第二十六話 セラムの戦いその1
ダリオの顔が醜く歪む。セラムは急ぎ隣の伝令兵の死体から弓と矢を取ろうとするが、そうはさせじとダリオが剣を振りかざし走り込んでくる。セラムは焦りながらも矢を一本抜き取るものの、弓の方は襷掛けに引っ掛けてあるせいで外す事が出来ない。
「はあっ!」
ダリオの剣が一閃し死体ごと弓の弦を両断した。一瞬早く飛び退いたセラムが転がりながら体勢を立て直す。その手には抜き取る事に成功した一本の矢のみ。仕方なく弓を諦め、その矢は腰に差して指揮刀を抜き放つ。
「どうしたあ。剣先が震えているぞ」
無理もない。相手は仮にも元副将軍。こちらは剣道ですら中学校の体育以来やった事の無い素人だ。無論斬り合いも殺し合いも経験が無い。
「くくく、無様だなあセラム・ジオーネ。安心しろ、貴様はすぐには殺さん。たっぷりと痛めつけて楽しんでから殺してやる」
セラムの体が震える。日本の不良共が軽はずみで使う「殺す」という台詞には無い本気の凄みがそこにあった。
「どうした、随分寒そうじゃないか。くくく、気が変わった。犬として飼われるのなら命だけは生かしてやってもいいぞ」
「……下衆が」
セラムが口角を上げてみせる。虚勢はそれが精一杯だった。
ダリオが再び走り寄る。薙ぎ払う剣を何とか刀身で受けようとするも逆に打ち払われ、いとも容易く指揮刀が宙に舞う。
「くっ」
セラムは踵を返し走り出す。
「今度は鬼ごっこか。いいだろう、偶には小娘と遊ぶのも悪くない」
セラムの無様な姿に嗜虐心をそそられたのか、ダリオはすぐに捕まえるような事はせず付かず離れずの距離を保つ。子供の女と大人の男の足だ。その気になればすぐにでも追い付くという余裕がそこにはあった。
(そうやってあいつが油断してる間に何とか打開策を考えないと)
しかし仲間と合流するような方向に行こうとすれば剣先が飛んでくる。それから逃れるように進めば進む程広場からも中心地からも遠ざかってゆく。
「どうしたどうしたあっ。足を止めたら刺さっちまうぞ!」
「ぐっ」
セラムを急かすように剣先が体を浅く刺す。痛くとも泣き言を言って下衆を喜ばせる気は無い。声を我慢しつつも手を考える。
以前来た時は門前の広場とその付近だけにしか行っていない。土地勘は無く、どこに何があるのかすら分からない。周りは見渡す限り家ばかり。しかし戦争中のこんな時に叫んだところで助けてくれるような奇特な人間がいる筈もない。
(こんな中で利用出来そうな物なんて……)
いや、一つだけあった。今見える建造物の中で一つだけ。
防壁。
(あそこにならきっとアレがある筈だ)
セラムは街の外周に向かって走る。全速力でこんな長距離、元の体だったら既に息が切れていただろう。だがダリオは悠々と追ってくる。大人の男の足の長さと鍛えられた兵士の体力に勝てる程のアドバンテージは無い。
(どこかで引き離さないと)
防壁はもう目前だ。ヴィグエントの防壁は厚く、要所に備えられた塔の中は兵の詰所の役割を兼ねている。王城にも似たような構造があったので、この規模の防壁ならば兵舎は必ずあるとセラムは確信していた。問題はその扉を開ける間にダリオに捕まってしまうだろうという事だ。
「そこの人、助けて下さい!」
「何っ?」
最後の辻を通り過ぎる最中にセラムが唐突に横に向かって叫ぶ。当然その方向には誰もいない。だがダリオは反応してくれた。その一瞬の隙にセラムは扉を引き開ける。今は有事であるから錠が掛かっていない事は予想していた。万が一錠が掛かっていたらと思うとぞっとしないが、幸運の女神はセラムに微笑んだ。
「この小娘っ……」
塔の中に滑り込んだセラムを捕まえようと伸ばしたダリオの手ごと思いっきり扉を閉める。
「っあああああ!」
巻き込んだ手が引っ込んだ隙に扉を閉め直し内側から閂を下ろそうとする。が、建て付けが悪く焦って震える手では中々閂が回らない。
「はまれっ、はまれっ」
鉄と鉄がぶつかる音が虚しく響く。扉の向こうで怒気が取っ手に伸びる気配がする。セラムは必死の思いで取っ手を引っ張りながら閂を回す。
カチャリ。
閂が下りた音と同時に扉が激しく揺れる。一瞬の差で錠を掛ける事に成功し、セラムは全身から冷や汗が吹き出るのを感じた。
「くぉの糞餓鬼があっ! くそ! 開けやがれ!」
扉の向こうでくぐもった怒声が聞こえる。
これで暫く時間が稼げる。セラムは一息吐いて中を見回す。もし兵士が残っていたら終わりだったが、どうやら無人のようだ。塔の中は思ったより広く、いくつかの部屋と上へと続く螺旋階段がある。
セラムは急ぎ片っ端から部屋を開ける。三つ目でお目当ての部屋が見つかった。そこは武器庫だった。この塔は見張りや防衛の要の役割をしているのだから、兵舎と共に備えられているだろうと見当を付けていた。
背後からの衝撃音が鼓膜を叩く。どうやらダリオが扉に体当たりを始めたらしい。
「早くしないと」
扉は木製だ。それに以前ジオーネ領の領主館で見た通り、一般的に普及している扉のヒンジは釘で留められており、現代日本の物と比べてあまりに貧弱だ。ジオーネ領で量産しているボルトも、グラーフ王国に占領されているヴィグエントには当然ある筈も無い。
セラムは室内を片っ端から探すが、目的の物は見つからない。
「ここまで来て弓が無いなんて……!」
セラムが剣なぞ持っても何の役にも立たない事は先程証明されたばかりだ。だからこそ腰に差さった一本の矢が頼りだった。だが射出器が無い事にはそれも無用の長物だ。
セラムは弓の代わりに壁に掛かったクロスボウに目を付ける。ヴァイス王国産の質の良いロングボウは全て防衛の為に持っていかれてしまい、代わりにクロスボウが余っているのだろう。そういえばダリオも複数のクロスボウを持っていた。あれはロングボウより狙いが付け易いのと、複数の装填済みのクロスボウを一発撃っては持ち替える事でロングボウよりも連射性能を上げる目的だと思っていたが、単純にクロスボウしか余っていなかったという理由もあるのかもしれない。
クロスボウの内の一つを手に取り仕組みを確認する。弦が張っていないのではないかという心配があったが、流石に実戦で使う物らしく常に弦は張ってあるようだ。後は弦を引いて矢が装填できれば良い。どうやら伸ばした
「くそ、この体はなんて非力なんだ」
他のクロスボウを探す。セラムはその中に滑車のような物が付いているクロスボウを見つけた。クレインクィンといって、取っ手で歯車を回して弦を巻き上げる新しい型のクロスボウである。
「これなら……!」
セラムはそれを壁から下ろし取っ手を回す。パチリと音がして無事弦が巻き止まる。問題は手持ちの矢がロングボウ用の物であり、クロスボウに対して長すぎるという点だ。この矢が飛ばせなければ意味が無い。
一際大きい破壊音が轟いた。最早考える時間は無い。クロスボウをベルトに引っ掛けセラムが部屋を出ると、ダリオがとうとう扉を壊して入ってきたところだった。
「随分手間を掛けさせてくれるじゃないか小娘ェ」
「くそ」
このままでは袋の鼠だ。セラムは螺旋階段を駆け上り距離を取る。
「今度は追いかけっこ再開か? 楽しませてくれるなあ」
追い立てられながらひたすらに上る。後ろからの下卑た笑いに反応する余裕も無い。三階分くらいの高さを上っただろうか、螺旋なので正確な所は分からないが相当な高さに達しただろう頃に出口を潜った。即ち防壁の上に出たのだ。
セラムの髪が風に遊ばれる。閉塞感からの解放と共にセラムの目に飛び込んだのは、誰もいないという絶望だった。
あわよくばこの辺りを制圧した味方がいるのではないかという淡い期待は儚くも打ち砕かれた。
「広い……」
横幅でも大人の大股で三歩分程の幅がある。街と外を区切るその壁は果て無く視界の外まで続いている。人間相手だけでなく魔物の襲撃にも備えなければならないこの世界は、人間社会を守る防壁に重きを置かれている。現代の建造物でこの光景を凌ぐ物は万里の長城しか思いつかない。
「これが只の観光だったら良かったんだけどな」
セラムが自嘲する。とうとうダリオが防壁上まで上ってきた。高さ十メートルを超える果てしない一本道。どこにも隠れる場所は無い。武器と呼べる物は腰に差さった一本の矢だけ。セラムはその矢を握り不恰好に構える。
「観念するんだな。なあに、殺しゃしない」
「残念ながらおっさんの犬になる趣味は無くてね」
ダリオが剣を抜いておもむろに歩み寄る。セラムはここが正念場と覚悟を決めた。ダリオの剣が縦に斬り下される。セラムはその刃を受けるように両手で矢を横に構えた。
矢は呆気なく両断され、刃はセラムの肩から腰まで届いた。殺すつもりは無いと言った通り本気で斬ったわけではないらしい。その斬撃はセラムの軽鎧の留め革を切断し、服と肉を浅く裂いただけに終わった。
ダリオの下卑た嘲笑い、だがセラムも挑発的な笑みを浮かべ声高に言い放った。
「これを待っていた!」
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