第20話 冗談じゃないです

「打たれたああああああああああああああああああ!!」

 ギャース! と胸を押さえてもがき苦しむミズコーの投手はもんどりうって地面をゴロゴロ転がっていった。場所は選手控え室、今日はもう試合がないので、いつまでもウダウダと居残っているミズコー野球部なのだった。

「痛い、痛いよーっ! 大事なタマが打たれちゃったよぉぉぉぉっ!」

 アンダー姿で転がりまわってる熱也を見て、三年生から一年生までみんながゲラゲラ笑ってた。俺も笑った。でも、すぐそばのベンチで横になってる風嶺ちゃんのことだけが気がかりだった。

 投手用の氷嚢を額に乗せてるけど、顔は真っ赤で呼吸も荒い。さっきまで菓子丘先生が来ていて診てくれたが、「これは恋の病だな!」とふざけたことをぬかしたところ地夏に張り倒され「熱中症です。いま、親御さんに車出してもらうように連絡しますね」と泣きながら電話をかけていた。暴力の前に医術は無意味だ。

「風嶺ちゃん、あとちょっとで親父たち、駐車場から車持ってきてくれるからな」

「……ありがとう……ございます……」

 浅く吐息を繰り返しながら、地面で焼き始めた目玉焼きみたいにふわふわした目つきで、風嶺ちゃんは俺を見上げてくる。

「あの……すみませ……わた……し……」

「気にしなくていいよ。なんも悪いことなんかしてないんだから」

 俺はポンポンと風嶺ちゃんの腕を叩く。風嶺ちゃんは恥ずかしそうな、それでいて少し悔しそうな、複雑な表情で「はい……」とタオルケットを口元まで持ち上げた。かわゆい。

「いやー、最後の最後で打たれるとはなー!」

「めちゃめちゃ見せ場作りやがって、さすがうちの投手だぜ!」

「くっそぉ、ハナコーの連中、今夜はスシだろーなー」

「負けてらんねぇ! 俺たちもスシを喰いにいこう!」

「スーシ! スーシ! うおおおおおおおおおおおお!」

 盛り上がってる球児たち。だが、どことなく雰囲気に陰があるのは、もちろん控え室の隅っこ、蛇口の前の鏡を睨みながらさっきから五分以上ビクとも動かず凍りついている女子高生にビビりあがっているからだ。

 地夏は、何も言わない。

 洗面台の縁を両手で握り締めて、いまにもそれをぶち壊しそうに肩肘張ったまま、動かない。

「……先輩、すいません、最後、俺……バックホーム捕り損な……」

「いいって新倉、気にすんなよ! 相手も足速かったしさ。それより悪かったな、今日首振ってばっかで……」

「いや! そんな……だって、普通っすよ、速い球で勝負したいってのは……俺が捕れれば、そもそも最初の二点だって取られてなかったのに……」

「だから気にするなって、勝負は時の運なんだから。それに俺はもう二度と――」

 キャッチャーマスクを身体の前で抱えた新倉の肩を熱也はポンポンと叩き、

「――もう二度と、あんなアブネー球は投げねーからさ」

「熱也先輩……」

「だからさ、もうお前もいちいち終わったことなんか気にしたりしないで――」

 そう熱也が言いかけた時、地夏がついにキレた。

 まず犠牲になったのは控え室の鏡一枚、それが女子高生の本気のパンチで粉々にぶち割れた。砕けた破片が地夏の白い手を傷つけて、血飛沫が小さな兵隊みたいに鏡と大理石とタイルに飛び散った。そのまま、いまにも誰かを殺しそうな顔で、その場にいる全員を見た。

「楽しいですか?」

「…………」

「あんな負け方して、楽しいですか。少しも悔しくないんですか?」

「……悔しいよ、なあ、みんな? でも、だって、……仕方ないだろ?」

 地夏は熱也を完全に無視した。そしてつかつかつか、とこともあろうにビビりあがっていた俺と、そして震えている風嶺ちゃんのほうに近づいてきた。そのまま、ついこの間まで血が繋がっていると思っていた妹を、見下ろす。

「そんなにあたしの邪魔したいんだ?」

「え……」

「なにがあっても、あたしの思い通りにはさせたくないんだ。そうでしょ? ちょっとでもあたしが楽しい気持ちになれそうだったら、それに泥ぶっかけないと気が済まないんだよね、あなたは」

「や、そん、な……ちが……わた、わたし……」

「おい! 風嶺ちゃんは悪くな――」

 一瞬、目の前が真っ白になった。ガチで鼻っ柱をぶん殴られたと分かったのは、新倉に「あ、天泰! 大丈夫か?」と抱えられてからだった。手の甲で顔を拭ったら鼻血がついていた。立ち上がろうとして、よろけてまた新倉に突っ込んだ。

 地夏はこれから踏み潰そうとしているかのように、風嶺ちゃんの前から動かない。

「あんたなんか来なければよかったのに」

「え……」

「人の邪魔しかできない、誰かの足を引っ張ることしか能がない、いつもいつも誰かに支えてもらわないと一人じゃなんにもできない――あんたなんかに応援されて、なにか一つでもいいことある? そのなっさけない顔を見てるだけで虫唾が走るのよ、いつだって――あんたがいるから、あたしは――!」

「お姉……ちゃん……」

 タオルケットを自分の命のように抱き締めながら、唇をわなわな震わせて、風嶺ちゃんはぽろぽろ泣き始めた。それを見た地夏は汚物でも見たかのように顔を背けた後、

「……誰に言ってんの? あんたとあたしは、姉妹なんかじゃな――」

 ぱぁん、と。

 頬を打たれる音がした。

 熱也は右手で頬を張った、実の妹をむなしそうに見ていた。

「謝れ」

「……先輩、なに、するんですか」

「謝れよ、この子に」

「先輩には、関係ないです。こんな子のこと……」

「お前の妹は、俺の妹なんだよ!!」

「……わっけわかんない……先輩と……兄さんとこの子はなにも関係ないっ! だって、だって、……あたしの妹ですらないんだから!!」

 何もできずに慌てていたミズコー野球部のメンバーを跳ね飛ばすようにして、地夏は控え室から走り去っていった。あとにはいよいよすすり泣きがひどくなった風嶺ちゃんと、それを小さく静かに慰める茶樹の声だけがやけに大きく響いていた。

 熱也が、ベンチにどさっと腰を下ろした。

「……だから、嫌なんだよ。勝つとか、負けるとか……」

 顔を俯けて、髪に隠れてその顔は見えなかった。

 俺は鼻血を全部拭ってから、立ち上がって、新倉の肩を叩いた。

「新倉」

「……ん?」

「兄貴のこと、頼む」

 俺は地夏の後を追いかけた。

 血なんか全然、繋がってない赤の他人を。

 それでも、

 俺の妹の、姉貴だから。

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