第4話 リハビリと血圧管理

 当院では、脳卒中の患者様が発症後3ヶ月以内に入院された場合、新人理学療法士がリハビリの担当をする事は殆んどなかった。


何故なら、脳卒中発症後6か月がリハビリのゴールデンタイムと呼ばれ、リハビリの効果が出やすく、より正確なリハビリが求められるからだ。


正確と言ってもリハビリに正解は無く、患者様の状態を常に把握し、その状況に合わせたリハビリが出来るかどうかと云う事なので、経験年数が高い理学療法士が優先的に担当となる。

 

新人理学療法士は、状態が安定して介護老人保健施設や有料老人ホームなどの空き待ちの為に入院されている患者様などの担当をする事が多かった。



 自分にとって初担当となった宮下さんを受け持ってから、ちょうど1週間後に新たな患者様が担当として振られた。


高嶋さんという78歳の独身の女性で、近所のスーパーに買い物に行った帰りに急にめまいがして、うずくまっている所を通行人が119番通報し、南大崎病院に救急搬送となった患者様である。


病院に搬送された時から意識はしっかりしていたが、左半身に痺れを訴えていた為、すぐにCT検査に回された。


しかし、CTでは、皮質と白質の不明瞭化や脳の低信号化など、異変が画像に出るには、発症してから2~3時間掛かる為、この時のCTに異常は見つからなかった。


そこで、早ければ発症後15分で画像に異変が出る、MRIのディフュージョン(拡散強調画像)検査が行われた。


その結果、右内包近くに直径1㎝程の脳梗塞が確認できたため、そのまま加療目的で入院となった。


 脳梗塞の場合、発症からの時間や、梗塞の場所と大きさによって急性期の治療方法が変わってくる。


発症後3時間以内で条件がクリアされれば血栓溶解薬を点滴する事が可能で、6時間以内ならカテーテルにて血管を詰まらせている血栓を直接除去し、後遺症を減らすことが出来る。


それ以外では、2次的に生じる脳浮腫や脳ヘルニアを予防する治療が施される。


2次的に生じる脳浮腫や脳ヘルニアとは、脳梗塞により壊死した脳細胞からフリーラジカル(活性酸素)が放出され、周囲の細胞を次々と壊死させていき、脳が膨れ上がってしまう事だ。


そうなると、神経症状の増悪だけでなく、最悪の場合は死に至ってしまう。


そうならない為に、このフリーラジカルの放出を抑制する為の点滴を、発症当日から2週間行われる。

 

高嶋さんも、このフリーラジカルを抑制する点滴が開始され、状態が安定していれば2週間後に退院の予定となった。


しかし、状態は安定したものの左半身に軽度の麻痺が残存し、お一人で歩く事は出来たが、ふらついて壁によろけてしまう事が度々見られた。


それを主治医が、キーパーソン(身元保証人)である妹の娘さん、つまり高嶋さんにとって姪にあたる敏子さんに伝えると、転倒されたら困ると、リハビリ病院への転院を強く希望してきた。


高嶋さんは、自宅に帰るつもりでいたようだが、主治医からリハビリを継続した方が良いと話があった為、渋々転院を受け入れたようだった。

 

 南大崎病院から南大崎リハビリ病院への転院は、徒歩や車いすを使って可能だが、2週間の入院であっても、患者様の荷物が両手では持ちきれない程に増える事が多い為、病院の送迎車を使う。


 高嶋さんは、旅行用のボストンバック1つに収まるほど荷物は少なかったが、キーパーソンの敏子さんと、送迎車に乗って南大崎リハビリ病院に転院された。


他の病院や施設から転院されて来る患者様は、入院日にはリハビリを実施しないが、南大崎病院からの患者様は、午前中には転院が終わる為、その日の午後からリハビリが始まる。


高嶋さんも、入院日の午後からリハビリを実施しようと予定していたので、午前中に自分の自己紹介と午後1時にリハビリに伺う事を伝えた。


 南大崎病院からの紹介状では、高嶋さんの移動手段は、院内独歩自立となっていたので、リハビリのお迎えは1人で行くことになった。


午後1時ちょうどに高嶋さんのお部屋に伺うと、ベッドに腰掛けテレビを見ていた。


挨拶を済ませてから血圧と脈拍を測定すると、血圧189/108mmHg、脈拍82bpmと、高い数値であった。


前院より、高嶋さんの収縮期血圧は170mmHgと高めであると申し送りがあったので、事前に主治医から収縮期血圧が180mmHg以下であればリハビリを行って良い許可を得ていたが、いきなり収縮期血圧が180mmHgを超えてしまった。


 収縮期血圧が180mmHgを超えると、リハビリを行うことが出来ないので、一度、ナースステーションに行き、今朝の血圧を確認した。


昨夜の夜勤記録によると、朝7時の血圧は168/102mmHgと、起床時から高めであった。


そうなると、降圧剤を飲んでいるかどうかの確認が必要になる。


 脳梗塞により、血液が流れなくなった部位の脳細胞はすぐに壊死してしまうが、壊死した細胞の周囲には、まだ完全に壊死に至っていない仮死状態の細胞(ペナンブラ)がある。


脳梗塞直後の血圧管理は、このペナンブラへの血流維持の為、収縮期血圧を140~150mmHgに保つ。


そして急性期を過ぎると、出血性梗塞を予防する為、収縮期血圧を140mmHg以下にコントロールする。


 看護師長に、高嶋さんが降圧剤を飲んでいるか聞くと、南大崎病院の脳神経外科の主治医から、降圧剤が処方されたが、高嶋さんがそれを拒否して飲んでいなかった。


どうやら、高嶋さんは病院から出される薬は一切飲まないと言っているようだ。

 運動の許可に関しては看護サイドでは判断出来ないので、主治医に連絡するように言われた。

そこで、リハビリ室に戻りスーパーバイザーの長津さんに相談すると、他の患者様のリハビリを先に行い、1時間後にもう1度測定して、それでも高かったら主治医に電話してみてはどうかと指示を出してくれた。

高嶋さんにその旨を伝えると、快く了承してくれた。

 そして、1時間後に高嶋さんの所に伺い、祈る気持ちで血圧を測ったが、192/114mmHgと先ほどよりも高い数値となっていた。念のため、頭痛や吐き気、めまい等の自覚症状が無いか確認した。

「そんなのは無いけど、ただイライラしているの」

 清楚なご婦人からは想像がつかないコメントであった。

「どうしたのですか?」

「2週間入院したら退院できるって言われていたのに、姪のせいでこんな汚い病院に 入れられて、もう怒りが爆発しそうなのよ!」

 1時間前の穏やかな感じが一変し、今度はお怒りモードとなっていた。

確かに、3年前に立て直した南大崎病院に比べ、築47年の南大崎リハビリ病院はエアコンのダクトや水道管がむき出しになり、所々にテープで修復した跡が見えるので、どうしても汚いイメージを持ってしまう。

 

 血圧が180mmHgを越えているので、リハビリを行うには主治医に1度連絡をする必要があった。しかし、この状況で主治医からリハビリの許可が下り、リハビリの重要性を説いたとしても、さらにストレスが掛かり、高嶋さんの血圧は上がってしまうのではないかと思った。そこで、まずは何でそんなにイライラしているのかを聞く事にした。

 すると、高嶋さんの姪である敏子さんが、キーパーソンとして入院中の高嶋さんのお世話してくれているのだけど、実は高嶋さんを退院させないようにして、高嶋さんの財産を使おうとしているのではないかと心配になっているようだ。

さらに詳しく聞くと、高嶋さんの唯一の姉妹である妹さんが、3年前に腰椎圧迫骨折を患い、慢性的な腰痛に悩まされている為、代わりに敏子さんが高嶋さんの着替えを取りに来て洗濯したり、入院費の支払いなどをしたりしてくれているようだ。そこで、自宅の金庫の番号を教え、中に入っている現金10万円の封筒を持ってきてもらったが、金庫の中に入っている、高嶋さんの株券の存在まで知られてしまったのではないかと不安になっているようだ。

 高嶋さんは独身で、両親が残してくれた家に住んでおり、公務員を退職してから株の売買にはまり、貯金は殆んどないが、今でも約5000万円相当の株券を保有している。その事を姪の敏子さんは知っており、早く全ての株を売って、有料老人ホームに入所した方が良いと以前から勧めてきているようだ。しかし、実は株を売ったお金の一部を貰い、大学生の息子と高校生の娘の学費に充てようとしているのではかないかと高嶋さんは思い込んでいるのだ。

 一通り話しを聞いてから、再度血圧を測ったところ、184/104 mmHgと、まだ高値を示していたので、午前中のリハビリは中止することにした。

午後になって院長の田辺先生が高嶋さんを診察し、収縮期血圧(上の血圧)が200mmHg以下でのリハビリを許可してくれた。

 教科書では、収縮期血圧が180mmHg以上での運動は控えるようにとされている中、200mmHgまで許可をした理由を、その日の夕方に田辺先生に聞いてみた。すると、人間の血管は意外と丈夫で、収縮期血圧は400mmHgぐらいまでは耐えられるとされている。何が怖いかと言うと、動脈硬化により血管内に出来たプラークが剥がれ、脳や心臓、肺の血管を詰まらせる事や、柔軟性が低下した血管が、朝と日中の血圧の差に対応できずに破れてしまうことであるとの事であった。もちろん、糖尿病や先天性の動脈奇形があると、高血圧による脳出血のリスクが高くなる。

 高嶋さんは、年齢的に動脈硬化は否定出来ないが、糖尿病や不整脈は無く、起床時と日中の収縮期血圧の差が40mmHg以下であるので、脳血管障害のリスクは高くないと判断し、収縮期血圧200mmHg以下でのリハビリを許可したと教えてくれた。さらに、運動により血流量が増加しても、血管の柔軟性が維持していれば血管自体が圧を吸収し、急激な血圧上昇を抑えられるようだ。しかし、動脈硬化や心拍数が100(回/分)を超えていると、血管の圧を吸収する能力が低下し、運動による急激な血圧上昇を抑えられないことがあるので、収縮期血圧が180mmHg以上で、脈拍が100(回/分)を超えていたら、運動を中止するようにと説明してくれた。また、めまいや吐き気、頭痛などの脳圧亢進症状が出た場合もすぐに運動を中止するよう指示を出してくれた。


 その後、先生が教えてくれた事を長津さんに報告し、明日の予定を一緒に考えた。田辺先生が、血圧の上限を拡大してくれたのは良いが、理学療法士としてもなるべく患者様の血圧を上げないように、リハビリの時間や強度を考慮しなくてはならない。普通、人間の血圧は夜中に低くなり、朝起床してから徐々に上がり、日中にピークを迎えることが多い。しかし、ストレスやホルモンバランスの低下により、夜中や起床前に血圧のピークを迎える人がいる。高嶋さんの今日の血圧を見てみると、朝7時が168/102mmHg、脈拍70(回/分)、リハビリに迎えに行った10時頃が189/108mmHg、脈拍82(回/分)、そして夕食後19時の血圧が170/102mmHg、脈拍78(回/分)と、起床後2~3時間でピークに達しているようだ。

 先週の日曜日の朝に放映していた健康番組で、血圧とモーニングサージについて循環器内科の先生が説明をしていたのを思い出した。モーニングサージとは、起床後1~2時間で急激に血圧が上がる状態で、目安としては、起床5分後の収縮期血圧が、起床2時間後に20mmHg以上上昇しているとモーニングサージの疑いがあり、上昇幅が36mmHg以上あると、脳卒中や心筋梗塞などの血管に関連した病気のリスクが高くなるという内容であった。

 高嶋さんの起床5分後の正確な血圧は分からないが、7時から10時の間に収縮期血圧が21mmHg上昇しているので、午前中のリハビリは避けた方が良いということになった。理想的には、夕方に行うのが良いかと思うが、午後に高嶋さんが昼寝をしてしまうと、寝起きに血圧の上昇が生じる可能性があるので、長津さんと話し合った結果、午後の早い時間にリハビリを行うが良いのではないかとなった。

翌日、13時に高嶋さんをお迎えに行き、血圧を測ると178/106mmHg、脈拍74(回/分)と、高めではあったが昨日よりかは低く、収縮期血圧が180mmHg以下であったので、歩いてリハビリ室に行くことにした。

 高嶋さんの部屋からエレベーターまでは約10m、エレベーターから2階のリハビリ室までも約10mの距離だが、その間に3回ふらついて壁に寄りかかってしまった。

理学療法士の重要な仕事の1つに、歩行評価というものがある。患者様の歩行を観察し、身体のどの部分に問題があるか細かく探ったり、逆に怪我や病気により機能が低下している関節や筋肉が、歩行にどのように影響するか予測したりして、より安全な歩行が出来る練習と環境を提供するのだ。そして、担当している患者様が安全に移動できる手段を、病棟の看護師さんと介護士さんに伝える責任がある。

 まだ、高嶋さんの歩行をしっかりと評価はしていないが、一緒に歩いているだけで、安全でないことは感じられた。この病院の造りが古く、廊下や病室が比較的狭いおかげで、ふらついてもすぐに手が壁に届くので転倒しないで済んでいるが、屋外や廊下が広い場所では、転倒のリスクが非常に高いと感じられた。


 リハビリ室に着いたら、プラットホームと呼ばれる治療用のベッドに腰をかけ、深呼吸をしてから血圧を測定した。血圧が184/110mmHg、脈拍が82bpmと、病室を出る前に比べ、多少の血圧と脈拍の上昇がみられたが、めまいや頭痛、吐き気などの自覚症状が無いのでリハビリを継続することにした。

 リハビリと云っても、今日はブルンストロームステージと呼ばれる、片麻痺の回復過程の評価を行なう事にした。脳梗塞や脳出血により身体の半身に麻痺が生じると、発症直後は半身が脱力して自分の意志で動かす事が出来なくなる。そこから、梗塞や出血部位の改善に伴い、麻痺も徐々に回復していく。

 ブルンストロームステージは、脳梗塞や脳出血後の片麻痺の状態を、上肢(腕)、手指、下肢(脚)に分け、それぞれステージⅠからⅥの6段階で評価する検査である。ステージⅠは弛緩性麻痺と呼ばれ、筋肉が緩み自力で腕や脚を動かせない状態。筋肉が収縮し、少しだけ手指や肘、膝の関節が曲げられるとステージⅡ。ステージⅢは、自分の意志で腕や脚を動かせるが、足関節や膝関節など、1つの関節を単独では動かせず、共同運動と呼ばれる、脚であれば足と膝と股関節を同時に曲げるか伸ばせるかの状態である。ステージがⅣになると、その共同運動の影響が弱くなり、肘を伸ばしたまま手を挙げたり、椅子に腰かけた状態で膝を伸ばして足を持ち上げたり出来るようになる。ステージⅤでは、もっと複雑な動きが出来るようになり、ステージⅥでは、殆んど正常な動きが出来るようになるが、動きの速さやスムーズさに欠け、ぎこちなさが残っている状態となる。

 高嶋さんは、上肢、手指、下肢で、ステージⅥと、麻痺の回復段階では最高だったが、左半身と体幹の筋力低下が確認出来た。それは、麻痺側を上にした横向きの状態からスムーズに起き上がれない事や、左片脚立ちでは上半身が揺れて、静止することが出来ないなどの動作に影響が出ていた。

脳から出た神経は、延髄の高さで左右が交差するため、脳の右半球に病変があると左半身に麻痺などの神経症状が出現し、左半球では右半身に出る。そして、腕や脚は半側神経支配の為、右脳が障害され左半身に麻痺が出ても、現代の医学では左脳の神経細胞が代わりに働いて左半身を動かす事は出来ず、左脳の障害でも同じとされている。ところが、体幹筋と呼ばれる腹筋や背筋は、両側神経支配の為、右か左の半球に病変が出来ても、逆半球の脳神経により、ある程度の運動機能や筋力は維持される。

 しかし、高嶋さんのように片麻痺を呈して、体幹の筋力にも左右差がみられる患者様は少なくない。その理由として、麻痺側の踏ん張りが低下し、重心を非麻痺側の右側に維持しようと、身体を常に右側に傾けている事や、骨盤に付着している左脚の筋肉が麻痺し、同じく骨盤に付着している左側の体幹筋が発揮しにくい状態になっていることなどが考えられる。

 その後、高嶋さんにはプラットホームに腰掛けて頂き、座位のバランスを評価させて頂いた。自分が、高嶋さんの両肩を背後から掴み、前後左右に押し、どのようにバランスを取ろうとするか評価するものである。通常、軽い力で押した場合は、上半身を傾かせてバランスを取り、倒れるくらいの力で押した場合は、脚で踏ん張るか、手をついて支える。

 高嶋さんの場合は、座っている状態から上半身を右側に傾け、無意識に重心を右脚と右臀部に乗せていたので、右側への重心移動では右脚で踏ん張って耐える事が出来るが、左側への重心移動では、踏ん張りが効かず、すぐに左手をベッドについてしまう。これでは、歩行時に左脚に体重が掛かり過ぎるとふらついてしまう。


 初日のリハビリが終わり、長津さんに高嶋さんのリハビリの報告をした。前病院からの申し送り書では、自宅に帰れない理由が歩行時のふらつきとなっていたが、今日の評価により、左半身の軽度麻痺と体幹機能の低下がふらつきの原因と考えた。それを伝えると、間違ってはいないだろうと賛同してくれた。

 片麻痺のリハビリには、幾つかの方法がある。中でも、1920年代にフランス人の医師であるヨーク氏が考案したリハビリテーション理論が、今でもヨーク法として世界的にその知識と技術は広く使われている。

 理学療法士は、学生の時に病院や施設で臨床実習を行う。実習期間は学校によって多少の差はあるが、私が通っていた3年制の専門学校では、3年生の時に2か月間の臨床実習を2回行う。

 その臨床実習の1回目の時にお世話になった病院が、リハビリ科全体でこのヨーク法を取り入れており、2カ月間と短い期間ではあったが、そこの先生方にヨーク法について勉強させて頂いた。

 ヨーク法と言っても、骨折の治療のように、この折れ方だったらプレートで固定する手術をして、半年くらいしたら骨が癒合するので、1年後にプレートを取る手術をするなどの、スケジュールが明確になっている治療法ではなく、どちらかと言うと病気や治療に対する理論であった。

 ヨーク法が提唱される以前のリハビリでは、起き上がれないのは下腹部の筋力が低下しており、歩けないのは麻痺した側の股関節や膝関節の支持が弱いからと考えられ、弱くなった筋肉を強化することが一般的だった。

しかし、身体を動かすには、体中に張り廻られた感覚のセンサーにより、動かそうとする筋肉や関節がどのような状態になっているかを脳に伝え、その情報を脳がキャッチして初めて動かすように命令が出る。従って、手足が動かない原因は単に筋力が低下している訳ではないと云うのが、ヨーク法の考え方の始まりだった。

 麻痺を起した腕や脚は、筋肉が緩んだ状態から回復していく過程において、痙性と呼ばれる状態になることが分かってきた。痙性とは、無意識に一部の筋肉の緊張が高くなる状態で、この痙性が強い状態では腕や脚をスムーズに動かす事が出来ない。

 ヨーク法の概念では、一部の筋肉の緊張が高いのは、他に緊張が低くなっている筋肉の影響であり、この筋肉の緊張のアンバランスによって、片麻痺特有の姿勢や動きになるとしている。さらに、筋肉の緊張が低くなる原因は、感覚センサーの機能が低下し、腕や脚の末梢部から脳へ送られる情報が不足している為と考える。従って、治療としては緊張が低下している部位へ様々な刺激を入れ、脳への神経伝達を促通する手技が行われる。


 高嶋さんの起き上がりの問題点をヨークの概念で考えてみると、左下腹部の筋緊張が低下していることで、逆に背筋の緊張が高くなり、上体を起こそうとしても、背筋が優位に働いて上半身が反ってしまう為、起き上がる事が出来ないと考えられる。従って、治療は左下腹部へ様々な刺激を入れる事から、背筋の緊張を抑えながら左下腹部と左股関節周囲の筋肉を使えるような練習を行っていく。

 このようにヨーク法では、ヨークの概念と実際に患者様に起きている現象を結び付けて治療を行っていく必要があるが、それには相当の技術と経験が必要となる。当院では、特別に決まった片麻痺治療を取り入れていない為、麻痺が起きている筋肉を強化していくリハビリを行う傾向にあった。

 自分としては、ヨーク概念を勉強して治療の幅を広げたいと考えていたが、参考書を読むだけでは患者様への応用が効かない。そこで、ヨーク法に関する講習会に参加して、ヨーク概念を勉強していくことに決めた。


 翌日から高嶋さんの本格的なリハビリが始まった。治療内容は、左半身への刺激として青竹のように小さい突起がたくさん付いている板に立つ練習と、椅子に腰かけてゴルフボールを足裏で転がす運動から始めた。体幹の強化としては、仰向けで両膝を立て、お尻の下に直径20㎝ほどのゴムボールを置き、その状態で足踏み練習を行った。

 寝返り練習も、学生の時に実習先の先生に教えて頂いた、仰向けから背中の筋活動を抑制して麻痺側である左前腕に重心をのせて起き上がる方法を、自分の体で誘導しながら繰り返し練習した。

 リハビリ内容は、至って簡単であったが、左半身に軽度の麻痺がある高嶋さんにとっては、思うようには出来なかった。そのせいもあってか、リハビリを始めて2週間はリハビリに積極的で、午前と午後、1日2回リハビリをする日もあった。しかし、2週間が過ぎた頃から、ゴムボールを使った運動も、仰向けからの起き上がりも難なくこなせるようになり、歩行も安定してきた。すると、自宅退院への想いが強くなったのかリハビリを拒否するようになった。

 別に、自分と高嶋さんの関係が悪くなった訳ではないが、高嶋さんにしてみれば、もう麻痺は治ったからリハビリをする必要がないし、明日にでも自宅に帰るからリハビリは出来ないと云う事だった。

 確かに、以前よりかは歩行時のふらつきは少なくなったが、全く無くなった訳ではなかった。特にリハビリ室内での歩行練習をたくさん実施した後の帰りでは、ふらつくことが多かった。

麻痺が完全に治るまで病院に入院してリハビリを受ける必要はないが、1人暮らしの高嶋さんの退院後の生活を考えると、買い物に行くだけの体力が無いと困るのではないかと考えた。最近ではネットショッピングが普及し、自宅で買い物をして自宅で受け取る事ができ、コンビニエンスストアや外食産業が行なっている配食サービスを利用すれば、出来上がった食事を自宅まで届けてくれる。しかし、自分の事は自分でやらないと気が済まない高島さんには、全く興味のない話であった。介護保険を利用し、ヘルパーさんに買い物だけをしてもらって料理は自分で行うことも出来るが、介護保険の申請も入院時から拒否していた。そうなると、買い物に行けるだけの歩行能力が必要となる。

 入院直後の高嶋さんのカンファレンスではリハビリの様子をみて、1か月後のカンファレンスで退院可能か検討する事になっていた。しかし、予定より早く状態が落ち着いた為、高島さんの早期退院を検討する必要がある。実際には、カンファレンスを待たずに退院を決めることは出来るが、高嶋さんの場合は、キーパーソンである敏子さんの了承を得なくてはならない。

 当院では、患者様の家族や転院先への連絡と、介護保険の申請などを担ってくれる、医療相談室と言われる部署があり、社会福祉士の資格を持った3名が常駐している。高嶋さんの担当の相談員に、退院が早くなりそうだと敏子さんに連絡してもらう事もできたが、理学療法士としては、もう少しリハビリをした方が良いのではないかと言う気持ちもあった。

 そこで、以前に高嶋さんが、甘党の私にとって院内に売店が無いのは辛いと言っていたのを思い出し、屋外歩行練習と称して近くのコンビニに買い物に行かないかと提案したら、賛成してくれた。

 念のため、看護師長に買い物に行くと伝えると、2個までなら買って良いと許可をしてくれた。そして、長津さんに報告してから屋外歩行練習に出発した。

屋外歩行練習と云っても、歩いて30秒ほどの場所にあるコンビニエンスストアに向かっただけだ。それでも久しぶりの買い物だったらしく、高島さんはとてもはしゃぎ、この日は小豆アイスとクリームパンを買って病院に戻った。

 翌日も、午後1番のリハビリで高嶋さんと屋外歩行練習に行こうと病室に伺ったら、高嶋さんはすでに靴を履きジャケットを着て、外出の準備を整えてベッドに座っていた。

「遅い、早く行きましょう」

 自分の腕を引っ張って、エレベーターホールへ向かった。

「昨日買った、アイスとパンは食べたのですか?」

「食べたわよ」

 誇らしげに答えた。

「今日も、2個までですよ」

「分かっているわよ」

 半分笑いながら答え、病院のほぼ目の前にあるコンビニエンスストアに向かった。そして、昨日と同じ小豆のアイスクリームとクリームパンを買って帰った。

 

 高嶋さんには、買い物に行こうと誘っているが、本来の目的は、屋外歩行が安全に出来るかどうかを評価する事である。30秒ほどで着いてしまうコンビニエンスストアでは、どのくらいの耐久性があるとか、他の歩行車や自転車などの危険への認知は出来ているかなどの評価が出来ない。そこで、明日は病院から5分ほどの所にある、違うコンビニエンスストアに行こうと提案することにした。しかし、面倒くさいからと断られた。

 それから、雨の日以外は毎日、目の前のコンビニエンスストアに買い物に行った。さすがに1週間もしたら、小豆のアイスクリームとクリームパンは飽きたようで、違う物を選ぶようになったが、それでもアイスクリームは必ず買っていた。


 入院から1か月が経過し、高嶋さんの2回目のカンファレンスの3日前に、高嶋さんから違うコンビニに行きたいと申し出があった。カンファレンスでは、屋外歩行の評価を報告しなくてはならなかったので、好都合であった。

 もう1つのコンビニへは、片側3車線の国道を渡らなくてはならないので、横断歩道を青信号内で渡れるかどうかの評価も出来た。結果的には歩行速度に問題はなく、荷物を持ってもふらつく事なく歩け、出発前と後の血圧に大きな変化も見られなかったので、片道5分程度なら1人で買い物に行ける事が分かった。


 高嶋さんの自宅は築37年の木造2階建て、玄関や、廊下と居室の境には高めの段差があるが、現在の能力があれば、自宅内なら発症前と同じように生活が出来ると考えられた。本来ならば、カンファレンスで決まった事を主治医が家族に伝えるのだが、事前に主治医に許可を得て、医療相談室の担当に敏子さんに連絡して、退院日を決めてもらう事にした。

 しかし、敏子さんとは連絡が取れず、翌日、敏子さんから病院へ連絡があり、今週は忙しいから、もう少し入院させて欲しいと話してきた。

入院待機の患者様が常に20人を超えている当院としては、治療が終了した患者様に対しては早めに退院を促すが、基本的には受け入れる家族の都合を優先する。そこで、2回目のカンファレンスでは、1週間後までに退院日を決めてもらう事で決まった。しかし、困ったことに、その事を誰が高嶋さんに伝えるかを決めていなかった。

 高嶋さんの血圧の事を考えると、事務的に伝えるのではなく、高嶋さんの心情を察して話さなくてはならない事を看護師長に相談した。

「そうね、でも私だと事務的になってしまうから、志村君が伝えてよ」

 押し付けられるように頼まれたが、ここは自分が1番適任だと思った。

 高嶋さんには、カンファレンスが終わって直ぐに、精一杯敏子さんを擁護しながら伝えた。

「あの子もスーパーでパートの仕事をしているからね」

 お怒りの言葉を貰うかと思ったが、1週間後に連絡してくることに納得してくれた。それよりも、早く買い物に行きたいと言い、今日も国道を渡った所にあるコンビニに行った。

 そして、敏子さんと連絡を取ってから1週間が経過した。しかし、まだ連絡は無かった。翌朝、相談員に連絡してもらうと、自宅の玄関と廊下と風呂場に手すりを付ける工事をするから、もう2か月入院させて欲しいと言ってきたようだ。相談員が、この病院の入院は3ヶ月が限度の為、1か月後には自宅退院か施設に転所してもらわないといけないのですと説明した。

「じゃあ、施設に送って下さい」

 敏子さんが軽く答えてきた。しかし、ここは、この道30年のベテラン相談員が黙ってはいなかった。

「施設は、ご家族が探すんです!一応、ご自宅近くの介護老人保険施設は紹介しますが、ご家族が直接電話して受け入れ可能か確認を取って下さい。その為には、介護保険の申請をする手続きが必要ですし、その前に直接高嶋さんにその旨を伝えて下さい」

 一喝した後に補足の説明をして電話を切った。


 その翌日、敏子さんが来院して高嶋さんに施設の話しをすると、高嶋さんが声を張り上げて怒り始めた。高嶋さんとしては、手すりなんて邪魔になるだけだから付けなくていいし、施設にも行かないと主張。敏子さんも、これからも安全に1人で生活をして欲しいから、この機会に自宅をバリアフリーにした方が良いと引かない。

 あまりにも白熱した口論となってきたので、その場を抜け出そうと、後ろ脚で部屋から出ようとしたら、高嶋さんに引き止められてしまった。

「ちょっと、志村さんからも、もう体は治ったから自宅に帰っても大丈夫と言ってやってよ」

 敏子さんは、聞く耳を持っている感じではなかったが、歩行時のふらつきは改善し、屋外歩行も安定していることを伝えた。

 しかし、敏子さんも真剣な表情で、玄関前を前面コンクリートにする工事だけでもした方が良いと提案してきた。

 高嶋さんは、そんなの必要ないと、しきりに反対をしていたが、敏子さんに詳しく聞くと、高嶋さんの自宅は公道から玄関までの約3メートルの間に、平たい円形の石が1歩間隔に敷いてあり、その上を歩かなくてはいけないので、それを取り払った方が安全だと説明してくれた。

「やっぱり先生も、危ないと思いますよね?」

 確かに高嶋さんの退院後の安全を考えると、改修工事には賛成だが、自分としては高嶋さんの早期自宅退院を支持するつもりでいた。

「確かに、その状況では転倒の原因になる可能性が無い訳ではないですが、自宅の外の工事なら、高嶋さんが自宅に居ても出来るのではないですか?」

「これから、工務店を探して、見積もりを取ったりするから、実際に工事を始めるのは少なくとも1か月は先になると思うので、2か月だけでも施設に入って下さい」

 半ば強引に話を決め、これから相談員の人と話しをするからと言い、部屋を出て行ってしまった。無言になった高嶋さんを見てみると、“この裏切り者!”と言わんばかりの目で自分を睨んでいた。とても、リハビリをする状況ではなく、血圧を測るのも恐ろしかったので、午後にまた来ますと告げ、自分も高嶋さんの部屋を後にした。


 お昼休みが終わり、いつものように午後1番で高嶋さんと部屋に行ったが、高嶋さんは布団に包まって寝ており、声を掛けても返事が無かったので、今日のリハビリは中止することにした。

 そして、翌日も、同じように午後1番で高嶋さんの部屋に行き、屋外歩行に誘ったが気分が優れないからと断られ、リハビリを休む事になった。アイスクリームが食べたくなったら、又屋外歩行に行ってくれると思ったが、このままでは自分と高嶋さんの信頼関係が崩れてしまうと感じ、業務が終わった夕方に高嶋さんの部屋に行って話をすることにした。

「この前は、自分が余計な事を言ってしまい、すいませんでした」

「いいのよ。あなたはあなたの仕事をしたんだから。それに、退院した後の事も、あなたに心配してくれるのは嬉しいのよ」

 笑顔で答えてくれたが、高嶋さんの性格からして、これから2か月余り自宅に帰れない事が決まった状態で、こんなに穏やかにいるのが、逆に不安になった。そしてその不安が現実となった。


 翌朝、いつものように朝7時に出勤し、誰も居ないリハビリ室で筋力トレーニングを行ってから、コンビニで買った惣菜パンと缶コーヒーで朝食を済ませた。そして8時前に病棟に上がり、カルテを確認する為にナースステーションに入った。

「高嶋さんがいないけど、どこに行ったか知らないですか?」

 息を切らした若い看護師から聞かれた。

 そう云えば、ここに来る前に高嶋さんの部屋に寄ったが居なかったと伝えた。そして看護師と一緒に高嶋さんの病室に行き、ベッドの上に綺麗に畳んであった掛布団を持ち上げてみると、その下に、“自宅に帰ります。入院費は後日支払いに来ます。ご迷惑をおかけしてすいません”と、書いた紙切れが出てきた。

 それを見て失神しそうになった看護師を、すかさず受け止めた。

「大丈夫だから、とりあえずナースステーションに戻って、田辺先生の携帯に連絡して下さい」

 自分はそのまま1階の受付に向かった。

 病院入り口にある受付には、24時間体制で事務員が常駐しているが、22時から朝の5時までは玄関の扉が施錠される為、事務員に頼まないと病院から出る事が出来ない。昨夜当直の事務員に話を聞いてみると、朝5時過ぎに高嶋さんが受付前のロビーに来て、ソファに座り雑誌を読んでいたと教えてくれた。

 つまり、朝の時点では高嶋さんは病院内に居た事になるが、ではいつ居なくなったのか。

「高嶋さんは外に行かなかったですよね?」

 事件を追っている刑事のように聞いてみた。

「さぁ、高嶋さんとは一言二言話しをしてから、自分は夜中に止めているエレベーターの電源を入れに地下に行き、戻って来た時にはもう居なかったね」

「その時、玄関の扉の鍵は外していましたか?」

「うん。と云うか、どうした志村君、そんなに真剣な顔をして」

「高嶋さんが脱走した」

「えぇ!」

 一言発生し、そのまま止まった。

 この事務員の中田さんは、63歳まで大学病院の医療事務として働き、その後当院の夜間専門の事務として再就職した68歳の男性である。中田さんは、鉄道に乗るのが好きな、いわゆる“乗り鉄”と呼ばれる鉄道マニアで、日本を走っている鉄道の約60%には乗ってきたという程の人であった。自称“乗り鉄”と謳っている自分にとっては、神様のような存在である。そんな中田さんとは、鉄道の話しかしていなかったので、急に自分が鉄道以外の話をした為、驚いていたのだ。

 

 高嶋さんが最後に病院に居る姿が確認されたのが5時15分、6時半の夜勤看護師による検温の際に病室に伺ったが居なかったので、トイレに行っていると思い他の部屋を先に行った。7時に再度病室を訪れても居なかったので、病院スタッフに連絡して捜索が開始された。

 病院としては十分に注意しているが、認知症を患っている患者様が間違えて病院を出てしまい、スタッフが病院周辺を捜しに行くこともある。院長の田辺先生に連絡をしたところ、意図的に病院を出た可能性が高いから、高嶋さんの自宅への電話を続け、その間に姪の敏子さんにも連絡するようにと指示が出た。

 高嶋さんの自宅には連絡が取れなかったが、7時40分頃に敏子さんと連絡が取れ、敏子さんに高嶋さんの自宅に行ってもらうようお願いした。

 そして、9時半を少し過ぎた頃に敏子さんから連絡があり、高嶋さんが自宅に戻っているとの確認が取れた。敏子さんが病院に戻るよう説得したが、入院継続の意思が無いとのことだった為、本人決断による自主退院と云う形を取る事になった。


 その2日後、敏子さんが病院に来て、高嶋さんの入院費を全て支払った。入院費を未払いで帰ったり、病院スタッフに暴力を振るったりする患者様は、ブラックリストに名前が残り、今後の入院受け入れに影響が出る事がある。しかし、高嶋さんは通常の自主退院となり、ブラックリストには残らなかった。

 そして高嶋さんとは、そのままお別れとなった。


 高嶋さんが退院してから約1年、自分は理学療法士2年目になり、南大崎リハビリ病院から救急病院の南大崎病院に異動になった。そこで高嶋さんと思わぬ再会を果たした。

 救急病院では、癌の手術や人工関節の手術を受ける患者様が、日程を予定して入院される方がいる一方、殆んどの場合は救急外来に運ばれてきて入院される事が多い。その為、朝早めに出勤したスタッフが、前日とその日の明け方に入院された患者様を一通りチェックし、リハビリの指示が出そうな方をピックアップして、リハビリ室内にあるホワイトボードに書き込む。朝7時に出勤している自分よりも、早く出勤しているスタッフが居ない為、自動的にその仕事を自分が行なっていた。

 

 ある日の朝、いつものように、病院受付のホワイトボードに書かれている入院患者様の名前をメモ帳に書いていると、高嶋さんと同姓同名の方が内科で入院していた。その時は、同じ名前だと思っただけで、リハビリ室に戻り、電子カルテで高嶋さんを確認すると、1年前に南大崎リハビリ病院の入院歴があった。恐らく、自分が担当していた高嶋さんだ。

 今回の入院経過をみてみると、昨夜、夕食後より軽い腹痛が出現、そのまま就寝するが、夜中の2時に痛みが増悪し、自力で救急要請し当院受診。血液検査の結果、血中リパーゼが正常11~53(u/l)のところ、212(u/l)と4倍に上がっており、すぐに腹部CT検査に回された。そして、膵臓に炎症が確認された為、急性膵炎疑いで緊急入院となった。診断名が疑いとなっているのは、昨夜の当直医が若い内科の先生で、当院では、心臓と肺以外の消化器系の疾患は、外科の医師が診ることになっているので、本日外科に転科し確定診断となる。

 もう2度と病院のお世話にはならないと断言して退院したのに、自ら救急車を呼んだと書いてあるのを見て苦笑してしまった。


 この日は、朝から看護師による問診や検査などで高嶋さんが忙しくしていたので、昼休みに高嶋さんの部屋を訪れることにした。4人部屋の1番奥にあるベッドに、抗生物質とブドウ糖の2つの点滴に繋がれ、仰向けになって天井をじっと見ている高嶋さんが居た。他の患者様はカーテンを閉めていたが、高嶋さんだけはカーテンを全開に開けていたので、自分が部屋に入ったら、すぐに高嶋さんと目があった。

「あれ、なんで?」

 すぐに自分の事に気付き、驚いた顔で声を掛けてくれた。

 どうやら、前回入院していた南大崎リハビリ病院と南大崎病院が系列である事をよく知らなかったようで、自分がこの救急病院に居る事に驚いたようだ。

「高嶋さん、お久しぶりです。あれからどうなったか心配してましたよ」

 自分も、高嶋さんに再会出来た事が嬉しかった。

「本当に、大変だったのよ」

 話を聞いてみると、やはり敏子さんが金庫に入っていた高嶋さんの株券の1部を持ち出し、自分名義に変更しようとしていたようだ。

 株の名義変更は、本人が証券会社に行かなくても、委任状と実印があれば可能である。委任状は敏子さんが作成し、高嶋さんが証券会社に行けない理由を脳梗塞で入院している為として、金庫の中に入っていた実印を持って変更の申請をしてしまったようだ。通常は証券会社の担当が病院に行って確認をするのだが、今年は商法の改正で、紙で発行していた株券が廃止になりコンピューター管理になった為、その移行作業に追われた証券会社は、病院への確認をせずに変更を受理してしまった。しかし、寸前の所で高嶋さんが証券会社に連絡して、変更手続きを止めることが出来たと、笑顔で話してくれた。

「よく考えてみると、どうせ私が死んだら財産は全部妹にいくし、妹が死んだら結局、敏子の所にいくのだから、子育てで大変はこの時期に、生前贈与として少し分けても良いかと思うわ」

「南大崎リハビリ病院に入院していた頃は、敏子さんへの怒りが満ち溢れていましたけど、だいぶ穏やかになりましたね。自分は高嶋さんの血圧を心配していたので、今はとても安心しています」

「それか、あなたに全部あげちゃおうかしら」

 半分真面目な顔で言ってきたので、笑いながら答えた。

「そうしたら、僕は仕事を辞めて、旅に出ます」

「それじゃあダメね、あなたはとても上手いから、この仕事に向いていると思うし、これからもたくさんの患者を救ってあげると思うから」

「自分は、高嶋さんとたいしたリハビリが出来ていなかったですよ。上手く出来たのは血圧測定くらいです」

「違うわよ、あなたは人の心を掴むのが上手いのよ。でも、それはとても大切な事よ」

 やさしい顔で言ってくれた。

「まぁ、それが自分の仕事ですから」

 照れながら言うと、ニコッと微笑んでくれた。

 そして、高嶋さんは1週間の点滴治療を終え、自宅に退院して行った。

 

 あれだけ、敏子さんに対する怒りが強い状態で家に帰っても、血圧が上がって脳出血のリスクが高まるだけだと心配していたが、再会して、自分の事だけじゃなく周りの人達の事を考えられるようになっていたので安心した。もう20年くらいは穏やかに過ごせるのではないかと思った。


 私たち病院で働く理学療法士は、患者様の状態を把握し、機能回復と自宅退院までのサポートをするのが主な仕事であるが、自宅に帰ってからも転倒の危険がないか、健康な食生活は送れるか、服薬管理は出来るかなどの、命に関わる重要な事はある程度予測して退院の調整をする。

 しかし、それ以上に、私たちが心配しなくてはいけない事は、退院後に家族や友人達と、よりよい人間関係を築けるかどうかである。その為にも、患者様とその家族としっかりコミュニケーションを取ることが重要になってくる。


 人が、一生のうちに何らかの形で出会う人数は約3万人と言われている。その中で、挨拶や仕事上の簡単な会話をする人は3000人、友人や同僚など親密な会話をする人は300人とされている。私たち、医療従事者達は、仕事柄、仕事上の簡単な会話をする人数が多くなる。

 現に、理学療法士が1日に担当する患者様は平均14人、毎月約10人程度の患者様が新しく担当として振り分けられるとして、1年間に120人、理学療法士として30年働いたら、4000人近くの患者様の治療に関わる事になる。ただ、その4000人が、仕事上の会話をする関係で終わるのか、それとも、友人や同僚のように親密な会話をする関係になるかは、患者様の気持ちをどれだけ理解して接する事が出来るかだと考える。

 この病院の診療理念にある、“患者様を自分の家族として考えて診療に励む”と掲げているように、理学療法士としてこれから関わっていく患者様を、自分の家族と同じように接し、仕事を通じて人生のうちに300人程度しかいないとされる、親密な会話をする人数を増やしていく事が、良い治療をしたことになるのだと感じた。

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