32

 つんと鼻に来る臭気しゅうきに、枝折は足を止めた。背後から追いすがるような気配を感じて振り返ると、ゆるゆると気だるげに漂流ひょうりゅうする薄墨うすずみ色のかぼそい煙が目に映る。

 風もないのに、宿主しゅくしゅを求めるかのように尾を引いてさまよう。


 ……何か、可笑しい。


 本能が発する警告を感じ取りながら、引き寄せられるみたいに女子寮の通用門へと動かした枝折の視界に、ぽつんとさびしげにとどまる菜々子の姿が入り込む。まっすぐ柊の背中を見つめる彼女の視線がゆっくりと動いた。

 敵意を剥き出しにした眼差しが、枝折の心を突き刺した。

 駄目と、強く感じた瞬間。

『ウソツキ‼』

 頭の中におさない声がはじけた。

 人には見えないモノがえる。

 そのせいで誰に話しても信じてもらえず、ずっと敬遠されてきた過去が甦り、枝折は二の足を踏んだ。


 ……ダメ。


 このままだと、よくないことが起こる。そう直感が告げる。

「枝折?」

 立ち止まった枝折に気づき、不審な響きを内包した柊の呼びかけに応じて、彼の方を見る。

『一人で抱かかえ込まずに、頼っていいのよ』

 川の底から水泡みなわが湧き上がるみたいに、水木の言葉が枝折の脳裏に浮かぶ。労るような、なぐさめるような、優しい声。

 その言葉に縋ってみようと思ったのは、自分ではどうすることもできないから。彼らなら何とかしてしまうのでは、と感じたから。

「あの……柊――」

 枝折が勇気を振りしぼって呼びかけた直後、優美の声が割り込んできた。

「おはよう、枝折ちゃん」

 この場にそぐわない明るいトーンに奇妙きみょうさをいだきながらも、枝折は優美の方へと顔を向ける。

「……おはよう、細谷さん」

「おはよう、枝折。こんな所に立ち止まってどうしたの?」

「ううん、何でもない」

 優美の隣にいた希子の胡乱うろんげな問いかけに、枝折は首を横に振る。

「そう言えば、さっき九鬼くん、風波先輩に言い寄られてたね」

「み、見てたの?」

 憐憫れんびんの情をもよおしそうな菜々子の様子を思い返し、枝折は身の置き所がない感覚におそわれた。

「目を引く二人だからね。気になっちゃった。あんな可愛かわいらしい人に言い寄られたら、コロッといっちゃうよねぇ」

 瞳を輝かせた優美の興味きょうみ津々しんしんな心中を、その表情が物語っている。


 ……柊がコロッと?


 優美の言葉に、木の幹に寄りかかっていた柊の姿が思い起こされる。目を閉じて聞いていないような態度の彼は、菜々子に関心を示していないようだった。

 むしろ、煙たがっているように感じた。

「枝折」

 不意に名前を呼ばれて、枝折は飛び上がりそうなほど驚く。

「は、はいっ」と、反射的に返事をした枝折の声がひっくり返る。

 後ろを向いた枝折の眼前がんぜんにはだかる身体に、あわてて一歩退しりぞいた枝折の腕を柊が摑んだ。

「離れるな。危ないぞ」

 そう言うなり、柊は枝折の手を引いて歩き出す。

「――過保護」

 ぼそりと呟いた希子の低い声が枝折の耳に届いた。


 ……過保護?


 希子の言葉が柊を指していると思った枝折は、前を歩く柊の背中を見つめながら小首を傾げた。

 希子の声が柊にも届いているはずなのに何の反応も示さないで、大股おおまたで進むそのスピードに、柊に腕を持たれたままの枝折は小走りになる。

 まるで、希子たちがいる場所から離れたがってるようだ。そう感じた枝折は、足早に歩く柊に引っ張られるまま、つまずかないように必死に足を運ぶ。

 中庭の前で立ち止まって枝折たちを待つ水木と棗との距離がどんどんちぢまっていく。

「過保護……確かに。彼女よく見てるねぇ」

「…………」

 棗の感心するような呟きに、柊はひとにらみした。

「枝折ちゃんの息が上がってますよ、九鬼」

 無言のまま棗の横を通りすぎる背中に水木の静かな声がかかり、柊は足を止めて枝折を見た。

「すまない」

 息を切らす枝折の腕を離すと、柊はそうっと手を持ち上げて紅潮こうちょうした枝折のほおに触れた。

「だ、大丈夫」

 答えながら、熱を帯びた顔に柊の手のひらがひんやりと気持ちよかった。

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