第三話 夢と現実
……………
元男は鈍麻した意識のまま頭に手を当て起き上がる。
此方が夢なのか、彼方が夢なのか。ああ、それにしてもなんて。
「嫌な夢だ」
口に出した声と自分の耳に届いた音が一致して漸く此方が現実だと認識する。
糞っ、と吐き捨ててベッドから這い出る。
左腕が痛んだ。包帯の下から滲み出る赤い血。
「逃れられないんだな、沙耶」
ベッドに腰掛け壁を見つめる。剣は回収されてしまったが、壁のフックが確かに剣が掛かっていた事を物語る。
あれを持って戦場で戦うのか?
戦争経験も無いのに。人どころか、刃物で何かを殺した事すらない。そんな奴が戦乱の世界で何が出来ると?
いや、そのような心持ちではたちまち現実に殺されてしまうだろう。もはや自分はグリムワールという世界のエルゲント将軍の娘、セラムなのだ。
そう言い聞かせる。
「守るって約束したもんな」
例えもう守る事の出来ない約束であろうとも、いや、だからこそセラムにとって約束は重いのだ。
二度と僕の周りの人を死なせたりしない。そのために僕は死ねない。
果たせなかった約束は、呪いとなってセラムの心に巻き付いていた。
生き残るには情報が足りない。まずは記憶にあるゲームとの差異がないか確かめなければならない。
軽いノックの音がする。「どうぞ」と返事をする。
「起きられましたか。包帯をお取り替えしますね」
入ってきた侍女が柔らかく微笑む。
セラムはベッドの傍らで腕の傷を手当している侍女を見つめた。
「えーと……」
「はい」
「ごめん、記憶が混乱してて……。確認したいんだけど名前、ベル……でいいんだよね?」
ベルと呼ばれた侍女は顔を上げて心配そうに微笑む。
「はい。私はジオーネ家のメイド長、ベルでございます」
「で、僕はヴァイス王国の将軍エルゲント・ジオーネの娘、セラム」
「はい。あの、本当に大丈夫ですか? お倒れになった時に頭を打ったのでしょうか。それとも精神的なショックによるものでしょうか」
僕とか仰ってますし、と小声で付け加えたのもセラムは聞き逃さなかったがもはや今更である。言い慣れていない「私」を使うよりもこのまま通してしまおう。
「あまり心配しないで。それよりここ最近の大きな出来事を教えてもらえるかな」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ヴァイス王国の周りには東にノワール共和国、西にゼイウン公国、北にグラーフ王国がある。ヴァイス王国は比較的小国であるものの、レナルド国王の巧みな外交手腕と交易により軍事力に勝るゼイウン公国と同盟関係を結び、近隣諸国との均衡を保ってきた。だが北のグラーフ王国がその西にあるモール王国に戦争を仕掛けた事により周辺諸国に緊張が走る。特にグラーフ王国ともモール王国とも隣接しているゼイウン公国はこの事態に危機感を覚え、グラーフ王国に非難声明を出した。
「なぜグラーフ王国は侵略戦争を仕掛けたんだろう」
ここでふと疑問に思ったセラムが独り言ちる。ゲームでは「戦争を仕掛けた」の一言で済まされていた部分である。ゲームは一人称で進行していったため多くの背景が解明されていなかった事に思い至る。
「グラーフ王国は土地こそ広いものの寒い地方のため食料資源に乏しく、産出される鉱物資源の多くを軍事にまわしていました。モール王国の保有する港は長年求めていたものだったでしょう。また、ここ最近モール王国は失政が続き、外交的に孤立していたことも要因の一つと思われます」
ベルの補足になるほど、とセラムが頷く。グラーフ王国は狩りをする獅子のように辛抱強くチャンスを待ち続けていたのだろう。遅かれ早かれいずれかの国がその牙にかかっていたという事だ。
そしてその牙は予想以上に鋭利であった。グラーフ王国は瞬く間にモール王国を併呑。脅威と見たゼイウン公国はヴァイス王国、ノワール共和国に打診。対グラーフ王国包囲網を形成する。
本格的な大規模戦争の始まりである。
同時期、ヴァイス王国でも重大事件が起こっていた。レナルド国王が病に伏したのである。それでも王の親友であり、名将と謳われたエルゲント将軍はその影響力を遺憾なく発揮し、貴族諸侯をまとめ上げ、ガイウス宰相と協力して国を守った。少なくともエルゲント将軍がいれば国が傾くことはない、そう思われていたのである。
それが先日の事……。
「エルゲント将軍……いや、お父様が亡くなられた」
奇襲を受け混戦の中、流れ矢に当たったそうである。
ゲームではこの後あれよこれよという間にセラムが将軍に祭り上げられ、それを快く思わぬ貴族達が反乱を起こし、最初の戦闘パートが始まる。チュートリアル的な意味合いが多分に含まれていたステージだったが、果たしてそんな簡単にいくものだろうか。
ゲームだから、と流していたが、そもそもセラムはこの時点で十二歳という設定である。現実的に考えれば誰がそんな子供に軍を任すものか。よしんば軍権を得たとしてそんな国についていこうと考える貴族が何人いる?
考えているよりずっと大きい反乱になるんじゃないか?
ここで座していて事態は進展するのか?
何も為さないまま亡国の将軍の娘として処刑されるんじゃないか?
セラムの脳裏にギロチンにかけられる自分の姿が浮かぶ。
駄目だ。行動しなければならない。
「まずは現状の確認がしたい。一つ、この国における軍の形態。二つ、今の戦況。三つ、僕もしくはジオーネ家についてくれる味方は誰がいるか」
「はい、この国の軍隊の最高責任者は当然ながら王様です。そして軍を束ねるものとして将軍がいます。その下に各貴族がそれぞれに兵を持っています。兵の種類は大きく分けて三種類。王様直属の近衛兵、将軍を長とする常備兵、貴族達が持つ半農半兵の駐屯兵。小規模の戦闘では各地方の貴族が対応、場合によっては常備兵も派遣します。大規模な戦闘の場合将軍自らが指揮を執り、地域や規模によって各地の貴族達から兵を供出してもらいます。貴族も同じく戦地に赴く事もあります」
「なるほど、つまり今現場は絶望的なわけだ」
貴族からしてみれば自分の領地以外の戦闘はあくまで協力してやっているといった心境だろう。上手く手綱を取れる人間がいるうちはいいが、エルゲント将軍がいない今、軍の士気は推して知るべしだ。無論、彼らとて国に帰属しているわけだから好き勝手な行動をするわけではないと思うが。
「二つ目の戦況についてですが、これは城に行った方が早いでしょう。普段からセラム様を可愛がってくださっているガイウス宰相であれば無下にはされないはず。ご多忙ではあると思いますが、セラム様にとってもかけがえの無いお父様についてとあれば時間を割いてくださるでしょう」
「わかった」
「そして三つ目ですが……」
ベルは顎に手を軽く当て深く考え込んだ。
「気遣いなら無用だ。事実のみを端的に言ってくれ」
「……いつの間にかご成長なされましたね。あまりにご様子が違うので少々心配ではあるのですが」
「すまない、さっきも言ったが記憶が混乱していて昔の自分を思い出せないんだ。き、記憶喪失ってやつかな。心配をかける」
ゲーム中に主人公の振る舞いは見ているはずだが、正直そこまで演技する余裕はない。付け焼き刃の物真似よりはいっそ開き直ってしまった方が面倒くさくないだろう。
「……ガイウス宰相とエルゲント将軍直属の部下ならば味方になっていただけるでしょう」
予想通りではあるがやはり厳しい。
「もちろん、我々メイド隊も」
ベルがふわりと微笑んで付け加える。セラムの渋面が和らいだ。
「敵ではないという意味ならば、ガイウス派の政務官の方々。貴族はどう動くか分かりかねます。それと将軍旗下のヴァイス王国軍といえど一枚岩ではありません。特に二人の副将軍の内、ダリオ副将軍にはお気を付け下さい。彼は名門の出ではありますが、自尊心が高く小心者。エルゲント将軍も扱いに困っておりました。今は防衛戦に従軍しているはずです」
「もう一人の副将軍はどうだ?」
「アドルフォ副将軍はエルゲント将軍を慕う者です。実直な性格で指揮能力も高く信頼できます。セラム様も幼い頃会っている筈ですよ。こちらは城の防衛を任されております」
大体の状況は把握できた。ゲーム通りに進めるのならばここから何とかして軍権を得なければならない。
いっそ何もかもから逃げ出すというのは……却下だ。
今の状況はエンディングまでの細い道を松明一本で歩いているようなものだ。脇に逸れればたちまち暗闇に閉ざされ、どこに落とし穴があるか分からない。
「ベル、情報は集められるか」
「はっ、どのような情報でしょう」
ベルはジオーネ家のメイド長だが、昔とある事情でエルゲント将軍が拾ってきたゼイウン公国のある有力武家の娘である。彼女の元配下もジオーネ家で匿っており、その諜報力はゲーム中何度もお世話になったのだ。
「有力貴族のリストを書いてくれ」
ベルは頭の上に小さな疑問符を浮かべながらも、二十名ほどの名前を書き出す。
セラムはその中から目当ての名前を見つけると、その横に印をつける。
「このリスト全員の動向を調べてくれ。特にこのリカルド公爵、ヴィゴール伯爵、ルイス伯爵の三人は徹底的に頼む。どんな小さな情報でもいい。家族構成、金の出入りから飼っている犬の名前まで全てだ。ああ、情報にはその情報源と五段階で確定度の記載を徹底するように」
「……公爵はわかりますが、他の二人は何故でしょうか」
「勘、としか言えない。どうか頼む」
「承知しました」
「では城に行く」
と、ここでセラムは寝間着らしいワンピース姿のままだったことを思い出した。ベルはというと既に部屋から出てメイド隊に指示を出しているらしい。
女の子の着替えはどうすればいい、などと誰かに聞くわけにもいかずしばし固まる。恐る恐るタンスに手を伸ばし、盗人のような心持ちで引き出しを開ける。
(……紐パンとドロワーズ)
Oh……。
セラムの口から変な声が出た。慌ててワンピースの中を確認する。白のスポーツブラのようなものと白い紐パンを身につけていた。
「ま、まあ下着はそのままでいいよな。そのままで」
もしパンツを履き替えでもすれば苛まれる罪悪感に打ち勝てる自信がない。
「ていうか紐って……」
言いかけたところでこの世界にゴムがあるかどうか怪しい事に気が付く。無ければ紐状のもので留めるほかないだろう。むしろ元の世界の物に近い形状の服がある方が不思議なくらいだ。
その引き出しはそっと閉めて改めて服を探す。
(城に行くのなら正装だよな。この服あたりでいいのだろうか?)
(これどっちが表だ?)
(この布切れはどこにつけるん?)
(ていうかどうやって着るの?)
トントン、とノックの音が室内に響く。まるで悪い事をやっているような心境だったセラムは必要以上に慌てた。
「わあ!」
「どうしました? セラム様!」
何事か、とドアが乱暴に開かれる。そこには下着姿のまま服を抱え涙目のセラム。
ベルの鼻から赤い噴水が飛び散った。
「お着替えですか。手伝いましょう」
「ベル。血、ちー!」
「これは失礼。鼻からパトスが溢れてしまいました。それよりお着替えを」
「大丈夫、自分で出来る!」
「それにしては随分と苦戦されている様子。さあ、私に身を任せて」
「なんか怖いよ!」
「痛いのは最初だけです」
「何をするつもり!?」
「先っちょ、先っちょだけだから!」
「た、た~すけて~! あ、あ、ああ~!」
着替えは無事出来ました。
「うう、汚された……」
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