第13話

 誕生日の夜。俺は姉貴の部屋にやってきた。一つの決意を引っさげて。

「姉貴、はいんぞ」

「んー」

 踏み込んだ姉貴の部屋は、変わらず小ざっぱりしている。

 姉貴は勉強中なのか、机で参考書と格闘中らしかった。

「……姉貴って頭悪いよな?」

「ンだとこらァ!」

「いや、だってテストとか点数悪くて怒られてただろが。姉貴こそ、蘭さん達に勉強教えてもらったら?」

 高校の勉強はかなり難易度が上がったらしく、姉貴は勉強についていくのがやっとで、徐々に成績が落ち込んでいっているのを知っていた。

「点数悪いのは、ちょっと色々あったからだし。今度の試験はイケるって。今も、こうしてやってるんだから」

 そうだ。点数が悪い理由……。それは姉貴が単純に勉強が苦手と言うわけではない。

 姉貴はずっと何かに悩んでいる。それが集中力を奪って、成績を落とす結果になっているのは、今となっては明白だ。

 姉貴は、何かを抱えているのだ。

 俺は、部屋に持ち込んだ決意を確認して、口を開いた。出来る限り、姉貴の中に届くようにその瞳を見つめて。

「姉貴の場合、解かなきゃならん問題はそれじゃないんじゃねえの?」

 俺の真っ直ぐの眼から逃げるように、姉貴は顔を参考書へ向けた。


「……何か用があったんじゃないの?」

 はぐらかす姉貴はらしくない。

 俺はアプローチの仕方を少し変えようと、もう一つの話題に入る事にした。

「おう……。いや、だから……サンダルな。サンキューって」

「うんうん、仕返ししろよ~」

「お返しだろが」

 そんなやり取りで少し固まった空気が和らいだ。

「やー、夢子ちゃんとメールしててさ、ダイの誕生日プレゼントあげるって話になっちゃってね」

「アイツにもなんかお返ししないとな」

 林原とは随分メールをしているらしい。かなり打ち解けているようで、林原の事を話す姉貴はいつもの無邪気さを見せてくれている。


「ね、ね。あんたさ、彼女いないよね」

「いねえよ、悪いかよ」

「じゃあさ、夢子ちゃんと付き合ったらどう?」

「母ちゃんと同じ事言うなっつーの」

 まったく、女と言うのはなぜこうもくっつけたがるのだ。

 ……つか、姉貴がこういう事を俺に言ってくるのは少し心がヒリリとした。何の戸惑いなく俺に彼女を勧めるのは、俺に対する気持ちに『女』として何も持っていないからだ。

 もちろん、それが当たり前。正常であり、普通であり、それが姉と弟だ。

 俺だって、分かっている。……分かってるんだ、この切なさを。

「こんな話、前にもしたっけ」

 階段ですれ違い様に会話した時の話だろう。あの時の姉貴の表情がリフレインする。


「……林原とは付き合えない。俺は、他に好きなヤツがいるんだ」

「まじで……?」

 俺の告白に、姉貴のトーンは落ち込んだ。随分と意外だったようだ。呆然と俺を眺め、その手に持ったシャーペンが所在なさげに震えた。

 この回答は、林原が俺に告白してきたら本人に伝えるつもりでいた言葉だ。

 俺はやはり、好きな人がいるのに、他の女性とは付き合えそうもない。

 なぜなら……、いつも一つのことしか考えられないからだ。

「でも、そいつは全然俺の事なんか気がついてないんだよな」

「な……なら、アタックしなきゃ、先には進まないよ」

 よくあるアドバイスだと思った。多分、姉貴自身もそう思っているんだろう。いや――きっと、そうじゃない。

 姉貴は俺にどう対処していいか、混乱しかけているのだと思った。声が揺れているからだ。

「アタックしたら、多分もっと大事なものを壊す事になる」

「大事な……?」

 今度こそ、固めた決意を姉貴に届けるため、一呼吸の後、俺は厳かに自分の回答を届ける。


「虚数i」

「……っ!」

 姉貴の不安の問題。それは『虚数i』。

 姉貴は俺の真っ直ぐな眼を逸らさず見た。もう、その目を逃がしはしない。


「姉貴の出した問題。姉貴の不安。俺なりに考えた」

「……」

 俺をとりまく環境と、姉貴の環境は違う事であるのは分かる。

 だから、俺は俺の回答を用意するしかない。俺なりの虚数を。

 林原が俺に寄り添ってくれたから、俺もこうして問題を考え、答えを出した。


 直也が漏らさなければ、気がつきもしなかった彼女の想いは、俺にとある言葉を思い起こさせたのだ。


『もし、時間を戻せるなら――。今度は嫌いになりたい』


 あれは、誰に対する言葉なのだろうか。林原が好きなのは……俺なのだろう。

 あの日、俺の家に来て、高校の制服を着込んだ林原を見た俺の眼と、中学の制服を着込んだ姉貴を見た俺の眼。

 林原は気がついたのだ。今の俺に告白しても、絶対にフラれるのだと。

 そして、俺が誰を好きなのかも、きっと林原は分かってしまった。

 なぜ、俺がそう考えるのかなんて、簡単なことだ。

 俺だって、目の前で俺の事を『男』として意識していない最愛の女を見ているのだから。


 だから分かる。

 時間を戻せるなら、『嫌い』になりたい。

 好きの反対は無関心だと聞いた事がある。『好き』か、『無関心』か。『1』か『0』か。

 でも、林原はあるかなしかの二択ではない、『嫌い』を選びたいと言った。

 俺もそうだ。もしやり直せるなら、今度は好きを通り越した『嫌い』を選びたい。

 俺は、どうあっても、姉貴の傍にいたいのだ。好きがダメなら嫌いでいたい。無関心だなんて嫌だ。


 i=√-1。

「空想の数字、虚数。存在しない、i。マイナス一の平方根。二乗してマイナスになる数字。二つ揃えばマイナスになるありえない数字。揃っちゃいけない数字。それが俺のアイだ」

「揃うと、存在しなくなる、i。あたし……」

 だから、俺は告白はしない。俺のアイはマイナスで、ありえないものなのだから。


 ――だけど。

 だけど、それでも……!


「俺は存在しないアイを否定したくない。ありえないアイだって、俺には大事なモンなんだ。姉貴の虚数はどうなんだ?」

「存在しないものに、意味なんてあるのかな」

 さびしそうに零す姉貴は、見えていないのだ。

 かつて、数は一からしかなかった。そこに零が発見されて、マイナスすら発見されている。

 分数だって、少数だってそうだ。正数の他にもあれば便利な数字が存在するのだ。


「姉貴、頭カタすぎねーか」

「んなっ、どういう意味よー」

「あるか、ないかの二択じゃねえよ。あったらいいなって事さ。俺はアイを二乗しないけど、二乗したありえない答えがあればいいなって思う。その答えから、きっと俺はまた別の答えを見つけていけると思ってる」

「あったらいいな……、その先の答え……か」

 俺の言葉に、姉貴は頷いた。きっと、俺の虚数解と姉貴の虚数解はそれぞれ違う。

 ありえない回答だけど、それは価値のあるものなのだ。間違いじゃないはずだ。だから、俺も姉貴もそれを求めて行かなくちゃならない。


 だから――。

「その答え探しに詰まったら、俺が力になる」

「な、なんであんたがそんなにえらそーなのよ。なまいき」

 姉貴が小さく笑い、俺を足で小突く。少し気恥ずかしそうにする姉貴は、やはり誰もよりも魅力的に見えた。だから、俺も照れ隠しにこう言うのだ。

「これは、恩返しなんだってさ」


 俺の出した虚数解は、マイナスのありえない答えは――、

 

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