第5話 人間は全て教育者であれ

 南大崎病院に入職して3か月が経過した7月に、来月からは患者様の送迎もリハビリも、1人でやってもらうとのお達しがあった。しかし、バイザー制度は継続するので、1日の終わりにその日に書いたカルテのチェックは継続して行う。

 新人理学療法士は、分からない事だらけなので、先輩からアドバイスをもらえるのはとても嬉しいが、残って新人の相手をする先輩たちは大変である。何故なら、後輩指導は残業申請が出来ない為、サービス残業をしていることになるからだ。自分は、なるべく午前中にリハビリを実施した患者様のカルテはお昼休み中に書き、お昼休み中にスーパーバイザーに報告するように心掛けていた。


 8月に入り、スーパーバイザーの付き添い無でのリハビリが始まってすぐに、新しい患者様の担当を任された。患者様は多発性脳梗塞の81歳の男性であった。しかし、これはリハビリ病院でリハビリを受ける為に、南大崎病院で頭部のCTを取り、小さい脳梗塞を幾つか確認して付いた診断名である。

 リハビリの種類は大きく分けて、心臓リハビリ、呼吸器リハビリ、運動器リハビリ、脳血管リハビリの4種類に分けられる。心臓リハビリは、心臓の手術後や、狭心症、心不全後のリハビリを行い、呼吸器リハビリは肺や気管支の術前と術後のリハビリ、運動器リハビリは主に整形外科疾患、そして脳血管リハビリは、脳卒中から、内科や外科の患者様の長期療養による廃用症候群の回復リハビリを行う。基本的に、これらに該当しない疾患では病院でのリハビリが行えないのである。そこで、高齢者では症状が無くても小さい脳梗塞を発症しているケースが多いため、頭部のCTを取り、小さい脳梗塞が確認出来れば、脳梗塞の診断を付けリハビリ病院に転院する事が可能になる。

 実際に前病院からの紹介状を見てみると、診断名は肝臓癌・肺癌となっていた。さらに現病歴を見てみると、73歳で胃癌の為、胃の全摘出、その6年後の79歳で肝臓への転位を認めた為、放射線治療を開始。癌細胞を小さくしてから手術を受ける予定でいたが、その間に肺へ転位し、体力的に手術を受けるのは厳しくなり、抗がん剤と痛み止めを使用し、自宅で過ごされていた。

 7月に入り、風邪が2週間経過しても中々治らないと思っていたある日の夕食時、急に意識レベルが低下した為、奥様が救急車を要請して掛かりつけの大学病院に搬送。レントゲン上、左肺が殆んど機能していない程の肺炎の診断であったが、大学病院のベッドに空きが無かった為、南大崎病院に紹介入院となった。

 南大崎病院での点滴加療にて症状は安定したが、約2週間のベッド上安静を強いられていた事で筋力が低下し、自力で歩くことが出来なくなっていた。そこで、南大崎リハビリ病院にてリハビリを行う事になった。

 

 入院日の午後、鈴木さんの部屋に挨拶に行くと、4人部屋の左奥でベッドのリクライニングを最大に上げ、ベッド横の椅子に座った奥様らしき女性と話しをしている鈴木さんを見つけた。

 まずは自分の自己紹介をして、明日からリハビリが開始になりますが、体調が優れない時は、ここで簡単な運動をしましょうと説明した。

「宜しくお願いします」

 穏やかな表情で答えてくれた。

 脳梗塞での入院なので、麻痺や感覚障害の神経症状と、コミュニケーションなどの高次脳機能の評価が必要だったが、鈴木さんに関しては、まずは癌の状態を把握しておく必要があると思った。


 悪性腫瘍は、肺や胃など腫瘍が出来た部位で分類する解剖学的分類と、扁平上皮や移行上皮など腫瘍が出来た組織別に分ける組織的分類がある。そして、癌の進行度は、ステージⅠ~Ⅳで表される。部位によって多少異なるが、基本的には、ステージⅠは癌細胞が上皮細胞に留まり、ステージⅡでは癌細胞が筋肉層まで広がり、ステージⅢではさらに奥のリンパへ、そしてステージⅣは、他の部位への転位が認められる状態。ステージⅣと言われると、末期癌と云うイメージが強いが、転位が同臓器内であれば、手術にて完治することもある。例えば、胃に出来た癌がリンパを介して胃の他の部位に転位した場合、ステージはⅣとなるが、手術で胃を全摘出すれば、根治治療も可能である。末期癌とは、手術が出来ない程に全身に転移するか、手術や放射線治療に耐えられる体力が無い状態の患者様に使われる言葉である。

 その他にも、現在は部位ごとに違った癌の分別をしているようだ、例えば、肺癌を小細胞癌と非小細胞癌に分け、小細胞癌は進行が速いが抗がん剤が効きやすいタイプで、非小細胞癌は進行が遅いが抗がん剤が効きにくいので早期に手術で摘出した方が良いなどと、治療方針を決める上での分類もあるそうだ。

 そこまで調べていると、スーパーバイザーの長津さんが近くに寄ってきて話し掛けてきた。

「志村君は本当に勉強熱心だね。ただ、癌患者様のリハビリをする上で大切な事は、どんな治療をしていて、それがどういう副作用が出るか知る事だよ。それと、コミュニケーションを勉強する事も重要だよ」

 自分が読んでいた参考書を横目で見ながら、ぼそぼそと独り言のように話してきた。

 コミュニケーションだったら自身があると思ったが、口に出すのは止めておいた。


 長津さんは、理学療法士になる前はゲームプログラマーとして、ゲームソフトの開発に携わった仕事をしていた人で、物事の秩序や機序に対するこだわりが強かった。そして自分と意見が合わない人とはコミュニケーションを取ろうとしない傾向があり、リハビリ科内では扱いにくい存在であった。しかし、自分にとっては、困っている時にいつも良い方向に導いてくれる先輩だったので、長津さんが言う事は忠実に実行するようにしていた。そこで、癌の治療と副作用について調べることにした。


 癌の治療は主に、薬物療法、放射線治療、手術がある。薬物療法には、抗がん剤、ホルモン剤、免疫賦活剤、さらに痛み止めもこれに含まれる。

 抗がん剤の種類は100種類近くあるが、大まかに分けると、化学物質を使い細胞が分裂して増殖するのを抑え、細胞自体を死滅させる細胞障害性抗がん剤と、癌細胞だけが持つ分子を狙って破壊する、分子標的治療薬、そして癌細胞の増殖に関するホルモンを調節するホルモン剤に分けられる。

 これらの投薬方法は、服薬と点滴、静脈注射があり、効果は全身に出る為、癌細胞に対する直接的な治療以外にも、手術や放射線治療後の転移予防の為に処方されることがある。しかし、正常な細胞への影響も大きい為、様々な副作用が出る。

 抗がん剤開始後、すぐに出やすい症状が、細胞が傷つく事で起きるアレルギー症状の、吐き気やだるさ等の全身症状がある。そして、抗がん剤を開始してから1~2週間して生じる、口内炎や脱毛、関節の痛みなどの局所的な症状がある。

さらに、骨髄内の造血細胞が傷つくと、ヘモグロビン、血小板、白血球などの生成が抑制され、免疫力が低下する。

 癌治療の学会が推奨する基準としては、正常値13.0~34.9万/μℓの血小板が、3万/μℓ以上なら運動可能だが、1~2万/μℓでは軽めの有酸素運動に留め、1万/μℓ以下では消化管や脳血管の出血のリスクが大きい為、安静が必要となる。

 また、白血球の成分の大部分を占める好中球の数が、500/μℓ以下になると、感染のリスクが高い為、運動は中止となる。

 体内に酸素を運ぶヘモグロビンの基準値は、男女差があるが、低下すると全身に酸素を届けようと心拍数が上がる。しかし、抗がん剤により、心臓の細胞も障害を受けていると、心拍数上昇の負担に耐え切れなくなり、心不全に陥る危険がある。目安としては、運動時の心拍数が、安静時より10~20bpmまでの上昇に留め、動悸や不整脈が出たら運動を中止して医師に報告となっている。


 放射線治療の副作用に関しては、抗がん剤治療と同じように、全身症状と局所症状が出るが、放射線を照射する部位によって、末梢神経障害や結合組織の増殖により、血流障害や関節拘縮などの、局所症状が強く出ることがあるようだ。


 手術療法では、部位によって異なる症状が出るが、例えば、肺癌の手術では肺活量などの呼吸機能の低下、胃や腸の手術では栄養素が不足することで生じる貧血や、慢性的な筋肉痛が生じることがある。そして、手術の後も、全身の転移予防の為に、抗がん剤が処方されることがあるので、術中の出血と抗がん剤による血液生成の低下による、心臓の負担も十分に注意が必要である。

 また、入院による臥床時間が長引くことで、エコノミークラス症候群などと呼ばれる深部静脈血栓症のリスクが高まる。その場合は、足関節の運動のみで、ふくらはぎのマッサージは禁止となる。


 鈴木さんの血液データを見てみると、血小板と好中球の数値は正常だが、ヘモグロビンの数値が8.6 g/㎗と、成人男性の正常値である13.1~16.6 g/㎗と比べて低かった。しかし、それ以上に驚いたのは、血中BNP(脳性ナトリウム利尿ペプチド)の数値だった。

 血中BNPは、心臓のポンプ作用が低下すると、心臓に戻って来た血液を十分に全身に送り出す事が出来ず、心臓に血液が充満する事で、体内から水分を排出しようと分泌されるホルモンである。従って、このホルモンが増加していると、心機能の低下を示唆しており、心不全の診断基準の1つとして使われている。

 鈴木さんの血中BNPの値は520 pg/mlであった。正常値が20 pg/ml以下で、100 pg/ml以上だと心臓に何らかの問題が起きている可能性があり、400 pg/ml以上だと心不全の疑いが強いとされている。

 その他にも、心臓機能を評価する検査の1つに、心エコー検査がある。南大崎病院で実施した結果では、心駆出率(EF)と呼ばれる、心臓が血液を送り出すポンプ機能の状態が、正常値が50%以上のところ、鈴木さんは37%と低下していた。

 そして、心臓に血液が溜まってしまうと、より多く血液を送り出そうと心臓が頑張って働く為、骨格筋と同じように心臓も肥大する。それを見るには、正面からの胸部のレントゲンを撮り、胸部の横幅と心臓の大きさの比率を出す、心胸比と呼ばれる検査がある。正常値は50%以下、つまり心臓の大きさが胸部の横幅の半分以下であるのだが、鈴木さんの心胸比は70%と、明らかに心臓が肥大していた。

 しかし、この検査だけでは心臓に問題があるかどうか決める事は出来ない。何故なら、マラソンランナーのように、心拍数の高い状態が続くスポーツ選手の心臓も、心胸比が50%以上に肥大する事があるからだ。

 ここまで調べた限りでは、原因は分からないが、鈴木さんは心不全を患っている可能性が高いことが分かった。明日、リハビリが始まる前に田辺先生に相談する事にした。


 翌朝、院長の田辺先生に、鈴木さんの心臓について確認すると、やはり心不全の徴候があるので、利尿剤と血液さらさら薬であるワルファリンを出しているとのことであった。

 リハビリに関しては、胸痛、動悸、息切れなどの自覚症状が出ない範囲で行う許可を得た。念の為、心臓リハビリテーションの運動基準を確認すると、血中BNPが400 pg/ml以上であっても、EFが31%以上であれば、4~6 METs(メッツ)の運動が可能となっていた。

 METsとは、動作やスポーツの運動強度を数値で示したもので、1 METsが座位での会話レベル、2 METsは着替えや屋内歩行、3 METsは階段昇降や軽めの自転車こぎ、4 METsは早歩きや水中歩行、5 METsがダンス、6 METsは10分以内のジョギングとなり、最大で15 METsまで表されている。

 しかし、これはあくまでも目安であり、リハビリ中は自覚症状に加え、収縮期血圧が低下したら運動を中止する必要があり、発熱時や手足の浮腫みが強い日は運動強度を調節する必要がある。


 鈴木さんのリハビリ初日は、昼食前の11時から約1時間、鈴木さんの病室で行うことにした。今月から、新人理学療法士達は1人立ちとなったが、初回のリハビリには、スーパーバイザーが付き添ってくれることになっていた。しかし、自分のスーパーバイザーである長津さんは、担当している患者様の数が多かった為、11時には時間が作れず、先に1人でリハビリを始めることになった。

 鈴木さんの部屋に入ると、昨日と同じように、ベッドのギャッチアップを最大に起こして座り、ベッドの脇の丸椅子に座った奥様と話をしていた。

「こんにちは、これからリハビリを始めたいと思いますが、体調はどうですか?」

「悪くはないよ、お陰様で強い痛みは出ていないね」

 笑顔で答えてくれた。

 まずは、血圧測定と脚の可動域を測定する為に、ギャッチアップを下げてベッドを平らにした。血圧140/82 mmHg、脈78 mmHgとバイタルは安定していた。その後、脚の関節の可動域を測定し、脚の感覚が鈍くなっていないか、小さい筆で触って検査をした。すると、鈴木さんが突然むせこんで、咳が止まらなくなった。

「ちょっと苦しくなってきたので、起きても良いですか」

 分かりましたと返事をしながら、すぐにギャッチアップを全開まで起こした。

「少し楽になりました。」

 起きたらすぐに咳は治まったようだ。むせこんだだけかと思い、落ち着いたらまたベッドを平らに戻そうかと思ったが、ちょうど長津さんが駆けつけてくれたので、今までの事を報告した。

「起坐呼吸だから、座った状態で出来ることだけにした方が良いね」

「起坐呼吸ですか」

 不思議そうな顔をして答えた。

「臥位になると、全身の血液が心臓に戻りやすくなるけど、心不全などで心臓のポンプ作用が低下していると、十分に血液を送り出す事が出来ず、肺のうっ血による肺機能低下が生じ、苦しくなることがある。逆に座っている方が、心臓への血液の戻りが悪くなり、肺のうっ血が解消され、呼吸が楽になる。これを起坐呼吸と言い心不全の症状の1つとされている」

 さらに、喘息や気管支に炎症がある患者様でも、同じような症状が出る事があるから、その時は、無理に寝かせてリハビリをする必要はないと教えてくれた。続いて、長津さんが鈴木さんに、夜はどうやって寝ているか聞いた。

「ベッドの頭の部分を15°くらい上げて寝ているけど、それでも、夜中に苦しくなって、看護師さんを呼んで起こしてもらっているから、看護師さんには申し訳なくて」

 少し悲しそうな顔で答えた。

 結局、この日は横になって行う検査は中止し、車いすに乗ってリハビリ室に行くことにした。平行棒と呼ばれる、高さが調節できる約3mの2本のバーの間を歩いていただこうかと考えた。しかし、リハビリ室に着いてから間もなく、腰の痛みが強くなったのか、重心を左右に移動させて痛みが落ち着く姿勢を探そうとされたので、リハビリ室内を一通り見てから部屋に戻ることにした。


 翌日も、11時に鈴木さんの病室にお迎えに行き、血圧を測ってからリハビリ室に向かった。腰の状態を聞くと、昨日よりかは幾らか痛みが少ないとのことだったので、平行棒の前に車椅子を着け、立ち上がり練習を行うことにした。

 少し、不安な表情ではあったが、両手で平行棒を握り、掛け声と伴に臀部を車椅子から持ち上げた。しかし、膝が伸びきらず、上体はまだ前傾姿勢で平行棒に両手で寄りかかっている状態で止まった。そこから、さらに掛け声を掛けて上体を起こそうとしたが、脚に力が入らず、膝が崩れるように車椅子に座ってしまった。

 呼吸を整えてから、もう一度挑戦しましょうと促した。

「今日はもう止めておきます」

 暗い表情になってしまったので、リハビリを終了して部屋に戻ることにした。


 次の日も、同じように11時にお部屋に伺ったが、ベッドのギャッチアップを30°上げた状態で横になり、目を閉じていた。静かに声を掛けると、目を開けてくれた。

「先生、すいません。今日は体全体が痛いから、リハビリを休ませてくれませんか?」

「分かりました。午後にもう1度様子を見に伺わせて頂きますので、その時に調子が良ければリハビリをしましょう」

 静かに頷き、再び目を閉じてしまった。

 昨日、平行棒で立ち上がれなかった事で気持ちが沈んでしまっているのではないかと心配したが、午後になったら、いつものようにギャッチアップを全開に起こし、奥様と笑顔で話をしていた。

「ご気分はいかがですか?」

「あっ先生、先程はすいませんでした。昨日、少し頑張ったせいか朝になっても疲れが取れなかったのですが、今は大丈夫です。」

「もしよろしければ、ここで脚の運動をしませんか?」

 鈴木さんが返事をする前に、横に座っていた奥様がすかさず反応した。

「お願いしなさいよ、お父さん。昨日、立てなかったのが悔しかったと、言っていたでしょ」

「そうだね、ではお願いします」

 ベッドから上体を起こし、車椅子に乗り移ってくれた。車椅子とベッド間の乗り移りは、中腰のまま自力で行える状態であった。

 車椅子上、足踏みや膝伸ばし運動など、太ももの筋力トレーニングと、腹式呼吸の練習を中心に実施した。血圧や脈拍に変動は無かったが、若干、息を切らしていたので、10分ほどで今日のリハビリを終了とした。

 それから1週間は、病室での運動を、午前と午後2回に分けて実施した。リハビリ室に行かなかった理由は、車椅子で移動している時に、常に眉間に皺を寄せて振動による痛みに耐えているような様子であったからと、平行棒を見たら、立てなかった事を思い出してしまうのではないかと思ったからだ。

 しかし、ある日の朝、理学療法士4年目の金子さんに、なぜ鈴木さんがリハビリ室に降りて来ないのか聞かれたので、そのように説明した。

「そこを何とかリハビリ室に連れてくるのが理学療法士の仕事でしょう。患者さんの気持ちばかり考えていても体は良くならないわよ。1人で歩けないなら介助をしてでも歩行練習をしないと、本当に歩けなくなるわよ」

 金子さんは女性の割に、多少強引な部分があるが、それなりに治療成績を残している先輩であった。

「分かりました。痛みが強くなければ、今日はリハビリ室に降りてきます。」

 渋々、従う事にした。

 そして、午前中のリハビリに伺った際、鈴木さんに平行棒内で立位練習をしてみないか提案してみた。

「そうだね、リハビリの成果がどれくらいあるか知りたいしね。」

 快く了承してくれ、車椅子でリハビリ室に向かった。リハビリ室に行くと、金子さんが駆けつけてくれた。

「鈴木さん、頑張って歩きましょう」

平行棒の前に車椅子を着け、前回と同じように両手でバーを握り、一呼吸入れてから掛け声と伴に臀部を持ち上げ、そのまま一気に立ち上がる事が出来た。隣では金子さんが大喜びをしていた。

「少し歩いてみませんか?」

 声を掛けると、無言でうなずき、右脚を1歩前に出した。そして次に左脚を前に出そうとした瞬間、膝が抜けてしまった。すぐに鈴木さんの脇を支えたので、尻もちは着かなかったが、金子さんに手を借りないと、車椅子に戻る事が出来なかった。

「歩くのは少し早かったですね、すいませんでした。もう少し、立ち上がり練習をしてから、歩行練習にしましょう」

 自分の額の汗をぬぐいながら説明し、今日のリハビリを終了した。

 歩く事は出来なかったが、立ち上がる事が出来た事は、明日からのリハビリのモチベーションが上がるだろうと少し嬉しくなった。


 しかし、翌日、鈴木さんをお迎えに行くと、鈴木さんの口から予想外の言葉が出てきた。

「先生、リハビリはもう要らないです」

「どうしてですか?1週間で立てるようになったし、もう少し頑張れば必ず歩けるようになりますよ」

「もういいです。最近、脚の感覚が鈍くなってきているし、立ち上がり練習をした次の日は、全身がすごく痛みます。だから、歩く為のリハビリはもう必要ないです」

 少し声を張り上げて言ってきた。

 それに対し、返答出来ずに固まっていると、隣の部屋に患者様を送りに来ていたスーパーバイザーの長津さんが、鈴木さんの部屋に来てくれた。

「鈴木さん、リハビリは歩く為だけにやっているのではないですよ。心臓の為にもやっているのです。脚の運動は心臓に血液を戻す力を強くし、深呼吸は、息を吸って横隔膜が下がる事により胸腔内の圧を下げ、血液を心臓に戻りやすい状態にするのです。そうすることで、寝ている時や、話しをしている時の、息苦しさを改善させることが出来るのです」

「そう言えば、前までは夜中に苦しくなって、2~3時間おきに看護師さんを呼んでベッドを起こしてもらっていたけど、最近は少なくなった気がするよ」

 長津さんの説明に納得をされた様子であった。


 長津さんのフォローのおかげで、鈴木さんとの病室でのリハビリは継続してくれることになったが、自分と鈴木さんとの間に、一枚壁が出来た気がした。

 昼休みに入り、食堂に行くと長津さんが居たのでお礼を言った。

「先程はありがとうございました」

「この前、癌の治療や副作用について調べる事は大事だけど、その前にコミュニケーションを勉強する事の方が重要だと話した事を覚えている?」

「はい。ただ、その時はコミュニケーションには自信があったので、そこまで重要だとは考えませんでした」

「もし、鈴木さんが早く死にたいと言ってきたら、何て答える?何を言っているのですか、と冗談として捉える?それとも暗い顔をして何で死にたいのか聞く?」

 少し考えた。

「諦めずに頑張りましょうと励ますかも知れません」

「死の宣告をされている人に、何を頑張れと言うの?死ぬなんて考えないで下さいとでも言うの?志村君、コミュニケーションとは、ただ言葉を交わすだけではないよ。気持ちと気持ちを伝え合う事なのだよ。だから鈴木さんの気持ちを理解出来ないと、コミュニケーションは取れないし、良い治療も出来ないよ」

 今まで見たことのない程の真剣は表情で話してくれた。


 その日は、病院に残って調べものをするのを止め、定時で病院を出た。大崎から山手線に乗り、いつもなら新宿駅でホームの向かい側に来る総武線に乗り換えるのだが、今日は新宿駅を出てすぐの所にある本屋に向かった。

 癌のリハビリや、終末期ケアについての参考書で良いのがないか探すことにした。一通り見てみたが、どの本も、患者様の話すことを傾聴し、不安や痛みを理解する事が大切であると書いてあるだけで、どのような声掛けをすれば良いか等について書かれた本は見つからなかった。

 リハビリに関しては、関節可動域や筋力を維持し、今持っている能力を保つ事で、精神的な苦痛を和らげる事が出来、さらに筋肉量が多い患者様ほど予後が良いなど、リハビリの利点については多く書かれていた。しかし、それを鈴木さんに説明をして納得してもらえるとは思わなかった。

 

 思った以上の収穫が無いまま自宅に帰り、テレビを見ながら夕飯を食べていると、長野県のクリニックで、訪問診療をしている医師のドキュメント番組が始まった。

 このクリニックが他と違う事は、訪問する患者様が、余命宣告をされた末期癌患者のみで、最後まで家族の一員として自宅で過ごせるように、看護師や介護士達と全力でサポートをしている所であった。

 その先生が患者様にまず行う事が、人生でやり残したことは無いか聞く事であった。この世に悔いがあるから死への恐怖や不安が強くなるので、まずはそれを解消させることが重要だと考えているらしい。

 番組で紹介された方は、大腸がんのステージⅣで、余命半年と宣告されたSさん70代女性。ご主人はすでに他界し、息子と嫁、そして男の子の孫2人と暮らしている。そのSさんがやり残した事は、お嫁さんへの感謝の言葉であった。

「出来の悪い息子と結婚してくれて、そして可愛い孫までプレゼントしてくれてありがとう。お互い気を使い合っていて、中々本音で話が出来なかったけど、一緒に住んでくれた事は本当に感謝しています。だた、1つ心配な事は、お兄ちゃんのお小遣いの事です。中学生にもなると、色々とお金が掛かると思い、時々お小遣いをあげていたけど、私がいなくなってから、お金欲しさに間違った道に進まないかが心配です」

 そう話している所を先生がビデオに撮り、それをお嫁さんに見せた。

「お義母さんが大事に育てた息子さんと、結婚させて頂きありがとうございました。お義母さんからお小遣いを頂いている事は、ある程度は知っていましたが、習い事などの出費がかさむ中、そう云った経済的な援助はとても助かっていたので、目をつぶっていました。これからはちゃんと与えますから、心配なさらないで下さい。お義母さんが育てたように、この子達も立派に育てますから、安心して下さい」

今度はお嫁さんのビデオレターをSさんに見せる内容であった。

 死んでいく人に、ただ頑張って下さいと励まして1人で悩ますのではなく、その人の死について家族で考えてあげる事こそ、不安を減らすことだと、その先生は考えているようだ。

 そして日本では、死と云う言葉を口に出す事を、なるべく避けようとする傾向があるが、もう少し、死を身近に感じ考える事が必要なのではないかと先生は述べていた。

 夕飯を食べ終わったらすぐにパソコンを立ち上げ、インターネットでそのクリニックを検索してみると、今まで、その先生が関わってきた患者様との記録や、緩和ケアについてもう少し詳しく説明がされていた。

 このドキュメンタリー番組を通じて、コミュニケーションについて学べた気がしたが、それ以上に、辛い状況に立っている鈴木さんを何1つ理解していなかった自分が情けなく思えてきた。


 翌日からは、リハビリ自体は病室での筋力トレーニングと変わらなかったが、鈴木さんの今までの人生について、失礼のない範囲で聞く事にした。生まれたのは浅草で、1945年の東京大空襲で家が焼け、家族で埼玉の浦和に疎開し、その後、目黒に越してきたようだ。仕事は1級建築士として、御茶ノ水にある大手設計事務所に勤めていて、高度成長期に次々に建築された新宿の高層ビルの設計にも携わっていたらしい。

 話を聞いているだけで、日本がどれほどひどい状態から今の住みやすい国に成長し、そして、それを支えてきたのは、鈴木さんのような方達の、1人1人の仕事だったのだと、改めて先人方の偉大さを感じた。


 そんな状態で鈴木さんの入院が続いていたが、鈴木さんの状態は日に日に衰えていくのが感じられた。ベッドから車椅子に乗り移るのにも、脇を支える介助が必要になっていた。主治医に、その状況を伝えると、鈴木さんの腰のレントゲンを撮る事になった。読影は南大崎病院整形外科の医師が行ない、結果は第2腰椎に腫瘍が確認された。つまり、癌が腰椎に転移している可能性があるとのことだった。治療としては、手術で腫瘍がある骨を取り除き、上下の背骨を支柱で固定する方法がある。しかし、積極的な治療を望んでいない鈴木さんにとって、可能な治療は薬で痛みを抑えることだけであった。


 それから1週間が経った月曜日、いつものように鈴木さんをお迎えに行くと、鈴木さんが部屋に居なかった。そこでナースステーションで看護師に聞いてみた。

「鈴木さんなら10階にいるよ」

 この病院は縦長の10階建で、1階が診察室と検査室、2階がリハビリ室、3階が浴室と事務室、4階から9階が病室で10階に談話室がある。

 10階に行ってみると、車椅子に座った鈴木さんが窓の外を眺めていた。

「鈴木さん、こちらに居らしたのですね」

「あっ、先生。もうリハビリの時間ですか。リハビリ時間の前には迎えに来てもらうように看護師さんにお願いしていたのですが、すいません」

「いいですよ。看護師も忙しくしていたので。それより、ここからの眺めは良いですよね?」

「そうだね、こうして外を眺めていると、ここから飛び降りて早く楽になりたいって思うよ。まぁ、そんな事をする勇気は僕には無いけど。だけど、安楽死制度があれば、真っ先に右手を挙げてお願いしたいよ」

 外を眺めたまま、真剣な表情で話してきた。長津さんに、死にたいと思っている患者様にどのような対応をするか勉強しておきなさいと言われていた事が、まさに試されようとしていた。

「鈴木さんのご両親はご長寿でしたか?」

「私の父は60歳を前にして肝臓を壊し、あっという間でした。逆に母は、70歳を過ぎてから認知症がひどくなり、私たちと同居を始めたのですが、鍋に火を付けたまま出掛けたり、出掛けたまま自宅に戻って来られなくなったりと大変でした。仕方がなかったので、78歳の時に老人ホームに入ってもらおうと探していた矢先に、自宅で転んで大腿骨骨折。それでも手術をしてリハビリで歩けるようになり、自宅に帰って来れたのです。しかし、その後、すぐに脳梗塞を発症して入院。もうだめかと思いましたが、リハビリを頑張って、自宅に帰る準備までしました。結局、入院中に脳出血を発症して80歳でこの世を去りましたけど」

「お母様は、最後まで頑張られたのですね」

「そうですね。何だが母親の話しをしたら、自分が情けなく思ってきました」

「この前テレビを見ていたら、長野県で末期癌の患者様だけを訪問診察している医師のドキュメンタリーがやっていました。その先生によると、親は子供に、ご飯の食べ方や話し方など様々な事を教育し、1人前の人間に育てていくが、1番重要な教育は、人の死に方を自分の身をもって教える事だと言っていました。たくましかった親が杖を使うようになり、歩けなくなり、寝たきりになって死んでいく。それを子供達にしっかり見せることで、子供が同じ立場になった時、自分の親はこうやって死んでいったのだと思い出し、死に対する不安が和らぐと考えているそうです」

「でも、自分達には子供がいません」

「奥様がいるではないですか。ご主人が最後まで頑張って生きた姿は、必ず奥様の心の中にいつまでも残り、いつか奥様が死に直面した時のかけがえのない支えになると思います。それに、僕も鈴木さんを最期まで見届けます。そして、いつか鈴木さんと同じような状況の患者様の担当になった時、奥様や私達の為にリハビリを頑張って、最後まで精一杯生きる姿を見せてくれた患者様が居た事を、話します」

 鈴木さんは、何の反応もせず窓の外を見ていた。ただ、鈴木さんの頬には涙がこぼれていた。そのまま沈黙の時間がどのくらい流れただろうか。時間にして30秒ほどだったと思うが、鈴木さんの頭の中では、今までの人生が走馬灯のように流れていたのではないかと思う。

「もう少しここで外を見ていたいのですが、いいですか?」

「分かりました。午前のリハビリはお休みにしますので、午後にお迎えに行きます」

 そう伝えてからリハビリ室に戻った。

 14時5分前になり、鈴木さんをお迎えに行こうとエレベーター前に行くと、エレベーターから鈴木さんと奥様が降りてきた。

「すいません、これから伺おうと思っていました」

「いえ、今日は病室ではなく、リハビリ室で歩行練習をしたいと思ったので」

今まで見たことがない鈴木さんのリハビリへの意欲に驚き、返答に困っていると長津さんが来た。

「鈴木さん、こんにちは。今日はすごいやる気ですね。でも、無理はなさらないで下さいね」

 そして、自分の肩を強く2回叩いてから、自分の患者様の元に戻って行った。

 まずは、いつものように車椅子上での脚の運動を行い、その後、平行棒を使っての立ち上がり練習を5回実施したところで本日のリハビリを終了した。

 翌日は、自分が鈴木さんの両脇を支え、平行棒の端から反対側の端まで歩くことが出来た。さらに、その3日後には平行棒の端から端まで、介助なしで歩く事が出来た。その時には、周囲にいたスタッフから大きな拍手が送られた。そして、それを横で見ていた奥様が、感極まって涙を流していた。

 鈴木さんも、とても満足げな表情で椅子に座っていたが、多少、呼吸が乱れ冷や汗が出ていたので、血圧を測ると120/72 mmHgと、リハビリ前より若干低下していた。心臓にとって血圧が高い事が負担となるが、実際に心筋にダメージが起きたり、心臓のポンプ作用が低下したりしていると血圧が低下する。上の血圧が90 mmHg以下に低下していたら、主治医に報告しなくてはならないが、そこまでの低下では無かったので、鈴木さんを部屋まで送ったあと、看護師に今日のリハビリを報告し、少し頑張り過ぎたかも知れない事を伝えた。


 翌朝、昨日のリハビリの影響が出ていないか心配だったので、朝一番で鈴木さんのカルテを見ると、案の定、昨夜から38.0℃の熱が出ていた。その後、鈴木さんのようすを見に部屋に行くと、ベッドのギャッチアップを下げ、氷枕で頭と脇の下を冷やしている鈴木さんがいた。部屋に入ると、すぐに自分に気付き、挨拶を交わした。

「おはようございます。気分はどうですか?熱が出ている原因がはっきりしないので、今日はリハビリを休みにしようと思うのですが」

「恐らく、昨日の疲れが出ているだけだと思うのですが、先生がそう言ってくださるなら、今日はゆっくり休ませてもらいます」

「また、体調が良くなりましたら、歩きましょう」

 この日、お昼の段階で熱が38.5℃まで上がっており、夕方には38.8℃になっていた。今日の分のカルテを書き終えてから、鈴木さんの部屋に行くと、ベッドのギャッチアップを全開に上げて寝ていたので、声を掛けずに帰る事にした。鈴木さんともうリハビリが出来なくなるのではないかと不安になったが、翌日、それが現実となった。

 この日も、朝1番で鈴木さんのカルテを確認しようとナースステーションに行くと、院長の田辺先生と、南大崎病院の内科の先生が話をしていた。先生方の会話が邪魔しないように、小さい声で挨拶をして中に入ると、田辺先生が声を掛けてきた。

「志村君、ちょっといい?」

「はい」

「鈴木さんのリハビリは中止して下さい」

 リハビリは筋力トレーニングや歩行練習だけではない。寝たきりになった患者様でも、ベッド上で関節可動域運動をすることで、関節拘縮の予防や循環機能が改善する。従って、リハビリ中止の指示はよほどの事が無い限り出ない。すると、電話をしていた看護師が受話器を置いて、田辺先生に話し掛けた。

「転院はなしで」

 どうやら、心不全が悪化し、治療を南大崎病院に移って循環器内科で行うか奥様に確認を取っていたようだ。結局、転院はしないで、ここで出来る治療のみをする事になった。急な展開に、状況が十分に理解出来ないまま、田辺先生と内科の先生がナースステーションを出て行ってしまった。そこで、看護師に話を聞くと、鈴木さんは当院入院時から急変時の挿管や心臓マッサージはしない承諾書を提出されていたので、このままだと今夜が峠になると教えてくれた。

 ナースステーションを出て、鈴木さんの部屋に向かうと、酸素マスクをして心電図に繋がれた鈴木さんが横になっていた。恐る恐る鈴木さんに近づき、酸素量を確認すると2ℓになっていた。これは全身麻酔で手術を受けた患者様も、術後に投入される量であった。話し掛けずにその場を去ろうとした時、自分の気配に気づいたのか、目を開けて会釈をしてくれた。目を開けてくれた安堵からか、つい涙がこぼれてしまった。

「鈴木さんすいません。僕が頑張りましょうと言ったせいで」

 すると、右手で酸素マスクを外し答えてくれた。

「志村先生ありがとう。おかげで、天国の母に顔向けが出来ます」

 その言葉で、さらに涙が止まらなくなった。

「先生、お願いがあります。高円寺の環七沿いに、メロディーと云うスナックがあるのですが、私が死んだらそこのママに、お世話になりましたと伝えてもらえますか?随分長い間お世話になったママなのです。仕事がうまくいかない時なんかは、潰れるまでそこで飲みましたよ。バーボンを1杯目は薄目の水割りで飲んで、2杯目から少しずつ強くして、最後はストレートで飲むんです。そしたら帰る頃には脚がふらふらになるのですが、楽しかったな」

 そして酸素マスクを口に戻した。

「分かりました。必ず伝えに行きます」

「ありがとう、本当にありがとう」

マスク越しに小声で言い、ゆっくりと目を閉じた。

 この日の夕方、帰る前にもう一度鈴木さんの部屋に行ったが、目を閉じたまま穏やかな表情で眠っていた。酸素量は6ℓ、呼吸機能はだいぶ低下していた。

「鈴木さん、また明日の朝に来ますね」

小さくつぶやき、部屋を出た。そして、これが鈴木さんとの最後の会話となった。

 

 翌朝、ナースステーションに行く前に鈴木さんの部屋に寄ったが、鈴木さんのベッドが綺麗に片付けられていた。不安な気持ちのまま、ナースステーションに行くと、田辺先生が書類を書いていた。

「志村さん、昨日の23時42分に鈴木さんは静かにお亡くなりになりました。そして今朝、奥様と一緒に自宅に帰りました。奥様が、志村先生に宜しくお伝え下さいと言っていましたよ」

「先生、すいませんでした。鈴木さんに、奥様や僕たちに最後まで力強く生きる姿を見せて下さいなんていい加減な事を言ったせいで、こんな事になってしまって」

「心不全のリスクを何も知らずにリハビリをしていたら問題だけど、志村さんは十分に理解した上で、リハビリの重要性を鈴木さんに伝える事が出来た。僕たち医者は、はっきり言って鈴木さんが苦しまないように死なせてあげることしか出来ないけど、志村さんは鈴木さんの人生の最後を、輝かしてあげることが出来たのですよ。良い仕事をしましたね」

 笑顔で言い、ナースステーションを出て行った。田辺先生は、いつもニコニコして話しをするので、本当の事を言っているのか不安になる時があるが、今日の先生の一言は自分の心を救ってくれた。

 ただ、いつまでも悲しんでいる余裕も無かった。この日も、鈴木さんとのリハビリが無くなっただけで、いつもと変わらない1日が始まる。


 この週の土曜日、鈴木さんに言われた高円寺のスナックに行ってみる事にした。場所は、簡単にしか聞かなかったが、自分が通っていた中学校に近く、何度か前を通った事があったのですぐに見つかった。

 入り口は、板チョコを思わせるようなこげ茶色の木の扉で、窓は無く、腰ぐらいの高さでキャスターが着いた看板に“メロディー”と書いてあった。

 中の様子が全く見えなかったので、入るのに躊躇したが、勇気を振り絞って扉を開けた。

「いらっしゃい」

 カウンターの中で、スーパーの袋から冷蔵庫に野菜を入れている、65歳前後の女性が言ってきた。

「1人ですが、良いですか?」

「もちろん、ここどうぞ」

 野菜を入れる手を止め、カウンターの一番奥の席におしぼりを置いてくれた。まだ19時前だからか、お客は誰も居なかった。

「お兄さん、初めてみたいだけど、誰かの紹介?」

「はい、鈴木さんと云う」

「何飲む?」

 言いかけている途中で聞いてきた。

「では、バーボンの水割りを下さい」

「ハーパーとターキーとフォアローゼスがあるけど、どれにする?」

「じゃあ、ターキーで」

「はいね」

 コップに氷を入れて、お酒を作り初めた。

「えっと、鈴木さんだっけ?でも鈴木って名前は多いからね。誰だろう?」

 真剣に思い出そうとはしていなかった。

「今は80歳くらいの方で、20年くらい前まで建設会社に勤めていた頃に、よくここで飲ませてもらったと言っていました」

「はいはい、スーさんね。建設会社の鈴木さんだから、スーさんと呼ばれていたのよ。あなたスーさんの知り合いなのね。スーさんはどう?元気している?」

「鈴木さんは、先日お亡くなりになりました」

「あらそう、それは残念ね」

 悲しい顔をしながら、ワイルドターキーの水割りを目の前に置いてくれた。

「それと、ターキーのストレートを1杯もらえますか?」

「それって、スーさんの分かい?」

「ええ」

「それなら私も一緒に頂こうかしら」

 そう言うと、鈴木さんとママの分の水割りを作り始めた。そしてストレートの入ったグラスを自分の隣の席に置き、3つのグラスで献杯をした。

「ところで、お兄さんはどういった知り合いだったの?」

「自分は、病院で理学療法士の仕事をしていまして、そこに鈴木さんが入院され、リハビリの担当になっていたのです。1か月くらいでしたが一緒にリハビリをして、今週の水曜日に亡くなりました。その前日に、鈴木さんがもし自分が死んだら、ここのママにお礼を伝えて欲しいと頼まれまして」

「それで、わざわざ来てくれたの」

「ただ、自分の実家がすぐ近くだったから頼んだのかも知れません」

「それにしても、スーさんは仕合わせね。最後にあなたみたいな人と出逢えたのだから」

「いや、自分はただリハビリをしていただけですから」

「きっとあなたはスーさんの為に一生懸命やっていたのよ。でなければ、スーさんがここに行ってくれなんて頼まないわ。いつも1人で飲んでいた人だったから。あなたが初めて連れてきたお客さんよ」

 何だか、照れくさくなった。

「いつも全力で患者様と向き合うように心掛けていますけど、それが逆に患者様の命を縮めているような気がして、やりがいのある仕事だと思って目指してきたのですが、最近は楽しいと感じなくなってきました」

「仕事なんてそんなものよ。私も早くに旦那を亡くして、女手1つで娘2人を育てていかなくてはいけないから、旦那が残した少しのお金でここを始めたの。最初の頃はこんな所で飲む人なんて、やくざ者かアル中の客で、店の中で暴れたり、お金を払わずに帰ったりと散々だったのよ。何度店を閉めようかと思ったことか。でもね、時代がそれを変えてくれたの。バブルを前にして、大久保や新宿に派手なスナックやパブが増えてね、そういうお客さん達は皆そっちに行ったわ。逆に、しみじみ飲みたい人達がここに集まるようになってくれて、何とか今までやってこれたの」

グラスの氷を人差し指で回しながら話してくれた。

「あなたの仕事も、これからもっともっと必要とされるようになるわよ。ただ、他の人と同じことをしていてもだめよ。何か特技を持たないと。こう見えても、私にも特技があるんだから、分かる?」

「いや」

 ママの全身を下から舐め回すように見てから答えた。

「ちょっと変な目で見ないでよね。私の特技は自慢する事でもないけど、お客さんの誕生日を覚えることなの。そして誕生月にはボトルを1本サービスするの。ちなみにスーさんは8月12日だったかな。お兄さんは?」

「10月2日です」

「あら、惜しかったわね、来月だったらボトルサービスしたのに」

「いや、いいですよ。ボトルなんて入れないですから」

 そう言って、ターキーの水割りをおかわりした。

「あら、淋しいわね。お兄さん飲めそうだし、家が近いなら毎日でも来てよ」

「自分はまだ理学療法士1年目で勉強することが多くて、特別な用事が無い限り、こんなに早く帰って来れないです。それにリハビリの基礎も分かっていないのに、特別な何かを身に付けるなんて、今は考えられないですよ」

 出来の悪い自分自身に腹を立てるように言った。

「お兄さんは真面目ね。でも今から出来ることもあると思うわよ」

ターキーの水割りのおかわりを置きながら言った。

「私だってボトルをサービスする為にお客さんの誕生日を覚えている訳ではないのよ。お客さんが話した事を思い出す時の、ヒントになるように誕生日を覚えているの。自分が話した事を覚えていてくれると、人って嬉しくなるでしょ?そうすると、もっとこの人に話したいと思って色々と教えてくれて面白いわよ」

「確かに、患者様は人生の先輩方が多いから、色々教えてくれて勉強になりますが、それを覚えても特技にはならないと思うのですがね」

「お兄さんも頭が固いね。あなた達ならもっと専門的な事を覚えていけるでしょう」

「あ、そうか。疾患やリハビリ内容を症例として覚えておくと云う事ですね」

「そう。覚えておくのが大変だったら、ノートに書いておけば良いじゃない。そして、いつか小説でも書いてみたら?」

「そんな暇はありませんよ」

 吐き捨てるように言ったが、この日から小説を書くと云う言葉が、頭の片隅に残るようになった。

「そうそう、これはお客さんが言ってたんだけど、1つの事を確実にこなすようになるには、何十、何百もの経験が必要になるって。その人は大学病院の耳鼻咽喉科の先生なんだけど、手術の内容をカルテとは別に自分のノートに細かく書いているみたい。同じ診断名でも同じ手術は無いって言ってたわ。その先生は、ゴッドハンドと呼ばれていてテレビにも出たことがあるのよ」

「すごいですね。そういう先生方は才能だけじゃなく、人並み外れた努力をしているのですね。仕事をするって大変ですね」

 羨ましがるように天を仰ぎながら言った。

「何言っているの。あなたこれから何年働くと思っているのよ。仕事は楽なものではないし、楽しいものでもないわ。でもね、自分に何が出来て、人に何を与えられるか分かるようになったら、きっと仕事も楽しくなるわよ」

 真剣な眼差しで話してくれた。

 人に何を与えられるか、自分は理学療法士なのだから、与えるものはリハビリメニュー、と云う事ではなさそうだ。中々、答えが出そうになかった。

「何だか今日はとても勉強になりました。1回来て終わりにしようかと思ったのですが、又、来てもいいですか?」

「いつでも待ってるわ」

 笑顔で答え、伝票を書いてくれた。

 鈴木さんの分は自分が払うと言ったのだが、要らないと聞かなかったので、お言葉に甘えて2杯分だけ払ってお店を出た。

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