脚注49

〔なんの1号〕

 富士通が社運をかけたイベント「電脳遊園地」は「東京ドーム」で1989年3月に行われる予定だった。1年前に開場したばかりの、日本初の屋根付き球場は、野球ファン以外に中に入ったことのある者は都民でもまだほとんどいない。富士通は太っ腹にもそれを全館借り切り入場無料で新作パソコンの発表会をするという。


第1回電脳遊園地 IN東京ドーム

あしたの、あそびが、あつまった。

まじめにホビー。

ゆかいにビジネス。

めいっぱいフューチャー。

1989年3月10日(金)10時AM~5時PM

3月11日(土)9時AM~6時PM

3月12日(日) 9時AM~6時PM

予定イベント: 南野陽子、所ジョージ、山田邦子、田代まさし


そのパソコンはスペックの詳細不明ながら名前はFM-TOWNS。「パソコンが変わるタウンズが変える」とテレビコマーシャルは連日連呼した。

 キャンペーンガールは 南野陽子(みなみのようこ)21歳、愛称はナンノ。富士通のパソコンFM-RシリーズのCMでお馴染みだったが、今回の新型発表会では会場でトークショーがあり、歌があり、イベントの目玉と見なされていた。

ところが想定外のとんでもない事態が起こった。イベントのちょうど半年前の9月、昭和天皇が下血して入院したのだ。毎日の新聞に天皇の病状が、血圧、脈拍、体温、下血量、輸血量とセットになって発表された。国民はこぞってお楽しみを自粛し快癒を祈る。あらゆるイベントが自粛モードとなり、村々の鎮守の森の秋祭りも中止になる重苦しい秋が訪れた。

この事態はいつまで続くのか。3月まで続くのか。その可能性があるなら、早い段階で電脳遊園地を中止にし「自粛」した方がいいのではないか。しかしそれでは社運をかけた新作パソコンの売れ行きはどうなるのか。

懊悩の末に富士通はイベントを中止しないことを決断し、事態を見守った。イベントまでちょうど2ヶ月の1989年1月、昭和64年は7日間で終わった。電脳遊園地の開催日はぎりぎり49日の喪明けにすべり込んだ。

ところがイベント当日は別のとんでもない出来事が会場を揺るがせることになる。多くの入場者のお目当てであった南野陽子が当日になってドタキャンしたのだ。このイベントは3日で18万人の来場を記録し、盛況のうちに終わったのだが、空前絶後の来場数よりもナンノ・ドタキャンで永遠に記憶されることになる。

 それは南野陽子の社会性のなさとみなされ、激怒した富士通はキャンペーンガールを当時16歳の宮沢りえに振り替える。

しかし南野陽子の側にも事情があった。所属したのは、エスワンカンパニーという弱小事務所で作曲家の個人事務所のようなものだった。女優業についてはマネージメントが出来なかったので、青年座にマネージメントを外注する。急速に売れっ子になると、彼女のスケジュールを巡って両事務所が争い、頻繁にダブルブッキングが発生した。業を煮やして南野陽子は独立することになるが、それを契機としてエスワンカンパニーが倒産すると、数億円の負債が知らないうちに南野個人の名義になっていたという。

南野は苦境を打開するために、単身ハリウッドに渡り、ユニバーサルスタジオの門前でプロモーションの資料まで配ったという。

そんな事情は知る由もなくナンノ目当てだったファンは希望的観測まじりに、来年の第2回電脳遊園地にはナンノはきっとくると期待した。イエス・キリストの復活の日のように、その日はナンノ2号と呼ばれたが、その日がくることはついになかった。

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