第11話

 六月になり、中間試験が始まった。二日で行われる中間試験で時間割としては普段よりも下校が早くなる。今日はその二日目だ。

 試験は家庭教師のお陰で、割とスムーズに解けた。おそらく点数もそんなに悪いものじゃないと思う。

 無事に試験を終え、ひとときの開放感で身も心も軽くなる。教室内も、ザワザワと色めき立つ奴が多い。

「くぁーっ、終わった……」

「どんな具合よ?」

 龍之介がテストのデキを伺ってくる。その本人はあまり表情が冴えない。

「まぁ、悪くはないと思う」

「マジかー。俺はサッパリだわ。途中で考えるの辞めたしな」

「お前、塾行きだしたんだろ?」

「塾に行ったら直ぐに点数が取れるわけじゃないだろ」

 ……そういうもんか。俺は、蘭さんたちの家庭教師のお陰で、確実に点数が上がっているだろうと実感しているのだが。

「ともかく、今日はようやく開放されたんだから、思い切り遊ぶぜ。お前も行かね?」

「……あー。ワルい。実は今日、俺誕生日でさ。親が早く帰って来いって言ってんだ。多分なんか祝ってくれるんじゃねえってさ」

「あ、マジで。オメっと~。そんなら、また今度なっ」

 ふう……なんとか誤魔化せたか……。

 龍之介は、俺の少し不自然な表情に気がつきもせず、開放感で浮かれているようで、足取り軽く教室から出て行った。

 ……俺はゆっくりと振り向く。

 後方の気配、離れた席で顔を赤く染めた林原と目が合うと、彼女はその目線を下へ落とした。

 俺はその彼女の反応を見て、これからの事を考えると、どうしていいやら分からずに椅子から持ち上げる尻が重く感じた。


 昨日の帰り際の話だが、俺は林原に呼び止められ、ひとたび心臓を高鳴らせた。ついに来たかと、身構えたのだ。

 ――明日、予定ありますか?

 そういう彼女は、何か覚悟を決めていたような表情に見受けられた。何より丁寧語で喋ったその言葉が、彼女の固い意志を伝えている。

 直也が漏らしてしまった林原の話から、俺は林原がいずれ告白してくるだろうと、度々林原を意識するようになっていた。

 これまで、林原の事を『付き合う女性』と云う対象で見たことはなかった。

 だが、相手が自分を好きなのかもしれないと思うと、なぜなのか、急に鼓動が早くなった。

 別に嫌いじゃないし、好きなほうであるが、女として好きではなく、友達としてって想いをずっと持っていた。

 林原の告白に答える準備は……はっきりとしたものが出せないままだった。

 もちろん、姉貴の男と会っているとか言う話も気になっているのだが……。

 林原に姉貴にと、俺は頭を悩ませる事になったのだが、モヤモヤとした思考はまとまらないまま、時間だけを奪っていく。

 だから、俺は結局勉強する事に打ち込んだ。

 とりあえず、中間終わるまでは、勉強の事だけ考えようと思ったのだ。勉強に逃げたと言ってもいいかもしれない。

 昔から不器用な俺は一度に二つ以上のことを考えるなんてできやしない。

 一つ一つ、問題を片付けていくしかないのだ。

 というわけで、林原に対する整理を付けられていなかった。

 試験が終わってから考えるつもりだったのに、試験初日が終わった後、あちらからアプローチしてきたのだ。


 そして、今日は林原との約束の日。

 俺は、林原にテニス部の部室に来るよう言われていたのだ。

 試験は終わったが、部活再会は明日からだ。おそらく、マネージャーの特権か秘密の経路か何かで部室の鍵を借りてきて、入れる状態にしているのだろう。


 俺は、後ろの席の林原が教室から出て行くのを待つ事にした。

 だが、林原もどういうわけだか、まったく動かない。

 俺と林原は結局、教室に最後の二人になるまでそこに座っていた。

 座って、俺は黒板を見つめていたし、林原は俺の背中を見ていたのかもしれない。

 俺の背中はジリジリと虫眼鏡で集めた熱線を当てられたように、焦げ付く感覚がずっと離れなかった。


 ガガ……。

 椅子を引く音が後ろからした。林原が立ち上がったのだろう。

 俺は黒板を眺めながら、自分の答えをどうするべきなのか悩んでいる。

 中間テストの答えのようにはいかない。

 ……そもそも、どうして悩んでいるんだ。

 俺は姉貴が好きだし、姉貴に彼女がいるなんて思われたくないんじゃないのか。

 でも、同時に俺はその感情から卒業しなくてはとも思っている。

 そうだとしたら、この告白というイベントは自分のシスコンを消すために役に立つものになるかもしれない。

 林原と付き合い始めて行けば、俺は姉貴を女として見なくなるかもしれないのだ。

 ……だけど問題は、そんな考えで彼女の想いを受け入れて良いのだろうか?という良心の呵責だ。

 これだと、俺は林原の好意を自分のシスコン脱却のための起爆剤として利用しているだけじゃないか。

 人の想いを利用して、自分のために付き合う。こんな考えが許されて良いのだろうか。

 だって、つまり俺は姉貴を好きなまま、林原と付き合うって事だろう。それは林原の想いを無視する事になるんじゃないのか。それから、意図的に姉貴を無視する事になるんじゃないか……?

 ……わからねえ。この答え、正解があるんなら教えて欲しい。

 付き合うのが正解か、断るのが正解か。……たぶん、どっちも間違いなんじゃないかなと思ってしまう。

 だってこれは、俺の我侭なだけの想いの回答だ。林原の事を想った回答ではないからだ。

 林原に対するキモチで確実なのは、これまでは女として見てなかったと言うのが本音だ。

 でも、近頃は違う。林原は立派に俺の中で女の子だった。


 ――先輩の事をきちんと考えてやれ――、か。

 直也の言葉がリフレインするたびに、俺は答えが出せないもどかしさで自分にイラつく事になるのだ。


 キーンコーンカーンコーン。

 チャイムだ。それで我に返った。振り向いた教室は、もう誰もいなかった。

 林原の席を暫く見つめる。

 俺は回答内容を決めて、「よし」と立ち上がった。


 体育館の横にずらりと並ぶ簡素な引き戸。それが運動部の部室の入り口だ。

 運動部の部室はプレハプ小屋で作られた平屋になっている。一部屋の広さなんて六人も入るともう狭く感じるほどの小さな部室だが、それをサッカー部だろうが野球部だろうが、平等に使っていた。テニス部とて例外ではない。

 案の定、シンと静まったこの付近には人の気配を感じなかった。

 俺はテニス部の部室へ足を向ける。たしか、一番右奥がテニス部だったと記憶している。

 ドアの前まで来て、少し気持ちを落ち着かせた。ひとつ深呼吸をする。

 よし……。もし告白されても、きちんと回答は用意した。大丈夫だ。


 取っ手に手をかけ、ゆっくり引き戸をスライドさせた。鍵は掛かっていなかった。

 中には林原が待っていた。眼鏡の奥の表情はよく見えない。

「よう」

 どう切り出せばいいか分からず、俺はそこで確認するような声色で呼びかけた。

「ごめんね。呼び出すような事して」

「別に良いんだけど。……なんかあるのか」

 自然に話しているつもりではいるが、どうにもギクシャクとしてしまう。林原を直視できず、部室内のテニスボールを見ていた。

「実は、渡したいものがあって……」

 ああ、口では直接ムリだからラブレターでって事か……。

 林原は部室の隅に置いてあった黄色の袋を抱えて、こちらに向き直った。

 ……変だな。ラブレターにしちゃ、ちょっとでかい。袋のサイズはちょっとしたトートバッグサイズだ。

「これ、受け取ってください」

 抱きかかえた袋を両手で差し出してくる林原。声が一オクターブ上がっているような気がする。

 今なら分かる。林原を見た龍之介の感想の意味が。

 嬉しそう、と評した龍之介だったが、これはきっと嬉しいという括りでは収まらない感覚のはずだ。

 気恥ずかしさと、充足感と、喜びと、緊張と。色んな感覚が一気に気持ちを染め上げて体温を高めるあの感じの表情だ。

 俺が姉貴の傍にいる時に抱く感覚。

 林原も、多分そうなんだ。

 俺は少し、戸惑いながらそれを受け取る。中身は正直、不明なのだが、受け取った感じ、どうやら長方形の箱が入っているようだ……。


「これ、なんだ……?」

「今日、誕生日ですよねっ」

「え、あっ、まさかプレゼントか!?」

「は、はいっ……」

 お、驚いた。生まれてこの方、親以外から誕生日プレゼントなんて貰った事がない。姉貴からも貰った事はないのだ。

 そうだ、普通に考えたら俺が今日誕生日なのは前に伝えていた。こういう事態を想像もできた気もするが……。

 考えが及ばなかったのは、これまでに他人から誕生日プレゼントを貰った事がないから選択肢にすら浮かんでこなかったんだろう。

「中身、見ても……?」

 林原はコクコクとうなずく。あまりに激しい縦振りの首の動きに、眼鏡が跳んじまうんじゃないかと心配になった。

 袋のクチを開いて、中の箱を取り出すと、白い長方形の箱に英語でメーカー名が書かれていた。

 それを見て思い至った。CBAマートの刻印――中身は靴だろう。

 箱を開くと、そこにはあのモールで見た迷彩色のサンダルが梱包材に埋もれていた。

「おい、これ……マジかよ? 貰っていいのか?」

「うん。ぜひ。……誕生日おめでとう、大守くん」

 勿論、嬉しい。嬉しいが、色々と気になるところがあるので、素直に喜びが前に出てこない。

「すげえ嬉しいし、ありがたいんだけど……、なんで俺がコレ欲しいって知ってたんだ?」

 林原は、照れ隠しなのか小さく笑うと、携帯電話を取り出して、画面を見せながら言った。

「お姉さんが、教えてくれたの」

 画面には、あの日、姉貴が撮っていたスマホの写真が映っていたのだ。


「な、なんでよ?!」

「お姉さんとはよく連絡取り合ってるし、誕生日プレゼントの事話したら、協力してくれるって言ってくれて……」

 ちがう。ちがうぞー林原ー。俺の質問は、なんで俺に誕生日プレゼントくれるんだって話なんだぞー?

 そこでちょっと気がついた。このサンダル、結構値段がしたような……。たしか、五、六千円はしたはず。

 中学生に五千円は大金だぞ。マジでこんなの貰っていいのか? 愛が重くないか、林原。

「なぁ、これ……結構したよな? 逆に貰いづらいんだが」

「あはは……。うん、そうなの。だから、実は私からだけじゃないんだ。お姉さんと、私からの誕生日プレゼントだよ」

「……そうか。ありがとな……」

 林原と姉貴からの誕生日プレゼント……。なんでこの二人が俺にプレゼントを一緒に用意する流れになったのかツッコミたいところではあるが、よく携帯で連絡取り合っているようだし、話の流れでそうなったんだろう。

 ただ一点、気になるとすれば林原が俺の事を好きだと言う話を姉貴にしているのかどうか、だ。

 しかし、そんな事をストレートに聞けるわけもない。

「それじゃあ、呼び出しちゃってごめんね。またね、大守くん」

「えっ、これだけ?」

「えっ……?」

 てっきり、誕生日は口実でここから告白の流れなのかと思ったが……。本当に今日の用件は以上だったらしい。

「も、もっとプレゼント欲しかったの? あ、ケーキとか?」

「やっ、すまん。そう言う意味じゃない。プレゼントはマジで嬉しい、十分すぎる。ただその、偉く改まって呼び出し喰らったから、まだなんかあるのかと思ったんだ」

 なんとか、林原の内側を探りぬこうと、言葉を選びながら軽めに突っ込んでみた。

「ほれ、前に話してた『共犯者』の事とか、よ……?」

「話聞いて欲しいの?」

「いや、なんで俺にそこまでしてくれるんだって話だよ。このプレゼントも、だ」


 ……俺のことが好きだから、だろ。それを分かって俺は聞いている。林原に言わせようと促しているのだ。意地の悪い、最悪なヤツだ。俺って。

 だが――、もし林原が告白に勇気が出ないのなら、こちらから擦り寄るようにはしてやれる。そのくらいしか俺には今の所林原にしてやれる事はないと思えたのだ。


「これは、恩返しなんだよ」

 林原は少し困ったように笑ってから、そう答えた。まったく想定外の言葉に、俺はまた、林原夢子という女についていけないでいた。

「恩返しって? 俺はお前に恩を作るような事をしたか?」

「……してるんだよ。大守君は覚えてないんだなって、ずっと前から分かっていたけど。私はずっと前から大守君に感謝してるんだ」

 まったく思い出せない。

 林原夢子とはこの中学で一緒になった……と思う。それも、友人の龍之介の部活のマネージャーという認識程度しか持ってないままだ。

 どこかにそれ以外の接点があったか記憶を穿り返すが、サッパリ思い至る事は出てこない。

「すまん……。覚えてないんだが、俺は何をしたんだ?」

「覚えてないような大した事じゃないんだよ」

 少し意地悪く茶化して、眼鏡をくいっと、持ち上げる林原。

 ……そう言われたら、なんとも言えなくなってしまう。

「じゃあ、ヒントね。私はテニス部のマネージャーです」

「知ってるよ、なんでそれがヒントだよ」

「……女子マネって、周りの女子から結構キツい事言われているんだけど、知ってる?」


 ……あ。そうだ……。思い出した……。

 俺は前に、林原が難癖付けられてるのを……傍目には庇ったように見える行動を取った事がある。

 だが、あれは林原の為に行ったものじゃない。単純に自分がムカついたから、やっただけなんだ。

 俺の中ではかなり苦い記憶だったし、頭に血が上っていたから林原が原因の一つだった事を忘れていたのか。

「まさか、あれでフラグが立ったってのか? だったら、あんなのはノーカウントだろ。恩返しなんて貰える様なもんじゃねえよ」

 俺は気まずくて、受け取ったプレゼントが重みを増したように感じて腕が痺れたようだった。

「大守くんにとっては、『あんな事』だったのかも知れないけど、私にとっては『とてつもない事』だったんだよ」

 ……真実がどうあれ、俺の行動で、林原は救われて感謝をしてくれているらしい。なんとも、ムズムズとするものはあるが。


「……お前のはいつだ」

「えっ?」

「……お前の誕生日だよ。仕返ししてやるから」

「お返しにしてほしいな」

 二人で少し笑った。不思議と痺れた腕も軽くなったように思えたし、林原の気持ちに淀みなく笑顔でいられた。

 ここに来るまでは、林原に対してかなり身構えていたはずなのに、今はもうバカバカしいと思えるくらいに、俺は心を許していた。

「誕生日はあとで教えるから、待ってるね」

「え、待ってるってどういう事だ?」

「家に帰ってから、サンダル履いてみて。それじゃ、部室は閉めるから、今日はここまで」

 どこか悪戯っぽく笑う彼女に急かされる様に、俺はテニス部部室から出ることになった。

 カギを掛け直す林原を少し眺めていた。

 もう改めて、彼女に心のうちを聞きだすような空気じゃない。それに急いで言わせるような事でもないのだ。

 彼女にも彼女の気持ちがある。

 俺のおかしな罪悪感で、林原の歩幅を乱すような事をしたくもない。

 彼女が俺を好きなのだと、彼女が言うまでは変に追い詰めるような事をしないようにしよう。

 そして、俺も、少しだけ彼女に素直になってみてもいいかもしれない。

 そんな風に思えた。


 見上げた空は曇っていたが、太陽の光が薄く雲の海の中にある事を見て、見えないなりに感じるものもあるんだとぼんやり考えてから、帰宅した。

 帰宅するなり、玄関でプレゼントの箱を空け、サンダルを取り出した。

 すると、箱の中にメッセージカードが入っている事に気がついた。


『ハッピーバスデー★ 今後ともよろしくおねがいします♪』


 可愛らしい文字と、落書き。そして、電話番号と、メールアドレスが書いてあった。

 あぁ、俺が誕生日プレゼントに携帯を買ってもらえる事も覚えていたのか。

 それで、『』だったのか。

 携帯からの連絡を待ってくれているのだろう。

 なんともいじらしい。

 正直なところ、女子からこんなの貰ってテンションの上がらん男はいないだろう。

 俺も例外じゃない。


「かあちゃーん! ケータイ買いにいこうぜぇーッ!!」

 玄関から駆け上がり、昼飯も喰ってないのに、気持ちはケータイショップに向いていたのだった。

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