20

 うずを巻いて吹き上がる激しい風が襲う前に、水煙すいえんのような霊気れいきが枝折を包み込む。

 ちりちりと肌に沁みる、ひんやりとした空気で、水木の力なのだと枝折は悟った。

 真冬の水のような気に隔絶かくぜつされた空間で、枝折は風が上げるうなりに身も心も縮む思いにえて、じっとしていた。


 ……どうして、忘れていたんだろう。


 小さい頃からずっと視えていたのに、視えていないことに気づいていなかった。目の前にある危険にばかり警戒していて、心にゆとりがなかった。


 ……どうして、私にだけ見えるの?


 枝折は真っ青な顔を俯けて、自問する。視えなくなればいい。何度も何度も、そう願った。

 他人ひとには視えないモノ。

 物心がつく頃から、それら――あやかし妖怪ようかいものと呼ばれる存在――に付き纏われていた。追いかけられて、突き飛ばされて。しがみつかれて。

 幼い時は、生傷なまきずが絶えなかった。

 もう、嫌だ――

 の感情が枝折の胸中に沸き起こった時。


 ――じゃあ、しんじゃえば……?


 枝折の心に、あどけない声が差し込んだ。可愛かわいらしい、女の子のような声。

 突如とつじょひどく冷たい気に包まれて、枝折は思わず目を閉じた。冷気は瞬時に流れ落ちていく。同時に、吹き荒れていた風もやんで、人々のざわめきが枝折に押し寄せた。


 ケタケタケタケタ――


 騒然そうぜんとした中で、笑い声が枝折の耳にすべる。

 愉悦ゆえつを覚えるその声に、背筋が寒くなった。――明らかな敵意。

「どうした? 大丈夫か?」

怪我けが人はいないか?」

「何、コレ?」

 大きな音を聞きつけて、集まってきた教師や学生たちに混じって、騒ぎ立てる優美の声がした。

 枝折は顔を持ち上げる。

 枝折から少し離れた場所で座り込んだままの優美は、すぐ近くで粉々にくだけたガラスにうろたえた。

「チョット、何なの?!」

 パニックになっている優美に白衣の女性が近づく。優美に声をかけながら立ち上がらせたのは、保健医である木蓮だ。

 木蓮に連れられて歩く優美の後ろ姿を見て、枝折は安堵あんどの息をらした。

「――っ」

 鼻を刺すきな臭さに、枝折は眉根まゆねを寄せる。まじろぎもせずに見回すと、一条の細い煙が漂流ひょうりゅうしていた。

 水に墨汁ぼくじゅうらしたような模様が棚引たなびきながら広がる。


 ……よくない、もの。


 ぞくぞくとした悪寒が枝折の肌を粟立あわだたせる。

 どこから来るのか。出所でどころを探していると、人だかりの中に制服姿の希子を見つけた。

 感情のない瞳で割れた窓ガラスを眺めていた希子は、忌々いまいましげに顔をゆがめると、きびすを返してその場から離れた。

 臭気しゅうきが増した気がして、枝折は息を止めた。

「大丈夫か?」

 素っ気ない声が降ってきたすぐ後、力強く腕を引っ張られて、枝折の身体がよろめく。

「……っ」

 肩が抜けるんじゃないかと思うほどの力に、顔をしかめた枝折を引き締まった身体が受け止める。

 ざわつく周囲から女子たちの悲鳴が聞こえて、枝折は慌てて自分の身体を離そうとするが、がっちりと押さえられているのか、ぴくりとも動かなかった。

「目をつけられやすいな」

 あきれたような語調に、視線を上げると柊の涼やかな双眸とぶつかる。

 背中を支える手からは、体温を感じない。

「――どうして……?」

 枝折は、ずっと頭の中で繰り返していた言葉を口にした。

「覚えて、いないか」

「……え?!」

 柊の独白どくはくめいた呟きに、枝折は聞き返す。

「いや――いい。行くぞ」

 柊が宣言すると、突風がどこからともなく押し寄せる。

 目が開けられない枝折は、ふわりと身体が浮く感覚に驚いて、近くにあるものにしがみついた。

 ふっと、微かに笑う気配。

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