第3話 寝相
目が覚めると、俺は眠っていたはずのベッドから転がり落ちていた。
落ちた時の痛みは感じなかった。
目を開き、天井がいつもより少しだけ遠いことに違和感を覚え、そこで初めて自分がベッドの上にいないことを知った。
普段はそれほど寝相が悪いわけではない。
怖い夢にうなされた覚えもない。
しかしベッドの下に落ちていたこと以外、これといって特に変わった点はなかったので、疲れていただけだろうと自分を納得させた俺は、いつもと変わらない平凡な一日をスタートさせた。
しかしその翌日、俺はまたベッドの下に落ちていた。
しかも今度は、体をひと転がりさせたほど離れた場所だ。
それでもやはり初日と同様、目覚めが悪いというわけではない。
グッスリと眠った後の爽快感と共に朝を迎える。
問題は目を覚ます場所だけ。
さらに次の日は、問題が少々深刻だった。
ベッドからの距離は前日の倍になり、部屋の壁際にまで転がった位置で、俺は目を覚ました。
これはいよいよ病院で診てもらったほうが良いかもしれない。と、俺は自虐的に笑って熱めのシャワーを浴びた。
ともあれ、これ以上の距離は物理的な限界がある。
部屋の壁に阻まれて、もう距離を増やすことはないだろう。俺はタカをくくっていた。
そして案の定と言うべきか、またしても俺は壁際で目が覚めた。
これで四日目、もう慣れたものだ。
たいして驚きも湧かない。
しかし昨日は体の左側にあったはずの壁が右側にあった。
つまり体の向きが、上下に百八十度ひっくり返ってしまっているということになる。
俺はうんざりしながら、床から体を起こした。
ところが、だ。
そこは知らない部屋の中だった。
テレビやテーブル、見たこともない調度品が並べられている。
それにカーテンなどの色合いもピンクを基調としていて、若い女性が住んでいるような雰囲気がした。
より状況を把握しようと、もう一度周囲を観察する。
間取りは俺の部屋と同じだ。
誰かが俺の寝ている間に忍び込んで、勝手に模様替えしていったのではないかとも想像したが、そんな馬鹿なことをする奴はいない。
俺自身のほうが他人の部屋に移動したと考えたほうが、まだ可能性がある。
俺は「まさか」と思いつつも、その可能性が正解だった場合には非常にマズいと、玄関から慌てて外へ飛び出した。
すると思った通りだった。
そこは見慣れた共用通路。
ただし俺の部屋と隣り合わせの部屋の玄関から、俺は出てきていた。
つまり……俺の住むマンションの自分の部屋から壁を通り越し、寝ている間に隣の部屋まで来てしまっていたのだ。
幸いながら、部屋の住人は留守だったので大事には至らなかったが、只ならぬ出来事に、俺はひたすら動揺した。
言うまでもなく自分の部屋に帰ってから、今度はすぐに病院へ向かった。
診察の結果、体のどこにも異常は見つからなかったが、異常な事態は、それで終わりではなかった。
俺が恐れていた通り、五日目はまた少し距離が伸びていた。
隣人の部屋の中、壁から少し離れた場所で俺は目を覚ます。
部屋が変わっても、移動する距離の増加は一定らしい。
こうして毎朝、自分のベッドから遠退いていく。
十日目になると、ついに俺は建物の外で目を覚ました。
俺の部屋は七階なのだが、高低差に関しては厳密ではないようだ。
空中で目を覚ますといった魔術じみた現象はなく、マンションの外壁と敷地内の植え込みの間に横たわっていた。
さらに二十三日目には、マンションの敷地からもはみ出し、目を覚ました場所は路上だった。
この頃にもなると、俺は目を覚ました際のトラブルに備えて、部屋着ではなく外出着で眠るように心掛けていたので、今のところ警察沙汰になるような問題は起きていない。
ためしに、夜、眠る前に腕をベッドに固定してみたこともあったが、すべて無駄だった。
壁をすり抜けるぐらいなのだから、冷静に考えれば、その程度で歯が立つはずもない。
いつしか俺は、もう成り行きに身を任せる気になっていた。
そして俺の体に異変が起き始めてから五百九十四日目の夜。
ついに最も恐れていた事態がやって来た。
順当にいけば明日は電車の線路の上で目を覚ますことになる。
これで俺の人生も終わりか……。覚悟にも似た気持ちで俺はベッドに潜り込んだ。
だが翌朝、俺はベッドの上で目を覚ました。
正真正銘、自分の部屋の自分のベッドの上だ。
他の人間には当たり前に思えることを不思議に感じながらテレビを点けると、朝のニュースを放送しているところだった。
それは数年ぶりに『うるう秒』の調整がされたという内容。
たとえば7時ちょうどの前に『6時59分60秒』という時刻を挿入し、一日の長さを24時間と1秒にする。
地球の自転周期と、時刻の微妙なズレを訂正するためのものだ。
まさかと思いながら計算してみると、一日あたりの俺が前日とズレる距離が一致した。
どうやら俺の目を覚ます場所は、地球の自転がズレた位置だったらしい。
それが今朝、ようやくリセットされたというわけだった。
しかしこの時、俺はまだ気がついていなかった。
安堵したのも束の間、明日からまた少しずつズレ始めるということに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。