第8話
土曜の朝は最高だ。
明日も休みだし、今日も休みだ。この心の余裕を与えてくれる土曜の朝が何より好きだ。
その希少な朝を……、俺は汚されていた。姉貴の足によって。
「おきろー。おきろー。おらおら~、おーきろー♪」
「…………」
布団のシェルターは姉貴の踏みつけによって脆くも崩壊していく。
俺のケツに、姉貴の右足がゲシゲシと落とし込まれていた。
「……おい。踏むなっつっただろが、直也か?」
「や、もう直也は部活行ってるし。なんか、踏みたくて」
「俺のケツは足ツボマッサージ器じゃねえんだよ」
「ん、すっかり眼が覚めたようだな。はやくご飯食べな」
のそのそと布団から起き上がり、大きく伸びをする。その様子を姉貴がマジマジと眺めていた。
「んだよ……?」
「寝癖が面白くて」
ぬぐっ、うつぶせで寝ていたせいか、前髪が変な風に舞い上がっていた。
髪の毛を右手で押し付けながら寝癖をなおす。姉貴がカーテンを開き、春の朝陽が差し込んだ。
姉貴の姿は、いつものラフな普段着だ。姉貴も今日は休みなのだろうか。
「土日は、なんか用事があるって言ってたよな」
「ん? ああ、用事ってか、バイトだけどさ。お昼過ぎから夕方まで」
「ああ……、なる」
「ね、今日午前中ヒマでしょ。ちょっと付き合ってくんない?」
姉貴の突然の誘いに、俺は前髪を抑えていた手を下ろしてぽかんとしてしまった。
ぴょこんと寝癖が跳ね上がった。
姉貴の誘いを断る理由はない。さっさと起きてメシを喰い、洗面所で寝癖も治して手早く着替えた。
「準備できたぞ」
「オッケ、じゃ行こっかー」
「どこ行くんだよ?」
「モールだよ、ちょっと色々見て回りたいんだよね」
「それ、俺が行く意味あるのか?」
「ある。あんたの意見が聞きたいんでね」
姉貴が意味深に笑う。俺の意見が必要な買い物……。まるで検討が付かなかった。
二人で自転車を走らせ、隣町のショッピングモールまでやってきた。
五月末の日差しは心地よく、散ってしまった桜の木がさわさわと緑を揺らしている。風が俺と姉貴の間をすり抜けて行くのが気持ち良い。
姉貴の赤い自転車と俺の緑の自転車を並べて駐輪所に停め、モール内を散策する事となった。
「さってと、じゃあまずは夏物の服でも見に行こうか!」
「もう出てンの?」
「当たり前ジャン、もう始まってるよ。水着とかもちらほら出てるし」
「まさか、水着選びじゃねえよな?」
「な、なんでダイにアタシの水着選んでもらうんだよ。……フツーに服とか靴かな? ダイは気になるのある?」
「……クツか……そういやサンダルが欲しいな。キラクに履いて行ける様なの」
「オーライ、じゃクツ屋さんからにしよう」
姉貴がさっそくクツ屋を目差して進みだした。何やらずいぶん楽しそうにしている。
男まさりな姉貴だけど、やはりこういうショッピングは嫌いではない様だ。
「あ? 服じゃなくていいのか? あ、おい、待てって」
クツ屋の独特の臭いを鼻に感じ、店内を見て回る。
夏前という事で、ビーチサンダルやら充実していた。
俺と姉貴は一緒にサンダルを見て回る事になった。
「ねえ、やっぱダイは緑のがいいの?」
「いや、別に緑が好きってワケじゃねーし」
大守家の俺のイメージカラーは緑だ。
歯ブラシとか箸とか、色分けしていて、使い間違いがないようにしているのだ。
俺が緑、姉貴は赤、直也が青、三太が黄色。オヤジは黒で、母ちゃんは白だ。
だからといって、緑が好きなわけじゃない。俺だって、緑以外の服やクツも持ってる。
「ふぅん、そうかー。夢子ちゃん、下着緑だったから、てっきり緑好きって教えたのかと」
「ばっ!? おま、何言ってんだッ!」
姉貴は意地の悪い顔をして、笑った。その笑顔は、俺の心を満たしてくれた。
「んで、どれが気に入ったの?」
「あ?」
「サンダル」
「お、おぉ……。これ、とかいいな。どこで履いてもおかしくなさそうだし」
選んだのはグレーとコバルトの迷彩色のスポーツサンダルで素足に履いてもソックスで履いても問題なさそうだ。
「ふんふん、ちょっと待ってね」
姉貴はスマホを操作して、そのサンダルの写真を撮った。
「よしオッケー。他にも見てまわろっか~」
「あ? 姉貴のはいいのか?」
「あ、うん、アタシのはいいの。ちょっと男物を見たい気分なんだよね」
……そのために俺を連れてきたのか? なんで男物を調べる必要があるんだ?
……考えられるのは、カレシにプレゼントするためではなかろうか。
しかし、カレシがいそうには見えなかったが……女ってやっぱり分かんねーとこあるしな……。
それから、数店舗見て回っては、服を選ばされ、場合によっちゃ、試着までさせられた。
まるで見世物のように、写真まで撮られて、俺はすっかりクタクタになってしまった。
意味の分からないショッピングに付き合うのがここまで疲労するとは思いもしなかった……。
「ふー! こんなもんでいいかなっと」
「終わりか……。何だったんだよ、これは。結局何も買ってないじゃないか」
「ウィンドウショッピング。……あれ、なんか疲れてる?」
「買う物もないのにウロウロしてりゃ疲れもするだろ……」
モール内の通路に備え付けてあるベンチにドカっと腰を降ろし、徒労を吐く。
「だらしないなー。アタシは、楽しかったんだけどな」
「……え?」
姉貴が柔らかい笑顔で俺の隣に腰を降ろした。その姉貴の笑顔に、俺の男が反応した。
今の今までヘトヘトだったのに、疲労感なんてぶっ飛んで、寧ろ跳ね回りたいくらいに力がみなぎってきた。
そして、思い至った。
これは、『デート』だったんじゃないか、と。
「しょうがない、ならお茶して帰ろう。奢ったげる」
呆けていた俺は、頭を切り替えた。違う違う。そういうシスコン的な物は卒業するんだろ、俺ェ!
姉貴の提案にふてぶてしく答えを返す事で、高鳴ったハートを覆い隠した。
「当然の、報酬だな」
姉貴と共に立ち上がり、モール内のカフェへ足を運ぶのだった。
「はい、アイスコーヒー」
「おう、サンキュ」
姉貴からアイスコーヒーを受け取って、ミルクとシロップを入れる。
姉貴のはキャラメルフラペチーノめちゃ甘そうだ。
「あんた、いつからコーヒー好きになったの?」
……う。姉貴のバイト先を覗くたびに寄っていた喫茶店で好きになったんだよな……。
まさか姉貴のストーカーやってたからとは言えない。
「俺もいつまでもガキんちょじゃねえんだよ」
「ふーん。ガキんちょで良いのに」
ストローに口を付ける姉貴に少し見とれた。それもさっき、デートじゃないかなんて考えててしまったせいだ。
傍から見れば俺たちはカップルに見えるかも、知れない。
姉貴と二人きりで出かけるなんて、滅多にないことだった。良い機会かもしれない、色々と訊ねてみようか。
姉貴が中三の時に感じていた、不安の事とか……。
「なぁ、昨日林原と話した時に言ってた、姉貴の『不安』って何なんだ?」
ストローから口を離し、姉貴の瞳は俺から逸れた虚空を見つめていた。
「別に大した事じゃないよ」
……だったら、その眼は何なんだ。大した事ないなら、さらりと話したってよさそうじゃないか。
明らかに、言いづらそうに目線を泳がせ、話を拒むようにその口は閉ざされた。
「……別にほじくってまで聞き出そうってわけじゃないけどよ、その『不安』ってのは、現在進行形なのか?」
「……いや、だから、別に何でもない事なんだってば」
やはりだ。もう終わった事なら、今の質問には解決したと答えられたはずだ。しかし、姉貴は言葉を濁した。
つまり、姉貴は中学三年から今まで、何かに対して不安を持っているんだ。
家では普段通りだったと思っていた。
だけど近頃、時折見せる姉貴のあの表情に、何かあったんじゃないかと思わずにはいられなかった。
そうだ、家では……何もないように装っていたかもしれないが、俺の知らないところではどうだろう?
例えば、高校での姉貴だ。
そう思わせる材料はあった。
それは家庭教師に来てくれた、月島さんと蘭さんの言葉だ。
(それより、リカの事だけど……)
月島さんが、何かを切り出そうとしたタイミングで、姉貴が部屋にやってきた。
その瞬間の蘭さんの反応は違和感があった。
姉貴は、やはり何か悩みを抱えているのだ。
中三の時には気がついてやれなかったが、それが今でも間に合うのなら、俺は姉貴の力になってやりたい。それは別にシスコンだからじゃないはずだ。
この想いは、家族として、当然なもののはずだ。
「姉貴、昨日姉貴が言ったよな。一人で悩むなって」
俺はゆっくりと伝えた。
「だから、姉貴も誰かを頼れよ」
俺を頼れ、とは言えなかった。言えなかった理由はグチャグチャしていた。そんな事を言うと、姉貴に家族以上の想いを抱いていることが伝わってしまうかもしれない、なんて考えた予防線だったのかもしれない。
その言葉を受けた姉貴は、少し困った顔を見せた。
「だから、ガキんちょで良いって言ってるのに」
クスリと小さく笑う姉貴は、らしくなかった。やはり、その『不安』を話すつもりはないんだろう。
別に俺に話してくれなくてもいい、と云うのは強がりだけど、姉貴が信頼できるという人にそれを打ち明けて、『不安』を解決できる事を祈った。
「虚数のこと、覚えてる?」
姉貴からの突然の数学の話題で、頭の切り替えが上手く働かなかった。たしか、存在しないとか空想の数字とかそういうのだったか。
「虚数はイマジナリー・ナンバーって言って、空想の数字って意味なんだけど、その頭文字を取って、虚数iって言うんだよ」
「おう」
急に始まった数学の授業に意図を汲み取れず、眼を丸くしていた。
「なんかさ、分かんないよね」
「……」
――確かに分からない。虚数自体のことも、なんでそんな話をしたのかも、姉貴が何を考えているのかも……。
「さてと、そろそろ時間だし、アタシはバイトに行くよ」
「あ、そうか。分かった」
姉貴に奢ってもらったコーヒーを飲み干し、一緒に駐輪所まで向かい俺は家に、姉貴はバイト先へ向かう。
気にはなったが、今の俺には姉貴のバイト先を覗きに行く気分にはなれなかった。
行ったところで、虚数の意味さえ分かりそうになかったからだ――。
一人で帰る道すがらに、葉桜を見てふと思った。桜は華を散らせても桜なのだと。
帰りの風は、どこか湿り気を感じさせ、もうすぐ梅雨が来る事を予想させた。デートは終わったのだ。
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