第6話 たぶんちょっとのお別れ



「う、うーん……あれ? 俺はいったい……」

「あ、気がつきました?」

 目を覚ますと、視界いっぱいに風嶺ちゃんの顔が広がっていた。そうか、これが天国か。俺はスヤァ……と俗世間にサヨナラバイバイ、二度寝を決め込もうとしたが何者かに蹴り落とされた。

「いつまで風嶺に甘えてんのよ。起きなさい」

「いってぇーな! 元はといえばお前が俺に灰皿投げるから悪いんだろうが!」

 ていうか、いまになってマジで気絶してたらしいことに気づき戦慄する。後頭部をさすさす。

「あれから長い時が経ったんだぞ、天泰」

「そういうのいいから兄貴。……って、マジでもう夜になってんじゃねぇか」

 座敷を見渡すと、喰い散らかされた寿司の残骸と、空になったビール瓶、そして大の字になってぶっ倒れている俺の親父とお袋がいた。実の両親である鷹見家の二人もそれぞれ寝入っている。

「なんかもう完全に親戚のノリだな。逆に安心するわ」

「そうね。まさかあたしのパパとそっちの……ていうか、あたしの父さんが知り合いだったなんて」

 鷹見はばりばりと髪をかきむしった。

「まぎらわしいなあ……」

「そんなこと言われても……」

「あんた、普段、そっちの親のことなんて呼んでるの?」

「親父とお袋」

「あたしはパパとママ。……ねぇ、お互いに実の両親のことは『父さん』と『母さん』で統一しない? いちいち『あれ、どっちだったっけ』とかってあんたと顔を見合わせたくないし」

「理由はくそったれだが承知した」

 かわいくねぇ女だ。睨み合う兄と姉を見て風嶺ちゃんが「あわあわ」している。熱也はせんべい食ってる。どっから出したんだそんなの。

「稲荷」

「なんだよ」

「起きたついでに、ちょっと話があるの。表へ出て」

「え、ぶたれる?」

「ついてくればぶたない」

 言うこと聞かなかったらぶつ前提で人と会話をするのはやめてほしい。俺は鷹見が新倉にぶちかました右ストレートの切れ味を思い出してぶるぶるした。

「……わかったよ」

 俺らにつられて、風嶺ちゃんも慌てて立ち上がった。

「あ、あの、お姉ちゃん! わ……わたしも……一緒に行っていい?」

「だめ」

 あう、とひるむ風嶺ちゃん。じんわりとその目に涙が浮かぶ。

「おい」

「いいから」

 睨む俺の腕を引っ張って、鷹見が俺を外へと連れ出した。

 散り損なった桜が何本か、街路に沿って植えられている。わずかに欠けた月の下で、鷹見はお団子の髪を解いた。窮屈だったらしい。ばさりと広がった黒髪を振り切るようにこちらを向き、じっと俺を見てくる。

 ……ま、可愛いことは、可愛い。口さえ開かなければ美少女だ。

「……なに?」

 俺のもの欲しげな視線に気づいて鷹見が顔をしかめた。

「や、べつに……で、話ってなんだよ。ってかなんで風嶺ちゃんは一緒に来ちゃだめなの?」

「いても意味ないでしょ、あの子には関係ない話だし」

「関係ないって……」

「あの子のことはどうでもいいから。ねぇ、稲荷。あんた、どうするつもり?」

「……どうするって?」

「決まってんでしょ。あたしたち、取り違えられたんだよ?」

 鷹見が自分の胸に手を当てる。

「このままってわけには、いかないでしょ」

「……そうだよなあ。こんなことになった元凶の菓子丘先生にはきちんと落とし前をつけてもらわないと。復讐だな」

「それはいずれやる」

 やるんだ。冗談だったんだけど……

「ね、稲荷。あたし、あんたの家に行く」

「ふうん……って、ええええええええええ!?」

 俺は飛び退った。鷹見が眉をあげる。

「なに驚いてんの。本当の両親がいたんだよ? 一緒に暮らして、どんな人たちなのか確かめなきゃ」

「いや、それはそうだけど……いきなりクラスメイトと同じ屋根の下っていうのは……うへへ」

 俺の脳内にピンク色のお花畑が広がる。それを鷹見が手刀で払い除けた。なにすんだ。

「バカ。あんたはうちに来るのよ」

「……ってことは?」

「稲荷天泰が鷹見天泰に、鷹見地夏が稲荷地夏になるってこと」

「…………」

 分かっていたことだが、いざ、となってみると結構ひるむ。

 そんな俺の胸を、鷹見はトン、と拳で突いた。

「ねぇ、いくらなんでも『これ』を無かったことにはできないよ。本当の両親と他人のままでいるつもり?」

「それは……そうだけど」

 俺は鷹見をちらっと見た。

「なあ。お互いの家を交換して住んでみて……さ。その後は、どうするんだよ。お前の言い方じゃないけど、いままで育ててくれた方を『なかったこと』には、できないぞ」

「それは最終的にどっちの両親を選ぶか、ってこと?」

「……まあ」

「それを決めるために、家を交換するんじゃないの」

「うう……」

 鷹見の言い方は常に弱い考えを切り捨てていて、正直、話していてかなりツライ。正論だけどさ……

「鷹見、お前さ、両親もそうだけど、妹と離れることには抵抗感とかねぇの?」

「べつに」

 鷹見ははっきりと言い捨てた。

「なに、あんたはお兄ちゃん離れできてないわけ?」

「そ、そんなんじゃねぇよ!」

「じゃ、いいじゃん。あたし、ちょっと興味あるし。お兄ちゃんってやつ。稲荷先輩って確か野球部だったよね。優しそうだし、妹よりは欲しいかな」

「お前な……そんなこと言ってっと、風嶺ちゃんが悲しむぞ」

 鷹見はフン、と鼻を鳴らした。

「あの子が? そんなわけない、風嶺だってあたしより、あんたみたいなボンクラのお兄ちゃんのほうが欲しいんじゃない? ボンクラ同士、仲良くやれば」

 クールダウンするように、軽くため息をつく鷹見。

「……話はそれだけ。あ、それからもうあたしは『鷹見』じゃなくなるから、地夏って呼んでいいよ。あたしもあんたのことは天泰って呼ぶから。不愉快だけどね」

「言葉のサボテンかお前は」

「なにそれ? ……とにかく、稲荷の父さんと母さんにちゃんと話をしといてね。あたしはもう、家出るって決めたんだから。モタモタしてたらぶっ飛ばす」

 言うだけ言って、鷹見はふらっと遊歩道を歩いていった。散歩にでもいくのかな。後を追う気にもなれなかったので、俺は集会所に戻った。

「……あれ?」

 座敷で熱也がぐおーぐおーと眠っている。幸せそうにヨダレ垂らしやがって。テーブルにメモが置いてあり、そこには可愛らしい小さな文字で『ねつやさんがおなかが空いたようなので家から何か持ってきます 風嶺』と書いてあった。ぶわっと涙が溢れそうになる。なんていい子なの、我が妹。

「それに比べてこのバカ兄貴は……ったく」

 俺はため息をつきながら、熱也の背中を軽く蹴っ飛ばした。

「大事な話ができねぇじゃねーか、ばかやろう」

「ん~?」

「……親父も親父で酒かっくらって寝てるしよぉ」

 まあ、親父だけではなく、稲荷鷹見両家とも酔い潰れているわけだが。俺は頭をかきむしってから、足元で一升瓶抱いて眠っている、アロハシャツ姿の赤ら顔に言った。

「親父」

 いろいろ考えてから、結局、一言にしからなかった。

「……ごめん」

 俺は、家を出ることにした。


 ○


「おーい、天泰、このダンボール持ってくれー」

「あああああああ今テレビ運んでるからだめええええええええ!!」

 うちの熱也は人の話を聞かない。

 なので、親父がくじ引きで当てた十四インチのテレビを二階から下ろそうとしている俺に一階の和室から出てきた熱也が思い切りダンボールをぶつけてきやがったのだった。

 へっぽこ野球部とはいえ走りこみをしている兄貴に勝てる俺ではない。もちろん見事に吹っ飛ばされて庭先に転がった。

 ガシャーン!

 ……俺はその音の出所を確かめる勇気が湧かない。サイバイマンに自爆された狼牙風風拳使いみたいになってシクシク泣くしかなかった。

「俺のテレビ、俺のテレビが」

「なんだ、このテレビ古くなってたのか」

「手から落ちたら新品でも画面砕けるわ! ブチ殺すぞこのクソ兄貴が!」

「わ――――どいてどいて――――!!」

 今度は茶樹だった。玄関先から悲鳴をあげながら飛び出してきて、すでに半壊しているテレビの上にダンボールを持ったまま突っ込んでいった。めきめきぐしゃり、と耳を塞ぎたくなるような音を立てて、茶樹はぽーんと跳ね飛ばされ背中から地面に落ちた。

「ぐはっ……!!」

「茶樹、お前に少しでもテレビさんの痛みが伝わればと願うよ」

 俺は滂沱のごとく涙を流しながら、お亡くなりになったテレビさんを持ち上げた。パラパラと画面の破片が落ちていく。こいつがいったい何をしたんだってばよ。

「いったた……あ、天泰ごめん。ダンボール破れた」

「ああ、見えてるよ。俺の秘蔵のエッチな本の山がな」

 人は大切なものが庭先にぶちまけられた時、とても無力だ。カラフルになった地面一帯を前にして、俺は拳を震わせることしかできない。

「茶樹さん……お願いだから帰ってくんねぇ……?」

「な、なにをー! せっかく天泰の引越しをお手伝いに来て上げてるのに! ひどくない? ひどいよね、熱也?」

「天泰、これもらっていい?」

 熱也がエロ本片手に俺に爽やかな笑顔を見せてきた。

「この状況でどうして弟に追い討ちをかけられるんだ、兄貴……」

 まあ、くれてやるけどさ。いいよいいよ。餞別だよ。新しい家にエロ本を持っていこうとした俺に天罰が下ったんだよ。分かってますとも。

 俺はヤケクソになって、そばに置いてあった学習参考書関係のダンボールを親父の軽トラに積んだ。

「くそったれがァ。いい天気すぎてムカついてきた」

「天泰、疲れすぎじゃない?」

「おめぇーのせいだろーがおめぇーのよぉー!!」

 俺が怒鳴ると、玄関先からひょこっといたいけな少女が顔を覗かせた。

「あ、あの……なにかスゴイ音がしましたけど……大丈夫ですか?」

「風嶺ちゃん、見ちゃいけない!」

 茶樹が砂を掴んで俺の妹の顔面にそれを振りかけた。

「う、うわあーっ! 痛いですぅーっ! ふぇぇぇぇぇ……」

「おいこらこのクソボケ! 俺の妹に何をしやがる!」

「げほぁっ」

 俺はさすがにブチキレて茶樹の脇腹に膝蹴りを叩きこんだ。この鷹見天泰、幼馴染だからといって容赦せん。

「だ、だって……天泰のエッチな本がいっぱい散らばってるし……」

「だからそれはお前のせいだよね? 片付けて? 責任持とう?」

 中学二年女子に見せるにはドぎつい内容のものが含まれていたからって相手の目を潰そうとするとか文明の風を感じねぇよ。

「あっはっは、茶樹と天泰は仲良しだなあ」

「兄貴、サボってっとてめぇのグローブにザリガニを入れるぞ」

「さあて天泰、次は何を運べばいい?」

 キラリン、とムカつくくらい白い歯を見せてくるうちの兄貴は、わしゃわしゃした虫とかエビとかが苦手だったりする。子供の頃は脚をもいだザリガニとかを兄貴の背中に入れたりして本気でぶん殴られたりしたっけなあ……

 そんな兄貴と一緒に暮らすのも、今日で一応終わりかと思うとなんともいえない感慨がある……ような、ないような。

「うぇっうぇっ……天泰さああん……目が痛いですぅ……」

「おお、風嶺ちゃん! 悪い悪い、こっちに水があるから目を洗おうね」

 俺は庭先の水場に風嶺ちゃんを連れていった。

「あ、あの茶樹って人……こわいですぅ……」

「大丈夫、あれはみんなの災いでね、いつか集団で囲んでぶっ潰すからその日を楽しみにしててくれ」

 パシャパシャと顔を洗った風嶺ちゃんはまだくしゅんくしゅんしていたが、そんな妹もまた可愛い。

 実妹なんだよなあ。

「……な、なんですか、天泰さん」

「え?」

「目がけだものです……」

「風嶺ちゃん、もう一回、目を洗おうか」

 パシャパシャ。

「お兄ちゃんを信じて?」

「は、はい……」

 顔がひきつってたけど、ま、よしとしよう。

「天泰~だいたい荷物積んだよ~」

「おう、ありがとよ」

「パパさん起きたら車出すって言ってたから、先、行っちゃう?」

「……そうだな」

 茶樹がうーん、と伸びをした。

「運動したらおなかすいちゃった。ねぇ熱也、なんか作って」

「お、いいぞぉ! 茶樹、俺は最近な、オムレツが作れるようになったんだ」

「あれはスクランブルエッグっていうんだよ」

 アホな会話をしながら、兄貴と幼馴染が母屋の中に入っていく。

 そのまま出てくる気配はない。

 風嶺ちゃんが俺を見上げてくる気配がする。

「……あの」

「ん、どうした我が妹よ」

「あ、あはは……その、いよいよですね。お引越し……」

「うん、そうだね。なんだかんだ、二週間も経っちまったな」

「あ、あの……」

 歩き出しかけた俺に、風嶺ちゃんが立ち止まった。

「ん? どしたの?」

「わ、わたし……グズでのろまで……いつもお姉ちゃんに怒られてばっかりだったんですけど」

 照れ臭そうに笑って、前髪を指でいじりながら、

「ちゃ、ちゃんと妹……になるように頑張り……ます、ので、よ、よろしく……です。お兄……ちゃん」

「あ、やばい鼻血出た」

「お兄ちゃんっ!?」

 俺はボタボタと滴る鼻血を手で受け止めながら天を仰いだ。破壊力高すぎるんよー。

 はぁーっ……

 空が青いぜ。

「いこっか」

「鼻血、大丈夫ですか……?」

「そのうち止まるでしょ」

 俺は手荷物だけ持って、妹に付き添われながら、十六年間過ごした我が家を最後に振り返った。

 みかんの木には、いまも実がついている。

 高校一年の春。

 俺は、新しい家に行く。

「あ、お姉――」

 風嶺ちゃんの言葉は最後まで形にはならなかった。俺と同じように手荷物だけ持った鷹見、ではなく稲荷地夏が、曲がり角を通って俺ん家に入っていくところだった。

 チラッと俺を見ただけで、地夏はそのまま通り過ぎていく。風嶺ちゃんの挙げられかけの小さな手が、頼りなげに揺れていた。

「風嶺ちゃん……」

「……いいんです」

 妹は俯く。

「お姉ちゃん、わたしのこと、嫌いみたいだから」

 俺は足を止めて、我が家を振り返った。

 ……あの岩盤女め。

 いったいなにがあったら、こんなに可愛い妹を嫌いになんかなるんだっつーの。

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