第六話 出陣
それからの数日は忙しく過ぎた。地図を覚えたり鎧の着け方を教えてもらったり持っていく物を吟味したり。正直空回りしている感もあるが、何をしても不安は拭いきれなかった。
出発の日、セラムは集合時間より随分早くにアドルフォの元に向かった。初陣となれば聞くべき事も多いだろうし、想定外に備える時間も欲しかった。
アドルフォは日が昇ったばかりだというのに準備に余念がなかった。
「おはようございます。アドルフォ副将軍」
「おはようございます。おや、セラム殿、ご自分の馬は?」
ジオーネ邸には厩舎もあり数頭の馬がいた。だがセラムには乗馬の経験など無く、一日二日で乗れるようになるとは思えなかったので徒歩で付いて行くつもりだった。
「恥ずかしながら乗れませんので、歩いて行きます」
「それはいけませんな。彼に相乗りさせましょう。ヴィルフレド、こっちへ来てくれ!」
ヴィルフレドと呼ばれた青年は優しげな笑みで挨拶をする。
「気軽にヴィルとお呼び下さい」
「しかしご迷惑では」
「いえ、セラム様お一人にさせるわけにはいきませんしな。護衛をどうしようか考えておったところです。彼なら馬の扱いに長けていますし機転も利く、適任でしょう」
「ご好意感謝します。確かに僕の短い歩幅では足手まといかと思ってはいました」
「ではセラム様、一度乗ってみますか?」
ヴィルフレドは馬を連れて側に止まる。セラムが馬に乗るには胸の高さにある鐙に足を乗せねばならない。子供の身長には無理めに思えたが、ヴィルフレドが補助にまわりセラムの体を軽々と持ち上げる。
「っと、失礼」
ヴィルフレドのその言葉の意味をセラムはすぐには分からなかったが、尻を持ち上げたために発した謝罪だと思い至った。
(そういえば自分は今女の体だったな)
いやらしい手つきでなかったので全く気にならなかったが、次の瞬間軽やかにヴィルフレドが後ろに乗ると思ったより意識してしまう。
(結構身長差がある……。うわ、手大きい。僕の元の手はこのぐらいあっただろうか。あんまり思い出せないな。そこまで前の話じゃないのに)
馬に乗っているというのにそんな事ばかり考えてしまう。
「セラム様、下ばかり見ていないで、前を見てみて下さい」
ヴィルフレドの言葉に慌てて前を見て、息を呑む。
目の前に、空。遠くを見れば淡い青に鉛白の雲がたゆたっている。いつもの目線の少し下に地平線が見える。横から照らす太陽光が無限に広がる草原を碧く輝かせていた。
風がそよぐ度草花が笑うようにその体を揺らし、春の匂いをセラムに運ぶ。
「高いでしょう。私はここから見る景色が大好きなのです」
「すごい……綺麗」
元の世界では常に灰色掛かっていた外の色、それはこの世界に来た後もセラムに景色を見るということを忘れさせていた。
どこを見ても人工物のない自然の色。それがこんなに煌めいているなんて。
「歳相応の表情になりましたね」
いつの間にかヴィルフレドが器用に横から覗いていた。
「ずっと険しい顔をしていましたからね。この景色を見せたかったのです」
「そんな顔でしたか……?」
「そりゃあもう。無理が見え見えでした。今の顔の方が素敵ですよ」
ヴィルフレドが悪戯っぽく笑う。
「セラム様を見ていると田舎の妹を思い出します」
そう言った後、しまったとヴィルフレドが顔を引き締める。
「失言でした。将軍のご息女に失礼が過ぎました」
「いえ、かまいません。良ければもう少し話を聞いてもよろしいですか?」
「はい。私には歳の離れた妹がおりまして、これがまたよく懐いてくれる可愛い子なんですよ。畑の手伝いを率先してやるよく出来た妹でして。笑顔が可愛いんです」
「そうなのですか」
妹の事を話す時のヴィルフレドはその端正な相貌を崩す。実に嬉しそうなその顔を見て、セラムもまたつられて笑う。この人にも大事な人がいるのだな、と思う。
セラムはもう一度前を見て確かな決意を発する。
「生きて帰りましょう、ヴィル」
ヴィルフレドが右手を胸に引き寄せ握り拳をつくる。それはこの国の敬礼の形であった。
「当然です」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ヴィグエントの街はグラーフ王国側の防御が厚い反面ヴァイス王国側は薄くなっている。それをカバーするため、斜め後方の左右に砦が築かれている。どこかが攻撃されれば横から援軍を出し挟撃する仕組みの要害であった。その地まであと少しというところで早馬が王都の方向へ向かっている最中に鉢合わせた。
アドルフォが伝令兵を呼び止める。
「ダリオ副将軍の伝令か。我々はヴィグエントの援軍に来た部隊である。内容を確認したい」
「はっ、これはアドルフォ副将軍。ダリオ副将軍からの報告であります。『ヴィグエントは陥落した。我々はこれより第三防衛線まで後退する』以上です」
「何だと!? 馬鹿な、早過ぎる!」
その場に動揺が走る。援軍を送る旨の早馬は出しているが、このタイミングでは入れ違いになった可能性が高い。援軍の一報が間に合って思い留まっていれば良いが、既に撤収作業に入っていれば再び立て直すのは困難だろう。
「お前が出発した時の状況はどうなっていた?」
「大分押されていました。私が出る時にはダリオ副将軍は撤退の準備をしていました」
「ダリオめ。こういう時だけ判断が早い」
隣にいたセラムにはアドルフォの舌打ちが聞こえた。その場にいた百人長の一人がアドルフォに尋ねる。
「我らはどうしますか?」
「今更ただで引き返すわけにもいかん。ダリオ副将軍に合流しよう。伝令、ダリオ副将軍はどちらにおられる?」
「西の砦におられた事を確認しています」
「ご苦労、任務に戻れ」
「はっ」
伝令兵が再び王都に向けて駆けてゆく。
「我々は西の砦へ向かう!」
そろそろ日が没する。東の空は闇が下り始めていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
目的は程なく達せられた。援軍が間に合ったのではない。砦から少し離れた所でダリオ副将軍を発見したのである。アドルフォは馬上のままダリオと相対する。
「ダリオ副将軍、ご無事で何よりです」
「来るのが遅いわ。敵はすぐそこまで迫っている、我々はもう撤退するぞ」
「それにしては随分と兵が少ない様子、他の部隊はどうされました?」
「貴様は阿呆か。食い止める兵がおらんと撤退出来んではないか」
ならば何故貴様はここにいる! セラムは喉元まで出た言葉を飲み込み歯噛みした。最後まで残り指示を出すのが指揮官ではないのか。
あまりの言い草に噛みつかんばかりのセラムをアドルフォが体で遮って話を続ける。内心はどうか分からないが口調だけは冷静だった。
「成程、道理ですな。それで残った兵にはどのような指示を出されましたか?」
「死んでも食い止めろとしか言っておらん。奴らに止めてもらわんと背後が危うくなるからな」
アドルフォの背中から怒気が発せられたような気がした。表情は見えないが恐らくなけなしの理性を掻き集めて平静さを保っているのだろう。
「アドルフォ副将軍」
アドルフォが開きかけた口を遮ったのはセラムだった。
「今すぐ残った兵の退却を援護するべきです」
「何だ小娘、何者だ! 女子供がでしゃばるでないわ!」
「彼女はエルゲント将軍の娘です。私の判断で連れてきました。セラム殿、続けなさい」
「彼らは死兵となっても残る忠義者であり、長くいくさの無かった我が国において大規模な戦争の経験がある貴重な兵であります。敗戦を知った彼らは今後の戦いに必ず必要でしょう。絶対に助けるべきです」
只の我儘かも知れない。上司に見捨てられた彼らと、非正規雇用時代に切り捨てられた自分の境遇とを重ねてしまっただけかも知れない。ただ、許せなかった。こんな傲慢な人間にいとも簡単に切り捨てられた兵達を放ってはおけなかった。
「……我々はこれから三方に分かれて残存兵の撤退を指示、これを援護する!」
「アドルフォ貴様! 指揮官は私だぞ!」
「ダリオ副将軍、あなたはヴィグエント防衛隊の指揮官ですが、援軍部隊の指揮官は私です」
「……ちっ、勝手にしろ! 我が隊から兵は出さんぞ」
「了解しました。ではご武運を」
アドルフォはわざと慇懃無礼にそう言った。ダリオが去っていくのを見届けると隊を三つに分け、セラムとアドルフォ達は街へ急ぐ。
「セラム殿にも危険な場所に付き合ってもらう事になります。申しわけないが」
「いいえ副将軍。僕が自ら望んだことです。お気になさらず」
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