29

 意識がゆっくりと覚醒かくせいする。

 なつかしい夢を見た。

 その余韻よいんが目を開けても、まだ残っていた。



     ◇   ◇   ◇     



 小学生に上がって、初めての夏休み。

 母方の祖母の家。その北に広大な森があった。

『危ないから、森の奥には行っちゃあいけないよ』

 祖母に注意されていたのに。

 森の中を見たら、木々の葉の間からこぼれた光が地面に点々と落ちて、きらめいていた。童話どうわに出てきそうな風景に「知らない世界が広がっているかもしれない」と、幼い好奇心が祖母のいましめを忘れさせた。おどる気持ちにかされたかのように、森にった。

 気づいたら森の奥深くにいて、異様な気配に追いかけられた。もう逃げ切れないと理解した時、後ろから救いの手が差し伸べられた。

 悲鳴を封じた手を力一杯噛んだのに、その人は小さな自分をかくまうように助けてくれた。

「お前、名は?」

 獰猛どうもうな気が去ると、青年は枝折の身体を離して問いただす。

「……しおり」

 素直に答えた枝折の身をかかえた男は立ち上がると、森の入り口に向かって歩き出した。

 ひんやりとした手のひらが枝折の背中を支える。真夏にもかかわらず、熱のない手だった。

「いいか。可笑おかしいと思ったら、引き返せ」

 素っ気ない口調。

 その人に手を引かれて出た森の外は、まぶしいほどの鮮やかなあかねいろが広がっていた。


 ……ここに入った時は、お日さまが高かったのに。

 そんなに長い時間、森の中にいたのかな?


「早く戻れ、しおり」

 背中を押されて数歩進んだ枝折が後ろを見ると、そこには誰もいなかった。



     ◇   ◇   ◇     



「枝折ちゃん?」

 気遣きづかわしげな水木の声で、枝折の意識が引き戻される。涼やかな眼差しの水木が枝折の瞳に映った。

「大丈夫?」

「……夢を見ていた」

 夢見心地のまま枝折はぼんやりと呟く。

「夢?」

「小さい頃の夢。森の奥に迷い込んだのを助けてもらった」

「誰に?」


 ……誰に?


 水木からもたらされた問いを、枝折は心の中で繰り返す。

『可笑しいと思ったら、引き返せ』

 その言葉と、あの日見た夕焼けが思い浮かぶ。

 幼い枝折と目を合わせるようにかがみ込んだ男性の双眸が、血のような暗い朱色に染まっていた。

 純黒じゅんこくのややクセのある髪に、鼻筋の通ったシャープな容貌ようぼう

 瞳の色は違うが、姿容しようは十年経った今もあの時のまま。


 ……今まで、忘れていた。


「柊が……助けてくれた」

「そう、九鬼が。じゃあ、その時枝折ちゃんは、幽世に紛れ込んだのね」

「幽世に?」

「そう。現世と幽世は、この世界に重なり合うように存在している。まじわることのないふたつの界が何かの弾みで接点ができると、互いに往来おうらいが可能になる」

 ベッドから起き上がって尋ねた枝折に、水木は詳しく話す。

「門を監視してるって……」

偶発ぐうはつてきに繋がったものも含めて、私たちは 門と呼んでいるわ。その門をくぐり抜けて、それぞれの界に影響を及ぼす存在を送還そうかんさせるのが、監視者の役目やくめ

「監視者の役目」

 説明する水木の言葉に、枝折は柊に助けられた時のことを思い返す。


 森の奥へと進んだ時、周りの雰囲気が変貌へんぼうした。まつわりつくような空気が肌を刺激し、き出しの肌が寒け立つ。

 ――あの空気が、幽世のものだったのだろうか。


「今朝は」という水木のりんとした声で、枝折は記憶の海から引き戻された。

「いつも見る夢とは違ったのね」

「知っていたの?」

 尋ねながら、枝折は水木の台詞に「やっぱり」と納得した。柊に寝不足を指摘された時に、そうじゃないかと感じていた。

「ええ。寝ている時、苦しそうだったから。今日は顔色も悪くない」

「……ごめんなさい」

 水木が心にかけていたことを申し訳なく思う枝折に、彼女は首を横に振って答える。

「着替えて、ご飯食べに行こう」

 一面に満悦まんえつげな笑みを浮かべると、水木は枝折の傍から離れた。

 窓近くの机の方へ歩く制服姿の背中を眺めながら、枝折はふと気づく。八瀬高校に来てから一度も、眠っている間に物音で目が覚めたことがない。ずっと眠りが浅く、周囲の気配に過敏かびんだったのに、水木の気配や物音で起きたことがなかった。


 ……水木さんって、いつ起きてるんだろう。本当に眠っているのだろうか。

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