河童と皿屋敷 転
大きい影――
小さい影――ミナトは遠然坊に合わせての動きなので、ぎこちなくフラフラと揺れている。
「師匠、昨日みたいにこのへんの妖怪に話を聞いたりしなくていいの?」
ミナトは抱えきれなくなった疑問を我慢できずに吐き出した。
遠然坊はやはり足を止めないままに答える。
「ええ。話を聞くのは後お一人で十分でしょう」
力強く確信の籠った台詞に、ミナトの中で失いかけていた師匠への信頼が取り戻された。
小さな影からは迷いが消え、ただぴったりと大きな影に寄り添い始める。
そして、この件の解決が近いと見るとミナトは心の片隅に置いていた別の問題が俄然気になり出した。
「そういえば師匠。僕は師匠に会う前は一度も妖怪に会ったことはなかったのに、昨日はあんなにたくさんの妖怪に会えた。どうしてなの?」
「それはミナトくんの認識が変わったからですよ。君は今までも多くの妖怪に会っていたはずです。ただそれに気付いていなかっただけでね」
「認識が変わった?」
大きく首を横へ傾けるミナトに対して小さく首を縦に振る遠然坊。
「そう認識。あるいは常識」
だがこの説明では少年が理解するにはまだ不十分だったようで、彼の首は却って傾きを大きくした。
「よく分からないよ。どういうこと?」
秘密主義の気がある遠然坊は、いつもならこの辺りで口を噤むのだが今回に限っては勝手が違った。
むしろミナトによく知っておいてもらいたいことだというように、右手の人差し指を立てて注意を促しながら懇切丁寧に話し出す。
「君は私と初めて会ったあの日の事件によって妖怪の存在を知り信じるようになった。『妖怪は存在する』という認識の元で世界を見るようになったことで、妖怪の姿を捉えられるようになった、ということです」
「一度妖怪に会ったら、これまで見えなかった他の妖怪も見えるようになるってこと?」
「『見えなかったのが見えるように』というよりは『見てこなかったのが見るように』というのが正しいですね。例えばミナトくんは新しい言葉を知った途端にそれをよく目にするようになった経験はありませんか?」
「ああ、あるある」
「それと同じことです。あれは元々その言葉に触れていたけれど意識していなかったから気付かなかった。それが存在を知ることによって意識に上るようになっただけなのです」
なるほどとばかりに納得したミナトはようやく首を縦に振ることができた。
ミナトの理解が追い付いたのを認めると遠然坊は次の段階に話を展開する。
「妖怪が見えるというのは決して特別なことではありません。けれど今の人間たちの多くは狭い視野、そして狭い心でしか世界を見てない。妖怪に対してだけでなく同じ人間同士でも、本心から向き合って相手を『ちゃんと見て』いるものは非常に少なくなってしまった」
そう語った上で最後にこうまとめた。
「つまり表面上の付き合いだけで相手を分かった気になるのは早計だということですよ。心を開いて向かい合えば、もっとずっと深いことも見えてくる。愛想を尽かすかどうかの判断はそれからでも遅くはありません」
ミナトはようやく遠然坊が何を言いたいのかが『見えてきた』。
苦々しげな表情でミナトは次の言葉を必死に探す。何を言っても言い訳になってしまうことが自分でも分かる。
それでもやっとのことで口を開きかけたとき、遠然坊が不意に立ち止まった。
「今の話は目だけについて言えることではありませんよ。すべての感覚、例えば耳でも同様」
「え? いきなりどうしたの?」
ミナトはせっかく分かっていたつもりの遠然坊の心が再び自分から遠のいていったことに困惑する。
遠然坊は弟子の答えを促そうとヒントを出した。
「先程から君は考え事をしていましたね。そうやって意識を狭めていたから気付けていないことがある、ということです」
言われて、ミナトは周囲に意識を広げるよう心掛けてみた。
するとさっきまでは全く聞こえていなかった『ある音』を拾い上げる。
「……~い。……ま~い。ろくま~い」
何かを数え上げる女性の声。
一度気付いてしまえば今まで聞こえなかったのが不思議なほどの耳に取り憑くかのような異形の声だ。
「これって! 番長皿屋敷のお菊さんだ! そうだよね。ね、師匠? そうか。皿が川を伝ってお菊さんの井戸に流れ着いたんだ! お菊さんはそれを昔自分が落として割った皿が戻ってきたと信じ込んだってことだね!」
昨日出会った妖怪たちとは趣異なる怪異の登場にミナトは興奮冷めやらず、これもまた別の意味で意識を狭めている危険な状態だった。
そんなミナトに遠然坊は声を潜めて忠告する。
「静かに。これから彼女に会って話をしますが、いいですか。彼女の前で河童の名前を出してはいけませんよ」
「どうして?」
「理由は後で話します。とにかく河童のことは口にしないように」
念を押されて渋々とミナトが頷くのを確かめると、遠然坊は声に導かれて再び歩き出した。ミナトもこれに続く。
二人がお菊さんの前についたとき、彼女は皿をちょうど数え終わるところだった。
「じゅうま~い♪」
にこやかに微笑みながら諸手を上げて喜ぶお菊さんを見て、ミナトは期待を裏切られた気分になった。
この前出会った河童と違い、目の前のお菊さんは一般に考えられているイメージから大きく外れていたからだ。
本来お菊にあるはずのおどろおどろしさは夜風にでも吹き飛ばされたのかまるで見当たらない。
ミナトが唖然としている間に遠然坊はお菊さんに声をかける。
「随分とご機嫌ですね。何かよいことでもございましたか?」
二人に気付くとお菊さんの表情はさらに華やいだ。
「あらいい男に可愛い坊や。ええ。ええ。ありましたわ、とてもいいことが。ずっと探していた探し物が見つかりましたの」
「探し物? あなたの探し物というとやはり」
「そう。このお皿。永遠に見つからないと思っていたわ。ああもう最高の気分よ」
いきなり確信に迫る情報がもたらされて驚くミナトだが、ちらりと遠然坊を窺うとすべてを見知っていたかのように平然としている。
「その気分に水を差すようで心苦しいのですが、本当にお皿は十枚なのでしょうか?」
「な~に? お皿を数えてもう、えっ~と何年か分からないけど、そのくらいお皿を数え続けてきた私の勘定が間違っているというの? ありえないわ。今も数えたばかりだもの。お皿の数はぴったり十枚よ」
お菊さんは遠然坊の発言でプライドを傷つけられたようだ。下がっていた目尻は一転して吊り上がる。
物の数を数えるのが得意という一方で、これまでの経歴が分からないという矛盾に気付かない遠然坊でもなかったが、ここで無理に彼女の怒りを助長する必要はもちろんない。
普通に怒りをなだめる方向で話を進めた。
「まあまあ。そうむくれてはせっかくの美人が台無しですよ。念には念。物は試しです。もう一度だけ数えてみてくれませんか?」
「え~面倒くさ~い。でもいいわよ。数が揃ったお皿は何度数えても幸せだし、美人だって言ってもらえたしね」
案外ちょろいお菊さんはすぐに井戸の前に積んであった皿をうんしょと持ち上げて、一皿ずつ声に出して数え出した。二人は黙ってそれを聞く。
「いちま~い。に~ま~い。さんま~い」
皿が段々と積み上がっていく中、ミナトはずっと遠然坊がどうやって河童の皿を取り返すつもりなのか考えていたがまるで見当もつかなかった。
「よんま~い。ご~ま~い。ろくま~い」
そうしている間に皿の数は半分を越していく。興が乗ってきたのかお菊さんはいつもより多めに皿を回しながら数え始めた。
そのとき、ここへ来てからずっと粛然としていた遠然坊が突然声を張り上げた。
「お菊さん!! 今何時だい!?」
まさに青天ならぬ赤天の
「あ~びっくりした。何よ急に。もうすぐでま~たお皿を割っちゃうところだったじゃない」
「それは大変失礼いたしました。近頃は釣瓶落としとばかりにめっきり日が短くなっているもので気になりましてね」
「いや気にし過ぎでしょ。何、帰って見たいテレビでもあるの? 今の時間はね~」
俗っぽいことを言いながら真白い着物の袖を捲ると、彼女の手首には当たり前のように可愛らしい腕時計が光っていた。
何かもうただの井戸住みのホームレスじゃん――ミナトの幻想は完全にぶち壊されていた。
「午後七時ですわね」
「ありがとうございます。そうですか、まだ七時でしたか。失礼、では続きをどうぞ」
お菊さんは井戸の淵に置いていた残りの皿を持って勘定を再開する。
とうとう残りわずかとなった皿だが、終わりに近付くにつれお菊さんは戸惑い始めた。
「ん~と、なな……だからはちま~い。きゅうま~い。え? じゅうま~い。あれ? あれれ? じゅ、じゅういちま~い?」
「おや、一枚多いようですね」
何と寸前まで十枚だったはずの皿が今一度数え上げてみれば十一枚となっていたのだ。
「本当。おかしいわね~。確かに十枚だったはずなのに……」
大量のクエスチョンマークがお菊さんの頭上で飛び交うが、遠然坊のこの一言でそれは容易く雲散霧消した。
「誰にでも間違いはありますよ」
「まあそっか。そんなものね」
あっけらかんと思考を切り替えていくお菊さん。減っているならともかく増えている分にはどうでもいいようだった。
その関心のなさに付け込むようにして遠然坊は親切を装いながら目的を果たす。
「とにかく十一枚あるということは一枚は余分ですね。私が預かって処分しておきましょうか?」
「そうね~お願いするわ。はい、これ」
こうして見事お菊さんから皿を受け取った遠然坊。そのままミナトに手渡して最後に眼鏡の鼻当てを軽く押し上げた。
「ではそろそろ失礼させていただきます。見たいテレビもありますので」
それから悠々と立ち去るその頼もしい背中を、ミナトは尊敬の眼差しで見つめながら追いかけた。
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