第3章 *3*

 深呼吸を一度。サミルは気を引き締めて、ロードンていを見上げた。

 何度見ても不気味な雰囲気の漂うそのたたずまいと、やしきの前に並べられた趣味の悪い置物は、大分見慣れてきたものの――。

「仕方ないよね……仕事だもの!」

 配達した後のどうでもいい雑談に、適当に愛想あいそ笑いを浮かべて「はいはい」と従順じゅうじゅんに答えてさえいればいいのだ。

 他には、二度目に配達へ行った時に決められたこと――やしきに入る時は、必ず帽子を外すこと――それさえ守れば、あとはひたすら時が過ぎるのを耐えるだけだ。

 そんな風に割り切って考えられるようになってきた自分に驚きつつ、サミルは呼び鈴を鳴らした。

 ややすると扉が開かれ、いつもと同じ使用人の後について長い廊下を歩き、最奥さいおうにあるロードンの書斎へと通される。

 そこは、たまには換気した方が良いのではと指摘したくなるほど、いつも煙草たばこの白い煙と臭いで充満した部屋だった。

 嫌な顔を見せないように努めながら、サミルは今日の荷物――いつもより少し大きめの木箱を、ロードンに差し出した。

「いつもお世話になっております、ロードン様。本日のお荷物をお届けに参りました」

 帽子を胸元に当てながら、深々と礼をする。

 と、ロードンは満足そうに「うむ、ご苦労」と答え、やはり木箱を大理石のテーブルの上に投げ置いた。

「さて、今日もお前さんには、ためになる良いことをワシが教えてやろう。さあ、そこに座って」

「はい、ロードン様。今日はどのようなお話を聞かせていただけるのですか?」

 精一杯の笑顔を浮かべながら、サミルはそう言ってソファに座る。

 すると、ロードンはテーブルの脇に置かれていた鈴を鳴らし、使用人を呼び寄せた。

 しばらくして現れた使用人は、手際よく紅茶を入れると、カップをサミルとロードンの前に置き、すぐにまた去っていった。

「……あの、これは?」

「良い香りじゃろう? これはな、最近、アエスタ国で女性に人気の、飲むと胸が大きくなる高級茶なのだよ。ほら、お前さんだってもっとこう……ね?」

(……胸が小さくて悪かったわね! 余計なお世話よ、エロジジイ!)

 内心では悪態あくたいをつきながらも、サミルはなんとか微笑み返す。

「お気遣いありがとうございます。有り難くいただきますね」

 本当はどこの怪しいお茶かわからないものなんて飲みたくはなかったが、サッサと帰るため、サミルは思い切って一口飲んだ。

(なんだか、ちょっと苦いわ……)

「どうかね、独特の苦味があるようだから、砂糖を入れてもいいのじゃぞ」

「……いえ、このままでも充分、美味しいです」

 その答えに満足げな笑みを浮かべたロードンは、それからいつもの自慢話を始めた。

 やれ友人の誰それがアエスタ国に旅行にいって、めずらしい置物を自分に買ってきてくれただの、親しくしている王妃様に贈った毛皮のバッグが喜ばれたの……延々えんえんと途方もない話を聞かされているうちに、サミルは睡魔すいまに襲われた。

(やだ、私ってば。いくらつまらない話だからって眠ったりなんてしたら……)

 長く続く退屈な話のせいか、それとも、ユイナの家で能力を使ったことで消耗していたのか。そもそも、こんなところで居眠りなどしてしまったら、ロードンに何を言われるやらわかったものではない。

(眠っちゃ……だめだってば……)

 サミルは必死で抵抗を試みる。が、抵抗むなしく身体からどんどん力が抜けていき、とうとう意識を手放した。

 サミルはまぶたを閉じる寸前、満足そうな笑みを口元に浮かべたロードンが近づいてくるのを見たような気がしたが、その時はもう何も考えられなくなっていた。


 ――それからどれくらいの時が経ったのだろう。

 目を覚ましたサミルは、慌てて時刻を確認しようと腰につけていた懐中時計に手を伸ばそうとして、やけに腕が重く、動かせなくなっていることに気がついた。

 仕方なく視線だけを動かせば、カーテンの隙間からわずかに覗いた窓の外は、すっかり暗くなっていた。

(ちょっと、私ってば、どんだけ寝ちゃったのよ!)

 やはり、仕事中に能力を使ったのは迂闊うかつだったかと思い、すぐにその考えを否定する。

(ううん、想いを伝えたことを後悔はしていないし、人のせいにしてはいけないわよね……)

 そう思い直し、ロードンに怒られるのを覚悟したサミルは、横たえられていたソファから起き上がろうとして――失敗した。やはり体がなまりのように重たく感じられ、ちっとも動いてくれなかった。

(なにこれ、なんか私、変じゃない……?)

 能力を使って疲れた時のダルさとは少し違い、まるで何かによって強制的に力が入らないようにされているような――と、そこでふと、ロードンに飲まされた高級茶のことがサミルの脳裏のうりに浮かんだ。

「……もしかして」

 そのつぶやきに、いつからいたのか、サミルのすぐ傍でロードンが静かに笑った。

「ふむ、あれはなかなかの効き目だったようじゃなあ。よぉく眠っておったが、気分はどうかね」

(やっぱり私、何かを飲まされてたんだ!)

 サミルは己の不覚さを思い知り、激しい自己嫌悪に陥った。

 いで、まさか、眠っている間に変なことはされなかっただろうかと急に不安に襲われる。

 必死の思いで、服を着ているかを視線だけ動かして確認し――着ていたはずの深緑色のベストが脱がされていることに気がついた。しかし、シャツはちゃんと着ているし、乱れた様子もない。

 それでも、気分は……。

「最悪……」

「そうかね、ワシは最高な気分じゃよ。今宵こよいは満月――なんと言っても、獣人じゅうじんの中で最も美しいを持つとわれる銀犬狼族ぎんけんこうぞくの、生きている姿を見ることができるのじゃからなぁ!」

(……そういうことだったのね)

「最っ低……」

 獣人だと知っても驚かないどころか、妙に興味を示してくると思ったら、目当てがまさか『毛皮』だったとは――。

「ところでお前さんは、今、自分が横になっとるそのソファに何の毛皮が使われとるか、気付いていたかね?」

「……まさか」

「そのまさか、獣人たちの毛皮じゃよ。獣人たちが獣姿に変わる満月の夜を狙って狩った、な。廊下に敷いてあるあの美しい絨毯じゅうたん猫兎族ねこうぞくのものなんじゃが……なめらかで柔らかく、実に歩き心地抜群だと思わないかね?」

「……っ」

 ――ひどい吐き気がした。

 と同時に、こんな男の欲望を満たすためだけに狩られた獣人たちのことを想像して、サミルは悲鳴を上げそうになった。 

 ――涙が溢れそうになった。

 今まで何も気付けなかった自分に腹が立って、何もできなかったことが悔しくて、獣人が『モノ』としか見られていないことが悲しくて。

 溢れそうになる様々な感情を、サミルは混乱しながらも必死に押し殺した。

「さて、そろそろ、お前さんには満月の光を浴びてもらって、美しい姿を見せてもらうとしようかねぇ」

 パチンと指を鳴らすと同時に現れたいつもの使用人の青年は、無言のまま、無表情のまま、ソファに横たえられていたサミルを抱き上げた。

「やっ、やだ……離して……」

 窓辺に向かって歩いていく青年の足は止まらない。抵抗しようにも、体に力がまったく入らなかった。

(もう、だめ……)

 サミルはぎゅっと目をつむった。

 しかし、満月を見なくとも、月光に反応して体が徐々に獣の姿へと変化し始める。

「おおっ……これはなんと美しい――」

 完全な獣姿に変わり、ロードンの興奮した歓声が上がったその瞬間――部屋のドアを蹴破けやぶって、誰かが駆け込んでくる気配がした。と同時に、聞き慣れた声が――今一番来て欲しくなかった人の声が、サミルの耳に飛び込んできた。

「サミルっ!?」

 めずらしく焦った表情を浮かべているセオの後ろには、グランディと、なぜかシェルスの姿もあった。

「これは一体どういうことなのか、説明していただけますかね、ロードンさん」

 グランディはずかずかとロードンの方へと歩いていくと、いきなり胸倉むなぐらつかんだ。

「な、なんじゃね、お前たちは! 人の家に勝手に入りおって! こら、離さんかっ! 誰か、こいつらをつまみ出せ!」

 しかし、ロードンの傍にいた使用人と、廊下から剣を持って入ってきた警備員たちは、シェルスとセオの見事な体術と剣術によって、瞬時に壊滅かいめつされた。

「で、ウチの大事な想伝局員はどうしたんです?」

「ひっ、ひぃぃっ! そ、そこにいるじゃ、ないかっ!」

 その場で動けないままうずくまっていたサミルは、ロードンに指さされ、ビクリと身体を震わせた。

 グランディとセオとシェルス、三人の視線が痛いほどに突き刺さる。

「……お前、あの夜の野犬やけん? いや、サミル……なのか?」

 確認するようにつぶやかれたその言葉に、サミルは返事できなかった。

 ようやく動くようになってきた足に力を入れて、よろよろと立ち上がると、散らばった制服と鞄を器用に背に乗せて、窓から外へ飛び出した。

「……サヨナラ」

「待てよ、おいっ……! サミルっ……!?」

 自分の名を何度も呼ぶ声を背中に聞きながら、あとはもう無我夢中むがむちゅうで駆け続け、サミルは気がつくとあの夜と同じ小屋へと辿り着いていた。


「……バレちゃった。見られちゃった……。セオにも、シェルスさんにもグランさんにも、みんな……」

(明日、どんな顔をして行けばいいのかな……? どんな顔をされるのかな……?)

 せっかく、ここまで頑張ってきたのに……全部、無駄になってしまうのだろうか――。

 と、鞄を下ろした拍子に、中から小さなフルーツケーキが転がり出てきた。


 ――ケーキ包んどいたから、後でお食べよ。


 その時ふと、サミルの脳裏に、嬉しそうに微笑んでいたユイナの顔が浮かんだ。

(もう、いいや……)

 例え、誰にどんな顔をされようとも、これまで届けてきた想いは消えないし、あの笑顔を自分が忘れることさえなければ――。

(きっと、無駄になんか……ならないよね?)

 サミルは小さなケーキを頬張ほおばると、口いっぱいに広がった優しい香りを、ぎゅっと噛み締めたのだった――。

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