第二十話 出陣の前
もうすぐ戦場へ行く。前のような一方的な展開になる事を確信しているような戦いではない。今度は相手も本気で殺しにくる、本当の戦争だ。
だからだろうか、セラムはその日なかなか寝付けなかった。日が落ちてからも不安と焦燥感からまんじりともせず、月が傾き始めて漸く意識に
起きているのか寝ているのか、そこは夢なのか現実なのかが定まらない時間を過ごした。
セラムが寝ている事を自覚したのは暫く後の事だった。
見慣れた景色が映ったのである。それは過去幾度となく見た映像。紫がかった視界の中、ぼろアパートの一室で五月蠅く鳴る携帯電話をとる自分の手。
また、あの夢だ。
嫌な夢だ。これ以上見ると絶対後悔する。それが分かっていても起きる事は出来ない。もう一人の自分が夢を中断する事を拒む。今となっては沙耶の声が聞ける唯一のチャンスだからだ。
こうして十年以上も未練がましく今は亡き幼馴染の影を追っている。
沙耶は幼稚園の時に隣に引っ越してきた一家の娘だった。同い年だからよろしくね、とおばさんに頼まれたのを覚えている。よく二人で遊んだ。中学の時は一緒に受験勉強をして同じ高校へ入った。なんだかんだと二人で喋っていたのであの二人は付き合っていると噂されていた。沙耶の気持ちは聞けないままだったが僕も何となく付き合っているのだと思っていた。
大学は別の学校に行く事になった。僕は少し距離がある所で一人暮らしを始めた。沙耶は泣いたが、いつでも会えるじゃないかと慰めると泣き止んで頷いた。それまでに比べて会える時間は少なくなった。やがて二人の暇が重なる時は月に一、二度になった。久しぶりに会う時は沙耶はいつも嬉しそうだった。
僕は電話をとる。弾むような沙耶の声がする。用件は分かっている。今度の休み何をするか決めよう、だ。
楽しそうな沙耶の声と対照的にバイトに疲れて冷め切った僕の声が内側から耳に響く。
「急なバイトが入って会えない」
そう言った時、沙耶は電話口でぶーたれていた。文句を言われるのが嫌だったので僕は次に会う時は好きな所に連れて行ってやると言った。
「本当だね♪ 楽しみだなあ。約束だよっ」
電話越しの声が今も耳に残っている。
これが最後の会話となったのだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「とうとう戦場に赴かれるのですね」
ベルは普段通り落ち着いた声音でセラムに問う。彼女は出陣の前に取り乱したりはしない。自分の感情を押し殺して送り出す。本当の修羅場を知っているからだ。
「ああ」
そんな彼女の気遣いがあるからこそ平静でいられる。そして帰ってきた時に思い切り甘やかされるのだ。非日常に身を置いても日常に帰ってくるからこそ正気を保てる。
だが今日のベルは少し様子が違った。
「私も連れて行ってくださいまし」
「なに?」
ベルがこのような我儘を言った事は初めてだった。驚きはしたが論外だと思った。
セラムが守ると誓ったのは自分を大切に想ってくれている全ての人。そこには当然ベルも含まれている。守るべき対象を戦場に連れ出すなどあり得ない。
「駄目だ」
「何故です? 貴族が戦場に身の回りの世話をする従者を連れるのは普通の事です」
「そんな常識に従う必要はないな。僕が身分を笠に着るような行いや合理的でないものを好まないのはベルならよく分かっているだろう?」
「存じ上げております」
「ならこの話は終わりだ」
セラムが一方的に切り上げ立ち去ろうとする。しかしベルはなおも追い縋ってみせる。
「それでも連れて行ってもらいます」
こんなに頑ななベルは見た事が無かった。セラムはきちんとベルを見据えて話し、その上で断るしかないと思い直した。
「分かってくれ。今度の戦いはヴァイス王国民同士の戦闘じゃない。異国との戦争だ。容赦なく殺されるし、捕まれば死ぬより悲惨な事になるだろう。僕がそんな所に大事な人を連れて行こうなどという奴に見えるか?」
「だからこそでございます」
ベルの目力はなお衰えない。それどころか意志の強さは更に増し、威圧感すら覚える。
「そんな所に主君を、……いえ、違いますね。無礼を承知で申し上げます。憚りながらこのベル・レンブラント、セラム様を主君と仰ぐと同時に我が妹のように、我が娘のように想っております。そのような大切なお人が危険な戦場に行くと言う。それを待つだけというのはいかにも耐え難く……」
感極まりベルの声が震える。崩れた顔のままに、胸につかえた感情を吐露する。
「耐え難く存じますっ!」
「ベル……」
セラムの心が揺らぐ。ベルの気持ちが痛い程分かってしまった。
沙耶の声が脳裏に反響する。
大切な人が自分の手の届かない所で死ぬのは、もう二度と会えないと知ってから過去の自分を後悔するのはもう二度と……
(二度とごめんだ!)
セラムとベルの心が重なった。
「くそっ!」
らしくない悪態を吐いたセラムにベルがびくりと体を震わせる。構わずセラムは早口に捲し立てた。
「戦場では君を守る余裕は無い!」
「伊達にメイド隊を率いているわけではありません。自分の身を守るのは当然として、セラム様の御身も守ってみせます!」
「殺し殺される所に行くんだ!」
「この国に亡命した時は家族を全て皆殺しにされました。そんな場こそ私の原点です!」
「僕は君に修羅道に落ちて欲しくない!」
「っ……!」
ベルの勢いが止まる。どう言うべきか逡巡したベルだが、肩を震わすセラムをそっと抱き、包み込むような優しい顔で言葉を紡ぐ。
「貴女の父上に連れられてここに来た日、まだ幼子だったセラム様の手を握った時に感じました。全てを失ったと思っていた私の心をセラム様が埋めて下さった。あの日から確信しているのです。セラム様に仕える事こそ私のメイド道、セラム様がいれば道に違う事は無いと」
柔らかなぬくもりに包まれ、セラムの目に涙が溜まる。どうして自分が泣いているのか、セラム自身も分からなかった。
(何だこの体、勝手に涙が出てきやがる。涙もろすぎだろ)
少女の
「私はずっとセラム様のお傍にいます。必ずです」
沙耶の死で空白になった心、十年以上もの月日を以てしても埋まらないその傷が小さくなる。
大事な人を突き放したまま亡くすのはもう御免だ。そして大事な人に自分が味わったような哀しみを背負わせるのは絶対に駄目だ。その時、僕は僕を二度と許せなくなるだろう。
守ればいい。セラムは決意を胸にベルの嘆願を受け入れた。
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