第3話 運命の初担当

今年、南大崎リハビリテーション病院に入職した新人理学療法士5人は、無事に国家試験に合格し、理学療法士と書かれた名札が配布された。


それでも、スーパーバイザーの先輩から引き継いでいた患者様方には、そのまま、先輩のお手伝いとして関わるように言われた。


 そして、5月の連休が過ぎた頃から、この病院に新しく入院してくる患者様の担当に、私たち新人の理学療法士が選ばれるようになった。


これからは、新人であっても担当理学療法士として、患者様と接していく。


しかし、新人教育プログラムのスーパーバイザー制度は、入職から半年間は予定されているので、それまでは今まで通り、先輩の監視下でリハビリを行っていく。


 自分に初担当の機会が回ってきたのは、ゴールディングウィークが明けた月曜日であった。

患者様は、第2腰椎圧迫骨折を呈した宮田さんという86歳の女性。


前院からの宮田さんに関する情報によると、3週間前に自宅内で尻もちをつき、動けなくなっているところを、同居している12歳年下の妹さんが発見し、南大崎病院に救急搬送。


レントゲン上、第2腰椎に圧迫骨折を認めた為、1週間のベッド上安静を強いられることになった。


2週間後、ダーメンコルセット(腰のコルセット)を着用し、ベッド上安静が解除されたが、腰の痛みも強く、2週間もの安静により、自力で立ち上がることが出来ない程、足腰の筋力が落ちてしまった為、南大崎リハビリテーション病院に移り、リハビリを継続する運びとなった。


入院日、宮田さんの部屋に挨拶に行くと、妹さんが居たのでお話しすることが出来た。


妹さんは、毎朝、近くに住んでいる娘さん家族の家に行き、出勤時間が早い娘さん夫婦に変わって、高校生と中学生のお孫さんの朝食を作って食べさせてから、学校に送り出すまでを任されている。


その後、妹さんは囲碁教室に行ったり、コミュニティーセンターでやっているダンス教室に行ったりするため、帰宅するのは夕方近くになる。


従って、同居と言っても、宮田さんは日中殆んど独居状態となる。


朝食と昼食は妹さんが準備をしてくれるので、食事に関しては大丈夫だが、トイレは1人で行かなければならない。


 現在は紙おむつを使用し、トイレに行きたくなったらナースコールを押すように話しているが、尿も便もオムツ内にしている状態であった。


入院前は1人でトイレに行き、夜間のみパンツ型のオムツを使用していたが、殆んどパンツ内失禁はなかった。


妹さんは、宮田さんが約2週間ベッド上で安静にしていたことで、認知面の低下が強くなり、トイレに行けなくなっているのではないかと心配していた。


 実際に、入院時のHDS-R(改訂長谷川式簡易知能評価スケール)では、30点満点中16点であった。20点以下では、認知症の可能性が高いと判断される。


 認知症の原因となる疾患は、主に、蛋白質の一種であるアミロイドβが脳に蓄積して生じるアルツハイマー型認知症、同じく蛋白質の一種であるレビー小体が脳に蓄積して生じるレビー小体型認知症、そして、血流障害により脳の前側と横側が委縮して起きる、前頭側頭型認知症、さらに、脳梗塞や脳内出血で起こる血管性認知症がある。


 高齢者が、病院に長期間入院していると、呆けてしまうと言われる事があるが、それは、脳への血流量が低下して起こる、前頭側頭型認知症が関係していると考えられている。


前頭葉は、記憶や人格、感情のコントロールなど、人間らしさを形成する重要な部位であり、側頭葉も聴覚や記憶に関係している。


入院による自立性の低下や、他人とのコミュニケーション減少により、一時的に前頭葉の機能が低下が生じ、認知症の症状が出てしまう。


そういう場合は、一刻も早く、元の生活に戻す事が重要である。


 リハビリ初日、宮田さんの病室にスーパーバイザーの先輩と迎えにあがった。


宮田さんは、ベッド上、コルセットを腰に巻いた状態で仰向けに寝ていた。


挨拶をしてから血圧と脈拍を測定し、起き上がっていただくようにお願いすると、両手で両側のベッド柵を掴み、仰向けのまま上体を起こして起き上がろうとした。


「ちょっと待って下さいね」


 すかさず、スーパーバイザーの長津さんが止めた。


 宮田さんが装着しているコルセットは、全体がメッシュ素材で、前面にマジックテープで留めるバンドが4つ付いている。


先輩が宮田さんのコルセットがちゃんと着けられているか確認したところ、前面のバンドは限界まで締まっていたが、横向きでコルセットの後部を確認すると、コルセットの長さを調節する紐がほどけていた。


これでは、いくらバンドを巻いてもコルセットは締まらない。


横になっている時はコルセットは着けないで良いが、自分で着け外しが出来ない方は、寝ている時もコルセットを着用し、バンドを緩めている事が多い。その為、そのような患者様は、起きる前にコルセットのバンドをしっかり締める必要があると注意された。


 さらに、起き上がる前に横を向いてもらう事で、体動による痛みがあるかの確認が出来ることも教わった。


 体動による痛みとは、寝返りや起き上がりなど、体を動かした時に生じる痛みである。


脊椎圧迫骨折とは、背骨の前側が潰れた状態なので、座って背中を丸めると、骨折部がさらに圧迫され痛みが強くなる。


レントゲンを使用した評価では、横向きで寝る方が、仰向けに比べ骨折部にかかる圧が高く、座った状態ではさらに圧迫が強くなることが分かっている。


つまり、横向きになって痛みが強くなれば、腰かけた状態ではさらに負担が増え、痛みが強くなることを予測しなくてはならない。


 このように、脊椎圧迫骨折では、前傾姿勢を抑制し、なるべく骨折部に圧迫がかからないようにしなくてはならない。


 30年以上前は、圧迫骨折の患者の、上半身を限界まで反らした姿勢でギプスを巻いて固定をしていたが、現在は一部の若い患者様で行われるだけである。


殆んどのケースでは、2~3週間のベッド上安静後、コルセットを作成し退院となる。


 圧迫骨折治療ガイドラインによると、圧迫骨折後2~4週間で骨折部が安定するので、その間は基本的にベッド上安静を推奨しているが、75歳以上の後期高齢者や、入院時の認知症テストが低いと、安静による廃用症候群や認知症の進行を懸念し、コルセットが完成し次第、早ければ受傷後1週間で痛みに合わせて起き上がらせる。


 骨折部の不安定性が強いと、骨折部にセメントを注入して背骨を固める手術や、上下の背骨を支柱で固定する手術も行われている。


 圧迫骨折後は、骨折部が動かないようにすることが重要だが、ベッド上安静にしていれば良いかと云うと、そうとも限らない。


動かないことによる筋力低下や関節拘縮は、骨折部の安定性までも低下させてしまう。


その為、ベッド上安静期間であっても、理学療法士と一緒に、脚の運動や寝返り練習を行う。

 宮田さんは、寝返りでは痛みが出ないようなので、起き上がってもらうようにお願いした。


すると、顔を引き攣らせて起き上がろうとされた。


上体を起こすのを少し手伝い、起きて座ってしまえば痛みは落ち着いたようだ。


その後、手の支えなしでも立ち上る事が出来た。


しかし、痛みの為か脚を持ち上げられず、歩く事が出来なかった。


そこで、サークル歩行器と云う、車輪が付いた腕で支えられる歩行補助具を渡してみると、上半身で寄りかかり、歩くことが出来た。


本人も気に入った様子で、そのままリハビリ室に歩いて向かうことにした。


 リハビリ室ではベッドに横にならずに、椅子に腰かけて、脚の関節可動域と筋力の検査を行った。


関節可動域は、ゴニオメーターと呼ばれる分度器のような道具で、関節の曲げ伸ばしや捻じる角度を測定する。


それぞれの関節に正常値があり、その角度に満たない場合は可動域制限となる。宮下さんの脚の可動域に制限はなかった。


 筋力は、徒手的にグレード0~5まで、6段階に分類するMMT(Manual Muscle Testing)を使用する。


グレード0は筋肉の収縮も起きない完全麻痺な状態、グレード3が重力に抗して関節を動かし最大可動域で保持できる状態で、出来なければグレード2。


例えば、腰かけて自分の力で膝を伸ばし、伸ばしきった状態で保持できればグレード3。


さらに、その状態で検者が被検者の足首を上から押し、それにも負けず伸ばした状態を維持できればグレード4、さらに強い力で押して抵抗できればグレード5となる。


 宮田さんの脚の筋力は、股関節を外に広げる中殿筋がグレード2で、その他の股関節を曲げたり閉じたりする筋肉はグレード3であった。


やはり、筋力がだいぶ落ちていた。


 圧迫骨折の治療では、骨折部を安定させる事を最優先に考えられるが、その為には、腹圧を高める必要がある。


腹圧を上げるには、コルセットを巻く、腹式呼吸でインナーマッスルを鍛える、そして、動作の開始時に掛け声を出す、と云う3つの方法が勧められている。


そこで、宮田さんのリハビリは、まずは椅子に腰掛けて腹式呼吸と発生練習を中心に行い、痛みに合わせて、サランラップの芯を足裏で転がし、股関節周囲の筋力トレーニングを実施していく事にした。


 初日のリハビリは宮田さんの体調を考え20分で終了した。


宮田さんを部屋まで送り、これからは、歩行器を使ってトイレにお連れするように看護師にお願いに行った。


しかし、宮田さんはトイレの訴えがなく、現在は尿も便もオムツ内にしているから無理だと言われてしまった。


入院前までは自分でトイレに行っていたのに、こんな短期間で尿意がなくなるはずがない。


しかし、この病院で看護師に楯突いても良いことがない。


「分かりました」


歩行器を回収しに、ナースステーションを出ようとした時、


「もし歩行器を使って歩けるなら、時間誘導でトイレに連れて行くわよ」


 奥で聞いていた看護師長が言ってくれた。


 時間誘導とは、尿意のあるなし関係なく、毎日決まった時間にトイレにお連れしトイレで排泄を促すことである。


宮田さんの場合は、朝9時と昼15時にトイレに誘導してもらうことになった。


初めのうちは、トイレにお連れしても排泄がなく空振りが多かったようだが、5日目にはトイレで排便し、その後も尿はオムツ内だが、2日に1回はトイレで排便出来るようになった。


 そして、リハビリを開始してから1週間、起き上がり時の腰痛が軽減したのか、1人で起き上がり、サークル歩行器を使いトイレに行く姿を目撃したと、看護師から報告があった。


 この病院では、入院患者様の移動手段は、担当の理学療法士が決めることになっている。


現在の宮田さんの移動手段は、サークル歩行器を使用し見守り歩行としている為、宮田さんに1人で歩かないように説明するか、1人で歩くことの許可を出さなくてはならない。


 スーパーバイザーの長津さんに報告すると、宮田さんの歩行をどう評価したか聞いてきた。


上半身で寄りかかれるサークル歩行器での歩行は安定しているが、手だけで支える杖や、壁や手すりを伝っての歩行は危ないと考えていると説明した。


この病院は築50年以上でトイレの造りが古く、入り口が狭い上に約5㎝の段差がある為、サークル歩行器で中に入る事が出来ない。


従って、伝い歩きか杖歩行が出来ないと、トイレを自立にするのはまだ危ない。


「それを宮田さんに説明して理解してもらえそう?」


「理解はしてもらえるけど、認知力の低下があるので、それを覚えて頂けるかは不安です」


「だったら、宮田さんのベッド脇の壁に、トイレに行く時はナースコールを押して下さいと書いた紙を貼り、看護師にはサークル歩行器での歩行は自立でも良いが、トイレ内の伝い歩きは転倒のリスクが高いので、1人で歩いている所を見かけたら声掛けして、トイレに行くようなら付き添ってもらうようにお願いしてみたら?」


 長津さんのアドバイス通りに説明すると、看護師は快く了承してくれた。


 その後、1週間の間に宮田さんがナースコールを押すことは1度も無かった。


しかし、1日に1~2回は病棟のスタッフが、歩いている宮田さんを見つけ、トイレへの付き添いに成功していると報告があった。


と、言っても、この頃には、オムツ内失禁がなく、排尿もトイレに行っているので、付き添い無しでトイレに行っている回数の方がはるかに多いと考えられる。


そして、さらに1週間が経過した頃、看護師長から、まだ宮田さんのトイレの付き添いは必要なのかと、問い合わせがあった。


 患者様の移動手段を決めるのは担当の理学療法士だが、経験の浅い新人は、スーパーバイザーの確認が必要であった。

 長津さんに宮田さんの歩行を自立にして良いか聞くと、現在の宮田さんの歩行はどうなのかと、いつもと同じ質問をしてきた。

 リハビリでは平行棒内での歩行練習をしていたが、両手の支えへの依存が強かった為、伝い歩きや杖歩行は危ないと考え実施していなかった旨を伝えた。

「じゃあ、実際に宮田さんがトイレで伝い歩きをしているところは見ていないのね?」

「見てないです」

「人間は、体に弱い部分があると、より楽に動こうと使える物や支えられる物を最大限に利用する傾向がある。だから患者様の希望通りにリハビリをしていたら、患者様の出来る能力をいつまで経っても把握出来ないよ。圧迫骨折では上半身を反らすと痛みが出やすいから、前方に寄り掛かり、前かがみのまま歩けるサークル歩行器に頼ってしまうのはしょうがないよ。だからこそ、理学療法士がサークル歩行器を卒業するタイミングを評価しなくてはならない。

例えば、サークル歩行器なしで歩くには、上半身を反らす動作が必要になるから、仰向けで両膝を立ててお尻を持ち上げる動きで痛みが出たら、まだ前傾姿勢での歩行が良いのではないのかと考えるし、椅子に腰かけて、足踏みをした時に痛みが出るようでは、左右への体重移動が上手く出来ないので、杖を使った方が良いのではないのかなど、教科書には載っていない、自分の中での評価基準を持っておくのが大切だよ」

 宮田さんの状態をしっかり把握出来ていない自分に対し、半分怒ってる様子で説明してくれた。


 実際に宮田さんは、仰向けでのお尻挙げは痛みなく出来たが、椅子に腰かけての足踏みでは痛みが出ていた。先輩が教えてくれた評価基準では、独歩は無理だがT字杖の歩行は安定するはずだった。そこで、T字杖歩行を試してみたが、両手で杖を持ち、体の横側ではなく前側でついてしまう為、サークル歩行器に比べ、歩行速度が著しく低下した。そうなると、壁や洗面台に手を掛けて歩く、トイレ内の伝い歩きは転倒のリスクが高いと考えたが、実際に、宮田さんにトイレ内を歩いて頂くと、両手で伝いながらふらつく無くトイレ内を移動出来た。1回見ただけで、安全と判断するのは早い気がしたが、思った以上に安定していたので、看護師に、宮田さんの移動手段を、サークル歩行器を使用し病棟フリーに変更したこと伝えた。

 

 その後、スーパーバイザーの長津さんにも、宮田さんの移動手段の変更を報告した。

「リハビリ中はある程度無理な事が出来ても、理学療法士が付いていない病棟での移動は、何より安全でなくてはならない。志村君は安全面には十分配慮が出来ていると思う。しかし、病棟での移動において、訓練的要素を含まないと機能回復が遅れ、入院期限内での退院が出来なくなることがある」

 遠回しに、理学療法士としての評価不足が、患者様の機能回復を遅らせていると注意を受けた。そして、それに追い打ちをかけるかのように1週間後、宮田さんがサークル歩行器を使わずに、廊下を伝い歩きしていると、看護師から報告があった。さすがに、ここまでくると、長津さんも黙ってはいなかった。

「毎回、看護師からの事後報告で移動手段を変更して、患者様の能力を把握出来ていないね」

 すぐに病棟に上がり、宮田さんの、ベッドからトイレまでの歩行を確認させて頂いた。すると、手の支えなしではまだ歩きにくそうだが、片手でも壁などに着き、前傾姿勢を維持すれば、スムーズに歩けていた。ここまできたら、宮田さんの移動手段を、サークル歩行器なしでの歩行フリーにするしかない。 

 長津さんに相談しても、迷わずに賛成してくれた。

「もし、自分が宮田さんの担当だったら、宮田さんが自力で起き上がれるようになった時点で、病棟独歩フリーにしていたね。そして、歩行時に痛みがあったら使って下さいとサークル歩行器を貸し、看護師には基本的にはフリーですが、トイレの場所が分からなそうでしたら声掛けをして下さいと頼む。その方が、病棟スタッフに余計な仕事を増やさなくて済むでしょ」

「それでは、宮田さんの状態を、そのつど評価したことにならないのではないですか?」

 初めて長津さんに反論してしまった。

「それは違うよ。患者様の能力を常に評価することは大切だけど、その前に、患者様の性格や人間性を理解することが重要。宮田さんは、認知力の低下があるけど、痛い事や危ない事を無意識のうちにやってしまうようなタイプではないでしょう。立った状態から座る時に、ベッドや椅子の位置をしっかり手で確認してから座るし、人の気配にも敏感になっているから、とても慎重な性格と言っても良いのではないか。たまたま宮田さんは、志村君の指示を無視して自分が出来ると思ったことは自分から行動に起こしていたけど、もし指示をしっかり守ってくれる患者様だったら、いつまで経っても自立出来なかったと思うよ」

 さらに、自分が宮田さんを一人の患者としか見ていなく、自分達の3倍近くも人生を経験している方を、人生の先輩として尊重して対応していないことを指摘してきた。

「そもそも宮田さんは、志村君にいじわるしようとして指示を守らなかった訳ではないと思うよ。朝7時過ぎに病棟を通りかかると、宮田さんが廊下で立っている所を何度か見かけたけど、どうしたか声を掛けたらトイレを探しているって事が、ここ1か月で5・6回あったよ。要するに、宮田さんは認知力が若干低下していて、トイレの場所を忘れやすくなっているから、それが不安で何度もトイレに行き、場所を忘れないようにしていたのではないかな。だから、志村君がそれに気付いて、宮田さんに見えるように病室からトイレへの誘導を示した張り紙を貼っていれば、宮田さんもある程度の指示は守れていたかも知れないね。ただ、結果的にこの事を志村君に言わない方が、宮田さんの歩行能力が改善するかと思ったから今まで言わなかったけど」

 反論することが出来なかった。


 そして、宮田さんが当院に入院してから1か月が経過し、2回目のカンファレンスの日となった。当院では、毎週水曜日の昼休みに、患者様のリハビリ状況を報告して、退院時期や転院が必要かなどの方向性を決める会議を実施している。入院直後の水曜日に初回を行ない、その後、4週間隔でカンファレンスの対象となる。宮田さんの1回目のカンファレンスでは、屋外は基本的に1人で出ないので、自宅内のトイレが1人で行けるようになれば、自宅退院する方向で決まっていた。そして、1か月が経過し、T字杖歩行はまだ安定しないものの、トイレには行けるレベルになっていた。

「だいぶ、良くなりましたね。では、もう退院で良いですか?」

 自分が、宮田さんの経過を報告すると、田辺先生から聞かれた。基本的に、患者様が退院するには主治医の許可が必要だが、リハビリ病院では理学療法士の意見が重要視される事が多い。当院においても、患者様の自宅退院のタイミングや、リハビリ継続が必要な患者様の転院の提案も、理学療法士が行なっている。


 宮田さんに関しては、もう少し当院でリハビリをした方が、歩行の安定性が上がると思い、1か月後の自宅退院を提案した。しかし、看護師長より、最近、宮田さんが食後30分もしないで、食事はまだかと看護師に確認しに来たり、昼寝が長くなったせいか、夜中に病棟を歩き回ったりしていると報告した。つまり、認知力低下が進んでいるのではないかと心配をしているので、自宅への早期退院を勧めているのだ。

 確かに、身体面だけでなく精神的な面も考えると、早期に自宅に退院し自分が出来ることは自分でやった方が、認知力低下の予防に繋がると考えられる。しかし、元々、デイサービス等の交流の場を嫌う宮田さんにとって、自宅で日中独居になると、他人とのコミュニケーションが減り、逆に認知症の悪化に繋がることも考えられる。ただ、この場でそのような発言をする勇気はないし、当院への入院待機の患者様が現時点で30人を超え、病院全体が早期退院の方針を掲げている中、理学療法士の判断で、患者様の入院期間を延ばす事は出来ない。ここは黙って頷き、2週間以内に自宅退院することに決まった。

 

「2週間後にT字杖歩行安定は厳しいですよ」

 ミーティングの後に、スーパーバイザーの長津さんに愚痴をこぼすように言った。

「何で厳しいの?下肢の筋力がまだ低いから?骨折部の痛みが強いから?歩く練習量が少ないから?」

 そう言われると、筋力が著しく低下している訳でもなく、痛みが強い訳でもなく、ただ、コルセットを巻いて歩く事に慣れていないのが原因かと思い、練習量が足りないのかもしれませんと答えた。すると、リハビリ時間を増やせばどうかと提案してくれた。

 

 宮田さんのリハビリは、午前中にリハビリ室で40分行っている。整形外科疾患では、1日2時間まで実施出来ることになっているので、リハビリ時間を増やすことは可能であったが、患者数に対し、理学療法士の数が足りていない為、患者様一人に対し理学療法士が個別に対応できる時間は20分が限度であった。

 しかし、私たち新人理学療法士は時間に余裕があったので、一人の患者様に対し1時間くらいなら個別にリハビリを行う事が可能であった。そこで、翌日より午前中は今まで通りリハビリ室で行い、午後に病棟での歩行練習を20分追加することにした。

 ミーティングで2週間後に退院目標となったので、妹さんにその旨を伝えた。妹さんにしてみれば、宮田さんが歩けなくなるよりも、認知症が進んでしまうことの方が心配をされていたので、2週間後の自宅退院には快く了承してくれた。

余計な事かと思ったが、自宅に帰っても他人とのコミュニケーションが減ると、認知力の低下に繋がってしまう事を説明した。デイサービスなどが嫌いならば、妹さんと一緒に近所の散歩をしたり、訪問リハビリを利用したりして、会話する機械を増やすことが重要ですと伝えた。

 そして、予定通りミーティングから2週間後に宮田さんの退院日を迎える事が出来た。ここ2週間、歩く量を増やした結果、T字杖を使って1人で病棟を歩けるようになった。しかし、杖を体の前方に着いてしまうのは改善しなかった。背中が丸くなって姿勢が悪くなったり、背骨の骨折部がさらに潰れてしまったりしないか心配ではいたが、宮田さんにとってはその方が歩きやすいのだから、無理に修正する必要はないのではないかと長津さんが言ってくれたので、杖は使いやすいように使って下さいと宮田さんに説明して送り出した。


 こうして、自分にとって初めて担当した患者様が、無事に自宅に退院することが出来た。しかし、自分がリハビリをして退院に導いたと言うより、宮田さんの症状が自然に回復していくのを、指を咥えて見ていただけという感じであった。むしろ、宮田さんの回復の妨げになっていなかったか心配にもなった。そういう意味でも、宮田さんとの時間は、自分の理学療法士の第一歩として、とても貴重であった。そんな宮田さんと、後に運命的な再会をするとは、この時点では思いもしていなかった。

 

 脊椎圧迫骨折では、急性期の安静と、痛みを出さない動作指導が重要であり、運動療法では筋力低下の予防と全身のストレッチを行う。骨折による痛みが強いと、全身の筋肉が緊張し柔軟性が著しく低下する。そういう場合は、骨折している部分以外の背骨の可動性を獲得する事が大切であり、それには関節モビライゼーションと呼ばれるテクニックが必要である。しかし、学校ではそのような手技を習う事がなかった。関節モビライゼーションを習うには、学会に入会して定期的に講習を受けていかなくてはならない。

 長津さんに、そのような手技を習ったことがあるか聞いたが、この病院では、そのような関節モビライゼーションを特別に習いに行った理学療法士は今のところいなかった。それもその筈、この病院の院長である田辺先生は脳神経外科専門医であり、当院に入院される患者様も脳血管障害を呈した方が多い為、片麻痺や高次脳機能障害に対する治療に力を入れている傾向があったからだ。

 従って、この病院で理学療法士として働いていくなら、片麻痺や高次脳機能障害に対する治療が出来るようにならないと仕事にならない。当院では、片麻痺の治療に関する学会に入会している先輩が多いので、基本的な治療は先輩から教わることが出来る。しかし、自分はスポーツの世界からこの理学療法士を目指したのだから、整形外科分野に興味があり、将来はスポーツ選手の治療にも携わりたいと考えていた。

そこで、この3か月後に関節モビライゼーションの学会に入会し、入会金と初回の講習会費、そして資材の料金を合わせて約20万円を払った。

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