8

 ガイダンスが終わり、午前で解散となった。

 生徒たちが帰り支度でざわつく中、枝折も校章の入ったバッグに荷物を仕舞う。

 早く部屋に戻りたい。

 片づけ終わり、枝折が立ち上がった時。

「滋堂、引目矢」

 教師のいかめしい声が教室内に響く。自分の名を呼ばれ、枝折はびくりと反応する。室内が水を打ったように静まり返り、クラスメイトの好奇の目が枝折に向けられる。

「はい」

 返事をしたのは、水木。

「二人とも、理事長室に行ってくれ」

 宣告するように言いはなった担任教師は、荷物の入った整理箱を持つと返答を聞かずに部屋を出ていく。


 ……どうして?


 理由がわからず、クラスメイトの目にさらされて、枝折は固まる。好意のない視線の痛さに身をすくめた。

「枝折ちゃん、行くよ」

 バッグを手に立ち上がった水木は、空いている手で枝折の腕を摑み、バッグをふたつ持つと有無うむを言わさず廊下へ出た。教室横の階段でひとつ階を下がり、建物と建物をつなぐ渡り廊下を通って隣の棟の廊下を歩く。

 水木に手を引かれて。まるで、導かれるように。


 初めて足を踏み入れた建物はひっそりとしていて、さっきまでいた校舎とは空気が全く異なる。職員室や保健室の入る特別棟の廊下は人いきれがなく、ひんやりと心地よい。

 一階に降りて、玄関と反対の方向へと水木は進む。迷う様子を見せずに目的地を目指す水木を、枝折は不思議に思う。

 同じ一年生のはずなのに、水木はこの学校の構造に詳しい。枝折が寮に入った時から、自分の家みたいにこの学校について熟知じゅくちしていた。


 ……水木さんって、何者なんだろう?


 前を歩く水木の背を見つめながら、ふと思う。


 職員室の前を通過すると、建物の一番奥に理事長室と書かれたプレートが目に入る。

 どうして、呼び出されたのだろう。理由がわからない不安に、ゆっくりと鼓動が速度を増す。

 枝折の情況を気にめないまま、水木は理事長室のドアの前に立つ。ノックをして、すぐに重厚な扉を押し開く。

 入室の意思を示さず、承諾も得ない水木の豪胆ごうたん素振そぶりに、枝折は肝を冷やす。

 ここは、理事長室なのに。

「連れて来ましたよ」

 枝折を引き連れて室内に入った水木のくだけた語調に、枝折は目を白黒させて中を観察する。

 入って左側にある応接セットには、白衣姿の女性と眼鏡をかけた八瀬高校の制服を着た青年がくつろいでいる。部屋の奥、窓辺にある理事長机に寄りかかるように佇み、腕を組んでいるのは、同じクラスの柊。

 この部屋のあるじである、理事長らしき人物の姿はない。

 どうして、呼び出されたのだろう?

「引目矢、枝折さん」

 枝折の名を口にしたのは、ソファーから腰を上げた白衣の女性。

「……はい」

 不安に恐々きょうきょうと返事をした枝折に、女がゆるりと近寄る。

「ごめんなさいね。急に呼び出して。私は、ここの保健医をしている、黒咲くろさき木蓮もくれん。お見知り置きを」

 艶やかな笑みを浮かべる保健医。

 その表情から、枝折は夕闇ゆうやみに浮かぶ純白の大輪の花を想像した。


 色白の肌と対照的な黒く艶やか髪はゆるく波打つ。豹のようにしなやかな姿態したい

 柔和にゅうわな面差しと、匂い立つような美しさで、誰もが魅了されるだろう。


「…………」

 お見知り置きを、と言われ戸惑う。

「今日、ここに来てもらったのは、あなたに確認したいことがあったから――」

 唐突に言葉を切った保健医は、口許に乗せていた優しい笑みを豹変ひょうへんさせる。

 嫌な汗が背中を滑り落ちる。

 凄惨せいさんな笑みにすり替えた木蓮は、纏う気配までも一変させた。


 ――ああ。この女性ひともなんだ。


 私たちと異なるモノ。


 木蓮から目が離せなくなった枝折は、彼女の周りの空気が陽炎のように揺らいだのを見た。

 その正体を知ろうと、枝折は目を凝らす。

 徐々に質感を持った空気が色を持つ。黒いもやが誘うように、大きく小さくなまめかしく舞う。鋭く肌を突き刺すような冷気。妖艶な笑みをたたえながら、木蓮は一歩間合まあいを詰める。

 ズキリと、こめかみに痛みが走る。

 今まで遭遇したことのない感覚に、身体が嫌でも震える。

「やめろ」

 冷酷に告げた声。発したのは、冴え冴えとした冬の湖面のような相貌そうぼうを枝折に向ける柊。

 その言葉に素早く反応した木蓮が気配を切り替えると、室内に充満していた冷気も瞬時に霧散むさんした。

「ごめんなさいね。あなたがどの程度、れる目を持つのか、知りたくて」

 優しげな表情を見せる木蓮に、枝折は当惑とうわくする。

「引目矢、枝折」

 フルネームで呼ばれ、枝折の意識はそちらに移る。あらがえない力が、その声に宿る。


 フレームのない眼鏡の奥で気難しげに細めた目。

 抑揚よくようのない話し方。頭脳ずのう明晰めいせきな印象を与える風貌ふうぼう。柊より背が高い、糸杉のような痩身そうしん


 眼前に立つ男が、入学式に副生徒会長として挨拶をした人物だと気づく。

 名前は、夏越なごしあおい

「君は、他人に見えないモノが視える」

 名を呼んだ同じ声で、葵が重く断言した。


 どくり。心臓が跳ね上がる。

『――――』

 脳裏に幼い声が響く。

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