第17話 野球なんてわかんなくても
ズドォン!
「ぐっはぁ……」
熱也の豪速球を腹に受けた新倉がどうっと倒れこむ。コロコロとボールがグラウンドを転がり、それを見た相手チームのバッターが涙ぐみ「し、知らない人ーっ!」と新倉の肩を揺さぶった。新倉はキャッチャーマスクの奥で静かに微笑み動かない。
そんなグラウンド上での椿事を俺と並んで見ながら、風嶺ちゃんがなにか慄然とした顔で言った。
「天泰さん、わたし、分かりました」
「なにがかね、妹よ」
「……野球は、キャッチャーをぶちのめしたら勝ち、なんですね?」
ですよね、合ってますよね、みたいな顔で見上げてくる風嶺ちゃん。アホか。
「野球は打って点取るゲームなんだよなあ」
「だってだって! もう熱也さん、新倉さんをぶちのめすの三回目ですよ!? 狙ってやってるとしか!」
「いやいや、さすがに兄貴は狙ってはやってないよ。だって新倉にぶつけたらランナー出ちゃうし」
「ランナー?」
「バッターは塁に出るとランナーになって、本塁まで戻ってくると一点もらえるんだよ風嶺ちゃん」
説明している俺の肩にぐいっと横から茶樹がニヤニヤ面を乗せてきて、
「つまり、野球は打ってる間に逃げる鬼ゴッコなのだ」
「茶樹、お前マネジなんだからもうちょい分かりやすいたとえを使えよ!」
「えー、わかりにくいかなあ」
二人で風嶺ちゃんを見ると、風嶺ちゃんはぷるぷる震えている。
「な、な、なんということ……」
「どしたの風嶺ちゃん」
「あの一塁に出てるヘルメット被った人たちは……熱也さんたちの仲間になってくれたのではなかったのですね!」
「そんなルールだと思ってたの!?」
黙ってっからなんとなく分かってるのかと思ったら……言ってよ訂正するから。まあ、確かにファーストにいる高崎先輩が知り合いのハナコーランナーと公式戦なのにぺちゃくちゃ喋ってるから仲間に見えなくもないが……ていうか打ったらそれまで味方だったチームメイトが十人目の野手になって守備してくるってバッター泣くだろ。チームの四番にはいじめられっ子が置かれてしまうよ。
「ああ、いずれにしても、またランナーを出してしまうミズコー野球部なのであった……」
風嶺ちゃんが持ってきた水筒から無断で茶ぁすすってる茶樹が頭悪いくせに難しいこと考えてるような顔で言った。
「これはよくない傾向ですなあ……どう思います、解説の鷹見天泰監督」
「まーあんまりよくねーけど大丈夫じゃね? もうこっちは四点取ってるし」
電光掲示板には水鏡高校に四点、そして華台高校に二点が表示されている。
「兄貴の四球と新倉の捕逸絡みで二点は取られたけど、まだ進塁打は打たれてねーし」
「そうなんだよねぇ」と茶樹がはふぅ、と畳んだ膝の上でため息をつく。
「熱ちゃんものすごいゴーソッ球なのにコントロールだめだめだからなあ」
「中学の頃に受けてくれてた先輩は、『熱也の球は速ぇし動くし捕れる気がしねぇ』って言ってたな」
「新倉、ちなっぴの元でカコクなるシュギョーを積んだんだけどね……やっぱり春からゆっくり作ってきた急造バッテリーじゃ間に合わなかったみたい」
「ま、そうだろーよ」
いくらなんでも地夏のカコクなるシュギョーを積んだくらいで、外野手から捕手になったばかりの新倉が150km近い球をほいほいと捕れるわけがない。
「な、な、なんで熱也さんは新倉さんが捕れないような速いボールばっかり投げるんですか? やっぱり新倉さんは倒すと得点が入るボーナス人形なのでは……」
「うん、風嶺ちゃん、それはともかくハエとか箸で掴める?」
「無理です、けど……」
「じゃ、ボールだって速ければ速いほど、打ちにくいんじゃねーかな」
俺だってバッティングセンター行ったら、調子乗って130kmのスピードボールのとことかいっても空振り連発で終わるし。
「……なるほど。じゃあ熱也さんは、勝つために速いボールを投げてるんですね」
「そ。……これまで絶っっっっっっ…対に投げたがらなかった、ものすごく速くて、キャッチャーが捕り損なうかもしれないって分かってるボールを、ね」
俺はベンチの地夏を見た。試合は熱也が次のバッターを三振で打ち取り、攻守交替になりスタメンがベンチに戻ってくるところだった。必死に守ってきた選手たちに地夏はなにやら早口で労いの言葉を、ちょっと笑いながらかけている。鬼コーチも満足な内容だったらしい。ただし捕逸した新倉と、捕手が捕逸すると分かっていながら豪速球ばかり投げ続けている熱也には睨みをくれている。……「そこまでしろとは言ってない」とでも言いたそうな顔をしていた。
「これで四回が終わって次は五回の表……か」
四回の裏はハナコーの攻撃だったので、次はミズコーの攻撃である。打順四番の熱也がバットを持って、バッターボックスに立っている。
「いけぇぇぇぇぇぇぇっ、熱也っ、かっ飛ばせっ、なにもかもっ、ボールと一緒にこの不景気も!」
「お父さん落ち着いて!!」
稲荷家の大黒柱がなにか野球の上に自分のストレスを乗せながらメガホン片手に大声を張り上げている。その隣で「フレッ、フレッ、ね・つ・や!」のチアどもがそれまで暑さに負けてゲル状になっていたところから復活し、しかし化粧が汗で全部落ちてなぜ自分のすっぴんを信じられなかったのかと目を疑いたくなるような悪鬼羅刹のダンサーズになっている。俺、とりあえずおしっこ漏らさねぇようにしとかねーと。振り向いたら終わる。
「熱也さん、打ってくれますかね?」
「あーたぶんね。あいつ、ロクに練習してねぇくせにバッティング上手いし」
「でもボール球(ストライクゾーンに入らなかった球)まで打っちゃうんだよね。それでピッチャーゴロとかになってアウト取られちゃうのがいつものコース」
「……っつっても、今日は結構バカスカ打ってるし、調子いいんじゃね?」
いつもは守備も攻撃も惨憺たる成績のミズコー野球部だが、今日はエースの力投もあってか一年の茂木までツーベースヒットをしょっぱなからぶちかましてスタンドを湧かせたりして、かなりノッている。
……それもやっぱ、あのエラソーに白リボンをたなびかせながらベンチで仁王立ちしている、あいつのおかげなのかもしれない。
地夏がコーチをしなければ、熱也は全力投球なんてしなかっただろうから……
そんなふうにしんみりしている俺のアンニュイな切なさを、相手チームのベンチが粉々に吹き飛ばした。
「ディーフェンス! ディーフェンス!」
ベンチから身を乗り出し、身体をフンフンさせながら手を叩いてチームの防衛心を煽っているのは、ハナコーマネージャー兼たぶん監督の峰光院鏡華。
「ミズコーのクサレバッターどもに大切な球を打たれでもしたら、あなたたちのタマを潰してやりますわ! 覚悟なさい!」
「ひいいいいい……」
な、なんてことを言い出すんだ……俺は一斉に内股になったハナコー野球部の面々が可哀想になった。アホを上官に持つと苦労するんだなあ。
「さあ、ハナコォォォォォォォ野球部ゥゥゥゥゥゥゥ!
ディーフェンス! ディーフェンス!」
「……言ってることは正しいんだが、なんで誰も野球漫画を読んでから来ないんだよ?」
「バスケやりたい」
「お前もかよ茶樹」
今度ドンキでボール買う?
それはともかく、熱也の打席である。金属バットをくいくい揺らしながら、打ってやるぞとケツ引いて待ち構えている熱也の姿はたとえ背中の「1」を塗り潰したって、確かにまあ、カッコイイと言えるだろう。
ハナコーの投手が、汗だくの顔を持ち上げてから、熱也に向かって一投放った。わずかに逸れていくスライダーカーブの変化球を、熱也は
「……っ!」
打った。打球はピッチャーの頭を超えて帽子を吹き飛ばし、セカンドの脇に落ちた。それを捕球して野手が構えた時にはもう熱也は一塁まで走りきっている。
ヒットだ。
派手なアタリではなかったが、四点取ってさらに無死のランナーが出て、スタンドはどよめいている。
「ほんっとにあのヤロー、今日は調子いいんだな……」
「なになに天泰、嫉妬? ジェラシー? 入部する?」
「アホか俺はフライも取れねーんだぞ。……べつに悔しくなんてねーし」
俺には有り余るほどの自由時間といつでもゲーム機をオンにできる環境があるし。余裕だし。青春なんか……青春なんか……
「カッコイイ……」
一人悶々としている俺の隣で、ちょっと顔を赤くした風嶺ちゃんがぽつりと呟いた。
「か、風嶺ちゃん?」
「あんなお兄ちゃん、欲しかったな……」
そこでハッと俺の存在を思い出し、
「えっ、あっ、いやっ! そのっ、あのっ、あ、天泰さんがお兄ちゃん失格というわけではなくて! オマケも欲しかったというか!」
「なんかときどき、ひどい辛辣なセリフを気を利かしたつもりで吐いてるよね風嶺ちゃん」
「あ、あうう……」
俯いてしまった妹をツンツン突いているうちに、いつの間にやらミズコーの攻撃が終わっていた。どうも熱也の後が続かず凡退したらしい。ミズコーの打順はとにかく熱也の前にランナー貯めて熱也が打って帰すというワンマン打撃だから、熱也が先頭なんかになったらすぐ六番の一年茂木に回っちゃうんだよね。そこから初回のツーベースヒットみたいな奇跡も起こらず、五回の表は終わった。
そして五回の裏――ふたたび、ハナコーの攻撃。
「おーっほっほっほっほ! さあ、そろそろあの鼻持ちならない安いメガネと薄いレンズの投手に教えてやりなさい! 我がハナコーの攻撃力は全米を震撼させるくらいあると自負しているということを!」
「お嬢様、落ち着いてください、薄いレンズは褒め言葉です!」
「っ!? な、なんですって……ええい、構わないわ、さあ、皆の衆! 攻撃です! 全砲門、ひらけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
「お、お嬢様ああああああああああああああああっ!」
「あっ」
つかつかつか、とハナコーベンチに近寄ってきた審判のおっちゃんたちが、日傘を差したユニフォーム姿の金髪ドリル少女の脇を掴み、そのまま表へと連れ出していった。
「いやあああああああああああああああ! ごめんなさい、ごめんなさいっ! おとなしくするからベンチにいさせて! 偉そうな口を叩かせてぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
「試合が見たいとか選手が心配とかじゃないんだ……」
さすがの茶樹もこれには呆れ顔。へくくっ、と頬をひくつかせながら、高校野球の闇に飲まれていった金髪マネジを見送る。
「茶樹、どう思う」
「金でもバカは治せない」
「お前も辛辣だなー」
俺も同感だけどさあ。
「あ、熱ちゃん投げるよ天泰。怖くないように手でファールカップしてあげよーか?」
「かなり縮み上がってるんでマジで触ってサイズ測ったらプライバシーの侵害でお前に訴訟を起こす」
俺は本気だ。
……くそっ、まだ五回の裏かよ。頑張って見てっけど、やっぱ熱也の全力投球を見てると股間が「ヒュンッ」ってなりやがる。いつもより口数が多いのもそのせい。喋ってないと変な声出ちゃいそう。
「だ、大丈夫ですか、天泰さん……?」
風嶺ちゃんが俺の腰をトントンしてくる。うん、間違った性知識だけどちょっと嬉しいからほっとく。べつに強打したわけじゃないんだ。
「兄貴のヤロー……」
俺をこんなカラダにした責任、取りやがれってんだよ。まじめ腐って投げやがってまァ。
……そこまでして、勝ちたいわけね。
ぐんっ、と振りかぶって捕手のミットめがけて左腕を振り下ろす熱也は迷いがない。いつものおちゃらけたバカタレサボリ野郎の姿なんかどっかに消えちまった。
いつもそうだ。
あいつは名前の通り、一度熱くなったらどこまでも熱くなる。途中で引いたり絶対しない。なにがあろうと最後まで自分の思い通りにしようとする。ジャンプの懸賞で当たったゲーム機をどっちのものにするのかモメた時と、河原で最高のエロ本を兄弟で見つけた時。それらと今の熱也の顔はそっくりだ。……たとえが最悪だったような気がするが、それは気にしないでおこう。
(ふりふり)
熱也はこの暑い中、捕手からの投球指示に首を振る。熱也はそんな内外を投げ分けたり、武器になるようなカミソリカーブなんかできやしない。サインなんか一個しかねぇんだ。この暑い中、新倉は蒸れに蒸れたキャッチャーマスクの中で悔しさで歯噛みしながら、指先でこう言っている。
『ゆっくり投げろ』
勝手な話だ、と新倉も、そしてベンチで奥歯の銀歯取れたみたいな顔してる地夏も思っていることだろう。投げろ投げろと言い続けてたのに、いざ投げられたら制御しきれずに持て余してしまう。だがもう遅い、熱也は首を振るのをやめて振りかぶる。慌てて捕球姿勢を取った新倉の動きからして、サインでモメてたのにそれを打ち切って投球モーションに入ったんだ。勝手なやつだぜ。
熱也はずっと、そうならないようにしていたはずなのに。
地夏がそれに、火を点けた。
俺は弟だから、兄貴のことはよく分かる。
あいつはたぶん、一番いい球を投げていて――
「――ットラァァァァァァァイク!!」
審判が親指を突き上げた。虚空を振り抜いたバッターがうなだれながらもバットを構え直し、捕手が返したボールを投手が捕る。
熱也はたぶん、いま、満足している。
これまでの全部が帳消しになるほどに。
汗と太陽を信じられなくなるほど冷たい顔をした兄貴を見ながら、俺はそんなことを思った。
それからも熱也は豪速球を投げ続け、新倉がなんとかそれを捕り、試合は綱渡り、風嶺ちゃんはますますエキサイトして三振が出るたびに「K」の旗を振りまくり、茶樹はうちの親父と一緒にメガホンで熱也を応援し、俺は頬杖突いて、時々兄貴から目を逸らしたりして――
試合は四対二のまま、九回裏に辿り着いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます