第21話 理由

 行き先なんかわかりゃしねーからとりあえず学校に飛び込んでみた。休日練習の運動部をかき分けかき分け、鍵が壊れて開けっ放しの部室棟に入ると汗臭さで死にかけた。茂木のヤローちゃんと週末はファブリーズかけてから帰れって言ってんのになんで忘れるんだ。殺す気か。

 俺は吐き気を覚えながら室内を見回す。誰かが脱ぎ捨てていったまま発酵し続けているトランクスに染みた目で、ロッカーを空けていくが当然ながら地夏はいない。あいつ小柄だからどっかに縮こまってたらわっかんねーんだよな。

 いちおう念のためにガサゴソやってたら頭の上に何か落ちてきた。

 獅子舞みたいにうねっているその紙束は、ミズコー女子マネたちが作った千羽鶴だ。

 毎年初戦負けのくせして、願掛けだけは怠らない。そんな神頼みだから負けんじゃねーのって気もするが、地夏はそれをやめろとは言わなかった。それどころか今年はほとんど一人で折ったらしい。

「こういうのって、なーんも考えなくても作れるから好きなんだよね、あたし」

 とかなんとか言いながら鶴を折っていた地夏の顔が思い浮かぶ。俺はなんか無性にそれが腹立って、空きロッカーを蹴飛ばして表に飛び出した。サッカー部の島崎がびっくりしてボール小脇に俺を見ている。

「どした、天泰?」

「うるせえ!」

 完全に八つ当たりで怒鳴り散らしてから、上履きのまんま裏門を飛び出した。右を見る、左を見る、どっちへ行きゃいいのかわかんない時は、とにかく走るっきゃない。一度稲荷のほうの家まで戻ってみたが、もぬけの空だった。みんなで行った定食屋『ナナカマド』も見にいったし、銭湯『湯の湯 おきしじぇん』の女湯にも突撃を敢行した。番台のババァにぶち殺されかけて表に叩き出されたがこっちはそれどころじゃねぇ。休日の昼間っから後家さん方が入浴してらっしゃったがなんにも拝ませてもらってねぇ。だって地夏がいねぇんだ。

 くそ――

 むかつくぜ、嫌な女だと思ってたのに、いなくなるとスゲー苛々する。どう考えたってあいつが勝手して俺が追いかける羽目になったっていうのに、恨み言が出てこねぇ。それが一番ムカツク。とっとと見つけ出して、こんな気分にはさっさとケリをつけてやる。

 俺はあっちこっちで塩を撒かれながら、水鏡町を走り回った。自転車を球場に忘れてくるという若年性痴呆間違いナシの大ポカをやらかした上にもう期末考査も終わってるクソみたいな夏の始まりの気温で俺は脱水間近に汗だくだった。走ったり投げたり打ったり捕ったり、そういう汗水たらした青春が嫌だから帰宅部やってんのに、参るよな、なんでか知らねぇけど俺みたいなやつにも一生に一度くらいは全力で走らなきゃいけない時が来るらしい。こんなのは熱也がやりゃあいいんだ。あの野郎、澄まし顔で落ち込みやがって、『エース』にゃそんな権利はないんだよ。

『兄貴』にもな。

「ぜえっ……はあっ……うぇっぷっ……げっふぅ……」

 完全にカコクなダイエットに苦しむOLみたいになった俺はふらつきながらも、なんとかそこまで辿り着いた。ぶっちゃけこの町の数少ない立ち寄れそうなポイントは全部見て回った。つまり虱潰しだ。だからそこに地夏がいるってことは地元で十六年間過ごしてきた俺には分かってる。

 銀竜川のほとりは、いつも雨のにおいがする。

 そこだけ太陽の熱を吸い込んでるような気がする青白い川、それを遮って一本の橋が隣町まで続いている。だがほとんど車なんか通っていかない。しかもこんな日曜のお昼時には、この町にはどっかのジジィが垂れ流しにしてる午後一のラジオ番組のノイズまじりの喧騒ぐらいしか聞こえてこない。だから地夏は、二車線のド真ん中に突っ立って、まるでそこが自分の所有地だといわんばかりの態度で空を見上げていた。

 よく晴れていた。

「探したぞ、このクソバカ女。てめー、いなくなる時は行き先を言ってからいけや!」

 俺の無茶振りに、地夏は首だけでわずかに振り返り、くすっと笑った。嫌な笑い方しやがって。全然似合ってねーんだよ。

「ご苦労様。べつに探しに来なくてよかったのに。ちょっとカッとなったけど、もうすっかり落ち着いたし――」

「んなわけねーだろアホンダラ、お前がそんなオンオフすっきり点くタイプか? 無理して笑うなんてらしくねーからやめちまえバーカ」

「……わお、なかなか言うじゃん。傷ついたぁ」

 けらけらと笑う地夏。痙攣したようにその肩が震える。

「で、なにしに来たワケ? 天泰。べつに思い詰めたりなんかしてないから、放っておいてくれればそのうち帰るよ」

「放っておけるわけねーだろ。バカかお前?」

「……なんで? べつにあたしたち、他人じゃん」

 地夏がじっと俺を見る。

「血が繋がってるわけでもない。お互いに両親だと思ってた人たちが、相手の親だっただけ。でしょ? 変な義理立てしなくていいよ。あんたはさ、新しくできた妹を可愛がってればいいの」

「風嶺ちゃんは、お前の妹だろ!」

「そうだよ」

 地夏はあっさり頷いた。風が吹いて、白いリボンが神様の気まぐれにそよぐ。

「あの子はあたしの妹。だからずっと、ちっちゃな頃からあたしが面倒を見てた。パパとママは共働きで家にあんまりいなかったし、美鈴の前のハウスキーパーは嫌なやつばっかりで、だから結局、あたしがあの子の面倒を見るしかなかった……」

 地夏は自分の掌をじっと見て、

「あの子ってさ、むかしから『ああ』なの。身体弱くってすぐ熱出すし、なにかあるとすぐ泣いて。困ったことは全部誰かにお任せ。あたしはそれが――嫌だった」

「……そんなの、風嶺ちゃんのせいじゃねぇだろ」

「そうだね。でも、だからなに? あたしの気持ちだって、あたしのせいじゃない。べつに好きこのんであの子を嫌ってきたわけじゃない。……ずっと我慢してきた。我慢しようとしてきた。いつだって、あたしはあの子に振り回されてばっかり。それを『お姉ちゃん』だからって、我慢して、我慢させられて、なんとかいままでやってきた。でも――それももう、限界」

 神経が途絶えたかのように、だらりと両手をおろして、地夏は続ける。

 その足の向く先には、どこまでも国道が続いている。

「ここに引っ越してきたのってさ、あの子の身体のせいなんだ。……知ってた?」

「……どっかで聞いたかも」

「だよね。あの子、東京の空気が合わないみたいでさ。時々入院したりしてたんだけど、それならいっそ、田舎の綺麗な環境で過ごした方がいいんじゃないかってパパが言い出して。ママもすぐに賛成して。すごいよね。

 あたし、行く高校決まってたのに」

 俺は口を挟めなかった。

「べつにそんなに行きたい高校じゃなかったけどさ。家から近かったし、進学校だからたぶん予備校代とかも浮いたかもだし、校舎綺麗で制服可愛くて、先輩たちもいい人そうだったし――ああ、これからここで三年間を過ごすんだなあ、なんて校舎を見上げたりしてね。バカみたいだよね。そんなの全部、あの子の『ワガママ』で台無しにされる程度のものでしかなかったのに」

 地夏は両手を広げた。

「それでも、いつものことだし、仕方ないかって思って、あたしはこの町に来た。そしたら、なに? 大喧嘩した時にいろいろ言いすぎたからかな、ママに心配されて、血液摂られて調べられて、そしたらあの子は本当の妹じゃありません――あたしのきょうだいは妹じゃなくて、お兄ちゃんでした。

 なにそれ?

 あの子のせいで、いままでずっと我慢してきたのに――お姉ちゃんだから仕方ないって、言い聞かせられてきたのに――違ったって、なに? じゃあ、あたしはなんのために……あたしは……」

「地夏……」

「好きな人だって、いたのに」

 地夏は国道の先を、どこまでも見つめている。

 その道の続くどこかに、地夏が暮らしていた町がある。

「姉妹じゃないって分かった時、嫌な気分だった。悲しかったよ。ああ、嫌っているんだと思っても、妹だと思ってたんだな――ってその時、分かった。そういう意味じゃ、嬉しかったのかも。姉妹らしい気持ちを味わえて……でもさ、あたしは嫌なやつだから、……それもあの子があたしの足を金輪際引っ張らなければ、の話だったわけ」

「…………」

「あたしは……お兄ちゃんを応援したかった。いきなり出来た、野球の上手なお兄ちゃんに頑張って欲しかった。なのに……あたしには、それも許されないの? 一生懸命頑張っても、あの子が突然、あたしから全部を奪って、台無しにする。あたしはそれに、耐えなきゃならないの? あの子のせいじゃないから? じゃあ、あたしは誰のせいにすればいいの? パパとママ? 菓子丘先生? それとも、いまここにいる、あんた? ……誰のせいにすればいい?」

 地夏は振り返った。

 泣きそうな顔で笑いながら、

「あたし、我侭なんだ。だから、我慢できない。あの子に」

「いいんじゃねぇか」

「……は?」

「誰もお前が悪いと思って、追いかけてきたわけじゃねーよ」

 地夏は何か言いかけて、やめた。俺の言葉が予想の範疇から逸れていたらしい。鬼コーチも『俺』っていうイレギュラーバウンドには対処し切れなかったらしいな。

 俺は銀竜川の照り返しから顔を背けながら、それでも地夏の顔を見て言った。

「お前にはお前の言い分があるんだろうし、いまちょっと話聞いて、仕方ねーなとも思った。それでも、風嶺ちゃんに当たったのはよくねーと思うけど」

「……なにを知ったような、こと」

「恨みたければ、恨めよ。誰もそれを止めたりしねーよ。風嶺ちゃんには、きついと思うけど……」

「――そんなことできるわけないでしょ!!」

 地夏は吼えた。俺の胸倉を掴んで泣きながらツバ吐きかけて叫んでくる。

 心の内を。

「あたしはお姉ちゃんなんだから、いつまでもあの子を恨んでていいわけがないでしょ!! だからどっかで区切りつけて、何もなかったような顔して、いつもみたいに振舞わなきゃなんないのよ!! あんたたちにとってはそっけなく見えるかもしんないけど、あれでもあたしには限界なのよ!! あたしは、あたしはあの子が――!」

「じゃあやめればいいだろ!!」

 俺も地夏の胸倉を掴み返した。速攻で投げ飛ばされて橋に思い切り背中から落とされてこいつ話の展開わかってんのかと半べそ入れつつ立ち上がる。アマヤスワカル、ココ逃げちゃイケナイ。

 今度は腕を掴んでみた。

「見てりゃ分かるんだよ、誰よりもあの子のこと恨みたくねぇって思ってんのはお前ぁぁぁぁぁぁぁ…………」

 再び投げ飛ばされて今度はガードレールに風で飛ばされた軍手のように直撃する。ものすごくムセたがアマヤス負けない、ていうかこいつ俺を殺す気か。

「……恨んじゃうのは仕方ないけど!!」

 俺はよろけながら立ち上がった。

 そうとも、負けてたまるか、この奇妙奇天烈な家庭環境で、右も左もわかんなくって戸惑ったのは地夏だけじゃねぇ。

 俺もだ。

 急にできた新しい家族とか、生活とか、いろいろあって、だから、俺だけは――

 この子から逃げちゃいけねぇんだ。

「それが嫌になったら、嫌だと思えるんだったら、――いつでもやめろよ! そんな悲しいこと!!」

 地夏は頬を打たれたような顔をした。何か言いかけるが、どうせ弱音だから聞かない。そんなやつにはコレだ。

 俺は右手をケツに突っ込んだ。いや、ちょっと待ってくれべつに錯乱したわけじゃない。こんなこともあろうかと、俺が持ってきた秘密兵器があってな。

 その名も色紙という。

「……なにそれ」

 男子高校生がズボンのケツからいきなり色紙を取り出したら女子高校生は必ずこういう切り返しをしてくる。それに加えて色紙は俺のケツにプレスされ、さらに何度も投げられたりした衝撃でベコベコだし、おまけに汗吸ってちょっと黄ばんでるし(汗だよ?)、ムードも雰囲気もへったくれもない秘密兵器どころかなんらかの証拠物件になりかねないブツだったが――

 俺はそれを地夏の顔面の前に印籠のようにかざした。

「これを見ろ!!」

 べつに変態行為ではない。

「よく見ろ」

 地夏は夏用カーディガンの袖でそれを汚物のように掴み、見た。

「これって……」



『いきなり入ってきてケツバットはマジで怖かった。

 でもいい練習になった。ありがとう』

 ファースト 柴


『正直、ラクだって聞いて入った野球部だけど、

 本気出すのも悪くなかった』

 セカンド 倉林


『稲荷妹は部員のことをちゃんと考えてくれてた。

 暑い中、練習に付き合ってくれてありがとう』

 サード 岡部


『三年は俺と杉山しかいないけど、最後の夏にようやく本気出した投手と公式戦に出れて嬉しい。

 ずっと俺は、こんなふうに野球がしたかった。ありがとうコーチ。

 これからもよろしく』

 ショート 高崎


『公園でぶっ倒れたら水かけられてフライを延々捕らされた時はブラック企業の手先だと思った。

 本気で殺されかけたけど、でも本気でちょっと俺上手くなった気がする。ありがとうございます』

 ライト 茂木


『熱也のやつは可愛い妹がいてぶち殺したい。

 いつでもお嫁に来てください。うち、山あります』

 センター 杉山


『部室棟にある醗酵した下着は俺のじゃありません。

 高崎先輩のです』

 レフト 小暮


『俺は一生、あんたについていく』

 キャッチャー 新倉


『最初はマネジになるのかと思った。でもいまでは立派なうちのコーチです。遊べないくらい一緒に野球しよ!』

 女子マネ一同



「これって……」

「いいから、読めって」

 地夏の視線が、色紙を一周していく。



『きつい練習なんてキライだったし、逃げたこともあったけど、

 でもマウンドからは逃げないんで。

 お兄ちゃんそこそこ頑張るから、ちなっぴ応援よろぴこ!』

 ピッチャー お兄ちゃん



「……先輩、頭わる……」

「知ってる」

 俺はふいふいと手を振って、最後のコメントを読むように地夏を促した。地夏は、剥がしたかさぶたの中を見るように、色紙の最後の一文を読んだ。


『私のお姉ちゃんは、いつだって自慢のお姉ちゃんです。

 みんなと一緒に、甲子園にいってね!』

 風嶺



 地夏は何も言わない。

 びっしりと寄せ書きの書かれた色紙を両手で掴んだまま、じっとしている。

 俺は言った。

「風嶺ちゃんが作ろうって言い出したんだよ、これ」

「え……?」

「お姉ちゃんが、いつも頑張ってるから、って。お前に喜んで欲しいって。部員に呼びかけて」

 地夏は何も言わない。

「……こんなもん持ったまま、お前を責めに来れるわけねーだろ」

 地夏は何も言わない。

「地夏……」

「……ひとりにして」

 ふいっと。地夏は背中を向けた。ベコベコになった色紙を握り締めたまま。

 それをもっとベコベコにしながら。

 俺は俺の務めを果たしたと思う。

 だから、地夏の言うとおりに背中を向けて、橋の上で立ち尽くすあいつを放っておいた。俺もずっとここで暮らしてるから分かるんだ。

 どんなに泣いても、こっぴどく叱られても、銀竜川のせせらぎを聞いてると、最後は安心して家に帰れる。

 あいつが嫌いなこの町は、そういうところだから。

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