第10話

 家に帰りつくと、すでに姉貴と蘭さん達が俺を待っていた。

 直也も帰宅済みで、蘭さんに絡んでいたのだが、いつもの如く柔和な笑顔で辛らつに対応されていた。


「今日も食べて帰るでしょ?」

 姉貴が月島さんに夕飯の話を振った。先週は鍋パーティーになったが、今回はどうするんだろう?

「そう何度もゴチになるのはなぁ……。早めに切り上げて帰るから気にないでいい」

 月島さんが奥ゆかしい大人の対応をするのだが、姉貴は少年のような笑顔でニカっと笑って月島さんの肩をぽんぽん叩く。

「遠慮しなくて良いよ、マジで。お母さんも二人が来てくれて喜んでるし。本当に家庭教師を雇うよりも、全然安上がりだしさ」

 それは本当だ。家は元々大家族だし、二人増えてもそんなに大差ない。

 事実、俺にとっては家庭教師は本当に助かっているから、メシくらい大したことはない。家庭教師を頼むだけでかなりの金額を払う事になるらしいし、夕飯くらいで勉強を教えて貰えるなら寧ろ願ったり叶ったりである。

「そっすよぉ。寧ろ泊まっていってくれてもいいんですよ!」

 あしらわれていた直也が蘭さんに熱っぽくアピールする。そんな直也を華麗に流しながら、月島さんに「どうしよっか?」と目線を送る。

「泊まるのはナシだけど、夕飯はいただくとしようか」

「うん、それじゃぁまたご馳走になります」

「オーライ♪ それじゃご飯用意してくるか。直也、あんたも来な」

「ええー? オレも今、試験期間なんですけどォ。カテキョしてほしいんですけどォ?」

 気味の悪い猫なで声で、部屋に張り付こうとする直也。こいつはぶっちゃけ、蘭さん達と乳繰り合いたいだけのクセしてよく言いやがる。

「アンタの勉強と、受験勉強は違うの。ダイの邪魔すんな」

 姉貴が直也を引っつかんで部屋から引きずり出していった。

 ……地味に俺の事を優先してくれたのが嬉しくて、少し胸が跳ねた。表情には出してないつもりだが、もしかしたらニヤけてしまったかもしれない。

「さて、それじゃ中間試験の勉強やろうね」

「ウス。……つか、蘭さん達も中間そろそろなんじゃ?」

「気にしないでいいよぉ。私達、これでもかなり勉強できるほうだから♪」

 嫌味のないトーンで、蘭さんがVサインを見せ付けてくれた。

 蘭さんが頭がいいのは知っていたが、月島さんもデキるとは思わなかった。その疑いの目線が伝わったのか、月島さんがギロリと俺をにらみる。少しチビりそうだった。

「人に勉強教えるってヤツが、自分の勉強をできないわけないだろ」

 ……ごもっとも。そういえば先週見てもらった時も、無駄なく要点を教えてくれていた。この二人は頭脳明晰なんだと改めて実感したのだが、その二人に囲まれている姉貴はあんまり勉強は得意ではないらしい。姉貴こそ二人の授業を受けるべきじゃないのか。


「じゃあ、まずは数学からやろっか?」

 数学……。そこで俺はあの『虚数i』が脳裏にちらついた。そして、姉貴の不安の事も。

 また先週のように姉貴が来て話が御流れになるかもしれない。

 勉強の前に、この話題を振ってみる事にした。

「ちょっと二人に聞きたい事があるんですけど、えと『虚数』の事で」

「虚数? 中学じゃまだやらないんじゃないか」

 月島さんが、釣り目を少し丸くしてキョトンとしたのが、意外に可愛らしかった。ギャップ萌えってヤツだろうか。

「……実は虚数の事って言うか、姉貴の事に繋がるんですけど……」

 俺がそう繋げると、二人の空気がどこか変わった様に感じ取れた。

 月島さんが持っていた参考書をパタンと閉じ、蘭さんは握っていたペンシルを机に寝かせる。

 少しの静寂の後、蘭さんがはっきりしない口調で言う。

「えっと……。その話は勉強の後の方がいいんじゃないかなー?」

「先週来てくれた時も、最後に何か言いかけてましたよね。姉貴の事で」

「……ダイ。お前、リカの事知ってるのか?」

 月島さんが、いつも以上に突き刺さりそうな声色で追求してきた。

 やはり、二人も姉貴の違和感を感じているのだろうか?

「姉貴の事……ってどういう事ッスか」

 俺の質問返しに二人は顔を見合わせてどう話すのかを悩んでいるらしかった。神妙な顔ででまごついている。

 何かもどかしくなった俺は、土曜にモールでお茶した時の話を二人に聞かせて見せた。


「……なるほど。それで『虚数』か……」

 姉貴のベッドに腰掛けていた月島さんが脚を組みなおした。

「どういう事ですかね。なんで姉貴がそんな話したと思いますか?」

「虚数の事は正直分かんないな。……でも、中学三年の頃からリカが何かに悩んでいるってのは、私らもなんとなく気がついたんだ」

「おかしいなってハッキリ気がついたのは最近の話だけどね」

 当時、様子がおかしい事には気がついていたのか。流石友達だ。

「中学三年の時、なんか姉貴にあったんですか? 家にいる時は特になにもなかったと思うんですが」

「うーん。学校でもその頃特に何かあったってワケじゃないと思うんだけど。受験のストレスで苦しんでるんだと思ってたから、そこまでリカちゃんの状況をつかんでいなかったしね。何だかんだで私と麻衣ちゃんも大変な時期だったから」

「……じゃあ、最近はどうなんすか? 学校で様子がおかしい事があったんですか?」

 俺の問いに、二人はまた少し黙り込んだ。何か言いづらそうな内容の様で、どう切り出すか考えている様子だった。

「……まず、これから話す内容を、私も蘭も信じてない事を念頭に置いてくれ」

「は、はぁ?」

 奇妙な切り出し方に、どう解答すればいいか迷ってしまい曖昧に返事をしてしまう。

「実は、ここ最近……リカがな……エンコーしてるんじゃないかって噂があってさ」

「ハァッ!?」

 俺はあんまりにも斜め上な話に声がでかくなった。慌てて口を押さえ、落ち着かせる。

「ありえねーよ。バカじゃねえの? 誰がそんな事言ってんだ」

 押さえつけた声色は低くなり、そしてなぜか強く湧き上がった怒りが言葉を汚していた。

 あの姉貴がそんな事をするわけがない。それだけは間違いなく言いきれる。

「私も蘭もその話は信じてない。ただ……」

 月島さんが目線を蘭さんに投げる。二人とも、その目は真剣で、悪い冗談を話しているわけではないとしっかり伝わる。

「私ね……一ヶ月前くらいの日曜日、たまたまリカちゃんを見かけた事があるんだけど、なんだか凄く挙動不審だったんだよね。ほら、駅の線路沿い御羽町方向に歩いていくと高架橋になってて、小さなトンネルみたいなガード下があるでしょ」

 確かにその辺りは線路と道路の段差が入り組んでいて、通路としてガード下には薄暗い落書きだらけの小さく短いトンネルがある。

 あの辺りは、特に目立った施設もないし、ほとんど住宅地だ。あっちに足を向ける理由はあまりないように思われた。

「あんなとこに姉貴が居たのか?」

「うん、人目を避けるようにそっちに向かって歩いてた」

「ちょっと、話の腰を折りますけど、蘭さんはどうしてそこに?」

「私はその時、お父さんの車に乗って買い物に行く途中だったの。ほら、モール。走行中に、窓からリカちゃんを見えたんだ」

 なるほど、土曜に姉貴と行ったモールか。まあ、今は蘭さんの行き先は関係がない、姉貴の話を進めよう。

「そうでしたか。すんません。それで……姉貴はその後は?」

「車に乗ってるときにすれ違ったから、ハッキリは分からないんだけど、リカちゃんがそこで知らない男の人と待ち合わせしてたみたいなの……」

「男ってどんな?」

 ……人目を避けて、あんな高架下の薄暗いところで男と会う……。嫌な憶測が浮いては心を乱す。

「……よく見えなかったけど……四十歳くらいで、中肉中背……。服装も、なんというか特徴のない白いシャツにベージュのスラックスで……」

「なんだ、それ……しらねえぞ俺……」

「ダイも知らないのか……。ともかく火のない所に煙は立たないからさ。そういう事実はあったみたいなんだ」

「姉貴には聞いてないのか、その時の事」

 気持ちが先走りを始めて、先輩の二人への敬語が抜けてしまったと気がついたが、そんな事を気にしている余裕がなくなってきた。

「……うん。どう聞いていいか分からなくて」

 蘭さんが申し訳なさげに睫毛を伏せて机のペンシルを見つめる。

「でも、いつも元気で面倒見のいいリカちゃんが、そんな事するとは思えないから」

「俺もそう思う。でも、だとしたらその男が尚更気になるな」

「うん。私が見たのはその一回だけなんだけど、噂になるってコトは多分数回そういう現場を目撃されているんじゃないかなって思ってる……」

 謎の男と密会か。姉貴をよく分からないヤツからすれば、エンコーに見えるのかもしれない。反吐が出る発想だが。

 ムカつく心を落ち着けるために、状況を整理しようと考えて、ふと思いついた。

「……そういえば、土曜に姉貴とモールに付き合わされた時、やけに男物の服やクツに興味があるみたいだったな」

「……エンコーじゃないにしても、歳の離れたカレシなのかもしれない」

 月島さんが俺の嫌な想像を言葉にした。

「そっ! それこそねぇよッ!! あの姉貴にカレシなんざできるわけねえだろォッ!!」

「こ、声が大きいってば!」

「うっ」

 思わず吐き出した俺の漏れ出た焦りが部屋に響いた。下の姉貴に聞かれていないか肝を冷やす……。

「お前はそう言うが、リカは学校じゃそれなりに人気だぞ。性別問わず気さくに話しかけるヤツだし、天真爛漫なところは誰もが惹かれる部分だ」

「……まじかよ。姉貴が人気って……、コクハクとかされてんのか?」

「多分、何度かされてると思う。リカ、あれで恥ずかしがり屋な面もあるからな。あんまりそういう話題をしないが」

 それはいつも、俺が不安にしていたものだ。

 姉貴は正直言って魅力的なのだ。見た目だって、素朴だけど整った顔立ちにクリクリした大きな瞳。スタイルだって悪くない。健康的に引き締まった身体と最近ますます女らしさが出てきた丸みを帯びたシルエットは、俺を虜にするだけあって、他の男も例外じゃないはずだ。

 やっぱり、告白された事はあるんだな……そう考えると俺の心臓が冷たくなる。姉貴が男と付き合うなんてガマンならない……。

 渦巻き始めた嫌な嫉妬を掻き消す為に頭を強引に切り替える。

「でも、それと中学からの不安とか、虚数とか……どう繋がるんだろう」

「……さぁな。もしかしたら全然繋がらないものかもしれないし、はたまた一本線なのかもしれないが、現状ではサッパリなんだ」

「他に……なんかありますか?」

「……うーん、特には……」

 月島さんが、お手上げという態度を取りながら、上体をベッドに倒す。

「私……今、気になったことがあるんだけどね」

 そこで蘭さんは周囲をぐるりと見回して、姉貴の部屋を軽く物色する。

 月島さんが寝ているベッドは花柄の桜色の布団が敷いていて、勉強机に、本棚。タンスとカラーボックス。小さなCDラック。もらい物の型落ちノートPC……。それから無地のクッションが三つ。

「リカちゃんの部屋って凄くシンプルなんだよね」

「それが?」

「私の部屋なんて、色んな小物飾ったり、グッズを集めてたり、洋服でタンスが埋まったりって、結構散らかってるのかなーなんて」

「お前の話かよ」

 寝たままの月島さんが右手を投げるように蘭さんへツッコミをする。

「いや、そうじゃなくってね。だから、その……リカちゃん、バイトしてるよね。週三回くらいで」

「ああ、駅前の花屋な」

「……何のためにバイトしてるんだろう?」

 そうだ。こないだこの部屋に入ったときから、何かが引っかかっていた。

 この殺風景な部屋は女子高生の部屋と云うにはあんまりにもがらんどうな気がしたのだ。

 精々娯楽品と言えば、音楽CDがいくつか棚に並んでいるが……。バイトで稼いで何かを買ったような形跡が見当たらない。

 姉貴のバイトは何のためにしているのだろうか?

 稼いだバイト代は何に使うつもりなんだろう。

 と、なると答えはいくつか絞られる。貯金しているのだ。大きな出費のために。

 ……何のために?

 結局そこに戻ってきてしまう。

 もしくは……、借金をしている? 例の男は実は借金取りか?

 そうなると、なんで姉貴は借金した? ……結局色々な可能性をほじくっても、答えは出ない。

 ただただ、姉貴に対する疑念がわいてくるだけだった。


「……月島さん達は、この事をどう捕らえてるんですか」

「……最終的にはリカ自身の事だ。私らがどうのこうの言う話じゃない」

「でも、リカちゃんの最近の様子、やっぱり気になるんだ」

「なんつーかな、まるで人に言えない悩みを抱えて、独りで解決しようとしてるって感じがするんだよ」

「……!」

 俺と一緒だ。……いや、俺の悩みなんかと一緒にされたら、姉貴も迷惑か。

「私と蘭がこうして、今も一緒に居られるのは、リカのお陰なんだ」

「だから、私達リカちゃんのために出来ることがあるなら、手助けしたくて」

「そっか……」

「だから、ダイ。もし、リカに何かあったら教えてくれないか」

「はい」

 強く意思を込めて頷いた。姉貴の状況がどうあれ、この二人の友人がいれば、姉貴は救われるのではないだろうか。

 こうまで色々と考えてくれる友達が居るのは貴重だと思う。

 最近は、『浅く広く付き合う友人』が増えているとニュースのコメンテーターが話していたのを聞いた事がある。

 勿論、そういうキラクな仲間が居るのは悪いことじゃない。

 しかし。こうやって友達の悩みを察して、身を引きながらも、案じてくれている月島さん達を浅い関係とは思えない。

 互いを一個の人間として尊重して、支えあっているのだと思う。それだけは俺の不安を消してくれる小さくとも強い欠片だと感じた。


「あ、そーだ」

 帰宅中の林原の話をふと思い出した。家庭教師を手伝いたいと言っていたんだ……。でも、結局の処、家庭教師は諦めて最終的には共犯者になりたいと来たもんだ。

 そうなると、別に蘭さん達にはこの事は話さなくても良いだろうか。

「なんだ、炭酸切れか?」

 俺が思い悩んでいると、月島さんが布団の上の上体を横たえたままベッド縁から降ろした両脚をまた組みなおしながらボケたらしい。

 ……今の俺は姉貴のデスクチェアに座っているんだが、床のクッションに座っていたら、月島さんのスカートの中身が見えたかもしれん。なぜ俺はイスに腰掛けているのだろう。

 いやいや、そうじゃない。ムッツリスケベを掻き消すように頭を振って、机に向き直った。

「や、なんでもないっす。勉強しますか」

「うん、そうだね。それじゃあ、試験範囲をざっと抑えるね」

 クッションに座っていた欄さんが立ち上がって机の横に待機した。ふわり流れた蘭さんのフローラルな香りに鼻腔をくすぐられ、家庭教師の時間が始まった。


 その晩は、みんなでカレーを食ってから、月島さん達はオヤジの車で帰宅していった。

 オヤジの車には姉貴も一緒に乗り込んで二人を見送ったのだが、帰って来た頃、なぜか姉貴の様子が落ち込んでいるように見えた。

 まさか、あの会話が姉貴にバレたのだろうかと焦ったが、そうじゃなかった。

 どうも、帰りの車の中でオヤジに説教されたようだ。

 内容はよく分からないが、オヤジの様子を窺うに、姉貴の進路の話で少し揉めたようだ。

 姉貴に直接聞くのもデリカシーのない話だと思った俺は、オヤジの方に探りを入れてみた。


「姉貴、進路で悩んでんの?」

「友達の二人は既に進路希望を出しているらしい」

 オヤジは全部を語ろうとしない性格だ。喋ることが苦手な口下手なのはガキの頃から知っているから、その少ない言葉から推理する習慣が身についていた。

 月島さん達は希望を出しているが、姉貴はまだという意図を理解した。

「そういや、月島さんは教師になりたいとか言ってたっけ」

「立派だな」

「……まぁ、でもよ。姉貴も何にも考えてないわけじゃねえと思うぜ」

 俺のそこはかとないフォローにオヤジは無反応だった。しかし、言葉を受けているらしい。

「自分のやりたいことがわかんねーのに、時期になったから決めろって言われても、じゃあコレにしますって決めらんねーだろ」

 この発言は自分へのフォローも含まれているなと、自分で言いながら思った。俺も数年後は同じような状況になってそうだと思ったからだ。

「だから、普段からアンテナを伸ばすようにしなさい」

「ハ、ハイ」

 説教の矛先がこっちに飛んで来そうになったので、素直に肯定してから俺は逃げるように自室に上がった。


 自室では直也が机で勉強していたので、俺も少し机に向かうことにする。

 三太は床に敷いた布団の上で明日の学校の準備をしていた。

「なぁ、兄ちゃん」

 直也が頬杖をついてこちらを観ていた。

「あん?」

「林原先輩と、どうなった?」

「どうなったって何が?」

 ちょっと言っている意味が汲み取れない。多分林原とその後何かあったかと聞いているのだろう。おそらくそれは龍之介あたりの差し金で、俺の内定調査をしているのではなかろうか。

「告白されたろ」

「されてね……。されてねえよッ!?」

 適当に流そうとして、言葉の後半でとんでもないことを口走っているのに気がついて反射で否定していた。

 何? 林原が告白!? どうしてそういう話になった――。

 俺の反応に驚いたのか、三太もぼんやりとこちらを覗き込んでいた。

「フったの?」

「されてねえっつーの! なんだ、その告白とか!? 誰がそんな噂流してるんだ!」

「……え。マジで? コクられてないの? 先輩に」

 頬杖をついた手から頭を持ち上げてぽかんと、こちらへ口を開ける次男。同じような顔でぽかんとしている三男。

「林原は姉貴に用事があっただけだぞ」

「……ちょっと、兄ちゃん。バカなのか?」

「てめえ、なぐんぞ!」

 サラっと兄をバカにする弟へ折檻してやろうと拳を握るが、直也の表情は本当に呆れているという顔だった。

「……これは……兄ちゃんがバカなのか、林原先輩がヘタれたのか……、わかんねー」

「どういう事だ、コラ。ちょっと分かりやすく話せ、河童」

 やれやれと息を吐き出す直也にヘッドロックをかけて尋問を行う。

「誰が河童だよ。……つか、言っていいのかなあ。ダメだよなあ……」

「もう言わなきゃならない状況になっているのは分かっていないのか、てめー」

「分かった、分かった」

 俺の絞める腕をポンポンと叩いてギブを訴えるため、腕をほどいてやる。

「前にオレが先輩と付き合ってるかって話ししたろ。よく二人で会ってるって話」

「あー。うん」

「あれな、先輩ずっと兄ちゃんの事をオレに聞いてきてたんだよ」


「……なんで?」

 ……なんで?


「知らんけど、あの様子じゃオレは兄ちゃんにコクる気なんだろうなと思ったぞ」

「どんな様子だったの?」

 頭には小動物みたいにピョコピョコ跳ねる林原が浮かんでは消えていた。

「兄ちゃんの好きな物は何かとか、今、恋人や好きな人はいるのか、とか。あと、志望校はどこにするのか、とか」

「うっそだろ、うっそだろ!?」

「舞い上がってんジャン……」

「いや、だって全然、どこでフラグが立ったか不明だぞ?」

 女子から好意を持たれるなんて漫画やアニメだけの世界だと思っていた。それがよりによって俺に! まるでドラマの主役になった気分だ。正直、浮かれてしまったのは若気の至りと許して欲しい。


「そんなもんだろ。

 浮かれる俺とは対照的に直也のその言葉には少し憂愁の影が差していた。いつも陽気な直也のそれとは明らかに色が違っていて、俺は少し物怖じした。

「あー、くそ。これじゃ先輩の告白をオレがぶっ壊しちゃったって事だよなあ。ああ、罪悪感」

「……マジ、なんだよな」

「マジだよ! だから、多分いつかは告白されるかもしれないぜ。一応罪滅ぼし的に言わせて貰うけど、その時の為にも、先輩の事をしっかり見て、考えてやれよ」

 直也は心底申し訳なさげな顔で頭を下ろす。林原に対する懺悔のキモチで落ち込んだのだろう。

 こんな形ではあるが、林原の好意を知ってしまった以上は直也の言うとおり、あいつに対してきちんと考えてやるべきだろう……。


 ――好きな人に気がついてもらえてない――。

 そうか、そういう意味だったんだな……。

 そんな事情を知ってしまったら……なんだか、アンフェアなキモチになってしまった……。相手の好意を分かっていて、相手に気持ちを知らないように過ごすなんて弄ぶようなものじゃないだろうか。

 ……次に林原に会ったら、俺は、正々堂々としていられるのだろうか……。

 林原の言動を思い返すと、色々と思い当たる事が多々あった。


「直也、林原の質問の中に、俺の好きな色は何かを聞かれたことはないか」

「あ? ああ、あるよ」

「緑って答えたろ」

「なんで分かったん?」

 ……姉貴の部屋で見た、林原の下着を今になって異様に鮮明に思い出せてしまう自分がなぜだか酷く情けなかった。

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