番外編① 私は両親と他人になりたい(前編)
この世に永遠なんて無い。
この割れたグラスのように、いつか砕けるんだ。
未来なんていらない。今もいらない。
私も、いらない。
「やっほー、麻衣ちゃん。今日も暑いね~。私、この制服の下は下着だけだよ~」
通学路、夏の日差しを受けて、白のブラウスが透けて見え、幼馴染の蘭が要らん情報を添えて挨拶してきた。
「うるさい。そのデカパイアピールやめろ」
「えー、アピールしてるわけじゃないよー。大きいと、汗もかくし、大変なんだよー」
「……アピールじゃないか」
私の胸のサイズが少し小さめなのをからかうように、無駄に胸を強調してくる。
……私がひがんでいるせいでそう見えているだけと言われもしたが、私は絶対、断じて、ひがんでなんかいない。
「ねえねえ、進路決めた?」
「……うん。決めた」
「え、どこ受けるの?」
「受験はしない。就職する」
私の言葉を受けた蘭は、長い睫毛を伏せ、表情を暗く落とした。
そう、もうこれしか方法はない。
進学なんてできない。私は一刻も早く、自活したいのだ。
あの家から、両親から遠ざかるためにも。
「でも、……中卒でお仕事ってできるの?」
「ああ、調べてみたけど、なんとかなる。安心してくれ」
……おそらく、なんとかなる。
中卒でもできるバイトや仕事はある……が、その大半は両親の許可の許、であるが。
未成年が働くには、色々と厳しい世の中であり、一人暮らしをするのも、非常に難しそうではあった。
でも、少ないが生きていける方法はある。
手段を選ばなければ――。
どんな汚れたことでも、あの家で、あの両親と暮らすより、幾つもましに思えたし、何より自分自身の事ももうなんだかどうでもよくなってきていた。
だが、そんな私の言葉を受けた幼馴染は、酷い顔で下唇を噛み締めていた。
だから、安心してくれと言っているのに、なぜこんな顔をするのだ。
確かに、コイツとは幼馴染だし、仲もいい。
でも、どんなに仲良くたって、それは永遠じゃない。
今は仲が良くても、すごくちっぽけな事で、それは揺らいで崩れて終わりを迎える。
永遠なんて、ないんだから。
「……っ」
不意に手をつかまれた。
それは蘭の手で、やわらかく、私の左手を包んでいた。
蘭は、先ほどまでの苦渋の表情の上に、笑顔を被って、私を見返す。
「なんだよ、暑苦しいだろ」
「学校、一緒に行こうね」
「別にくっつかなくてもいいだろ。ちゃんと行ってるし」
「でも、麻衣ちゃん、すぐ逃げちゃうからなー」
蘭はそう言って更に擦り寄ってくる。
夏の暑さの中で、蘭の体温が重なり、私は汗を垂らしながら、彼女を振りほどこうと身をよじる。
「あーつーいっつーの! てか、ほら……周りが見てんだろ! 変な誤解されたら困るだろ!」
「やぁーだぁー」
蘭は握った手を学校に着くまで決して離しはしなかった。
江洲中学三年一組、一番後ろの窓際の席。
それが私の席で、いわゆる『主人公席』らしく変に人気が高かった。
実際座ってみて分かったが、なるほど、外の風景で気分転換できるし、一番後ろの席なので、人目を気にしないで済む。たしかに、この席はいい席だなと思ったものだ。
「おはよー」
大守リカが登校してきて、挨拶してきた。中学に入ってから仲良くなったリカだが、基本的には誰とも付き合える気さくな性格をしていた。
私は自分で言うのもなんだが、かなり人付き合いは悪い。
マトモに声をかけてくるのは蘭とリカくらいだ。
「おす。なんか遅かったな」
「弟が起きるの遅くてさ~」
「あー、ダイくん。いつも何だかんだで一緒に登校してるのよね。リカちゃん」
蘭が母性本能をくすぐられたのか、ダイの名前を出す時にほころんだ表情で緩んでいる。
リカには、一年に弟の大作がいる。そいつと毎朝一緒に登校しているのだ。
大守家には、ちょくちょく遊びに行っていた。
その度思うのが、どうしてこんなに違うんだろうと云う事だ。
大守家は、親も兄弟も、一緒くたになって、笑って怒ってをしている。親は厳しくあり、優しくあった。
まるで、日曜の夕方放送、国民的アニメのような家庭。
羨ましいと思ったことはない。
だって、これが普通なのだろうから。
おかしいのはウチだけだ。
異常な環境から抜け出したいとは考えても、他の家庭が羨ましいと思ったことはない。
蘭の家もそうだ。ちょっと上昇志向ではあるが、家庭内は暖かい。
月島の家は、まるで、月面の海に浮かんだ島のように冷えていて、空気など流れていない。
「ねえ、リカちゃんはもう進路決めてるよね。江洲高校で確定なの?」
「うん。近いしね。蘭はまだ悩んでるの?」
「ん……」
はっきりとしない返事で蘭はこちらに顔を向ける。
瞳は私を見つめてきて、さっきの話の続きを促そうというつもりなのだろう。
そこに担任の杉村が入ってきて、朝のホームルームが始まる。
リカも蘭も、自分の席に戻っていくことになり、私は少しほっとした。
――下校。リカと蘭の三人で一緒にコンビニで涼みながら、備え付けられた丸テーブルを囲んでいる。
「もうすぐ夏休みか」
ソフトクリームをなめながら、リカがふとつぶやいた。
「受験生の夏休みって、勉強漬けだよねえ……」
「ほんとなー。あーあ、もう全部嫌なこと投げ出して、雲の上で昼寝でもしてたい」
「そだな」
リカのその意見に頷く。本当に、何もかもを放り投げたい。
家に、帰りたくない。
家に帰れば、きっとまた凍えてしまう。
このアイスよりも冷たい、そんな家だ。
両親の仲が悪くなったのはいつ頃からだったろうか。
小学校に上がって暫くは円満だったように思う。
だけど、小学五年のある日、夜に眼が覚めた私は目撃してしまった。
両親の喧嘩を。床に転がった割れたグラスを――。
身も心も凍る思いというのは、ああいう事をいうのだろう。
恐ろしかった。
親同士の喧嘩が。
怒鳴りあっている内容は分からない。だけど、あの憎悪の表情。怒声のぶつかり合い。
二人は愛し合っているはずなのに。結婚した夫婦は、愛のもと、生活し、私を産んで育ててくれていたはずなのに。
その二人が、あんなに憎みあうなんて。
どうしてだろう。原因はなんだろう。
もう愛はそこにはないのだろうか。
それなら、私はどうなるんだろう。育ててくれた愛はなくなっていく。
そしたら、私はどうなるんだろう。
幼いながら、離婚がどういうものかは知っていた。
だから、親の喧嘩を見たときに思ったのは――。
ああ――、私、捨てられるかもしれない。
そんな不安と恐怖だったのだ。
それから数年経ち、今に至る。
私の思いとは真逆に、両親は私の取り合いを始めた。
事あるごとに私のゴキゲンを取ろうとしていたし、どちらが私に相応しいかでまた喧嘩をしていた。
もう、離婚は確定していたのだろう。
あとは、私の面倒をどちらが見るのか、だけだ。
私がどちらについて行くかを決めることで、家庭は終了するのだ。
ずるい。
私に決めさせるなんて。私が終わらせるなんて。
だけど、私にももう分かっていた。
二人の溝はもう絶対に埋まらないものなのだと。
この冷え切った家を保ち続けるのも限界だ。
私も、両親も。
悩んだ末、私はどちらにもついていかない事を決断した。
もはや、どちらの親にも愛着がなかった。二人の消えた愛から生まれた私など、愛情の無いコールドハーテッドでしかない。一緒に暮らしても余計に冷え込んでいくだけだ。
私は、独りで行く。結婚だってしない。死ぬまで独りで行くのだ。
生きていくには金がいる。
今後は両親にだって、頼りたくは無い。私は働く事を始めなくちゃならない。
出来ることなら、今すぐにも家を出たい。
私は、中学でも働ける仕事や、住まいを探し始めたが、そんなものはほとんど見つからない。
あったとしても、親の承諾の元、なのだ。
それでは意味がない。
私は親など、いないのだから。
そして、私が見つけた独りで生きる方法は、もうこれしかないと思った。
……所謂、売春行為だ。即金で、しかも大金が手に入る。寝床は、家出少女の場合、その売春相手の家に転がり込むような形で数日過ごすのだそうだ。
十六歳になれば、可能な仕事も増える。一年なら、その方法で金を貯めつつ、夜露もしのげる。
名前も知らない男性に身体を許すことなんて、あの両親と共に過ごすより何倍もマシに思えた。
自分の身体にそもそも、価値なんて見出せない。
消えた愛のもとに生まれた私など、その程度のものである。
「おぅい。聞いてる? 麻衣ー?」
はっとして、眼をしばたたかせる。目の前でリカが手を振っていた。
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「もー、お前の話してたんだから、本人が上の空でどうするんだ」
「え、私のはなし?」
リカと蘭が同時に声をそろえて提案した。
「「今日はみんなで勉強会しよう」」
私は、リカの家に連れて行かれ、蘭共々、その日は大守家に泊まることになった。
三人で勉強しながら、くだらない事で盛り上がった。というか、勉強なんてほとんどしなかった。三人とも、何もかも手放して、ただただ、安らぎが欲しかっただけなのだ。
「愛は地球を救うっていうけどさ、愛なんかなくっても、救われるべきだよね」
蘭が突拍子も無くトンだ事を言うのだが、その時の私は、あぁ、やっぱりこいつと友達でよかったななんて思ったりする。
それから大守家のみんなでご飯を食べて、リカと大作の姉弟にツッコミを入れたり、リカのお母さんが作ったご飯は本当に美味しくてお代わりまでしてしまった。
リカのお父さんはあんまり喋らなかったけど凄く優しい眼をしていた。リカの話じゃ凄く厳しくて怖いって話だったから、ちょっと驚いた。
何より、みんなでご飯を食べる事がものすごく、ものすごく暖かかった。
だからこそ、私は気持ちを張り直す事になる。
――だめだ、心を凍りつけていないと、これからは生きていけない。
温もりを持っていたら、身体を売るなんてとてもできない。
蘭やリカと一緒にいちゃいけない。
これから、自分を売るような女と、関わっちゃいけない。この二人はこんなにあったかい家族に囲まれているんだから。
私の氷で、冷めさせてはいけない。私も、この心を溶かしちゃいけない。
「あの……、その……泊めてもらってご飯も、本当にすみません」
リカの父親に頭を下げ、謝る。
「子供が遠慮をしてはいけない」
「は、はい」
「麻衣ちゃん、お風呂入っていいよ」
「あ、はい……すみません」
リカのお母さんにもつい頭を下げてしまった。
「麻衣、謝るのはこっちのほうだ」
「え?」
リカがいきなり、私の肩を掴んで苦渋の表情でわびてきた。なんなのだ。
「いや、ウチ家族多いからさー。お風呂、一緒に入っていかないと大変でね?」
「お、おう」
「誰かと一緒に入ってやって欲しいんだよ」
「だ、だれかとって?」
「だから、チビたちと」
……えっ、つまり弟達と一緒にお風呂入れって事?
「うん。蘭も三太と一緒に入ってくれるって云うし。あたしもダイと入るから、おねがいっ」
「はああああ!? なんで俺が姉貴と入るんだよ!」
ダイが抗議の声を上げている。まぁそれはなんとなく分かる。
姉弟でも、さすがに中学生同士で風呂は恥ずかしいんじゃなかろうか。
私も、正直なところいくら小学生とは言え、男の子とお風呂はちょっと恥ずかしい。三太ならともかく……次男の直也は小五だったよな……。
「麻衣ちゃん、もしかしてー、おっぱい小さいからナオくんとお風呂入るの、恥ずかしいのかなあ?」
「はぁー!? そんなことないし? 入れるしなんとも無いし!?」
「あらー。だってよ、ナオくん。麻衣ちゃんと一緒に入っといで~」
「うぐっ」
まんまと蘭に乗せられた。
直也はこちらをじっと見ている。
「しょ、しょうがないな。まったく、直也行くぞ」
「うん!」
結局、直也を連れて私は大守家のお風呂に向かう。
後ろでは相変わらず、リカとダイが揉めていたし、蘭は不適にニヤニヤ笑っているのがムカついた。
大守家のお風呂は子供を一人いれるくらいなら十分な広さはあった。
とりあえず、恥ずかしかったけど、変に意識するのも逆におかしいと思って、直也と共に湯船に浸かる。
「ふうっ……。誰かと一緒にお風呂なんて、修学旅行くらいかと思った……」
「ちぇ」
なぜか、不満そうな直也がへたくそな舌打ちをした。
「なんだ、どうかしたのか?」
「オレ、蘭ねーちゃんとお風呂入りたかった」
「なんで」
「だって、おっぱい大きいんだもん」
「んなっ!」
思わず、自分の胸を隠してしまう。
小学生でもやっぱりそういうのに興味持っちゃうのか。ダイや三太はそんな素振りなかったのに、こいつはマセてるなー。
「月島のねーちゃん、おっぱい全然無いよね。ねーちゃんより無い」
「直也ァ……。このまま溺死させてやろォーかぁぁぁ?」
「あぼっぶぼぼぼっ」
直也の頭を押さえ込んで湯船に押し込んでやる。人が気にしてること、ズケズケと……。
まったく、男ってのは結局胸を重視するんだな。こんなガキんちょでもすでに、胸を重視してしまうんだから、もう間違いない。男は女をおっぱいでしか判断しないのだ!
……となると、まずいな。
このまま、売春するとしても……こんな貧相な身体じゃ、お金なんて貰えないかも……。
胸を大きくするのは、マッサージがいいって良く聞くな……。蘭はなんであんなに大きくなったんだ。毎晩自分で揉んでいるんだろうか。
ほんとに、私は身体も中身も貧相で……情けない……。
こんなので、独りで生きていけるのかな。
「ぶっはぁぁぁっ! まじで死ぬって!」
「マジで殺す勢いだったんだが?」
「ひぐっ、すいませんでした……」
流石にこれで懲りたか、もう胸のことは言ってこないだろう。
「小さくてもいいんで、触らしてください」
……だめだぁ、こいつ全然懲りてねー。
もう一度、沈めてやることにする。
「あぼばばばっ」
「おまえな! 女の子の身体はオモチャじゃないんだよ。もっとたい、せつ……に……」
「ぷはっ、わ、わかりました、チョウシ乗ってました、ごめ……、え……?」
なんでだろう。止まらない。止められない。
涙が、溢れてくる。
私の身体なんて大事じゃないのに。何の価値も無いのに。オモチャ以下なのに。
「月島、さん……」
直也も驚いている。当然だろう。いきなり泣き出されたら、誰だって動揺するよな。
ごめんな、おまえが悪いんじゃない、この涙は全部自分が悪いんだ。
そう云いたいのに、喉は嗚咽を吐き出すばかり。しゃくる息が情けない。
どうしてこんなに止められないのか、分からない。
きっと、湯が温かいからだ。溶かしてしまったんだ。私の心を。
「ごめっ……、なんでも、ない、から……っ」
「……な、泣くなよ」
「ごめ……、云わないで。こんなの、リカには云ったらダメだからな……」
「わ、分かってるよ」
「蘭にも、だめ……」
「泣くなよ。泣かないでよ……ごめん。オレが悪かった」
「ひっく、……ひぐ」
「……せ、責任取るから。オレ」
「……え?」
直也は泣く私を真っ向から受け、真剣な眼差しを投げていた。
「女を泣かせたら、責任取るのが男の役目なんだよ。漫画にもそう書いてた……」
「……ばか、おまえに何ができるんだよ。ガキんちょのくせに」
「違う。オレは男だ。もう月島さんを泣かせない。絶対だ。約束する」
幼い顔立ちに見せた決意は、紛れもなく、男の子のものだった。
「……ほんとに?」
「男に二言はない」
「じゃあ、約束……な」
湯船に小さな波がちゃぷんとゆれる。
私は、直也に寄り添って、その唇にキスをした。約束のキスを。
汚れる前に、綺麗なキスをしておきたかったのかもしれない。
ファーストキスを。
直也は固まっていた。それはそうだろう、キスされるなんて、考えもしなかっただろうし。
直也の男の約束は漫画のヒーローのかっこいいセリフをなぞっただけだっただろう。
それでも、今の私には……直也が男に見えたのだ。
決意は固まった――。
私は、独りで生きてゆく。もう、二度と泣くものか。
私は両親と他人になるのだ。
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