第19話 熱覆う影も薄く


 熱也はむかしから野球が好きだった。それは幼稚園の頃に俺の股間に硬球ぶち当ててもボール触るのやめなかったことからも明らかだ。小学校に入って、地域の草野球チームに入って、熱也は毎日ずーっと泥んこになってた。

 だってそうだよな、勝てりゃ面白いよ。それがゲームでもスポーツでもなんでも。

 熱也は最初っから打てて走れて投げれて守れるスーパーボーイだった。天才って言葉はあんまり好きじゃないけど、でもひょっとしたらこんな田舎じゃなくって、父親が野球バカの家にでも生まれてたらもっと違った未来があったのかもしれない。

 とはいえ、熱也は違う意味でもバカだから、チームで自分が一番凄かろうがそれを鼻にかけたりはしなかった。そんなことはどうでもよくって、ただ野球ができりゃあいい。そのためなら違う小学校のやつらと友達にもなるし、宿題終わってねーやつがいたら俺を派遣して手伝わせる。まァ後者に関してはいまでもぶちころそうと思ってる節があるんだけども、それはともかく、熱也はガキの頃、普通にいいやつで野球が好きだった。

 でも、それはやっぱ熱也にとっては楽しかっただけであって、熱也とやる野球をつまんねーって言い出すやつもいた。

 スポーツマンシップとかなんとか言ったって、熱也がいたらこの町じゃ投手にはなれない。どんだけピッチャーになりたくても、外野手に回されたりサードに置かれたり、あるいは――それが屈辱的なことなのか、俺にはわかんないけど――いい肩してるからってキャッチャーにされたり。

 熱也はたぶん、「ピッチャーやりたい」って誰かが言い出したら、ポジションを譲ったんじゃないかと思う。でも、それはいまの熱也を知ってるからそう俺が感じてるだけで、あの頃、町のヒーローだった頃の熱也に「ピッチャーやめろ」って言ったら、普通に反対してきたかも。

 もうあれから十年近く経っちゃってるし、本当のところはもう時間が根こそぎ持っていっちまった。だから、あったことだけ言う。

 小四の頃、熱也とバッテリー組んでた捕手が、野球をやめて引っ越した。

 俺はいまでもあいつが悪いと思ってる。いくらなんでもピッチャーやりたいからって外に引っ越す前に一言相談しろって話だし、ちょっと我慢すれば中学野球だってあったんだし、そこでも投手は一人なんてことにはならなかったと思う。確かに、水鏡町はクソ田舎で練習試合だって東京みたいにはなかなか組めない。そういう事情は分かる、でも――

 なにも熱也の前で積もりに積もった恨みつらみをぶちまけてから、トラックに乗って二度と戻らなくたっていいと思う。

 親友だと思ってた捕手に裏切られて、捨てられて、あの頃の熱也は本気で野球をやめるんじゃないかと思った。あんなに笑わない兄貴を見たのは初めてだったし、正直言って、あの頃は家の中が怖かった。おばけでもいるんじゃないかって思っちゃうほどどこもかしこも暗かった。それは少しずつ、俺とか茶樹とかまわりのみんなで、吹き払っていったんだけど――

 熱也の中には、あの時の記憶がまだ残ってるんだと思う。

 あいつはあれから、勝つことに拘ろうとしなくなった。

 それがいいことなのか、悪いことなのかは別にして――あの頃の、『一番カッコイイ熱也』を見ることができずに育った、熱也の本当の妹に、その姿を見せられただけ、俺はこの試合には意味があったと思う。勝っても負けても――

 俺の兄貴は、カッコイイんだから。


「――ットライィィィィク!」


 審判が高々と親指を突き上げる。

「に、二個目のストライク! です!」

「そうだね」

 風嶺ちゃんは恋する乙女のように真っ赤になっている。

「いま、二死一・二塁だから……次、ストライク、取れたら――わたしたちの勝ち、なんですよね!」

「うん」

 正直言って、俺は風嶺ちゃんの言葉が全然耳に入ってきていなかった。そんなこと分かってるって感じだったし、それになにより――熱也の最後の投球が見たかった。

「兄貴――……」

 この試合に勝ったら、熱也はむかしみたいに戻るんだろうか。「勝つから楽しい」と言ってた頃に。負けん気そっくりな妹となかよく二人三脚でミズコーを引っ張っていくんだろうか。あの左腕一本で――

「勝てよ、兄貴」

 ここまで来たら、たったひとりの妹にカッコイイとこを見せてやれ。止まってた時間を動かしてやれ。俺がそれを、見届けてやるから。

 もう熱也は首を振らない。最後の一球、ここまで来たら新倉も熱也の『全力投球』を捕る腹をくくったんだろう。男の子だもんな、ここまで来たら最後までやりてーだろうよ。

 振りかぶる。

 ゆっくりと右脚を持ち上げて――俺にはそう見える――熱也の鷹のような眼光がバッターをぶち抜いてその奥にあるキャッチャーミットを睨み据える。それ以外はなにもいらない。そんな心気が陽炎に混じって熱也の肩から立ち昇ってるように思えた。

「あとひとつ、あとひとつ――」

 風嶺ちゃんが歌うように呟いている。俺は妹の方を全然見ていなかった。だから、

 どさっ……

 妹が倒れた時、度肝を抜かれて球場中に響き渡る声を出しちまった。

「――風嶺っ!!」

 客席に倒れこんだ風嶺ちゃんにそばにいたみんなが一斉に立ち上がって駆け寄っていく、そんな視界の隅で、俺は確かに最後の一瞬、投げ抜こうとしている熱也がこっちを見たのに気がついた。

 かきぃぃぃぃぃぃ………………………ん………………――――

 あっけないほど甲高い音が鳴って、球場高く舞い上がっていく白球を振り返りもせずに、

 熱也は肩で息をしながら、俺たちのいるスタンドを見ていた。

 外野超えヒット、中継ミスによるバックホーム失敗で三失点。

 終わってしまえばいつもの通りの、

 初戦敗退、だった。

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