヶ月は入院が保障されているので、その方が気持ちの上でもゆとりが出来る。最後まで橋本さんのリハビリに携わりたいと云う気持ちもあったが、このまま静岡に送り出す方が、橋本さんにとって良いと思った。


 週が変わった月曜日、今週から松葉杖の練習を始める事を伝えようと、朝7時半に10階の談話室に行ったが、橋本さんが居なかった。いつもこの時間はここでテレビを見ているはずなのにと思いながら、橋本さんの部屋に行くと、ボストンバック2つをベッドの上に置き、私服に着替えた橋本さんが座っていた。

「志村先生、お早うございます」

「あれ、どうしたのですか?荷物をまとめて」

「昨日の夜、静岡の病院から今日入院してくれと連絡があったようなので、9時前に母親が来て11時の新幹線に乗ろうと思っています」

 あまりに急な退院だったので、お別れの言葉が中々思いつかなかった。

「先生、俺、頑張ってくるよ。先生に救ってもらった人生だから、諦めずにやってみるよ。そして、先生の期待に応えられるように、必ず歩いて帰ってくる」

「ここまで歩けるようになったのは、全て橋本さんの努力があったからです。どんなに整った施設で、どんなに素晴らしい先生に見てもらっても、本人のやる気がなければ何も変わりません。人間、頑張ればここまで変われると云う姿を見せていただき、本当に良い経験をさせて頂きました。ありがとうございました」

 そして、しっかりと握手をしてお別れとなった。

 

 突然の退院で、今後の橋本さんのリハビリ内容や目標について、しっかり話し合う時間がなかった。しかし、事前に準備していた橋本さんの当院でのリハビリテーション実施報告書を完成させ、橋本さんに手渡す事が出来た。これが橋本さんにしてあげられる最後の大事な仕事だ。

 理学療法士は、医師のように命を救う仕事ではないが、患者様の人生を救う事が出来る。しかし、患者様が抱えている大きな問題点を自分1人で解決することは出来ない。自分が出来なかった事をリハビリテーション実施報告書に記し、次の場所に伝える。医師が救った命を、質の高い人生にしていくためのバトンのような役割がこの報告書にはあるのだ。


 この週の土曜日、久しぶりにメロディーと云うスナックに寄った。

「いらっしゃい、あら、10月2日のお兄さん」

 このスナックのママは、お客さんの誕生日を覚えるのが特技のようだが、そのまま誕生日で呼んでは駄目だと思う。

「僕、志村って云います」

「志村君、いらっしゃい。水割り?」

「あ、はい」

「ボトル入れちゃう?先月来てれば1本サービスだったのに、何で来なかったの?」

ここのスナックは、自分の誕生月に来れば、ボトル1本サービスしてくれるらしい。

「忙しくてそれ所ではなかったのです」

「あら、家はすぐそこでしょ?ちょっとくらいは寄れるでしょう」

「そんなにしょっちゅう飲みに行けるほど、良い給料はもらってないですよ」

 半分泣きそうになりながら訴えた。

「あらあら、可哀想に。はい、どうぞ」

 目の前にワイルドターキーの水割りを置いてくれた。

「ママは飲まないのですか?」

「私に飲ませたら、料金は志村君が持つのよ」

「じゃあ、飲まないで下さい」

「何それ、仕方がないわね、1杯くらい自腹で付き合うわよ」

 同じワイルドターキーの水割りで乾杯をした。

「で、何があったの?」

「いや、別に何もないですよ」

「うそ、何か嬉しい事があったでしょう?顔に書いてあるわよ」

「嬉しい事と云うか、自分が担当している患者様に、自分に人生を救ってもらったって言われて」

 橋本さんとの経緯を説明した。

「すごいじゃない、あなたそれは本当に素晴らしい事よ」

 職業柄褒めるのが上手いのか、さらに嬉しい気持ちにさせてくれた。

「患者様の人生を救う仕事にしては、たいした給料を貰ってないですけどね」

皮肉を言ってみた。

「人間は、大きく分けると2種類になると私は思うの。貰う人間と与える人間に。いつも何かを貰うことばかり考えて、仕事においてもこれだけやっているのだから、もう少し給料を貰ってもおかしくないと考えるタイプ。もう1つは、人に何かを与えて喜んでくれる姿を生き甲斐にしているタイプ。どっちが良いと云う事では無いけど、あなたは与えるタイプの人間だと思うわ。高いお給料が貰える職場を選ぶのではなく、自分の考えている事がしっかり出来る職場で、患者様に心から喜んで貰える事を何よりの生き甲斐にして働いていれば、必ず素晴らしい仕事ができるわよ」

「与える人間ね、でも自分はお金持ちになる為に理学療法士になったつもりですが」

「心配しなくても成れるわよ」

 笑いながら言った。

「まぁ、お金持ちになっても、そのお金を他の人にあげてしまうと思うけどね、それが与える人間の宿命よ。それとも何かやろうと考えている事でもあるの?」

「自分、高校を卒業してからニュージーランドの牧場で住み込みの仕事をしていた事があるのですが、お金を貯めてニュージーランドに小さい牧場を買って、自給自足の生活をしたいと考えています」

「良いじゃない。私も10年ほど前に娘たちとニュージーランドに行ってきたけど、自然がいっぱいで良い所よね。牧場は幾らくらいするの?」

「この前テレビで、日本人の夫婦がニュージーランドで5エーカーの牧場と乳牛100頭が付いて5億円で買ったと言っていました。1エーカーはだいたい1200坪なので、かなり広いですよね。1エーカーくらいの土地だけでしたら、5000万円程度で買えるのではないですかね」

「へぇ、そうなの。やりなさいよ。無駄遣いしないで頑張ってお金を貯めなさいよ」

「そうですね、外に飲みに行くのは控えます」

「あら、たまには奢るから来なさいよ」

「ママも与える人間ですね」

「そうね、でも昔は娘2人を大学に行かせる為に必死に稼いだわよ。2人とも無事に嫁に行って、今は自分が生活していけるだけの収入があれば良いから適当になっているだけかも知れないけどね」

「お孫さんは?」

「1人いるわ。お姉ちゃんのとこはまだだけど、次女のところに一昨年生まれたの。女の子で可愛いわよ。お店を閉めてのんびり過ごそうと思っていたけど、孫娘の為にも、もう少し頑張らなくちゃね」

「いいですね、働く目的があるって」

「あなただって牧場を持つ目的があるじゃない」

「それは、夢のようなものですよ」

「あなたは本当に真面目な人間ね。どうする、もう1杯飲む?」

「いや、今日はもう帰ります。帰ってリハビリの記録を付けるので」

 ママが提案したリハビリの記録付けを忠実に実行しているのだ。ママも嬉しかったのか、微笑みながら伝票を渡してくれた。


 年が変わり、橋本さんが当院を退院して4か月が経過した。いつものように午前の最後の患者様をお部屋に送ってからリハビリ室に戻ると、リハビリ室の前の椅子に見知らぬ顔の男性が座っていた。患者様のご家族の方かと思い、会釈をして目の前を通り過ぎリハビリ室に入ろうとした。

「志村先生」

 大きな声を掛けられた。よく見てみると、かなり痩せた橋本さんだった。

「橋本さん、嘘でしょ。すごく痩せましたね。歩いて来たのですか?」

「はい」

 ロフストランド杖と呼ばれる、T字杖が肘の下まで伸びて、手だけではなく前腕部でも体重を支えられる杖を2本見せてくれた。

「お帰りなさい。お疲れ様でした」

「先生、ありがとう。歩いて戻ってくる約束が果たせたよ。でも、まだ外を歩くのは怖いからここまではタクシーで来たけど、家の中は歩いているよ」

 温泉病院でも自主トレーニングと食事制限を続け、当院退院時の98㎏から1ヶ月で90㎏になり、歩行もサークル歩行器からこのロフストランド杖に代わり、ゆっくりではあったが、院内の移動が杖歩行になった。温水プールでの水中歩行は行わなかったが、大き目の浴槽に腰掛け、お湯の中で膝の曲げ伸ばし運動を毎日実施していたようだ。この水中でのバタ足練習が、橋本さんの筋力回復に繋がったのだと感じた。

 温泉病院を退院した時は、1時体重が80㎏を切ったようだが、今は少しリバウンドをして85㎏前後を維持しているみたいだ。自宅に居ると色々と誘惑があり、食事制限や運動の継続は難しいと思うけど、ここはモチベーションを維持して頑張るようにと伝えた。

「そうです、やはり自宅に戻ってくるとモチベーションが下がってしまいました。現在は、自宅近くの整形外科で週に1回、外来リハビリを受けていますが、出来ればここでリハビリを再開したいのですが出来ますか?」

「いや、橋本さん。ここでは外来リハビリはやっていないです。すいません」

「そうですか、残念です。早く社会復帰をしなくてはと考えているのですが、まだ自信がなくて」

「前の職場は退職されたんでしたっけ?」

「はい。救急病院から1つ目のリハビリ病院に移る時に、もう復帰は無理だろうと言われたので退職しました。退職したのが入院中だったので、今は傷病手当金をもらっていますが、怪我をしてからもうすぐで1年になるので、貰えるのも残り7ヶ月です。その後、働ける場所を探すか、身体障がい者手帳を申請して国のお世話になるか、どうすれば良いか分からなくて」

「まだ身体障がい者手帳の申請をしていないのですか?」

「はい」

「怪我をされてから1年経過しているので身体障がい者手帳は申請した方が、現在の生活での補助が受けられるので良いと思います。少し遠いのですが埼玉県に、国立のリハビリセンターがあります。そこに一度行かれてみてはどうですか?そこには病院はもちろん、福祉支援センターや職業訓練センターなどがあり、身体や精神面に問題を抱えた方を総合的にサポートしてくれる施設です。そこには詳しい方がたくさんいるので、そこで相談されるのが一番だと思います」

「志村先生、何から何まで本当にありがとう。やっぱり先生に会いに来て良かった。俺、そこのリハビリセンターに行ってみるよ。そして、いつか先生みたいに、困っている人を助けてあげられる仕事に就いて社会貢献していくよ」

 以前のような、やる気に満ち溢れた橋本さんに戻って帰っていった。


それから1年後、病院に橋本さんから自分宛てに手紙が届いた。読んでみると、リハビリセンター内にある、言語聴覚士の養成学校に入学したことが書かれていた。理学療法士を目指したかったが、まだ体が自由に動けないので言語聴覚士を目指す事にしたようだ。

 いつもながら、橋本さんの前向きな姿勢には心を打たれる。自分が橋本さんと同じ立場になっても、橋本さんのように常に前向きな姿勢でいられる自信はない。しかも、こんな未熟な理学療法士をここまで信頼してくれた橋本さんの寛大さには、感謝の気持ちで一杯になった。逆に、自分が未熟だったから良かったのか。経験豊富な先輩はリハビリのゴールを予測し、そこから回復段階をある程度逆算してリハビリを行う事が出来る。しかし、脊髄損傷のリハビリについて殆んど無知であった自分は、毎日遅くまで勉強し、試行錯誤しながら目標に向かって橋本さんと一緒に走り、一緒に成長してきたようなものだった。そこに信頼関係が生まれたのかも知れない。

 これから、たくさんの患者様と出会っていくが、いつでも学ぶ気持ちと、患者様と一緒に成長していく姿勢は忘れないようにしたい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る